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書庫資料:空海とチベッ

この分野は元々は「歴史」の分野名でしたが、表題通り変えます(110817)。
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=チベット密教史関連2=
(つづき)
チベット密教の各派について:
チベットに居住する密教徒のほとんどは「黄教」(ゲルク派)に属す。ダライ・ラマやペンチェン・ラマもこの派に属す。しかし、欧米では実はこの派の人気は今1つであり、「紅教」(ニンマ派)や「白教」(カギュ派)の方が信者が多い。その理由は以下を読めばお分かりになる。

○主な4派:
・「黄教」(ゲルク派)−僧が黄色い帽子・黄色い法衣を着る。
・「紅教」(ニンマ派)−僧が紅い帽子・紅い法衣を着る。
・「花教」(サキャ派)−寺の塀に、文殊・観音・金剛手菩薩を示す赤・白・黒の縞模様が塗ってある(だから「花教」と言う)。
・「白教」(カギュ派)−僧が白い法衣を着る。様々な派があり、「黒帽派」が有名。昔は「赤帽派」と言うものもあった。また、ブータンの国教と成っている派もある。

これ以外に、「黒教」(ボン教)がある。元々は原始時代から伝わるシャーマン教だったが、今日では密教的外観を取っている。寺の形もそっくりだ。内容的には「紅教」(ニンマ派)とほとんど同じで、紅い帽子・紅い法衣の代わりに黒い帽子・黒い法衣を着る点や、密教徒は寺の中で右回りするが、黒教徒は左回りするなどのわずかの違いしかない。魔法や呪術が中心だ。1992年に封切られた香港映画「香港魔界大戦」(元彪監督)と言うのがあり、”チベット・ポタラ宮殿には5百年前から伝わる壷の蓋があった。本体と合体すると世界征服が出来るパワーがあり、それが香港の大富豪の家にあると分かった。黒教の一派が襲い掛かる・・”と言った内容だが、フィクションは兎も角、大体の本質は捉えていると思う。

○次に主な4派を紹介するが、実は4派に本質的な違いはないとの次の説は注目に値する。

「一方、スタンも・・次のように説いている。即ち
・・(ラマ教は竜樹の中観派と無著の唯識派に2分される。「黄教」(ゲルク派)は中観派を重んじ、「紅教」(ニンマ派)は唯識派を重視する)。
「しかし・・(「黄教」=ゲルク派)も・・電光石火の体験(・・頓悟)を認めており、また逆に・・(「紅教」=ニンマ派)も完成への段階的な道程を認め、論理学にも熟達している」。
「ニンマ派に理論的学問が欠如していないのと同様、ゲルク派にも瞑想とタントラ儀軌は欠如していないのである」と説いている(江上波夫氏の記述/R・A・スタンは「チベットの文化」岩波/1971の著者)」(参考文献1;p.160)。

○では何が違うのだろうか?「紅教」(ニンマ派)以外の3派はオリジナルの印度密教に忠実なのだが、まず「黄教」(ゲルク派)は最も重んじる経典を「秘密集会(グヒヤサマージャ)タントラ経」とする。これに対し「花教」(サキャ派)は「呼金剛(ヘーヴァジラ)タントラ経」を最も重んじる。一方、「白教」(カギュ派)の場合は、

「この派は、後発のサキャ派やゲルク派とは違って、整然とした教理体系の構築・・にはあまり関心を示さず、もっぱら密教行法の実践に、自分たちの存在価値を見出してきた」(参考文献2;p.54)。

「カギュ派はキュンポ(・・)とマルパ(・・)という二人に始まる。彼らは、それぞれ・・インドに師を求めて就き、キュンポはマイトリーパとニグマから、教えを授かった。一方、マルパはナーローパとマイリーパから教えを授かった。・・ニグマも男性行者の性的パートナーを勤める女性密教行者で、かつてはナーローパの妻だったといわれる。つまり、カギュー派の始祖たちは・・同じ原点から出発したのである」(同p.53)。

この教えは、様々なテクニックを駆使して、身体的な快楽を極限まで高め、それにより絶対的真理を体得する修行法だった。

○一方、「黄教」(ゲルク派)の最も重んじる「秘密集会タントラ経」と「花教」(サキャ派)の最も重んじる「呼金剛タントラ経」はどう違うのだろうか?

