ここから本文です
当HPは今年終了します。→https://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/48230188.html

書庫資料:空海とチベッ

この分野は元々は「歴史」の分野名でしたが、表題通り変えます(110817)。
記事検索
検索

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ ]

=米国史関連=
「安岡HP資料篇」記事「空海のタントラ「仏教」とチベット(26)」に関する資料を掲載する
(過去記事の再利用)。

(注1)「ジェファーソンなどは奴隷に子供を作らせていたという」:

「187人の奴隷を所有していたとの記録が残っている。また黒人は白人よりもあらゆる点で劣っており、二つの人種が一つの国家のもとで平等に暮らすことはできないとの意見を表明する一方で妻の死後に奴隷のサリー・ヘミングス(Sally Hemings)を終生愛人とし、数人の非嫡出子をもうけた疑いが濃厚であるため、偽善的だとの見方もある」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)。
この醜聞は大統領就任中の1802年9月ジャーナリストのJ・T・カレンダーによりリッチモンド紙で報道された。大統領はノー・コメントを貫いた。20世紀後半にDNA鑑定技術が進歩し、この醜聞を解明できる手段が開発された。イギリスの科学誌「Nature」1998年11月05日号にユージーン・A・フォスターのティームがDNA鑑定の結果を発表した。更にこの論文の一部のミスについて、チームの一員だったH・バーガー氏より「ウォール・ストリート・ジャーナル」1999年03月11日号A23頁に手紙が発表された。
以上より、やはりジェファーソンが奴隷に子供を作らせていた可能性は極めて強いこと。だが別の可能性として、この奴隷の子孫である人に何らかの形でやはり(ジェファーソン本人でなく)ジェファーソンの子孫の血がどこかで混じった可能性も完全には排除できないことが分かっている。現在の技術ではそれ以上のことは分からない。

(注2)「ワシントンも大奴隷農場の持ち主だ」:

「ワシントンはその人生の大半、典型的なバージニアの奴隷所有者としてそのプランテーションを経営した。1760年代、たばこを諦め(格式はあったが利益は出ていなかった)、小麦の栽培に転じ、小麦粉の製粉、衣類の製織およびブランディの醸造と多角化した。その死のときまでにマウント・バーノンには317人の奴隷がいた」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)。
ウィキペディアだけで済ませて申し訳ないが、この話しは有名な話なのでこのままとする。

(注3)「独立が達成されるとフランクリンなどの有力者は早速秘密会議を開き米国憲法を決めてしまった」:

「会議は秘密会議として、厳重に討議内容の漏洩を防いだ。代表には・・フランクリン・・など、商業資本・大地主・大プランターの代弁者が大部分をしめ、農民側の代弁者はひとり・・のみであった。・・連合規則の改正を名目としたこの会議は、実際上、新しい憲法を制定する会議に変身を遂げたのである」(「アメリカ史(増補改訂版)」p.84)。
つまり、人々は誰1人、憲法が設けられることになって・討議されていると知らなかった。臨時的な13州の連合規則の改定が話し合われていると思っていた。

(注4)「(米国で)普通選挙権がぼちぼち州によっては認められるようになったのは19世紀に入ってからだ」:

「東部諸州では一般に選挙権には特定の制限があった。独立戦争中の有権者は全人口[黒人・インディアンを除く全白人]の6%に過ぎなかった。しかし一八二〇年代に開けてきた西部では土地は廉く一定の土地所有を選挙資格とすることは無意味となった。一七九一年に州となったヴァーモントが男子普通選挙の最初で西部のケンタッキーとテネシーがこれに続いた。しかしそれが普及するのは第二次独立戦争[1812-4]後の西部においてであった」(「アメリカ史(増補改訂版)」p.118)。

(注5)「(独立当時)米国で・・奴隷1人が当時百万円した」+
(注6)「21世紀の現代では奴隷は非常に安く、1人2−3万円といわれている」:

