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書庫資料:空海とチベッ

この分野は元々は「歴史」の分野名でしたが、表題通り変えます(110817)。
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=ダライ派のデマを斬る2=
○ダライ派の流している話のひとつに、1959年のダライ派の反乱は、1950年の中共軍のチベット進駐により、チベットが食料不足に陥ったことが遠因だというものがある。

「中国本土からの物資輸送道路がまだ完成していなかったので、中共軍の負担はラサ市民の肩にずっしりとのしかかってきたのです。この頃こんな歌が巷で流行りました。”奴らは箸と空の茶碗だけを持ってやってきた”」(リタンの見習い僧アタの証言;参考文献1;p.92)

これは成る程と思わせる説であり、中国側は、

「人民解放軍は、チベットにはいって以来、一粒の糧食もチベット人民に負担をかけなかった。自分たちの手で生産できるまで、内地から空輸で供給をうけた。と同時に、一八軍長張国華自ら先頭に立って、カシャ政府から買いとった荒地に鍬を入れ、糧食と野菜の自給へ踏みだした」(参考文献2;p.119)

と述べるが、正直に言って果たして数万の兵隊を食わせるだけの空輸の力が当時の中国にあったのか、私は大いに疑問を持っていた。

処が、1950年の中国軍のチベット進駐の際スパイ罪・殺人罪で逮捕された英国人R・フォードの本を読んだ処、確かに中国兵は各自が1週間分の食料をかついでやって来たし、成都からチベットに食糧を運ぶ飛行機が飛んでいたとあるのだ。

「コミュニストのやり方は巧妙だ。過去において、中国がチベットで犯した過ちをふたたび犯さないように、細心の注意を払っている。
今度は、僧院の掠奪などは起こらない。それどころか、誰に対しても、うっかり感情を損ねないように気を配っている。やがて僧侶たちは、彼らの解放を神に感謝するまでになった。中国人は、チベットの宗教に対してなんの悪意も持たないことを、はっきり示して見せたのである。チベットの民衆に対しても同様だ。彼らがひどい扱いを受けなかっただけではない。糧食の補給が困難をきわめているにもかかわらず、中国軍は現地での補給を行なおうとしない。兵士たちは、めいめい、一週間分の予備食糧を持っている。ソーセージ型のゴム袋につめられた米と肉だ」(参考文献3;p.199)。

「成都・・飛行場からは、カンツェに米を運ぶ飛行機が飛び立っている。ここはチベットへの食糧補給の最前線なのだ」(同p.230)。

このことから、100%中国軍の補給は現地からの徴発によらなかったとの結論はまだ出せないが、”奴らは箸と空の茶碗だけを持ってやってきた”と言うのは完全に嘘である。

○同じくダライ派の流している話のひとつに、中国軍によるチベットの寺への弾圧・寺の宝の略奪ということもよく耳にする。

実は、寺の宝(寺宝)とは、武器のことなのだ。チベット密教では武器を寺の宝として代々蓄えているのである。また、寺こそが武力反乱の最大の拠点となっており、僧兵は一般民兵より強力だと言う。ダライ・ラマ14世も序文を寄せている親ダライ・反中国の本の中でM・ダナム氏は書く:

「僧院も明らかに独立の流れに加わりつつあった。ミマンが次々に発行する文書、パンフレット類は僧院の印刷所で作成されたのである。印刷設備のある場所は僧院以外に存在しないのだ。
(1954年)・・正月祝い・・中に民衆の放棄は始まった。”ドップ・ドップ(僧院の警護をする戦士僧)”の自発的デモがラサ市内を練り歩き、寺院の財宝を盗み出すのを止めろと叫んだ。しかしこの”財宝”の中には僧院の蔵に仕舞ってある武器弾薬も含まれるのを知らぬ者はなかった」(参考文献1;p.110)。

「信仰を守るために戦う僧ほど強力な兵士はいない。ローウェル・トーマスはこういっている。非常に厳しく律した僧は、質素な食事に耐え、・・筋力を養い、驚くべきスタミナを発揮する。・・普通のラマ僧であっても一般市民よりずっと明確に敵の力と情勢を見通し、有効な作戦を立てることができる。良かれ悪しかれ僧院は常に潜在的軍隊なのだ」(同p.113)。

「ダライ・ラマ十三世の死後・・各僧院は二派に別れて深刻な内部抗争の泥沼・・僧同士の殺し合いがはじまり、政府の機能は麻痺・・少年ダライ・ラマ法王には何が何やらさっぱり分からず、手の出しようがなかった」(同p.49)。