「秘密集会タントラ経」とは、ブッダと性的パートナーが性的ヨーガを実践して曼荼羅を生成する過程を追体験する修業を目的とするとされる。

一方、「呼金剛タントラ経」とは、SEXを極限までやり、行者と仏を合一させる修行を目的にするとされる。極めてオカルト的であり、呪術・黒魔術的だ。

「『へーヴァジュラ・タントラ』(「呼金剛タントラ経」のこと)は、解脱のためなら、何をしても許されると、「解脱至上主義」を唱えた」(同p.38)。

つまり、元のクビライ・カーンは「花教」(サキャ派)のパクパを国師とし、「へーヴァジュラ・タントラ」の潅頂を受けたのだが、これはクビライが「へーヴァジュラ・タントラ」の行者として「解脱」を「至上」とし、人生の唯一最大の目的とし、その為には「何をしても許される」・「何でもやってやるぞ」と決意を固めたことを意味する。クビライの日本に対する侵略も、この様な「解脱」を求める目的のため、殺人を極限までやり、掠奪を極限まで実践し、贅沢三昧を極限まで実践する修行の一環として行われたものである重大な疑惑がある。この結果、

「宮廷の保護をうけてラマ僧は逸楽をきわめた。各地のラマ寺には数百数千のラマ僧がたむろして、民衆からの寄進を強要し、婦女を強姦した。民衆の怨嗟の声は巷にみちあふれるようになった。一三二六年には陜西省で、ラマ僧の駅馬徴発と金品強奪と婦女強姦に反対する民衆の暴動もおき、元朝衰亡の弔鐘となった」(参考文献3;p.48)。

そこで登場したのが、表面を飾り、誤魔化すことの旨い、狡猾な「黄教」(ゲルク派)だったのである。

しかし、これらは全て表面的な違いであり、本当の大きな違いは次の点だったと考えられる
(つづく)。

参考文献:
1.「中央アジア史」(江上波夫/1988/山川)
2.「チベット密教」(ツルティム・ケサン&正木晃/2000/筑摩)
3.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)

=チベット密教史関連1=
1.当HP「空海とチベット」分野の「空海のタントラ「仏教」とチベット」シリーズの為の資料を掲載する。
今回以降、何回かチベットの歴史について補足したいが、その場合、チベット密教の様々な派が登場し、混乱することがあり得る。

そこで、まずチベット密教の各派について、これだけ知ればあなたもチベット密教の「通」だという勘所(かんどころ)を紹介したい:

1.まず、昔は「ラマ教」と言われていたものが最近は「チベット仏教」と言われている点についてである。そもそも「チベット仏教」なるものは「仏の教え」なのだろうか?

「人間を含むこの世の全生物を殺害せよ。
他人の財物を奪え。
他人の妻と姦通せよ。
嘘のみを語れ。
大衆はこの業により灼熱地獄に落ちるが、
我が行者は、まさにこの業によりて悟りをひらくのだ」
(「最勝楽出現タントラ経」)。

これは「仏の教え」なのだろうか?これを仏の教えと言っては、「仏」とは何なのだろうか?慈悲と知恵と悟りこそ仏の本質ではないだろうか?これでは小乗仏教・大乗仏教とタントラ・ヴァジラヤーナの区別が全然なくなってしまうのである。

この点について、チベット密教が仏教の用語を用いている点を挙げて、それを彼らが仏教徒の証拠とされる学者も居られる(中村元氏など)。しかし、これは全く科学的といえない。ファシストが民主主義的言語を用いて自己合理化をすれば、彼らは民主主義者なのだろうか?呪術師が科学的言語を用いれば彼らは科学者なのだろうか?どのような言葉を用いるかではなく、本質こそが重要ではないだろうか?