これには非常に諸説有るが、現在ハイチでは9歳の少女が50ドル(約5千円)で奴隷として売られているという。
北米500局で放送されているニュース番組「Democracy Now!」の運営するサイト「NPR (National Public Radio)」によると、作家であるベンジャミン・スキナー氏が実際に2005年の秋にハイチを訪れたとき体験した。その時のことは現在、グーグル検索で「Author Struggles to Stay Removed from Slave Trade」と入力し、上から4番目位の「Author Struggles to Stay Removed from Slave Trade : NPR -」をclickすると読むことが出来る。又記事によると、1850年代に奴隷は一人あたり現在価値にして3万ドルから4万ドルしたという。これほど奴隷の価格が下がったのは、戦争が多く食い詰めた人間が多くなったということだ。

参考文献:
「アメリカ史(増補改訂版)」(1990/清水博・編/山川出版社)

=建武新政関連3=
1.北畠顕家は16才で陸奥守(むつのかみ)となり、18才で鎮守府将軍となった。同年、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏を討つ為、数十万の東北勢を引き連れて京都にのぼり、見事に足利尊氏を九州に追い落とした。

3年後、九州で勢力拡大に成功した足利尊氏は、再び天下を取るため京都へ向かった。楠木正成敗死。名和長年敗死。新田義貞敗走。そこで急遽白羽の矢が立ち、6万騎を引き連れて先ず鎌倉を奪取。岐阜県・関が原(当時は青野が原)で足利軍を撃破した。だが兵力の不足と兵の疲労から京への突入をあきらめ、隙をうかがっているうち、高師直(こうのもろなお)軍の策略に引っかかって21才で戦死した。

1.公卿でありながら天才的な武将でもあった北畠顕家(北畠親房の長男)が、死の1週間前に書き残した陣中から後醍醐天皇に宛てた「諌奏状」(「 顕家諫奏状」1338年5月15日)が残っている。前の部分が欠落し、後ろの部分しか残っていないが、「建武新政」に対する厳しい批判が書かれている。その内容は次のとおり(参考文献p.137-138):

(1)九州と関東平定のため人を派遣し、山陽、北陸に藩鎮を置くべし
 (中央集権を批判し、全国を5分した封建制を主張している)。
(2)戦さで疲弊した民の租税を減らし、倹約すべし。
 土木を止め、奢侈を絶てば反乱はおのずから治まるであろう

(3)爵位の授与、人材登用を慎重に行うべし。
(4)公家、僧侶への褒美は働きに応じて与えるべし。
(5)臨時の行幸、酒宴を控えるべし。
 「遊幸・宴飲まことに乱国の基なり」

(6)朝令暮改を慎むべし。
(7)公家、官女、僧侶などが政治に無益に介入し、政務を害するを退けるべし。

「後醍醐や建武政権に批判的であったのは、武士層や都市民、農民ばかりではなかった。後醍醐からみれば、自分にもっとも忠実であろうと考えていた公家の中から痛烈な批判がだされた。その批判を展開したのは陸奥国府の主、北畠顕家である。・・
この顕家の全面的な新政権批判は当時の知識人の意見を代表するものであったということができよう」(同p.137-138)。

1.「顕家の父親の北畠親房も後醍醐天皇を厳しく批判している。戦前の教育を受けたような人は、親房は後醍醐のために身命をなげうって貢献したように思われるかもしれないが、事実は違っている。親房が書いた『神皇正統記』や、親房が東国の武士に宛てた書状をみれば、後醍醐がおこなった政治に強い批判をもっていたことが知られる。・・
このように後醍醐と建武政権にたいする批判は上から下まで厳しいものがあり、建武政権が三年弱で崩壊してしまうのも当然のように見受けられる」(同p.138-140)。

参考文献:
「後醍醐天皇と建武政権」(伊藤喜良/1999/新日本出版社)

=河口慧海和尚の「チベット旅行記」紹介=
1.当HPの「空海とチベット」分野記事
「空海のタントラ「仏教」とチベット(14)090329」
関連の資料を掲載する。河口慧海和尚の「チベット旅行記」からの引用で、以下で文献名が明示されていない場合は、頁数は全て下記参考文献のものである。