何故殺人が正当化されるのか。
「文殊菩薩は片手に経典、片手に燃える剣を持っている」。
「一人の命を奪うことが何百人もの命を救い、非道の・・者を殺すことが他の生類を救うのであれば、カルマの裁量があって然るべきなのでは−。・・
チベットの歴史には、仏教が危機に瀕した時に武器を持って立ち上がった僧の例は枚挙のいとまがない」(同p.112-113)。

ダライ・ラマ14世の忠実な部下であるペマ・ギャルポ氏も次のように書いている:

「チベットには約四五〇〇の寺院があるが、デプン寺、セラ寺、ガンデン寺、タシルンポ寺が、ゲルク派の四大本山である。・・セラ寺は一四一九年ツォンカパの高弟ジャムチェン・チュージェが開いた。僧数は一般に五五〇〇人といわれているが七〇〇〇人近くいたという。一九〇四年の英国との戦闘や一九〇九年の清国との戦闘のさい、戦った僧兵はセラ寺所属の僧であった」(参考文献4;p.78)。

参考文献:
1.「中国はいかにチベットを侵略したか」(M・ダナム/2006/講談社インターナショナル)
2.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)
3.「赤いチベット」(R・フォード/1970/芙蓉書房)
4.「改訂新版 チベット入門」(ペマ・ギャルポ/1998/日中出版)

=R・フォード問題(3)=
1.前回記事に引き続き、R・W・フォード氏が英国スパイだったかどうかを調べる。

1.まず重要なことは、なぜフォード氏はチベットに来たのか?なぜチベットにとどまったのか?それを彼は、「チベットの魅力のとりこになってしまった」(p.29)ため、チベットとチベット人を愛していたためと書く。特にラル・シャペを愛し尊敬していたと。

ところがこれがうそ臭いのである。なぜなら、肝心のラル・シャペにしても、人相の記述はまったくない。ほとんどチベット人の人相の記述が出てこないのである。ラルの次に東部チベット総督になったヌガボ・シャペが丸顔だったとか、ゲダ・ラマの鼻の形がカンパ人型だったとしか書かれていないのである。わたしの記憶が正しければそれ以外にチベット人の人相の描写は一切ないし、人相の描写のある2人も、まったく単に丸顔であることと鼻の形しか書かれていない。また、チベットの風景の描写も極端におざなりで、到底描写などと言えたものではない。一方、人間の身分・階級や能力の記述は詳しい。

だから、チベットにそもそも愛着を持っていたと言う点から疑ってかかる必要が絶対にある。また、これほどあちこち矛盾だらけで破綻だらけの本も珍しい。本当にフォード氏が書いたのか?数人が手分けして合成されて出来た本ではないのかの疑いもある。つまり、本当に1人で書いた本ならば、これだけ矛盾だらけで嘘がすぐにばればれの本を書かないのではないかという疑いが生じるのである。1人で統一した本でないから誰も矛盾に気付かなかったのではないか?

1.また、フォード氏がチベット人を「愛して」いなかった証拠もある。
彼は釈放後、新聞記者に「拷問も虐待も受けなかった」と答えている。それは、「ラウ・グレンは、まだ獄中にある。この最後のひと事だけでも、自由に新聞相手に話すわけに」いかなかったからだと言う(p.338)。

ところが「一九五五年の九月、ラウ・グレンと他のアメリカ人が釈放されたことが分かった。これで自由に話すことができるようになった」(p.340)。

しかし、彼の部下であった放送局員の印度人、ソナム・ドリエとソナム・プンツォの様子はまったく分からない」状態は続いていた(p.338)。

「やっとソナム・ドリエとソナム・プンツォが無事でシッキムにいることが分かった」(p.340)が、それはフォードが「自由に話す」事を始めた後だった。

つまり、フォード氏の言い分を信じると、白人の命が危険だから自分が自由に話すことはできない、しかし、ほとんどチベット人のチベット系印度人の命が危険であっても自分は自由に話してよいのだと言うのである。これがチベット人を「愛する」と言うことなのだろうか?

1.つまり、チベットにあこがれて風来坊としてチベットに着たとか、チベットとチベット人を愛していたから残ったのだと言った彼の言い分はまったく信用できない。つまり、彼は英国政府によって送り込まれたスパイであることを否定して自分をヒッピーのように言っているが、何処までも彼の主張は崩れていく。

1.さらに重大なことがある。彼の言葉を拾っていこう。

「僧院はまた、この(チャムド)地方最大の地主でもある。しかもチベットでは、小作人は土地所有者の農奴だ」。「わたしがボーイのテンネを雇うときにも、まず彼の生まれた土地の地主から、正式の解放証明書を手に入れなければならなかったほどだ」。「僧院には二〇〇〇人の僧侶が暮らしている。そして、チャムドの三〇〇〇人の住民が、これを養っている。僧侶は何の労働もせず、およそ何一つ仕事らしい仕事はしない」(p.27)。