第2に、では彼らを何と呼ぶかに関しては、「ラマ教」こそが最も科学的である点である。つまり、ラマ(印度語「グル」のチベット訳)の教えだから「ラマ教」なのだ。同じようにバラモンの教えだから「バラモン教」である。仏の教えだから「仏教」であり、キリストの教えだから「キリスト教」なのだ。

また、シャーマンが中心になっているから「シャーマン教」であり、ムスリム(回教徒)の教えであり・ムスリムに教えられている教えだから「ムスリム教」である。印度人の教えであり・印度人に教えられている教えだから「印度教」(ヒンズー教)なのだ。儒者の教えだから「儒教」であり、道家の教えだから「道教」である(*)。

第3に、「チベット仏教」と言うと、これにはチベットの特色が色濃く含まれていると暗示することになる。ところがこれも事実と違い、「中国仏教」・「日本仏教」と同じ意味で元々の「印度仏教」が風土によって変容されたものと見ることは出来ないのだ。

つまり、「チベット仏教」とは印度直輸入の極めて現物に忠実なものであり、現物が回教徒の印度侵入により一挙に抹殺されたため残っていないだけで、経典の翻訳も忠実であるし、実は「印度秘密金剛乗」を忠実に保存したものである。チベット的特長を持っているものは、所謂「黒教」(タントラ移入以前にチベットに原始時代から存在した「ボン教」というシャーマン教が今日、密教的外見を備えたもの)や「紅教」(「ニンマ派」とも言うが、本地垂迹説によりボン教と印度密教を結びつけたもの)しか無い。

今日、「チベット仏教」の本拠はダライ・ラマ14世の居住する印度である。信者も欧米に増えつつあり、チベット本土では減りつつある。昔は満州や蒙古・中国本土での信者の数の方が多かった。明らかに「チベット仏教」と言う名前は暫定的なものであり、科学的とは考えられないのだ(つづく)。

*訂正:
はじめ、「イスラムの教えだからイスラム教だ」と書きましたが「イスラム」は「神への服従」の意味でした。お詫びして訂正します(090429)。

=ダライ・ラマ14世時代のチベット2=
1.「安岡明夫HP資料篇」の「空海のタントラ「仏教」とチベット」シリーズの為の資料を掲載する。

今回は、下の参考文献から興味深いことをあれこれ紹介する。著者は、ダライ・ラマ14世の大親友で家庭教師でもあったオーストリア人探検家である。生没年、1912年-2006。

○「キュイロン周辺にたくさんある寺院のひとつから黄金の蜀台を盗んだ男の話を聞いたことがある。・・公衆の面前で男の両手が切断され、・・生きたまま、濡れたヤクの皮に縫いこまれた。それからヤクの皮を乾くに任せ、あげくのはては男を奈落の谷底に投げ落としてしまったのだという」(参考文献1;p.112)。

○「チベットの僧職支配は絶対的で、まさに専制独裁政治を思わせるものがある。・・僧侶たち自身は利口なので、自分たちの絶対の権力を過信するようなことはないが、もし仮にそういうことに疑惑を表明するものがいれば、罰を受けることになるであろう」(同p.113)。

以上の2つは、著者が1944年にチベットに到着し、1946年にラサに着くまでの話である。以下はラサ到着の1946年からチベットを出る1951年までの話である。ラサに着いた時、ダライ・ラマ14世は11才だった。

○「祭の場ではそのとき、とりわけ多くの中国人が目についた。中国人はチベット人と同じ種族に属しているのに、チベット人のなかにいるとすぐにそれと分かる。チベット人はそれほどはっきりした細目ではなく、それに顔の形がよくて、赤い頬をしている。金持の中国人の服装はすでにヨーロッパ風の服装に変わっていることが多く、その上中国人は−この点ではチベット人ほど保守的ではない−眼鏡をかけている。たいてい商人で・・」(同p.249-250)。

