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当HPは今年終了します。→https://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/48230188.html

書庫資料:空海とチベッ

この分野は元々は「歴史」の分野名でしたが、表題通り変えます(110817)。
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チベット問題(2)080405

チベット問題(2)080405
1.チベット族が中国史で大きく活躍した時期が4つある。1つは上に述べた。

(・太公望と斉の時代)
・五胡十六国時代
・宋の時代
・吐蕃王朝時代

○五胡十六国時代:
南北朝時代ともいう。南朝の漢民族王朝に対し、北朝のモンゴル・トルコ・チベット人の王朝が対抗した。
「五胡」とは、鮮卑(せんぴ)・匈奴(きょうど)・羯(けつ)・氐(てい)・羌(きょう)の5族をいう。鮮卑はモンゴル、匈奴・羯はトルコ、氐・羌がチベット族だ。五胡は激しく勢力争いしたが、この中で最強だったのが、氐の苻堅の建てた「前秦」という騎馬民族国家だった。もう一歩で全中国を統一する寸前だった。

○宋の時代:
羌のタングート族がオルドス地方(黄河上流の屈曲部付近)に「西夏」という騎馬民族国家を樹立した。

○吐蕃王朝時代:
上の西夏よりこちらの方が長く続いた為、下にもってきたが、騎馬民族国家として大活躍した時期はむしろ上の宋時代より前の唐の時代だ。唐時代、中国南部のかなりの地域、印度までのシルク・ロードの全て、印度北部、パキスタンまで支配する世界的大帝国を築いた。
唐王朝と姻戚関係を結び、唐から皇女を呼び、后(きさき)とした。玄宗皇帝の時代、トルコ人の反乱(安史の乱)が始まった。吐蕃は援助を申し出たが断られた。唐の弱体化を見、侵略を始める。
763年、チベット兵は「二〇万、悠々と渭水を渡り、途中、わずかの抵抗にあったが、一〇月九日、長安に無血入城を遂げた。・・・吐蕃は金城公主[唐から貰った皇女]の兄弟に当たる広武王承宏を立てて皇帝とし、改元して大赦まで行った」(「中央アジア史」1987/江上波夫・編/山川出版社;p.548)。だが陣中に疫病が流行したため、半月後に長安から撤退した。こうして、五胡十六国時代には中国北半分しか支配できなかったが、遂にチベット族は短期間ではあったが「天命により」全中国の支配者にも成った。

1.以上から分ることは、現在中国領土内に居る漢族・チベット族・蒙古族・満州族・トルコ族は、歴史的に強い関連性があることだ。全ての種族が中国文明にあこがれ、これを我が物にしようとした。もう少し長く中国支配を続けていたら彼らは漢族になったのである。現在の漢族も実際はオリジナルな漢族は全くいないだろう。実際、清朝(ツングース族の一派、満州族の王朝)は、300年という長い間中国を支配した為、現在満州族はほぼ完全に漢人に同化されてしまった。

そこで考えるに、1970年頃次のように言われることが良くあった。「歴史は原始共産制>古代奴隷制>中世封建制>近代資本主義>何れ未来の共産主義時代となるのだ」と。
だが、果たしてそうだろうか?欧州には古代ギリシャ・古代ローマのような典型的奴隷制度(鎖をつけて・鞭で働かす)が存在した。だがアジアには存在しない。それは、中国や印度やエジプトやメソポタミアのような大河のあるところでは、治水が重要であり、治水には強大な国家組織が必要だった。又帝王は、治水さえやっていれば民衆から自分たちは守ってもらっていると有難がられることが出来た。こういうところでは武より文のほうが大事だった。アジアで武官が尊敬される国は日本しかなかった。他のところでは何処でも兵士は最低の職業とみなされていた。
つまり、風土が無視されていたのだと思う。各地域・各国はそれぞれ異なる風土を持ち、それぞれ異なる歴史のコースを歩む。

ところが最近、又しても世界の国々をすべて同じコースを歩むはずだと言う考え方が出てきている。つまり、農業時代>工業時代>情報時代、或いは武力の時代>金の時代>知識の時代と。A・トフラーの考え方では農業時代は王や貴族の時代で、工業時代は民主主義の時代、そして情報時代は変化が速過ぎる為議会が役立たなくなり、ブッシュのような独裁制が必要だという。そして、農業国に対しては何れ必ず工業国になるのだから、民主主義を強引に持ち込むべきだとなる(1)。つまり戦争に訴えて、世界の農業国や中国のような過渡期に在る国は、強引に民主主義を外部から押し付けるべきだとなる。

こういう考え方をするとき、世界の少数民族は必ず独立しないといけないことに成る。なぜなら、ヨーロッパではそうであったし、それが一番良かったと考える故に、世界の何処でも同じことをやるべきだと。そうだろうか?果たして欧州の少数民族問題と他の国の少数民族問題はイコールなのだろうか?これは個別・具体的にかんがえるべきことではないだろうか?