チベットの職業的な医者は僧侶の医者である。そして彼らが最も珍重する良薬は、ダライ・ラマ(14世)の尿であった」(p.53-54)。

「チベットの役人は、政府から俸給を受けるのではなく、そのかわり租税収入のなかから、できるだけの利益をしぼり出すことを許されている。
税の徴収法は・・まずカムの総督が、全カム地方から徴収すべき税額を、政府から通達される。彼はこの額に、適当と思うだけ自分の配分金をつけ加えて、その全額を各地方の長官に割当てる。長官はまた、適当な配分金を加えた上で、下僚にそれぞれの責任額を言い渡す。下僚は、人民からしぼれるだけの金を取り上げて、余分は自分の懐に入れるのである。これが全チベットにわたって行なわれる普通のシステムであり、本当の意味で政府から俸給を受けている役人は、フォックスとわたしだけだ」(p.66)。

なぜチベット密教は平等や民主主義を認めないのか?
「すべての人間の平等という観念自体が、(タントラ)仏教徒の目から見れば異端邪説である・・」。
「わたしたちは共産主義の話をしていたのではなく、西欧流のデモクラシーの考えが、何故チベットでは採用できないか、という問題だった」。
「因果応報のおきて・・信心深い生活を送った人は、来世では、もっと高い身分に生まれ変わります。悪人は、低い身分に生まれ変わるという、罰を受けるのです」(p.111)

「僧侶たちはたいてい、身体を洗うこともしない」(p.153)。

以上がダライ14世の支配するチベットであった。これが果たしてまともな人間の「愛せる」ものだろうか?そして彼の愛すると言っているのはラル・シャペなどの支配者である。これはまともなことだろうか?可能なことだろうか?だからうそ臭いのである。また本当にこんなチベットを現状維持することをフォード氏が「愛して」いたとしたら、まともな神経と言うよりは「スパイ的」性格と言えるだろう。

1.実は、もっと根深い嘘が存在しているのではないかの疑いもある。そもそも何のためにこの本が書かれたのかの目的である。1つの仮説としては、彼はチベットで悪逆非道を繰り返し、にもかかわらず中国政府に命を助けられた。その感謝の念から「共産主義者」に転向したのである。だが釈放とほとんど同時に彼は、それまでは命が助かりたいとか、牢獄から出たいの一本の気持ちだったが、このままでは英国社会に帰ってから惨めな生活しか残されていないことを強く意識するようになったのではないか?再びチベットでの様な王侯生活はできない。そこで転向したことを隠し、身の潔白を証明する必要が有って書かれた本ではないか。以上のような仮説を主張する人が出たとしてもわたしは驚かない。

彼は神を信じていたし信じていると述べている。
「わたしを支えてくれた力はもうひとつあった。・・その力とは、わたしがキリスト教を信じていたことだ。・・わたしはメソジストとして育てられたが、R.A.Fにいる間に、英国国教会に改宗したのだ。・・わたしは神に祈ることを忘れていなかった」(p.325)。

だったら死を恐れる必要はなかったはずだ。
「わたしが祖国に対して犯した不実は、このほか数え上げればきりがないのだが、これ以上筆にする気にはなれない」(p.321)。

神を信じ、天国と地獄を信じるならば、「祖国に不実を犯す」ことは死よりも避けるべきことではないのか?だから英国国教会を信じると言うのも本気で言ってるのでは有るまい。逆にキリスト教を信じていたと言うならば、中国内で「祖国に不実を犯す」ことも正しいと思ってやっていたのだろう。転向していたと言うことである。

彼は自分がスパイであり、ゲダ・ラマを殺すことに深くかかわっていたことを認めていた。それは彼がこの本でものべているとおり、拷問による自白ではなかった。日本の警察でも、殺人犯に対し、「素直に自白しないとあんた死刑になるよ」と言うことは言われていると言われている。それが法律的に合法的かどうかは勉強不足で承知していないが、常識的に考えてこれ位は言うのが当たり前だ。米国では自白しないと従来も田舎の警察や大都市でも肉体的拷問は当たり前だった。今でもアルカイダ容疑者に対し行なわれている。

そうした先進国の対応に比べ、中国政府の尋問方法は後進国としては実に人道的といえるだろう。つまり、彼が釈放後、新聞記者に「拷問も虐待も受けなかった」と答えたことは真実を語っており、これこそ彼が転向していた有力な1つの証拠なのである。「ラウ・グレンは、まだ獄中にある。この最後のひと事だけでも、自由に新聞相手に話すわけに」いかなかったと言う。だが、彼が「自由に新聞相手に話」し始めた時まだ彼の印度人の部下は生存が不明だった。彼が「自由に」本を書いたとき、中国内では彼に関係する多くのチベット人が獄中にあった。だから彼が釈放された直後に「自由に」発言してもよかったし、その自由な発言こそ「拷問も虐待も受けなかった」ではないのか?そして「拷問も虐待も受けず」正直に話した結果が、自分はスパイでした、殺人に加担しましたと言うことではなかったか?