○時々、チベットに行かれてしまう学者が現れるが、そうなるとどうなるかの1例が書かれている。

「一九四八年、著名なチベット学者トゥッチ教授がローマからやってきた。すでに七度目のチベット訪問であった・・。彼は・・数多くのチベットの本を翻訳し、自身の著作もたくさん出版していた。・・私はパーティーでよく教授と出会ったが、あるとき彼は大勢のチベット人が見ている前で私に大恥をかかせた。ある議論をしているとき、私を裏切ってチベット人の意見に与したのである。議論は地球の形について戦わされていた。チベットでは昔から、地球は平らな円盤だという意見が信じられてきた。もちろん私は球形説を熱心に説いた。私の言うことはチベット人たちにももっともと思えたようであった。そこで私は自説をさらに裏づけるために、大勢の客の前でトゥッチ教授に証言を求めた。ところがなんと驚いたことに、教授はチベット人のほうに与したのである。すべての学問はその理論を持続的に検討しなければならない、いつの日かチベット人の説が正しいとされることは十分あり得る、と教授は言うのである。私が子供たちに地理も教えていることは、みんなが知っていたので、誰もがにやりとほくそ笑んだ・・・トゥッチ教授はラサに一週間滞在し、・・豊かな学問的収穫・・を携えて、この国を去った」(同p.317-318)。

○「貴族たちの農場はたいへんな広さで・・どの所有地にも何千人もの農奴がついている。農奴たちは自分たちの食い扶持にわずかの畠をあてがわれていたが、その他に領主のために一定期間働かねばならない」(同p.369)。

○「チベットの政治状勢は日を追って悪化していた。すでに中国は北京で、チベットをまもなく<<解放>>するであろうと、おごそかに宣言していた。・・
従ってこのラマの国では大急ぎで軍隊の再編成が進行した。・・新しい大臣は、まず手始めの指令のひとつとして、号令をチベット語に統一することを決定した。また、イギリス国歌の「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」の代りに、新しいチベット国歌の歌詞と旋律が作られた」(同p.380-381)。

エッ、それまでは軍隊の号令は英語だったの?チベット国歌は英国国歌だったの?その通りである。ここのところが、この本では訳し方が明確でない。そこで、前ジュネーブ駐在英国総領事であり、中国側の説明ではチベット駐在の「イギリス特務機関員」(スパイ)、ダライ派の説明では単なる「無線技師」であるロバート・フォード氏の書かれた「赤いチベット」を引いてみよう:

○「チベット軍隊にイギリス−インドの影響がつよく現れはじめたのは、選抜された教官たちが、西チベットでイギリス人とインド人士官の教育をうけた一九二〇年初頭からである」。「号令は英語で行われた」。「この英語が代々、口頭で伝えられてきたので、今ではそれと分かりかねるようになっているものもある」
(参考文献2;p.24)。

「・・ゴッド・セーヴ・ザ・キング・・このイギリス国歌は、チベット国歌として採用されているのである」(同p.120)。

追記:頁数の誤りを訂正した(090425)。

参考文献:
1.「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(ハインリヒ・ハラー/1997/角川文庫)
2.「赤いチベット」(ロバート・フォード1970/芙蓉書房)

=小室信介関連=
1.当HP「空海とチベット」分野の「空海のタントラ「仏教」とチベット」シリーズ
の為の資料を掲載する。
今回は、第3部で掲載中の「戸谷新右衛門伝」に関連し、下の参考文献の「解説」の部分から引用して、「東洋民権百家伝」と編者=小室信介について分かることを紹介する。