実情を知らずしてとんでもないお節介をする可能性があるだけではない。中国人自身が世界と同じことをやろうとして大失敗したことがあるのだ。辛亥革命がそれだ。

孫文が清朝を打倒したあと、中国国内はバラバラな状態となり、戦国時代となった。故に易々と列強の植民地化は成功した。あの時、清の皇帝を「象徴」として民族統一のシンボルとして残していたらどうだったろうか?清の皇帝を「象徴」としてかつぎ、民主主義化を進めれば良かったのではないか?だが異民族を倒すのだという教条主義がなかっただろうか?実は元(モンゴル)を倒したときも、相当にモンゴルに対し忠義心を持つ漢族は多かったのだ。支配とは武力だけでなく・人民の為の施策の蓄積が大きいのだから。中国のような風土では、前王朝の腐敗や乱れを取り省くだけでも、支配者として相当に尊敬される。治水は強大な国家にしか出来ないから。

ユーゴのように各民族が独立を争って全てが崩壊したところもある。旧ソ連が民主化したのは歴史の必然だったと思うが、それにより必ずしも民衆が幸福になったと言えるだろうか?又プーチンの独裁で民衆は必ずしも不幸になったといえるだろうか?中国も何れは民主化しなければ行き詰ることは確かだが、今がそうかどうかは私には分らない。各国は風土に従い、それぞれの速さで歴史を作る以外ない。チベット族も、独立しなくとも、漢族と次第に融和していくことが出来れば、互いの良いところは未来へ向け高次の統一の中に保存されていくだろう。中華民族なるものが生じ、その中で漢族やチベット族は、最早民族ではなく、民族の中の個性として認識されていくことが出来れば一番良いことではないか?もっと長い時間で考えればそうやっていつかは全世界は1つの民族になるかもしれない。

1.さて、今回のチベット動乱について考える。情報が少ないため確実なことはいえないが、初めこの事件は「平和的なデモに中国軍が発砲して起きた事件だ」といわれていた。ところが中国のTVにチベット僧が無抵抗な中国警察当局に棍棒や石つぶてで襲い掛かる映像が流れた。すると今度は、「オリンピックを控え、中国側は早い内にチベットを暴発させて平定しようと考え、挑発をかけたためチベット僧が怒ってこうなったのだ」といわれた。だが、今中国政府は追い詰められている。別に挑発で自分の首を絞める必要はなかったようだ。

すると今度は、普段の中国の締め付けがひど過ぎて、僧侶でさえ立ち上がらざるを得なくなったのだといわれている。だがそうだろうか?動乱が起きる前、多くの観光客を含め日本人もチベットに立ち入ることが出来た。NHKのチベット報道もあった。民衆が命懸けで蜂起せざるを得ないような状態があったとはかんがえられない。

つまり、今回の事件は、主として僧侶が引き起こしている。中国警察当局に棍棒や石つぶてで襲い掛かることで始まった事件と考えざるを得ないのだ。又最近の報道によると、ダライ・ラマが中国からの独立に反対する為、若手の亡命者を中心に蜂起を決定し、それをチベット内に持ち込んだと印度内やチベット内のチベット人が日本の新聞に言い始めている。

「チベット 二つの不満:
・・今なお原因や犠牲者数など真相は分からないことが多いが、背景には、長年の中国政府の統治に不満を持つチベット人を、インドの亡命政府ですら抑えきれなくなっている現実があるようだ。
・・
昨年6月末から7月に上海などで開かれた6回目の協議で中国側が「チベット問題など存在しない」と態度を硬化、議論が入り口で止まってしまった。
この結果が騒乱につながったと指摘するのはダライ・ラマ・チベット宗教基金会(台湾)のソナンドチェ秘書長。中国への不満と、ダライ・ラマの対話路線への疑念が広がったという」(朝日080328)。

朝日記事はそのあと、47カ国からのチベット人代表が武装蜂起を計画したという情報の紹介を行っている。

つまり今回事件は、普通の国での様に先ず民衆が立ち上がり、最後の段階で僧侶さえも立ち上がらざるを得なくなったということと全然違う。僧侶が中心になって引き起こしたことだ。それが可能なのは、「チベット仏教」とは実はタントラ・バジラヤーナだからだ。「チベット仏教」においてはダライ・ラマ(いわゆる「グル」)の命令は絶対である。だから、上の記事の”若手が勝手にダライ・ラマの言うことを聞かないで引き起こした”と、側近が言い訳していることもまだ嘘があるのではないか?

先の朝日記事も書く。
「ニューデリーでは連日、若い亡命チベット人のデモが続く。ジャンパさん(26)は「多くの若者はチベットの完全な独立を求めている」。だが「もし、姿勢を変えろと命じられたら、変えなければならない」とダライ・ラマの権威を認める。
ニューデリーのチベット人街に住むノルブさん(64)も「内外に600万人いるチベット人は今もダライ・ラマの助言と指示が頼りだ」と話す」。

つまり、今回事件はダライ・ラマの命令で起きた?だからチベット僧は命懸けで警官隊に棍棒と石つぶてで殴り込みをかけた?