参考文献:
「赤いチベット」(R・W・フォード/1970/芙蓉書房)

=R・フォード問題(2)=
1.今回記事では、R・W・フォード氏が英国スパイだったかどうかを調べる。

1.フォード氏は尋問に対し、自分はスパイではないと主張した。では一体チベットで何をやっていたのか?「チベット政府の官吏として、自分の技術的な仕事を続けただけです」と答えている。つまり、自分は単なる「ラジオ技師」だと(p.235)。

ところがこの本を読めばすぐにわかることだが、これは大嘘なのである。
「彼らに抗戦をすすめたことがありますか?」
「わたしの意見を求められることは、ありませんでしたから」
「イエス・ノーで答えてください」
「ノーです」「彼らの抗戦を助けましたか?」(p.235)
これに対してもノーと答えている。これらは完全な大嘘であることはこの本に自分で書いているとおりである。抗戦もすすめたし、意見も求められた。また抗戦も助けたのである。

フォード氏がラサにくることは、政治将校ホプキンソンの推薦だった(p.242-244)。
「「ホプキンソンは、あなたをチベット政府に推薦したのですか?」
「どうだかよく知りません」
「推薦してくれたろうと思いますか?」
「あるいはそうかもしれません」わたしは、ホプキンソンの推薦があったことを、重々承知していた」(p.243-244)。

政治将校ホプキンソンはラサの英国代表部を「指揮下」においていた人物である(p.242)。つまり、フォード氏はそもそもなぜ自分がチベットに来たかを「偶然による・・」(p.28)と説明している。風来坊の虫がわいたためとする。だが、本の中でこの説明は浮き上がっており、違和感を感じさせる。ところが中国側の尋問の中で次第に真相が浮上してくる。

「ラサに戻る前に、一度イギリスに帰りましたね。諜報活動のためには、どんな訓練を受けましたか?」
「なにも受けません。スパイの訓練などは、どこでも受けていません」
「政府のどんな部署と連絡しましたか?」
「別にどこにも参りません」
「それではなんのために帰国したのです?」
「R.A.F(英国空軍)から退役の許可を得るためです」
「服役期間はあと何年ありました?」
「六年です」
「それでは、どうしてR.A.Fが兵役解除をしてくれたんでしょうね?」
これは厄介な質問だった。本当は、ホプキンソン氏が、わたしの兵役解除のために熱心に運動してくれたのである。ひとつには、わたしの希望をかなえるためでもあるが、またひとつには、英国がその友好を確保したいと思っている国家を援助する方法を得るためであった。だが、このことは言うわけにはいかなかった」(p.244)。

つまり、フォード氏がチベットに就く事は、英国の国家的プロジェクトだったのである。それを隠して単なる「ラジオ技師」だと主張することこそ、秘密工作であり、秘密工作員の行為ではないのか!

1.「「お前をここへ派遣したイギリス政府の機関は、なんという機関だ?」
「わたしはどの機関から派遣されたのでもありません」
「では、どうして来たのだ?」
私は最初からの事情を逐一物語った」(p.206)。

ここでフォード氏は、p28で読者に説明したのと同じ説明をしたと考えられるのでそれを紹介する。

なぜチベットに来たか?「偶然による・・」。
1945年までハイダラバードのR.A.Fの無電学校教官だった(彼は別のところで高等教育は受けていない・大学は出ていないと述べている)。「仕事が退屈で飽き飽きしたので」「ラサの英国代表部の無電将校が三ヶ月の休暇を取ったので、その穴を埋める」・・。これがはじめとなってチベットにあこがれてラサの英国代表部に来たと言う(p.28)。

「わたしの話が終わると言った。
「とんでもない作り話だ。ラサの英国代表部がスパイ活動の中心であることは、誰でも知っている」
「わたしには初耳です。それに、三年も前から、ラサに英国代表部はありません」
「名前を変えただけだ」」(p.206)。

これはわたしは勝負あったと思う。大体、大使館とか領事館とかはスパイの巣である。これは国際政治の常識だ。「ラサの英国代表部」も同じことだ。まして、英国と言えば007でおなじみのMI6などで有名な国で、エリザベス女王の時代から情報戦略に長けた国である。日本人の知識人に日本政府がスパイになってくれと要請しても、簡単には引き受けないだろう。米国も同じだ。スパイと言えば薄汚れた印象がある。