○「ここに復刻する小室信介編『東洋民権百家伝』は・・明治十六年八月に初帙(しょちつ)三冊を、翌年一月に・・第二帙を、同六月に第三帙を出したものであって、日本最初の百姓一揆についての、包括的な著作である。
(当時は明治時代の自由民権運動の絶頂期であり)本書は発行されるとたちまち大歓迎をうけ・・自由党が・・通俗自由講談という新しい宣伝手段を開発しはじめたところであったが、これまでフランス革命や『経国美談』のような外国の材料のみにたよらざるをえなかった自由党の弁士たちは本書のうちに絶好の資料を見出し・争って本書中の義民伝を・・講談化した。また本職の講談師、たとえば有名な開化講談師松林伯圓なども、本書中の戸谷新右衛門や文珠九助などの伝記を早速高座で演述したのであった」(p.375-376)。

刑場の露と消えていった幾多の一揆指導者の姿を詳しく調べあげ、読み進むうち次第に後の方になるに従い、一揆指導者と編者小室信介の鬼気迫る執念を感じることが出来る。

○「著者小室信介は、嘉永五(一八五二)年七月二十一日、丹後国(現在の京都府日本海沿い)宮津藩の砲術家小笠原忠四郎長縄の二男として生まれ、名は長道といった」(p.377)。この藩は幕府とのつながりが強く、藩主は第2次長州征伐の副総督であり、鳥羽伏見の戦いでも幕府方についた。その中で彼は勤皇派であり、義父の豪商・小室理喜蔵も討幕運動に加わって牢に入れられていた(p.377)。

○「明治五年(1872年A.D.)から彼は山城国綴喜郡井手村の小学校教員となり・・彼はこの仕事にきわめて熱心に従事したようである、『地球儀用法大意』『大日本夜話』『小学綴字詞(ことば)の枝折(しおり)』『日本小文典』などその頃の著作がそのことを示している」(p.378)。

○「明治八年(1875年)、宮津地方の・・私立学校天橋義塾が設けられると、信介はむかえられてその中心となった」(p.379)。その年、彼は先に述べたとおり、小室家の婿となった。その前の年、義父は板垣退助と共に「国会議院設立建白」を行っていた。小室家の援助と考えられるが、信介は翌年の明治9年上京し、慶応大学に入学。これまでの漢学の素養に加えて英学を身に付けることを始める(p.379)。

○ところが翌年の明治10年(1877年)、西郷隆盛が西南戦争を起こすと、「高知に帰る板垣らと同船して郷里宮津にかえり・・六月、土佐立志社の林有造らが西郷に呼応して蜂起しようとしたという理由で捕えられたとき、彼も同志八名とともに京都府に捕えられた。同年暮には釈放・・(明治)十一年・・再入獄したがわずか数日で釈放せられた(p.380)。

○「明治十年の末頃から彼の投書が・・大阪日報などにあらわれはじめ、十二年一月からは正式に大阪日報の社員となり、以後十五年にかけて、印刷長代理、社長、監事などの地位にあった」(p.380)。

明治十六年(1883年)、「信介は上京して自由新聞社員となり、自由党の中堅党員として活躍し、関東各地を旅行して宣伝組織工作に従った」(p.385)。この年から翌年にかけて「東洋民権百家伝」が出版された。又この当時、「義人伝淋漓墨坂(なみだのすみさか)」・「自由艶舌(えんぜつ)女文章」などの政治小説や戯曲を書いた。

○ところが、明治17年(1884年)、最大の転機が訪れる。「六月に第三帙を刊行するとまもなく、清仏戦争が勃発した。信介は特派員として八月中国にむけて出発し、十一月十一日に帰京した。その留守の間に・・自由党は加波山事件(自由党左派による武装蜂起の失敗)の衝撃によって解党しており、しかも、この十一日はまさに秩父事件の残存部隊が長野県海ノ口で政府軍と最後の血戦をこころみて潰えたその日でもあった」(p.388-389)。