○「すると、雪峰チーセに礼拝している人がある。見るからに獰悪豪壮なカム人(カム地方の人)で、その人の懺悔しているのを聞いていて実に驚いた。なぜなら、およそ懺悔というものは自分のこれまでにした罪業の悪いことを知って、その罪を悔いて許しを乞い、これからあとは悪いことをしないというものである。しかるに、その人はこう言っているのです。
−ああ、カン・リンボ・チエよ、釈迦牟尼仏よ、三世十方の諸仏諸菩薩よ、私がこれまで幾人かの人を殺し、あまたの物品を奪い、人の女房を盗み、人と喧嘩口論をし、人をぶんなぐったいろいろの大罪悪を、ここで確かに懺悔しました。だからこれで罪はすっかりなくなったと私は信じます。これから後、私が人を殺し、人の物を奪い、人の女房を取り、人をぶんなぐる罪も、ここで確かに懺悔いたしておきます」」(p.207-208)。

○「法王(ダライ・ラマ13世)が正面の右の席に着かれましてから、私はうやうやしく三べん礼拝し、袈裟を片肌ぬいで、小走りに法王の前まで進んでゆきますと、法王は私の頭に手を載せられました」(p.233)。

○「私と非常に関係の深くなった前大蔵大臣チャンバ・チョエサンの話は述べなくちゃならん。・・ある日、
「たくさんの病人が来て、本がお読みになれないのも気の毒なことだが、そうしていると、だいいちあなたの生命が危ない」と言う。
「何で危ないか・・」
「あなたが来てからほかのお医者さんが食うことができんようになったから、その医者たちが人を回してあなたに毒薬を盛らんとも限らん・・、私のみるところではまあたいてい殺られましょうな」」と言う訳で、この前大臣の家に住み込むことになった(p.236)。

○「ところが、ここに最もよい教師につけることになった。前大蔵大臣の兄さんで、前年、ガンデン・チー・リンボ・チエ(坐台宝)というチベット最高の僧位につかれた六十七歳のかたである。ガンデンにある新教派の開山ジエ・ゾンカーワの坐られた坐台へ坐ることのできるかたで、ここへ坐れるのは法王とこのかたの二人だけである。法王は生まれながらにしてその位を占めているのですが、このチー・リンボ・チエは五、六十年の修行を重ね、学徳兼ね備わり、この人よりほかにこの坐台に坐るべきかたはないという高僧になって、初めて法王の招待によってこの位につかれるのです。・・
・・私は前大蔵大臣の厚意によって、こういうかたを師匠として仕える幸福を得ることになり、チベット仏教の顕部についても、秘密部についても、このかたから十分学ぶことができた」(p.237-238)。

○「チベットはよく知られているように多夫一妻である。それにも種類があって、兄弟でもらうのと、他人同士が相談してもらうのと、それから最初は一夫一妻であったが、その妻君の権力が強くてよその男を引っ張ってまいり、自分の古い聟(むこ)さんの承諾を得て、多夫一妻になることもたくさんある。・・法律上すこしもさしつかえない。・・
チベットでは一般に妻の権力が非常に強い。たとえば夫が儲けてきた金はたいてい妻に渡してしまう。三人夫があれば三人の儲けてきた金を妻がみな受け取ってしまい、儲けようが少なかったような場合にはその妻が叱言をいう。夫は自分が入用の時分には、こういうわけでこれこれの金がいるからくれ、と言わなくてはならぬ。もし夫が臍繰り金を持っていることがわかると、妻が大いに怒って、夫に喧嘩をしかけ、はなはだしきは夫の横面をぶんなぐるというのもある」(p.241)。

(注)当時のチベットでは、「多夫一妻」の他に「一夫多妻」も行われていた。また、大半は「一夫一妻」だった。また、「多夫一妻」と「一夫多妻」は上流階級で多かったといわれている(「ブリタニカ国際大百科事典(REFERENCE GUIDE)4」p.324,&「ブリタニカ国際大百科事典12」p.772-773;F.B.ギブニー編/1993/TBSブリタニカ)。