先の朝日記事はこう続ける。
「・・中国政府は騒乱自体を「ダライ(・ラマ14世)一派が組織的、計画的に策動した」と断定する。16日に英BBCの取材を受けたダライ・ラマが「チベット人がいつ何をしようとも・・中止を求めることはない」と発言したのが証拠というのだが、かなり無理がある」。

だが私には中国側の言っている方がよほど筋が通っていると考えられるのだ。

1.ダライ・ラマは世界を騙すことに成功していると思っているのだろうか?おもてむきは「高度な自治」を要求する、「絶対平和主義」を標榜しノーベル賞まで騙し取っている?そうだとすれば彼のやり方は失敗した。オリンピックは平和に遂行されるだろう。無茶な蜂起でラサの僧侶内からダライ・ラマへの批判が上がるだろう。何処でも良識派は居るからだ。すると中国側の僧侶を対象とした愛国教育は成功することになろう。中国政府はダライ・ラマと対話をするだろうが、もはやそこにはダライ・ラマへの信頼も信用もない。何1つ得るものはないであろうとしか私には考えられない。
残念ながら、「話し合いをすれば何とか良い方向へいくだろう」との志位委員長の善意は空振りになりそうだ。

(1)A・トフラーは「歴史の必然性」を否定する。にも拘らずこういう考え方に成るのは、人間の「意志の自由」を認めることと・大雨が降れば多くの人間が傘をさすであろうことを予測することが矛盾しないからである。

080517/0729加筆訂正

チベット問題(1)080405

チベット問題(1)080405
英語版は下のクリックを。
Click the lower side to the English version.
A Japanese thinks Tibet problem 1.(on April 5, 2008)

1.当HPが勝手に応援している日本共産党のHPの記事

「チベット問題――対話による平和的解決を
志位委員長が胡錦濤主席に書簡」(2008年4月4日)

によると、

「・・志位・・委員長は三日・・中国の・・国家主席に書簡を送りました。・・書簡の内容は以下の通り・・。

 「中華人民共和国国家主席 胡錦濤殿
 チベット問題をめぐって・・犠牲者が拡大することを、憂慮しています。・・わが党は・・ダライ・ラマ側の代表との対話による平和的解決を求めるものです。
 ・・双方が認めている、チベットは中国の一部であるという立場で対話をはかることが・・重要であると考えます。
 ・・オリンピックをこの問題に関連づけ、政治的に利用することは・・オリンピックの精神とは相いれない・・ということが、わが党の立場であることも、お伝えするものです。
 2008年4月3日
 日本共産党中央委員会幹部会委員長 志位和夫」」。

1.今回は、最近起きているチベットでの騒乱やこの記事に関し、当HPの見解を述べる。はっきり言って、不明の点が多く、結論を言うには全然至っていないが、確実にいえること・これはどうも確実らしいということは述べる。

1.先の共産党HPの記事の内容のうち、話し合いで解決しようとか・スポーツの祭典のオリンピックを政治利用すべきでないとかは、普通の良識ある人は何も問題はないと考えるだろう。だが当HPは余り良識がないため、「話し合い解決」ということに大きな疑問を感じている。だがこれはあとで述べる。

次に「オリンピックを政治利用すべきでない」ということも、普通の人には当たり前であろう。様々な意見やイデオロギーの違いで戦争している国でさえ、4年に1度のオリンピックでは矛を収め、兄弟としてスポーツをやる。これがいつかは平和につながるのだ。例え中国がチベットを侵略していると言うことが事実であったとしても、4年に1回のオリンピックではその侵略に反対する国も賛成する国も、一堂に会し、仲良くやるのは当たり前のことで、ボイコットをすべきでないのは当たり前だ。大体今年のオリンピックは中国がやるのではなく、国際オリンピック委員会がやるのである。国際オリンピック委員会と北京市が共催する。中国政府はそれに協力しているだけだから、チベット問題がオリンピックと無関係なことは明らかだ。

1.最大の問題は、果たしてチベットは中国の一部なのかということだと思う。これは真剣に考える必要があるが、とりあえず言えることは、ダライ・ラマもチベットは中国の一部だと言っていることだ。だったらことを大きくして騒ぎを大きくする必要はないのではないか?ユーゴスラビアを見ても、独立とは大変なことで、大きな犠牲が出る。双方がチベットは中国の一部だと言っているなら、それを基礎として困っていることがあるなら具体的に1つ1つ解決していけばよい。何も寝た子を起こす必要はない。北米インディアンがUSAから独立し、白人は全部欧州に帰らないといけないということもあるまい。

1.というわけで、とりあえずいえることは、先の共産党の胡錦濤への手紙は、確かに政治的に考えれば当たり前で、これが一番犠牲を少なくして問題を丸く収める方法だと言うことだ。そういう意味では支持出来る。しかし当HPは中々こういうことでは満足しないうるさいHPであり、本当に歴史的にチベットは中国の一部と言えるのかどうかを、もっと根源的に考え、世に問いたい。そこで述べる。

1.チベットと中国の関係は非常に深い。近年分ったことだが、殷王朝においては、チベット人を神に生贄として捧げていた。

「羌(きょう):
中国の西北辺に居住したチベット系遊牧民。殷の甲骨文に人身供儀としてみえる」(「世界大百科事典7」平凡社/2006;p.236)。

殷とは、古代中国において、黄河中流域を支配圏とした漢民族の王朝だ。これが毎年チベット人を生贄にしていたことからもお分かりのように、昔はチベット人はヒマラヤの近くだけ住んでいたのではない。当時は中国西北部の草原=西域といわれる地方に多く住んでいたと思われる。だが現在のチベット高原にも居たであろう。ビルマ語とチベット語は近いからだ。

だが、チベット語と中国語も非常に近い。単音節言語と言って、1つの子音と1つの母音だけで言葉が出来、1つの意味が成立する。これでは沢山同音異義語が出来る為、四声といってアクセントで区別する。これも中国語と同じだ。