この重大な時、全国の同志が注目する中で信介のとった行動は、彼の人生に汚点を残すものだった。当時、清国はフランスとベトナムの領有権を争っていた。日本は、この機会に、絶対に清国はこちらに注意を振り向けないはずだとの計算の下、朝鮮を清国から奪い、「独立」させ・近代化させ、実は日本の植民地にしてしまうと言う陰謀を企てた。当時、朝鮮国王は実権を妃である閔妃の1族に奪われていたので、実権を取り戻してあげますと話を持ちかけ、一気に閔氏1族を抹殺するクーデターを決行した(1884年12月)。

ところが計算外なことに、清国はフランスに早々と負けてしまい、ベトナムを奪われてしまったのである。そこで、朝鮮だけは絶対に手放すものかと、大軍を朝鮮に送り、これまた一挙に日本勢力を粉砕し、閔氏1族は実権を取り戻した。このことが後の日清戦争(1894-95年)の遠因である。

この時、小室信介は「朝鮮独立」・近代化・民主化の絶好の機会がおとずれたと錯覚し、わざわざ朝鮮に渡って日本政府の工作に協力するなど、易々と政府の企みに乗せられてしまったのである。こうして日本薩長政府の、国民の目を国内の民主化から外国の民主化へと反らしていく作戦は成功し、信介に続いて元自由党員が続々と日本の民主化でなく近隣諸国にケチをつけて民主化を叫ぶ有様が出現した。しかも日本政府は初めから実は朝鮮の民主化どころか、「独立」を名として実際はその植民地化が狙いだったのである。こうして一旦動き出した歯車は止まることが出来ず、自由民権運動は胡散霧消して日本は独裁と侵略戦争の時代に入り、百姓一揆を描いた信介の「東洋民権百家伝」も全く忘れられ、今日においてもほとんど知る人は居なくなっている。それを信介が知ったらどう思うだろうか?彼は翌年の明治18年(1885年)8月、「にわかに盲腸炎を病んで八月二十五日、三十四歳にしてこの世を去った」のだが(p.390)。

参考文献:
「東洋民権百家伝」(小室信介編・林基校訂/1957/岩波文庫)

=ダライ派のデマを斬る1=
1.「安岡明夫HP資料篇」の「空海のタントラ「仏教」とチベット」シリーズの為の資料を掲載する。
今回は、ダライ派の様々な言い掛かりに、どれ程真実性が存在するかを考える。

○ダライ・ラマ14世の忠実な部下であるペマ・ギャルポ氏は、参考文献1.において次のように述べている:

「以上のような経済上の中国の失敗は共産主義の勝手気儘な管理制度にあるようです。・・チベットの歴史上、餓死というのはありませんでしたが、今では日常用語になってしまいました」(参考文献1;p.29-30)。

また、ダライ派は、”かつてチベットに餓死と言うものは無かったが、1949年に中共軍が進駐したため食糧が不足して餓死が発生した”とも主張している。これらは中国側により否定されているが、そもそも「チベットの歴史上」と言うことが原始時代を除外した”有史時代”のみを意味するとしても、吐蕃王国の成立した7世紀以降、20世紀の1949年に至るまで、全く「餓死というのはありませんでした」と言うことは真実なのだろうか?そのことは、誰も自分の目で確認のしようがない以上、各人のご判断に任せる以外ないが、次のように書かれた本も存在することを紹介する:

「・・明の朝廷は、明の永楽七年(一四〇九年)、ゲルグバ派法王を(チベット)王に封じ、その家族が代々その位をついでいた。この時代、飢饉のおこらない年はないほどで・・」(参考文献2;p.49)。