ところが英国では、昔からスパイの活躍で植民地もたくさん取って来たし、スパイになることが名誉なことだとさえ考えられている。だからわざわざ功成り名を遂げた有名人が、自分は昔スパイだったんだと自慢するための伝記を書いたりする。だから非常な地位にある人が進んでスパイになろうとする。そうした歪みを持った国なのだ。

そしてラサの英国代表部とは、普通の大使館などに比べ、きわめて人数の少ないものだった。実際、フォード氏は主な人物とすぐに仲良しになっている。それでいて「ラサの英国代表部がスパイ活動の中心であることは」「わたしには初耳です」はないだろう。

さらに、次はどうだろうか?
「それは、ローウェル・トーマス・ジュニアーの『この世の外』からの抜粋だった。わたしはこれを読んで、愕然とした。フォックス(フォードのすぐ上の上司)が、国際情報網の組織者として、中国国境の戦略的要地に、放送網を張りめぐらしたことになっているのだ。
「彼のラサ放送局は、全組織の中核である」とトーマスは言う。「チベットは、秘密の政府公文を伝達するために、誰か信頼し得る人間を必要としていた。多年の間の協力を買われて、レジー・フォックスがこの信頼をうけることになったのである」
最も恐ろしいのは、その次の言葉だった。「フォックスがフォードをよび出したとき、わたしたちもその場にいた。フォックス(文脈から考えてフォードの誤り)は元英国空軍の無電将校で、最近着任したところだ。赤色中国の進撃で物情騒然となってきたころ、フォックスが招いて、東北チベットの最も重要な地点に、携帯無電と共に送ったのである。フォードがレジーに国境の状勢を報告した後、わたしたちも彼としばらく話をした」
「どうだ?」とファン(尋問官)が言う。「これはコミュニストが書いたのではなくて、最も反共産主義的なアメリカ人が書いたものだぜ。お前が嘘をついていたことが、一目瞭然だ。お前がチベットに来たことに、フォックスは関係なかったと言ったね。お前たちは二人ともチベット政府の秘密には関係しなかったし、暗号の解読法も知らなかったと、お前は言う。お前をチャムドに送ったのは、フォックスではないと言うし、国境地方の状況をフォックスに知らせたこともないと言う。どうだ、こう証拠があがった上で、なにか言うことがあるか?」」(p.291-292)。

そこでフォード氏は答える。
「トーマスはジャーナリストですから、もっともらしい話をでっちあげたんでしょう」わたしの答弁は苦しくなってきた。・・
「・・確かにイギリスやアメリカの新聞は真実なんか気にかけちゃいない。・・しかしだ。トーマスがお前やフォックスのことについて、そんなでたらめをでっちあげるにはなんの理由もないじゃないか。チベット国内へのイギリス勢力の浸透を報道したって、金がもらえるわけじゃない。むしろその反対だ」
(つまり、でっち上げるなら英国のチベットへの侵略を過大に描くのではなく、過小にでっち上げるはずだし、英米やダライ派は一貫してその誤魔化しを行っているのである。)
ローウェル・トーマスを恨むわけにもいかなかった。彼がこの本を書いたときは、わたしが捕えられるなどとは、考えてもいなかったろう。この本が出版されたのは、共産軍がチベットに侵入するよりも前だった。おそらくコミュニストたちは、その時分にこれを読んでいるのだから、彼らがわたしをスパイと考えたからといって、彼らを非難することはできない。ファン(尋問官)がいまでもそう考えているとしても、仕方がないのだ」(p.293)。

これは合理的に考える限り、フォード氏の言っていることは出鱈目だらけだし、スパイと考えるのが当然と言うことになるだろう。わたしは西側のジャーナリストを信用する。

また、「フォックスがわたしを招いたと」「ハーラーも『チベットの七年』の中で同じ過ちを犯している」(p.292)と言うが、証言者は多いが本人だけがそれを否定しているのではないか?肝心のフォックスはフォード氏がこの本を書いた時には既に死んでいる。

1.さらに、フォード氏はとことん嘘つきだと考えざるを得ない。特殊な性格だ。中国尋問官をだましているだけではない。チベット政府をもだましているのだ。チベット政府の4人の大臣の一人であり、東部チベットの総督であるラル・シャペに対し嘘をついている。当時、キリスト教宣教師を名乗る英国男がチベットに潜入していた。中国軍が迫っており、この男が中国軍に捕まらないためには、一緒にラサに連れて行くしかない。しかし、宣教師にラサでキリスト教の説法をされるのはチベット側は絶対に反対だった。