○「私が駐蔵大臣の秘書官の馬詮という人から聞いたところによると、ずいぶん弊害のあったこともあるようです。それは、自分の子供が法王になれば、自分らは王族として財宝もたくさん得られて幸福を受けることができるというので、駐蔵大臣や高等僧官にたくさん賄賂をつかって奔走するものがあるそうです。すると、その賄賂をくれた者の子供の名まえしか摘みだされないような方法にしておいてやったこともあるらしいようすです。それをはっきり証拠だてることはできないですけれど、そういうことがあったという話をたびたび聞きました。
とにかく、第五代目の法王の時からこういう神降(かみおろし)が起こって、何ごともこの神降に相談するということになったのですが、この神降が実に悪いやつで賄賂を貪りとることは非常なものです。ですから神降の坊さんにはたいへんな金持ちがおります。現に法王政府の神降のネーチュンのごときは、チベット一の金満家といわれるくらいに金があります。
そこで高等ラーマの化身は、たいてい貴族,金満家,大商人などの子供というような者が多い。貧乏人の子供にラーマの化身が宿らないときめてあるように、ほとんど十中の九までは富貴の家から化身が出るというにいたっては、必ずその間に何かのことが行われているに違いない。それはただうわべを観察しただけでもわかりますが、実際に妙なことが行われていて、おりおりいやなことを耳にしました。単なる推測ではありません。・・
もっとも、法王にいたっては富貴の子供でなく、かえって貧賤の中からたくさん出ている例もあるのですから、一概に法王あるいは第二の法王まで神降の勢力が及んで決定しているとはいえない。現に今の法王も、第二の法王も、実に貧乏なつまらぬ身分の家から生まれてきておられるのです」(p.251-252)。

○「この集まった税金の大部分は僧侶を養うことに使用するのです。・・仏堂を普請するとか、あるいは
仏陀に供養するためにずいぶん金がかかる。その他は親任、勅任、およびそれ以下の官吏の俸給です。その額はわずかなもので・・」(p.254)。

○「その翌日、書記官馬詮氏が例のごとく遊びにきて、いろいろな話をしましたが、その話のなかで、
「あなたはシナの福州のかただというが、シナ人一般の性質とどうも違っているところがある。あなたの先祖は、どこかほかの国の人ではありませんか」と言う。
「さあ、先祖はどこから来たかいっこう知らないが、あなたはなぜ私の性質が、シナ人一般と違っていると言うのですか」と、問いかえすと、
「シナ人は、私どもはじめ悠長な風がありますが、あなたには悠長なところが欠けている。機敏に、こまかに立ち回るという風が見える」と言う」(p.256)。

これは、1903年ごろの話で、禅宗の日本の和尚さんに対する中国人の観察だった。

参考文献:
「ノンフィクション全集4」(河口慧海著・河口正編-等/1973/筑摩書房)

=建武新政関連2=
○後醍醐天皇の中宮(正室)禧子について。
「君恩葉よりも薄かりしかば、一生空しく玉顔に近づかせたまわず」
(参考文献1)。

○「また(阿野)廉子の悪女ぶりは、倒幕の立役者護良親王の追い落としにもうかがえる。『太平記』によれば、建武新政が始まると、護良と足利尊氏の関係は険悪さを増し、護良はひそかに尊氏を討伐しようとして令旨を下し、兵を募ったという。一方、尊氏は「護良親王が帝位を奪おうとしている」と廉子に讒言し、廉子がそれを後醍醐天皇に密告したため、天皇は激怒して護良を捕らえさせ・・たと伝えている。廉子と尊氏の関係は、廉子所生の次子成良親王の養い親を尊氏がつとめていたことによるものであろう。
この護良親王の追い落としは、廉子にしてみれば、わが子を皇位につけたいため、将来、障害となるであろう護良を排除しようと考えてのことであり、同様にライバルである護良を排除しようとする尊氏と利害が一致してのこととみられる。罪のない護良は、稀代の悪女といわれる廉子により・・」(参考文献2;p.132-133)。