「*奴隷の娘だったパサンさん
・・日本訪問中、パサンさんは、公開の歓迎会で、淡々と自分の経歴を語り、多くの人びとを感動させた。かの女は奴隷から幹部になった大勢のチベット族幹部の一人であり、その歩みは最も代表的である。かの女は・・自身の体験を外文出版社のパンフレット「今日のチベット」のなかで、次のように書いている。
「以前、三大領主・・の支配のもとで、私の家は先祖代々奴隷でした。口があっても話す権利はなく、足があっても行動の自由はありませんでした。領主の牛や馬がエンドウをまぜたツァンバ(チベット族人民の主食・・)を食べるのに、私の家族は雑草を食べて命をつないでいたのです。(1947年)母と弟が飢え死にしました。すると、領主は『死人税』を姉のからだでつぐなわせ、そのうえ、年はもいかない(7才の)私を無理に奴隷にしました」
九歳になったばかりのかの女は領主の荘園(チカー)につれていかれ、ふんだり、けったり、殴られたり、刺されたり「頭から血が流れ、目がくらんで倒れそうになったことも数え切れないほどあります。私は九年にわたる奴隷の生活で、よくも生きてこられたものだと思うほどの苦しみをなめてきました」
一九四九年、中華人民共和国の成立も九歳の奴隷のかの女には知る由もなかった。・・
一九五四年、人民解放軍が、しばしの間、かの女の村に進駐したときである。一四歳の奴隷パサンは、はじめてこの世に革命というものがあることを解放軍の戦士たちの話で知った。
・・・
・・一九五六年、一六歳のかの女は生命がけで、領主の邸を脱出し、「五日六晩かかって、やっと、日夜思いこがれていた恩人(キンヅマーミ=チベット語で解放軍のこと)を探しあてたのです」」(同p.224-226)。

○1950年当時のことを、ダライ・ラマ14世は次のように宣伝したと言う(やはり、忠実な部下であるペマ・ギャルポ氏の証言):

「ダライ・ラマ法王はいう。「私たちは、正義の根元として国際連合を信頼していた。さらにチベット問題が英国の主導によって棚上げされたと聞いて、驚いた。私たちは長期間、英国とは友好関係を続けてきたし・・。それにもかかわらず、今(1950年)になって英国国連代表は、チベットの法的立場ははなはだ不明瞭である,と述べた。彼は、わが国に中国人が全くいなくなってから三十八年も経った現在(1950年)でさえ、なお、私たちが中国宗主権の法的従属者であるかのごとく示唆しているように見えた」(参考文献1;p.121)。

つまり、ダライ・ラマ14世の宣伝に拠れば、1912年(清朝が滅びた年)から1950年まで、チベットに中国人は1人も居なかったことになる(チベットの範囲をかなり小さく定義しているようだ)。ところが、ダライ・ラマ14世の大親友で家庭教師でもあったオーストリア人探検家は、次のように証言しているのだ:

「祭りの場ではそのとき(1947年)、とりわけ多くの中国人が目についた。中国人はチベット人と同じ種族に属しているのに、チベット人のなかにいるとすぐにそれと分かる」。多くは商人だったと(参考文献3;p.249-250)。

それどころの話ではない。忠実な部下であるはずのペマ・ギャルポ氏自身、次のように証言しているのだ:

「1949年にはラサの中華民国代表部・・に対して、チベット政府はこの代表部はもともと正式なものと認定していないことを理由に、代表部の閉鎖とその部員の退去を命令した」と言う(参考文献1;p.116)。

では、「ラサの中華民国代表部」は何時から存在したのだろうか?山口瑞鳳氏が述べるところは次のようだ:

「同じ年(1933年)の暮にダライ=ラマ一三世が没した。・・(一九)三四年中国は弔祭使を派遣すると、チベットはこれを迎え入れた。・・それ以来中国側の連絡官の駐在を認めた。
・・・
・・(1939年)一〇月大招寺において(生まれ変わりとされる少年が)テンジン=ギャンツォと命名され、翌年春早々に登位した。即位式には・・中国代表の姿もあった」(参考文献4;p.616-618)。

ダライ・ラマ14世は、下々のことは全然知らないからラサの町に中国人が沢山居たことを知らなかったのか?目が悪いから自分の即位式に中国代表が参列していたことを知らなかったのか?