だから、そもそも中国人は元は何処に住んでいたのか?チベット人も中国人も基は同じだったのではないかとも考えられる。

元に戻るが、この様に虐げられていたチベット人に絶好の機会が登場する。殷が周によって打ち倒されるときがやってくる。所謂殷周革命だ。渭水(黄河の支流。周の中心部を流れる)で釣りをしていた太公望が周の軍師となり、殷を打ち倒す。

この太公望、本名は呂尚(りょ・しょう)という。釣りの最中に周の文王に見出され、周の先公の太公が望んで居た人物だと言うことで「太公望」と呼ばれた。彼はチベット人だった(この話は、宮城谷昌光氏の小説「太公望」で、日本人には割りと有名だ)。

「羌(きょう):
中国の西北辺に居住したチベット系遊牧民。・・・呂尚(太公望)も同種族」(「世界大百科事典7」平凡社/2006;p.236)。

呂尚にはもう1つの名前があった。姓を「姜(きょう)」といい、羌(きょう)を意味する。実は「姜」氏は、周王室の「姫」氏と通婚関係にあった。
つまり、周自体が純粋な漢族ではなく、元々は異民族で漢族に同化した。この周がチベット族と同盟関係にあり、結婚を交わす関係にあった。そして大手柄を立てた呂尚は、周から渤海湾の周りの山東省を中心とする「斉(せい)」という大国を貰うのである。

つまり、中国語とは漢字自体は連続性があるが、発音が時代によって激しく変化する。それは、異民族が元々の漢族を打ち倒したあと、文字は継承するが発音は自分たちのものに変えてしまうため、変化が大きいとも考えられる。

そして彼らは、この様な元の支配民族を打倒するイデオロギーも考え出した。それが儒教の「革命」思想だ。つまり、天から与えられた使命を喪失すると罰が下り、支配権が次の支配種族に移動すると。こういう考え方に基づき、モンゴル族も満州族も中国を支配した。漢族が異民族を打倒するときも「夷狄(いてき)は遂に天命を失った」という理由でこれを打倒した(つまり、天命を失うまでは異民族は立派に天から与えられた使命を果たしていたと)。

1.周の力は次第に弱くなり、洛陽の都の近辺しか支配できなくなった(春秋時代)。この時チベット族の斉は、「尊皇攘夷」(周の皇室を護り・夷狄を打ち払う)と唱え、中国全体の実権を握り、外敵と闘った。斉はこの頃姜と名乗っただけでなく・羌とも名乗っている。だがやがて、家老に実権を奪われ滅びる。春秋時代にはやはり異民族の「越」が中国全体を牛耳った時期もある。元々は揚子江の下流に住む異民族だったが、やはり「尊皇攘夷」を唱え、周王室を護り、外敵と戦った。こうした異民族には中国文明への尊敬心があったから、周王朝に取って代わろうとは当時は考えなかった。やがて越も力を失い、落ちぶれて現在のベトナム地方へ流れていったという。そしてそこで新天地を開き、新王朝を作った。現在のベトナム人はその子孫というが、実は血はあまり入っていない。元々住んでいた種族が多かったので血は非常に広くひろがってしまった。だが文化は引き継がれた。「越」ももう少しで漢族になるぎりぎりのところまで来たことがあるのだ。

=ダライ派のデマを斬る5=
○英国のチベット支配の実態(続):
英国のチベット植民地化の歴史については参考文献1.が簡単にまとめてくれている。
当HPグループ過去記事
「空海のタントラ「仏教」とチベット(23)090406」
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38533233.html
でも述べたが、簡単に振り返っておこう:

「ダライ・ラマ9世の時、英国は既に印度を植民地にし、チベットを侵略しはじめた。1811年、印度総督はマンニンという人物をチベットに送り、活動させ、これ以降絶えずイギリス人はチベットの国境で活動するようになった。

1879年、ダライ・ラマ13世の時、英国は青海からチベットを調査した。チベットの僧俗は絶対的にこれを反対した。これに対し、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマは連署して次の願書を清の駐蔵大臣に提出した。

「…思うに洋人の性、実に善良にあらず、仏教を侮滅し、嘘言もて人を欺き、人を愚弄す。断じて事をともにしがたし。ここにチベットの全僧俗はともに誓詞をたて、かれらの入蔵をゆるさず。もし来るものあれば、各路に兵を派してこれを阻止し、善言もて勧阻し、事なきに相安んぜん。もしあるいは強を逞うせば命を賭して相敵せん…」(参考文1;p.62)。

遂に英国は1904年、ヤングハズバンド大佐(1863-1942)を隊長とする遠征軍を送り、ラサへの進撃を開始した。「途中グルの近辺でチベット軍は渓谷に防壁を構築し、迎撃態勢をとっていたが、イギリス軍の敵ではなく、この戦いで六〇〇人以上のチベット人が死亡または重傷を負い、二〇〇人あまりが捕虜になった。一方、イギリス軍側の損害は負傷数名、死者皆無であった。・・八月三日、イギリス軍はついにこの禁制の都ラサに入城し、長年懸案の交渉に入った」(参考文献2;p.784)。

だが、こういうあからさまな侵略をすれば、反発を食い、目的をスムーズに達せられないことを英国は知っていた。そこで、はじめは大臣が遠征を支持するといいながら、後ではヤングハズバンド大佐は非難された。このずる賢さが成功した。甘い言葉でチベット人をたらし込み、遂にチベットを自分の半従属国とすることに成功したのだ。