○「そこで、高野山や根来山(真言宗の別派)においては、自衛上、僧兵を養うのやむなきにいたつたのである。・・その勢いの趣くところ、いつの間には、暴力をも敢えてするにいたり、四隣を攻略し、多量を掠奪し、一時根来山は七十万石、高野山は百万石を領するにいたったのである」(参考文献3;p.154-155)。

○「この秘儀の奥旨を師資面授するための、真言密教独自の儀式が伝法灌頂にして・・。
・・いまなお、昔のままに行われている伝法灌頂において、阿闍梨自らの付属物として、この五股金剛杵を受者にさずけ、「これはこれ、一切如来の大智の金剛である。これはこれ諸仏の体性である。大日如来これを金剛薩タにさずけ、薩タこれを龍智にさずけ、かくの如く相承していまに絶えない。堅く三昧耶(即ち本誓)を護りて、常にまさに、これを受持せよ」等と教戒するのである」
(参考文献4;p.47-51)。

○「平安後期の院政時代に、後白河法皇によって編纂された今様歌集の『梁塵秘抄』・・に、
三会の暁待つ人は 所を占めてぞ
おわします
鶏足山には摩訶迦葉や 高野の山に
は大師とか
という歌がある。その意味するところは、古代インドの仏跡である鶏足山という岩窟には釈迦の弟子の迦葉尊者が、(56億7千万年後の)三会の暁と別称される弥勒仏の出現を待って、いまも入定している。それと同じように、わが国の高野山・・でも弥勒出現のときを待って、弘法大師・・が入定している、というものである。
この歌には、これから説明していこうとする日本における弥勒信仰と弘法大師の入定信仰が凝集してうたい込められている。
入定とは、坐禅によって精神を統一させ、生死を超越した不滅の修業の状態をいう。迦葉尊者と弘法大師は、それぞれにこの状態で弥勒仏の出現を待っている。・・
・・高野山では、真言宗の開祖である空海が、高野山を弥勒下生の浄土としてその奥之院に入定した、という入定伝説が成立している」(参考文献5;p.128-131)。

このように、信者の中では弘法大師は今も高野山の寺の奥の「奥之院」に生きたまま坐禅を組んでいるとされているが、高野山の正式見解では、大師は天の高いところで弥勒菩薩のもとで現在も坐禅を続けていることになっている。だが体はミイラ化したまま現在も寺に在るともいわれている(火葬説もあり)。「今昔物語集」にも弘法大師伝説が登場し、ミイラ化したまま髭や髪の毛を伸ばすので弟子が定期的に剃ることになっている。また廟に参拝者があると、古木戸が自然に開いたり、時には誰も居ないはずなのに鉦を鳴らす音が聞こえたりするとある。

参考文献:
1.「太平記」(作者・成立時期不詳)
2.「後醍醐天皇のすべて」(佐藤和彦・樋口州男編/2004/新人物往来社 )
3.「真言宗読本 宗史篇」(栂尾祥雲/1977/高野山真言宗教学部)
4.「真言宗読本 実修篇」(栂尾祥雲/1977/高野山真言宗教学部)
5.「曼荼羅の宇宙」(金岡秀友・山折哲雄他/1988/集英社)
6.「今昔物語集」(作者・成立時期不明)

<空海のタントラ「仏教」とチベット>シリーズURL
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/folder/1040433.html

=建武新政関連1=
1.現在、当HPにて
「空海のタントラ『仏教』とチベット」シリーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/39672281.html
を掲載している。

その記事に関連するデータをこちらの「歴史」分野に今後時々掲載することがあるので宜しくお願いしたい。

1.早速だが、いくつかのデータを以下に載せる。

○「ところで、尊治(たかはる;後醍醐天皇のこと)の場合、影響を及ぼしたのは儒教よりも仏教ではなかったかと思う。それも新興の禅宗よりも、天台・真言宗の密教とのかかわりあいのほうがずっと深かった」(参考文献p.40)。