○忠実な部下ペマ・ギャルポ氏によると、ダライ・ラマ14世はノーベル平和賞を貰った年、次のように演説した:

「[付録]ダライ・ラマ法王
ノーベル平和賞受賞記念講演

今日ここで皆さんとお会いできて光栄です。・・
世界の各地から来られた方々にお会いすると、私たち人間は・・肌の色も、言葉も違っているかもしれません。しかし・・根本的には、私たちは同じ人間なのです。・・
今日では、私たちは本当に地球家族なのです。・・
私たちには本当に、宇宙的な責任感を養成するより他に選択の余地がないのです。・・
戦争によって疲弊した地域に平和をもたらし、民族自決の権利を行使させようとする真剣な努力が、アフガニスタンからのソ連軍の撤退につなが・・ったのです。現在一大潮流となっている非暴力による運動は、フィリピンのマニラから東ドイツのベルリンまで、多くの国々を本当の民主主義に近づけています。・・
私は、特に次の点を高く評価したいと思います。それは、若者たちが・・彼らの武器として非暴力を選んだということです。
・・・
遠いチベットから来た平凡な僧侶に過ぎない私に、ノーベル賞を授与して下さることは、これまたチベット人に希望を与えます。暴力的な手段で、私たちの置かれている苦境に関心を引こうとはしませんでしたが、私たちは忘れられていなかったことを示しています。また同時に私たちの価値観、特に生きとし生けるものを大事にし、真実のもつ強さを信頼するという価値観が、今日認められ励まされたことを示しています。そしてまたこれは、私が師とも仰ぐマハトマ・ガンディーのお陰でもあります。彼の先例が、私たちを力付けているのです。・・
最後に皆様方と共に、勇気と決意が湧いてくる短い祈りを捧げましょう。
・・・
世界の苦難を消すために。
ノルウェー、オスロ大学・・(一九八九年一二月一一日)」(参考文献1;p.239-252)

それにしても、よくこういうことが言えるなあと思うのは、ここに書かれたことが全てデタラメである事を知っているからである。

米紙ニューヨーク・タイムズ1998年10月2日号は、ダライ・ラマ14世がCIAから莫大な金を貰ってテロをやっていた人物であることを報じた

[この記事は以前は、グーグル検索で「Dalai Lama Group Says It Got Money From C.I.A」と入力すると簡単に出て来た。今は次のようにすると検索できる。先ず、グーグル検索で「ダライ ラマ14世 WIKI」と入力。上の方に出て来る「ダライ・ラマ14世 - Wikipedia」をクリック。「目次」の内の「3.2 CIAとの関係」をクリック。注の[41]をクリック。「41. ^ "World News Briefs; Dalai Lama Group Says It Got Money From C.I.A." - New York Times, 1998年10月2日」と言う文字が出て来るのでそこをクリックする]。

「ダライ・ラマ派、CIAからカネを貰ったと発言:

ダライ・ラマ亡命政府は本日、1960年代にCIAから1年当たり170万米ドルにのぼる資金援助を受けていたことを認めた。・・その抵抗運動の為 割当てられたカネは、志願者の訓練と中国に対するゲリラ作戦に支払われたと、チベット亡命政府は声明で言った。・・10年の長きにわたるチベット独立運動を支援した秘密工作は、CIAの共産政府、特にソ連・中国を弱体化させる全世界的努力の一環であった」。

ダライ派の主張はデタラメではないのか!

参考文献:
1.「改訂新版 チベット入門」(ペマ・ギャルポ/1998/日中出版)
2.「チベット-その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)
3.「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(ハインリヒ・ハラー/1997/角川文庫)
4.「中央アジア史」(江上波夫編/1988/山川)
5.ニューヨーク・タイムズ(1998年10月2日号)

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