然し、日本が朝鮮を清から「独立」させるといって自分の植民地にし、満州を中華民国から「独立」させるといって自分の植民地にしたのと同じことを英国はやったわけだが、日本は第2次大戦で負けたため同じことをやっても悪者にされ、英国は戦勝国だったために同じことをやっても責任は未だに曖昧にされている。

しかも英国は、日本より頭が良く、阿片戦争で中国に勝ったとは言え、未だ未だ中国に底力が有ることを知っていた。だから1914年の「シムラ会議」では”チベットを中国から取り上げて名目上「独立」させ、実は英国が支配する”と主張することがいえず、”「独立」ではなく・「自治」を与えて英国が支配する”とまでしか言えなかったのだ」(過去記事要約)。

○今回記事で明らかにしたいことは、チベットを自己の植民地にすることにより、英国は具体的にどのような経済的利益を受けたかである。参考文献1.によると、次のようなことが書かれている:

英国は阿片戦争後着々と中国に対する圧力を強め、
「一八八六年、イギリスは北京で英清条約を結び、イギリス商人は、チベットのヤトンとその付近での無税の取引権を獲得している。一八九〇年、イギリスは清朝にシッキム(*1)の保護権を承認させて、カルカッタでシッキム-チベット条約・・を結ばせた。さらに翌九三年、イギリスはカルカッタで、シッキム-チベット条約付属章程に調印させ、イギリス人のチベットにおける事実上の治外法権を取得した。
・・・
・・(1904年のヤングハズバンドの侵攻の後)清朝政府はラサ条約(*2)を結んで、ヤトン・キャンツェ・ガルトクをはじめとして、イギリス人はチベットの必要な地で自由に取引できる権利を獲得した。・・
・・・
・・(1908年)イギリスは英清カルカッタ通商協定を結び、イギリス人はチベットで土地を借り、家を建て、取引範囲を拡大し、通商代表部に護衛兵力をおく権利を獲得した。
・・・
・・(1913年)当時チベットにおけるイギリスの貿易高は一九世紀に比して倍加しており、チベットと中国内地との貿易は逆に減少していた。
ダライ(13世)はイギリスにそそのかされて、「大チベット」の幻想にとりつかれ、一九一八年、チベット軍をチャムドはじめ西康省西部に出し、(中国の)地方軍閥と争った。一九二二年、北京駐在イギリス大使は、中国政府にたいし、チベットの「自治権」を承認せよと内政干渉する一方で、ダライ(13世)と「英蔵軍事援助協定」なるものを結んだ。また、インド、チベット間にイギリス政府の管理する電信線を架設した。・・
・・一九二八年、南チベットに大規模な農奴蜂起があり、徴税吏の取立てを拒否し、広大な地区を解放したが、鎮圧された。
このころ、不平等条約や協定に援護されたイギリス商社や英印合弁会社のヤトン・キャンツェなどの市場への進出はめざましく、略奪的な価格で買い取った英印向羊毛輸出は年二〇〇〇トンに達した。
一九三〇年一月、イギリスはネパール軍を挑発して、チベットに侵入させた。ダライ(13世)は(中国)中央政府の援助を求め、ラサで国民党の役人と会談し・・チベットが中国の領土であり、中国の一構成部であることをみとめた。
・・・
一九三六年、イギリスは強引に同国の常設政治代表部をラサに設立し、初代の政治代表にヒュー・リチャードソンをおいた。また、ラサに無線電信局を開設した。・・
・・・
一九四九年・・アメリカのラジオ解説者トーマス一行は、チベットの売国派と、アメリカ駐印大使館の手引きでチベットを旅行し、帰国してトルーマン米大統領に、チベット売国派に近代兵器を供与するよう進言した」(参考文献1;p.62-71)。

○「赤いチベット」の著者とされるR・フォード氏も次のように言っている。

「ラサに戻った(イギリスへの留学生)は・・水力発電所を建て、これが今でもラサの町とダライ・ラマ(14世)の夏宮に、電力を送っている。その建設材料はすべて・・ヒマラヤを越えて(印度から)運ばれたのである」(参考文献3;p.139)。

○こういうことが続いていくと結局どうなるだろうか?江戸時代、大名や武士たちは商人への借金で首が回らない状態だった。ダライをはじめチベットの支配者たちもそうなるだろう。だが彼らには英国に対する借金を「徳政令」若しくは商人への「お取り潰し」でチャラにする力はない。だから最後は国内から膨大な税金を取り、農牧民の苦しみは悲惨になっただろう。ダライ派は新たな時代を切り開く力は結局なかった。

(*シッキム:
もともとチベット人の住む国で、紅教徒(チベット密教ニンマ派)により建国された。チベットの属国であった。1890年、英国の保護国となる。印度独立後は印度の一部とされ、一方中国は中国の一部とした。長く紛争が続いたが、実際問題として元来のチベット系住民の比率が急落しているため、2005年、中国はシッキムが印度の一部であることを認め、同時に印度はチベットが中国の一部であることを認めた。
*ラサ条約:
これにより、「チベットは、イギリスがインドから持込む品目に対する諸関税を全廃すること」が決まった。−参考文献2;p.784より)。

参考文献:
1.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)
2.「ブリタニカ国際大百科事典12」(F・B・ギブニー編/1993/TBSブリタニカ)
3.「赤いチベット」(R・フォード/1970/芙蓉書房)