そこでラル・シャペはフォード氏に質問した:
「彼が(ラサに)来ることを許したとして、わたしたち・・をキリスト教に改宗させようとする努力を、慎んでくれると思いますか?」とラルは続けた。
「ええ、きっと遠慮すると思います」とわたしは答えたが、嘘だということは分かっていた」(p.148-149)。

1.また、読者に対しても不思議なことを述べている。p.235-236で、ゲダ・ラマ殺害については容疑が晴れたのだろうとか、自分がスパイと疑われているのは、チャムドでの調査結果がまだ届いていないためだろう、などと書いている。ここだけでなく、同じフレーズが何回も繰り返されている。

しかし、冗談にも程があるのである。調べれば調べるほど容疑が濃くなっていくのは自明なのだ。絶対に薄れると言うことは有り得ない。これでもか、これでもかと証拠は積み上がっていく。だから「調べが完全に行われれば疑いは晴れるだろう」と言った白々しい言葉が良く出てくるなと感心するだけだ。

たとえば、自分の部下を調べれば、スパイでないことは分かるはずだと言う記述もある。だがそうだろうか?それを調べて分からないのがスパイではないのか?こんなことは自明であり、非論理的、一体どこをどう押せばこんな白々しい言葉が出るか分からない。はっきり言えば、これは自分を無知な人間に見せかけるごまかしであり、読者をだましているのだとわたしは疑う。もっとはっきり言いたいところだが、フォード氏の名誉のためここで終わらせておく(つづく)。

参考文献:
「赤いチベット」(R・W・フォード/1970/芙蓉書房)

=R・フォード問題(1)=
1.今回は、いきなりで恐縮だがチベット現代史について述べる。
当HP「空海とチベット」分野記事
「空海のタントラ「仏教」とチベット(24)090406」
で紹介したが、1950年10月、チベットの山中の寺で5千余人の東チベット軍主力が司令官と共に中国軍に包囲され・降伏した。その中に、中国政府によると「英国スパイ」・「殺人者」の、そしてダライ・ラマ14世派に言わせれば単なる「ラジオ技師」のロバート・W・フォード氏がいた。

R・フォード氏はその後5年間拘留され、中国への不法入国・「英国スパイ」・「殺人使嗾」などで禁固10年の判決を受けたが、中国側は英国との国際親善を進める立場から1955年に釈放し、香港経由で英国に戻った。

今回記事およびあと何回かの記事で、R・フォード氏は「英国スパイ」・「殺人者」だったのかの問題を解明し、これに関連する問題を扱う(なお、氏は既に5年間服役されて罪を償われた訳だから、今更当HPはこのことを蒸し返すことが重要な問題だと考える訳ではない。只ダライ派がこの問題を利用しており、最近も氏の本が米国で再版されたためこの問題を整理する必要に迫られただけである)。

1.R・フォード氏は釈放後、’Captured in Tibet’(1958)と言う本を書いた。この本は翌年「赤いチベット」と題して日本語に翻訳された(1959/新潮社)。この本がその後、同じ訳者の近藤等氏によって1970年に芙蓉書房より出版されており、今回はこちらをテキストに用いる。以下で示す頁数はすべてこの本のものである。

1.まず、中国政府の要請でチベット地方政府に対し中国政府との平和的合流を説得するためラサに赴こうとし、途中の東チベットの中心地チャムドで暗殺されたゲダ・ラマの件だ。

フォード氏は自分の口で語っているのである。
「わたしとしては、ゲダが暗殺されたと信じるに十分な理由を持っている。誰が殺したのかも、知っているつもりだ」(p.123)。

ところが「その人が誰か、永久に発見されないことを祈るばかりである」と言う(同p.123)。しかも中国政府の取調べに対し、「捕らえられてから・・尋問のあいだ、自分の知っていることを口にしないために、わたしは大変な苦労をしたのだった。いまとなって、口を割るいわれはなにひとつない」と(p.122-123)。

ゲダ・ラマが殺されたために、チベット地方政府は中国中央政府が「食人鬼だ」などの誤解を解くことが出来ず、戦争となり多くの人が死んだのである。つまり、中国が1つになることを妨害しようとする勢力が存在した。これは単に1人の人を毒殺しただけではなく、多くの人命を奪っており、明らかに人道と中国国内法に反する行為なのだ。そしてフォード氏は犯人を知り、それを「大変な苦労」をして隠した。明らかに共犯である。

しかも、フォード氏は中国政府に対するチベット人の恐怖感を増すため、さまざまな発言を行っていた。たとえば、
「彼ら(中共軍)の武器は国民党の軍隊よりも優秀です。・・ラサと北京の間で、秘密交渉がおこなわれているといいます。・・チベット政府が平和的な解決を求めることは、有り得ることです。その条件がどんなものであるにせよ、そうなればおしまいです」・・
「コミュニストは、これまでのどんな中国政府より、もっと危険です。・・」(p.21)