○「即位したとき、後醍醐は、すでに三十一歳の壮年に達していた。・・
もっともスタートのときは、確かに清新な政治だった。それについては、名残を惜しみながら帝位を去った持明院系の花園上皇さえ、「現今の政治はいい。聖王の政治だ」とほめているくらいだ。この花園上皇は、後醍醐にひけをとらない学者天皇だが、まったくタイプを異にする教養派で・・後醍醐にはない冷静かつ公平にものを見る目をもっていたことは確かである。
もっとも、やがて後醍醐は、この花園を怒らせるようなことをやってのける。持明院系の領有する荘園の人事に介入したり、勝手に自分の親しい人間に荘園内の権利を与えたりしたのだ。・・これは・・両統間の大問題となった。
こんなとき、後醍醐はまず理論(当時中国から入ってきた朱子学)を振りかざす。「天皇の命令である綸旨は、院宣に優先する。なぜなら現在の最高権力者は天皇であるはずだから・・」というふうに」(同p.41-42)。

○楠木正成の出自について面白いことが分かってきた。
「和泉国若松荘というのは、もと臨川寺という寺のものだったが、これを一時、後醍醐が、道祐という僧正に与えたことがあった。これに臨川寺が文句をつけたので、後醍醐はあらためてここを臨川寺のものとしたが、悪党楠木兵衛尉がここに押し入って不法占拠して、云々・・」(同p.51)という古文書が発見されたのである(上の文章は永井路子氏によるまとめ)。
つまり、タントラ立川流の総裁である文観の弟子の道祐の部下が楠木正成だったのだ。
「つまり、正成は臨川寺側からみて「悪党」だったのである。このころの文書を見ると、自分に都合の悪い人間のことは、すぐ「悪党」よばわりするのが例だから、これもそのひとつ・・。
文観はふつう後醍醐を猥褻な妖術でたぶらかした悪僧のようにみられているが、決してそんな安っぽい男ではない。豊富な財力と巨大な組織網を駆使して・・今後の争乱の企画・演出・・プロデュースいっさいをとりしきった黒幕なのである」(同p.51-52)。

○「後醍醐親政のなかで、最初におきた血なまぐさい事件は、護良親王の失脚事件だ。彼は後醍醐が隠岐へ配流されている間も、勇敢にゲリラ的抵抗をつづけた。その意味では、楠木正成と比肩すべき功労者なのだが・・。逆に尊氏の密告によって、謀反の疑いがあるという名のもとに捕らえられ、鎌倉へ送られ、非業の最期を遂げる。・・
ひとつ考えられるのは、後醍醐の最愛の妃阿野廉子の差し金だ。護良は廉子の子ではない。・・尊氏が密告した直接の相手が廉子だという・・」(同p.61)。

○「さらにもうひとつ、後醍醐天皇については言っておかなければならないことがある。というのは、その生きた時代よりも、後に、特に明治以後、にわかにクローズ=アップされたことについてである。
それ以前の後醍醐に対する評価は、必ずしも高くはなかった。南朝贔屓(びいき)と思われる『太平記』もじつは後半になると、手きびしく後醍醐を批判している。「徳がない」「その器でなかったものが帝位についたので、失敗するのはあたりまえだ」等々・・。・・それが『大日本史』を編纂した徳川光圀が南朝を正統としたことからしだいに脚光を浴びてきた。これは光圀の大義名分論からくるのだが、明治以後はそれにもうひとつの要素が加わった。すなわち、維新後の天皇制国家が、天皇親政の原理を後醍醐に求め、いやがうえにも建武政治は理想化され、後醍醐像がクローズ=アップされたのだ。・・醒めてみれば、彼は狂信的な権力愛好者、変動期に咲いた保守反動の徒花にすぎない」(同p.75)。

お知らせ:
「(資料)空海のタントラ『仏教』とチベット」シリーズ目次は次のクリックを!
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38436024.html

参考文献:
「人物日本の歴史7」(永井路子他/1976/小学館)

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事