=ダライ派のデマを斬る4=
○英国のチベット支配の実態:
今回記事で取り上げる点は、ダライ派は英国のチベット植民地支配の実態を極端に過小評価・もしくは美化している点についてである(なお、もう終わった問題であるから、今更英国を批判することが重要な問題と当HPが考えている訳ではない。ダライ派がこの問題を利用している点を「斬る」ことが眼目だ)。

たとえば、ペマ・ギャルポ氏と言えば忠実なダライ・ラマ14世の部下であるが、次のように述べている。

「一九四九年一〇月、中国本土を掌握した中国共産党は、中華人民共和国を樹立すると同時に、北京放送を通じて、チベットは中華人民共和国の一部にほかならず、人民解放軍はチベット人民を外国の帝国主義の手から解放するために、チベットに進駐する、と宣言した。この宣言にたいして・・チベット政府は、中国政府にたいして・・「・・チベットを支配する外国勢力などは存在せず、したがって解放される必要はまったくない」という趣旨の声明を発表した。・・
また中国がいうようにチベットは「帝国主義者」から軍事援助を受けるどころか、当時、チベットにいた西欧人は、六人でうち三人が英国人で、その一人が宣教師、二人が無線技師であった。・・実際、「帝国主義者の圧制」など何もなかった」(参考文献1;p.117-120)。

ところが、この2人の「無線技師」の内1人が英国スパイ(もう1人にも重大な疑惑有り)であることを明らかにするためだけでも、次の4本の記事を書く必要があった。

「空海のタントラ「仏教」とチベット(24)090406」
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38533246.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット (Q)090430」
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38403624.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット (R)090430」
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38404439.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット (S)090430」
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38406495.html

このようにダライ派のデマは何処までも手が込んでおり、真相を明らかにすることは非常に手間がかかる。このため、良心的学者の中にもダライ派のデマに影響され、英国のチベット支配の実態があいまいなままの方も相当に多い。

そこで言うならば、チベットに多人数の英国人が存在することは必ずしもチベット支配に不可欠なことではないということである。息の吹きかかった印度人を使えばよい。あるいはチベット人を使えばよい。ダライ・ラマ政権そのものが英国の傀儡政権であった。

○そこで、1つ1つデマをつぶしていく必要があるが、元英国スパイ=R・フォード氏の本も相当な”トンでも本”、”偽書”の類であることを明らかにする必要がある。もちろん、かれが「赤いチベット」で述べているように、真実を述べなければ自分は真実を述べていると他人を信用させることはできない。だから中国尋問官をだますため、「わたしがいつも真実を述べているという印象を与えるため」(参考文献2;p.236)供述に真実をまぶしたと述べているが、この本自体がそのような嘘と真実を混ぜ合わせた本であるということである。

たとえば、フォード氏はこの本の中で次のように書いている。
ケンチ・ダワラは東部チベットの中心地チャムドの老僧(70才以上)で、総督に次ぐNo.2の役人でもあった。青年期に中国軍と勇敢に戦ったことで名高い人であった。チャムドに中国軍が迫る中で、フォード氏に国外に逃げることを強く勧める。

「「あなたがたが戦いを続けるかぎり、チベットを離れません」
「いや、すぐお発ちなさい。そして世界の人々に、わたしたちはシナ人ではなくて、独立の国家であることを知らせて下さい。わたしたちが自由と独立を保とうとしていることを。・・
わたしたちは必ず、ふたたび自由になります。・・どうか全世界に知らせてください」
わたしはそうしようとやくそくした。・・だからいま、わたしは、あの時の約束を果たしているのである」(参考文献2;p.178-179)。

この話は本当のことなのだろうか?本当にケンチ・ダワラはこのようなことを語ったのだろうか?私は極めてインチキ臭いと考えている。何故なら、

「この地方の重要な問題はすべて、総督一人が決定を下すのであって、彼の顧問たちは、その命令を実行するだけの存在だった。彼の地位があまりにも高いために、彼は他の役人に相談をかけることはできず、他の役人たちも、特に求められることがないかぎり、意見を具申することはできなかった。率直に彼と意見を述べあって、しかも彼の威厳を損なわないことができるのは、わたしだけだった」(同p.109-110)。

「総督の意志は絶対であり、彼(ラル)の命令はただちに実行に移された」(同p.70)。

つまり、No.2のケンチ・ダワラと言えども、完全なロボットに過ぎなかったのである。この何処が「自由」だろうか?しかも、

「チベット仏教の・・特長は、「ラマ教」という俗称が示すように、教えを伝えるラマ(師僧)に絶対的信仰を寄せることである。
・・有力な氏族は権力、財力に恵まれた活仏の位をねらってそれを子弟に独占させ、教団の利権にむらがった。一方、庶民は教団の内外でいかなる機会にも恩典にもあずからず、わずかの資力を投出して、ひたすらラマの加護を頼み、むなしく来世を期待させられ、教団を安泰ならしめる「善行」に追い立てられた」(参考文献3;p.792)。

また、1950年当時のダライ・ラマ14世時代のチベットとは、

「政府の反動法令・・第四条では、農奴が農奴主にそむけば、眼玉をえぐり、足を斬り手を斬り、舌を切り、高い岸壁からつき落として殺すとある。人間の皮を剥ぎ心臓をえぐる刑罰さえある」(参考文献4;p.90)。

この何処が「自由」なのか?