このように、フォード氏は平和を求めるのではなく、戦争をしないといけないと扇動していた。これは明らかに内乱罪であり、日本の国内法では死刑である。

しかも、この時戦争をあおっていた相手は誰あろう、当時の東チベットの総督のラル・シャペであった。このラル・シャペこそゲダ・ラマ毒殺の真犯人と考えられるのである。なぜなら、

「この地方の重要な問題はすべて、総督一人が決定を下すのであって、彼の顧問たちは、その命令を実行するだけの存在だった」(同p.109)。
「総督の意志は絶対であり、彼(ラル)の命令はただちに実行に移された」(p.70)。

つまり、総督のラル・シャペしか暗殺の決定は出来ない。しかもフォード氏は、殺人犯に対し、先に見たとおり
「その人が誰か、永久に発見されないことを祈るばかりである」と言う。普通こういう言い草は常識的にも許されるものではない。余程固い絆か何かで結ばれた人であるはずだ。そしてフォード氏はいう。

「これがラルという男だ。冷静で、機敏で、固い決意を持って、恐れを知らぬ、行動の男だ」(p.74)。
「わたしたちはお互いに相手を信頼していた」。「・・いっそう彼を尊敬する念を増した・・」(p.89)。
「・・その(チベットに残る)危険の大きさを、わたしは十分に承知していた」。
「なぜチベットに残ったのか・・一ダースほども理由を並べることができる。・・
ラルを愛し、尊敬していたからだ・・」(p.54-55)。
「それから、二人とも・・親友のように話し始めた。二人は今までにないほど身近さを感じ、最後に握手を交わしたときには、感動で胸が締め付けられる思いだった」(p.164)という。

このことに関し、「チベット日記」(岩波新書/1961)の著者であるアンナ・ルイズ・ストロング女史は次のように書いている:

『一九五〇年チャムドで毒殺されたゲダラマの死体は当局により迅速に火葬されたため調べることが出来なかった。しかし中共当局はこの件については前総督ラルおよび英国のスパイ、ロバート・フォードを有罪と断じていた。解放軍のチャムド占領と同時に逮捕されたフォードは数年後釈放されて英国で彼自身の無罪を主張する本を書いた。しかしその中で彼は、「誰がゲダを殺したかも知っているつもりだ、だが私は話すわけにはいかない。」(第一部七章)と述べている。このことはフォードが大きな敬意を払っていたラルを指している。解放戦の間フォードがチャムドでラジオ送受信に従事したこと自体は良きスポーツマンシップとして英国の読者を納得させることが出来るかもしれない。しかし彼の英国スパイとしての経験はアジア人を納得させることは出来ない。』(「赤いチベット」解説で紹介されている;p.352) 

このアンナ・ルイズ・ストロング女史の結論は極めて正しいと言うべきだろう。ゲダ・ラマを毒殺できるものはラル・シャペしかいなかった。フォード氏は内乱をあおっていた。内乱を食い止めるためラサにいこうとしているゲダ・ラマを行かせないこと、さらにチャムドにとどまって地方有力者に中国の統一を説くであろうゲダ・ラマを始末することは必須の課題であった。そしてフォード氏はゲダ・ラマ殺害の真犯人を必死でかばった。内乱をそそのかし、これがゲダ殺害を生み、さらにその犯人を隠匿する。これを共犯と言わずして何をか況やだ。

しかもラル・シャペが直接毒を盛るわけではない。部下にやらせるわけだ。それがフォード氏だったのか?彼の行動はきわめて疑いの濃いものなのである。彼はゲダ・ラマと同じ建物に居住していた。とても親近感の持てぬゲダをわざわざ招待し、ケーキと茶を出した。しかも、中国当局の取調べに対し、事実と違うことを述べ、ケーキを出したことを隠し(*)、また接待した部下の名も事実と違うことを供述している。彼は思い違いしたと述べているが。ところがしばらくしてゲダは重い病気にかかる。チャムドで医者として通っていたのはフォード氏1人であった。にもかかわらず、見舞いにも、治療を助けるために訪ねることもしない。また「ゲダが・・(フォードと同じ建物に)越してきた月日についても、思い違いをしていた」(p.268)。

私は想像を排し、確実な事実だけを確認したい。そこで結論として言えることは、フォード氏が直接に手を下した下手人であるかどうかは別として、彼はゲダ殺害の一味だったと言うことだ。