「チベットの役人は、政府から俸給を受けるのではなく、そのかわり租税収入のなかから、できるだけの利益をしぼり出すことを許されている。
税の徴収法は・・まずカムの総督が、全カム地方から徴収すべき税額を、政府から通達される。彼はこの額に、適当と思うだけ自分の配分金をつけ加えて、その全額を各地方の長官に割当てる。長官はまた、適当な配分金を加えた上で、下僚にそれぞれの責任額を言い渡す。下僚は、人民からしぼれるだけの金を取り上げて、余分は自分の懐に入れるのである。これが全チベットにわたって行なわれる普通のシステムであり、本当の意味で政府から俸給を受けている役人は、フォックスとわたしだけだ」(参考文献2;p.66)。

この何処が「自由」なのか?だから、ケンチ・ダワラの発言は事実そのままではないだろう。このフォード氏の本は、果たして彼の書いたものか分からないが、チベットの風景の描写やチベット人の人相の描写はほとんど皆無で、逆に演説は見事に描いている。ケンチ・ダワラの演説(同p.178-179)・中国軍政治委員の演説(同p.198-199)・王将軍の演説(同p.200-201)・尋問官フスの告白(同p.223-224)がそれだ。

だが普通演説とは、ヒトラーの演説を聞いても今となってはそれが何故大きく歴史を動かしたかは一見して明らかではない。演説は歴史を動かす。だがある演説が何故歴史を動かしたかは、後になると解説があってはじめて理解できる。ところが古代アテネの歴史家ツキジデスの「戦史」は、演説が見事に描かれており、重要部分はほとんど演説だけで構成されており、演説部分だけを読んでいっても当時のギリシャ史を理解できる。だからこれは事実そのままを書いた歴史書ではなく、ツキジデスがうまく構成した文学作品だということが現在では明らかになっている。「赤いチベット」も同じ気があると見た方が良いだろう。しかもツキジデスは実際の歴史の真実を記録するため、あえて一定のデフォルメを加えたのだが、フォード氏の本はすでに当HPで何度も明らかにしたとおり、とんでもない嘘本なのだから騙されない注意が肝心だ。ともかくチベットは、「自由」の国ではなかった(つづく)。

参考文献:
1.「改訂新版 チベット入門」(ペマ・ギャルポ/1998/日中出版)
2.「赤いチベット」(R・フォード/1970/芙蓉書房)
3.「ブリタニカ国際大百科事典12」(F・B・ギブニー編/1993/TBSブリタニカ)
4.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)

=ダライ派のデマを斬る3=
○1951年5月23日、北京にてチベットの中国への合流を定めた「17条協約」が結ばれた。その5ヵ月後、ダライ・ラマ14世は毛沢東に手紙を送り、

「聖職者並びに一般国民と共にチベット地方政府はこの十七箇条協定を全員一致で承認し、チベットにおける人民解放軍を積極的に支持、共に帝国主義勢力をチベットから駆逐し、祖国の統一と主権を守るでありましょう」(参考文献1;p.86)

と述べた。

ところがその後ダライ派は、「17条協約」でチベット代表が押したハンコは本物ではなく、中国側の用意した偽物であったから無効であると言い出した。

「協定書の署名に当たって、中共側は代表に捺印を求めた。・・代表団が国璽も各自の印も持参していないというと・・中共側は直ちに偽の国璽と印を作って署名させた」(参考文献1;p.81)。

ところが、参考文献2の解説(木村肥佐生氏による)で紹介されているがダライ・ラマ14世の姉婿であるプンツォク・タクラ氏(当時の代表団の1人)は次のように言う。

「我々は・・チベット政府の印鑑を持参していないのでラサから取り寄せる間待って欲しいと中共当局に言った。・・中共側は「その必要はない、印鑑は当方で用意するから・・」と言った・・」(参考文献2;p.349)。

つまり中国側はことさらに偽物のハンコを押させたのではなく、親切心からハンコを用意したに過ぎないのである。

また、協定に無理やり署名させられたと言うのも事実と違うであろう。ダライ派は次のように言う。

「代表の前には・・”十七箇条協定書”が置かれていた。彼らは否応なくその文書に署名させられた。・・会談とは名ばかりで、脅迫や、がんがんテーブルをたたく罵声など、話し合いの雰囲気など微塵もなかった」(参考文献1;p.80)。

処が同じ本で次のように語られる。

「九月終わり、十七箇条を承認するのかどうかを討議するため議会が召集された。議場には・・(17か条に署名したチベット代表団団長の)アボも出席していた。彼は壇上に進み出、開口一番、自分は一銭たりとも買収されてなどいないといった。ついで滔々と述べ立てた。
「ダライ・ラマの地位、権力は十七箇条によっていささかも変わることはない。チベットの宗教、政治制度にも変更はない。議会はいささかヒステリックになってはいないだろうか?毛主席のおかげで享受することになる様々な恩恵が少しも分かっていないのではないか。僧院への寄進はこれまでにないものになろう。近代的設備を整えた立派な病院ができ、すべての子供たちは学校に通える。市内には舗装道路が完備し電気が通る。毛主席の厚意を受け入れないとは何という悲劇だ。今こそチベットが近代社会に加わる絶好の機会であり、毛主席がそれを指導して下さるであろう」
この演説に拍手喝采したのはラサの三大僧院長たちであった。僧院の既得権が中共によって守られるなら、後のことなど大したことではない。・・この態度は民衆にも伝わっていた」(参考文献1;p.85-86)。

そしてダライ・ラマ14世と「聖職者並びに一般国民と共にチベット地方政府はこの十七箇条協定を全員一致で承認」した(同p.86)。これは”強制”とは言えないだろう。次のように述べた本も有る。

「コミュニストのやり方は巧妙だ。・・
もっと巧妙だったのは、彼らが戦時俘虜の問題を解決したあざやかさだ。(チャムド近くの山中の寺で包囲され・降伏した東部チベット軍主力5千人の)捕虜はただ一列に並ばせて、通行証とお金(中国政府支出)を渡して、妻子を連れてラサに帰るように言っただけである。このシーンも映画に収められたが、今度は、、笑顔を命令する必要もなかった。もちろん、中国人の親切さをふれ回るようになどと、言うまでもなかったのである」(参考文献2;p.199)。

そこで次のようなことが生じた。

「人民解放軍はアペイ・アワンジンメイ(訳し方の違いにより、「アボ・ジグメ」とも言うし、「ヌガボ・シャペ」とも言う。ラル・シャペの後を引き継ぎ、当時の東チベット総督)を鄭重に扱い、中国共産党と毛沢東主席の民族政策を懇切に説明した。アペイは四〇〇〇平方キロの土地と二五〇〇人の農奴をもつ大貴族であり、チベット地方政府を構成する六人のガロン(大臣)の一人であった。かれは、人民解放軍に遭遇していらいの自身の体験を通じて、針一本・糸一本とることなく、規律正しく、民衆を大切にし、俘虜を人道的に扱う人民解放軍と中国共産党の政策に深く感動し、信頼した。かれは決意して、ダライ一四世宛てに中央政府との和平交渉に応ずるよう心をこめて手紙を書いた」。

「当時のラサ当局の状態はどうであったか。一九五〇年暮れから五一年の当初にかけてのダライ集団の動揺から決断までのいきさつをのべよう。これは「日本と中国」紙代表団が一九七七年四月、ラサにおいて会談したトテンタンタ氏(元ダライ一四世秘書長、和平交渉代表団五人の一人)から取材したものである。
アペイ・アワンジンメイの手紙を二人の使者がラサにもたらしたのは、一九五〇年の一一月だった。そのころのラサには、チャムド一帯で国民党の敗残分子が流したデマ「中国共産党は人間を食う野蛮人だ」といううわさがひろがっていた。アペイの手紙は、これを真っ向から打ち消すもので、中国共産党は立派で、チベット民衆を援助するものだ。代表を北京に送って談判することが、チベット上層集団にとっても利益になることだということが、懇々と説かれていた」。

「ダライ集団はこの手紙を信ずることができなかった。・・ラサ駐在のR・フォックスなどのイギリス人が、「北京に代表を送ったらおしまいだ」という警告をくりかえしたからである。また、ダライ集団のまわりには、イギリスが長年かかって養成した手先がいた。その一人シャラバという男が、インドからダライ一四世に手紙を送って、チベットにいると危ないからインドに逃げてこい、イギリス政府に交渉して了解も得ている。イギリス当局は、ラサに空港をつくれば、迎えの飛行機を送るとまでいってくれていると書いてよこした。ダライ一四世は一一月八日、ラサを出発してインドに向かった。また、おびただしい財宝をシッキムに送らせた。ダライ一四世は、ヤトンにつくと、インドとイギリスに亡命方の連絡をとった。返事はシャラバがいってよこしたような甘いものではなかった。アメリカ・イギリスが欲したのは、チベットにあってその絶対的支配権を行使して祖国からの分離を宣言するダライであって、一亡命者としてのダライではなかった。返事は一流浪者としてインドに亡命するならうけ入れようというものでしかなかった。ダライ一四世は失望し悩んだ。そこへ、アペイ・アワンジンメイからの二度目の使者が手紙をもってきた。アペイはくりかえし「外国人のデマを信じてはいけない。北京に使者を送って和平談判することがチベットの活路だ。心配はいらない。チャムドにいる四〇人のチベット軍将校が、こぞって中国共産党が信頼するに足る相手であることを保証する。アペイ自身が、代表の一人になって北京に行ってもよい」と書いていた」。

「年は明けて一九五一年になっていた。・・ダライ一四世の最初の重要な仕事は、インドに行って一流浪者になるのか、それとも交渉代表を北京に送り、祖国の懐にかえる道を求めるかを決断することであった。かれは、アペイの提案をうけ入れ交渉代表を任命した。アペイ・アワンジンメイを首席代表とし、地方政府代表と高級ラマ代表など五人を決定した。高級ラマ代表として代表の一人になった(このインタビューの相手である)トテンタンタ氏(元ダライ一四世秘書長)は、当時の感想を次のように述べている。
「私はチベット以外の地に行ったことがないので、北京に行ってよく調べてみる。もし中国共産党が悪いものであれば、取り決めに反対だという手紙をあなた(ダライ一四世)に出す。良いものと分かれば、あなたに代わってサインしてくると、ダライ一四世にいいました。また、行って良いか、悪いか、うらないもしてみましたが、良いと出たので、出発したのです」」(以上、参考文献3;p.80-82)。

参考文献:
1.「中国はいかにチベットを侵略したか」(M・ダナム/2006/講談社インターナショナル)
2.「赤いチベット」(R・フォード/1970/芙蓉書房)
3.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)

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