(*ケーキを出したことを隠し:
このことは、フォードが茶を出してからゲダが死亡するまでかなりの期間があったことと関係があると見ることもできる。このことから、毒殺は細菌兵器によった可能性がある。だが、冷蔵庫もない所で長期に細菌の効力を保持することは困難だったろう。そこで、事件の直近に意外な人物からあるものがもたらされたことが注目される。また、細菌を茶に混ぜたとすると、確実性を増すため何倍もお代わりをさせる必要があったろう。甘いケーキがこれに関連していると言うのが中国側の推理と考えられる)。

参考文献:
「赤いチベット」(R・W・フォード/1970/芙蓉書房)

=チベット密教史関連3=
(つづき)
チベット密教の各派について:
○宮脇淳子氏は言う。

「十七世紀にゲルク派がチベット仏教の代表になるまで、各宗派が長い間抗争を繰り返したのは、教義の違いからではなく、それぞれの施主である地方王権の対立を反映したものだった」(参考文献1;p.156-157)。

つまり、山口瑞鳳氏が述べているように、

「これを根にもってゲルク派はモンゴル人(の信者)をそそのかしてカルマ派の本拠ツルプを襲わせ、家畜を略奪させたりしていたのであった」(参考文献2;p.272)

といったことを各派は繰り返し、段々エスカレートしていたのであるが、それらは表面的には教義の違いを装いつつも、実はそうではなかった。そしてそこにこそ、各派の真実の違いも存在している。

○つまり、各派の最大の違いは、寺の財産(領地と農奴)の相続方法の違いにある。
・「紅教」(ニンマ派)−父子相続。
・「花教」(サキャ派)−父子相続とおじ・おい相続の混合。
・「白教」(カギュ派)−「黒帽派」と昔あった「赤帽派」以外はほとんどおじ・おい相続。
・「白教」(カギュ派)の「黒帽派」と昔あった「赤帽派」−活仏転生。
・「黄教」(ゲルク派)−活仏転生(以上、参考文献3;p.562など)。

これは何を意味するか?山口瑞鳳氏は述べる。

「各地に教団が結成されると、少なからぬ数の人々が教団に参加するために集まってきた。・・教団は多数の人々を擁したため、商業の発達をうながして、自ら地域の経済的中心としての役割を果たすようになった。さらに、これに伴って発生する利権によって、諸侯が教団の運営に関心を寄せ、食指を動かすようになった。・・彼らは元来、教団のたんなる施主・・であったが、のちには教団の所有者になり、その経営に直接たずさわるようになっていった。・・これらの諸寺では・・の諸氏が、家系を保つための嗣子以外を教団に送りこみ、その要職をしだいに独占させ、その後は出家した彼らの甥にその地位をつがせるようにして、数代にわたって教団にまつわる利権の独占体制を維持した。・・たてまえとしては師資相継ぐ形をとり、実質的には父系の叔伯父から甥に伝えるク=ウン相続が最も一般的に行われた」(同p.559-560)

では、ここに出て来る「活仏転生」とは何か?

「このような親族による支配をまぬがれながら、逆に諸氏族の勢力を利用したものにカルマ=カギュー派があった。かれらは転生者(活仏)を教団統合の主として、その候補者を有力な氏族のうちに自由にもとめ、政治的配慮によって大教団に成長した。彼らは二派(「黒帽派」と「赤帽派」)に分かれるが・・」(同p.563)。

「ゲルク派は・・転生者として・・。しかし、カルマ派を敵視する人々によってこの選択は却けられ、代わって、政治的意図も露骨にアルタン=ハンの孫スムメタイジの子を転生者に決定した。・・ひたすら青海に進出していたトゥメートの軍事力を背景にしてカルマ派を威圧しようとしたのである」(同p.582)。

お分かりだろうか?”活仏転生制”とは、次代の活仏を有力領主の子供や孫に転生したことにしてしまうのだ。すると、当然孫や子は可愛いから、大喜びだ。自分の子や孫が大きな寺の次の住職になるのだから、当然莫大な寄進もするだろう。そればかりか、「黄教」(ゲルク派)の場合は外国の蒙古に活仏が転生したことにして、武将が兵を率いて攻め込んできて、対立するセクトを武力で押しつぶし、「黄教」をチベットの支配者にして、その活仏すなわちダライ・ラマ(蒙古武将のひまご)の支配する国にすると。驚くべき陰謀である。実際そうやって「黄教」は天下を取ったのだ!

(追記:「白教赤帽派」が最近、印度で復活したとの未確認情報がある)。

参考文献:
1.「モンゴルの歴史」(宮脇淳子/2002/刀水書房)
2.「仏教史2」(玉城康四郎編/1983/山川)
3.「中央アジア史」(江上波夫/1988/山川)

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