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無欲になるということ190718
1.さて今回記事は、実は私がこれまでに認識できた重要な内容であり、書こうと思ってできなかったことである。
当HPが今年中に終わるのであるが、今こそ書かなければならないことである。
1.多くの人生論は、2つに分類できると思う。
第1は、自己の欲望をどうやって達成して幸福になるかを説く。
第2は、欲望のむなしさを説くことにより、欲望から解放されることでの幸福を説く。
1.私の人生論はどちらかというと、第2のものに近い。
つまり私は非常に欲張りである。こういう人間が幸福になるためには第2のものしか残されていなかったのである。
したがってどちらも正しいのであり、それぞれの人が自分に合った道を混ぜて選択すべきであろう。
1.書こうと思っても出来なかった理由を考えると、無欲になることの重要性。それによって幸福になれること。そのことの発見は私にとっては驚くべき発見であった。しかしこのことがあまりにも単純な内容であるため、いくらもこれに関しいうことがないためでもある。
つまりここで文章を打ち切っても良いくらいだ。
1.しかし何か私の中で言うべき内容が出そうになるのである。まだ何かが分からないのであるが、書くことでいつもの通り発見していくことにしよう。
1.私のこれまでの人生において、自分をコントロールできたと思える時間はほとんどない。つまり私は、たいていの人生の期間において、何か大きな力によって無理やりに動かされてきたように感じるのである。
自由意志で選択できたことはほとんどなく、全て奥底から湧き上がる激情によって無理やり引き回されてきたと言って良い。
1.私を動かしてきたのは激しい飢餓感であった。自分のあるべき姿と現実の差に押しひしがれていた。
これは不幸な少年時代を過ごしたため起きたことだと考える。上級生からいじめを受け、反発して喧嘩に明け暮れ、同級生をいじめることに明け暮れた。先生に怒られた記憶だけが鮮明で、実は子供時代に何があったかほとんど覚えていないのである。
嫌なことばかりだったため忘れてしまったのである。
1.大学時代には当時の学生運動が吹き上げる中において、激しいテロ・リンチを受けてきた。鉄パイプや樫の棒での全身への滅多打ちを受けた。
しかし今から考えると不思議なくらい恐怖感は一切なかった。但しそういう事件の後しばらくすると一定の恐怖は感じるのであるが。
これは今から考えると、脳内麻薬が激しく放出されたための脳のマヒであったと考えられる。
また信仰心が強く、自分は正しいことをやっているとの信念があり、正しいものは絶対に負けることはないとの信念もあった。
今からは考えられないほどの青年時代のエネルギーと信念の強さがあったからあの地獄のような青春時代をかいくぐることが出来たのであろう。これは私の誇りである。しかしあのような地獄のような状況を再び繰り返したくはないものである。
1.今私は年を取り、年々幸福感が増している。子供時代が一番不幸で年を取ってから幸福がますます増進するというのは普通と全く逆なのだが。
その理由を考えた時、あの青春時代の地獄のような日々を思い出したのである。
あの時代に私は見えない陰徳を積んだのかもしれない。その功徳なのか。
1.やっと今、書かなければならなかったことが発見できた。それは、私が「自己の欲望をどうやって達成して幸福になるかを説く」人生論を読み、いかにもくだらないと感じ、辟易した理由が分かったのである。
そこまでして欲望を満たしたいのか。かわいそうな連中だな。
そう私は本当に感じていたのである。
その理由が分かった。それは、そうした人生論の中に実は本当は欲張りである自分の姿を見たためである。
やはり2つの人生論はどちらも正しいようである。
そして私は欲望のむなしさを説くシャカの説法を聞き、欲望から解放されることで、自己から解放されることで、真に大きな安らぎを得たのであった。
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安岡HP人生論篇
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詳細
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新幹線殺傷事件について思うこと180617
1.6月9日、東海道新幹線の車内で乗客の女性2人をナタで襲ってケガをさせ、止めようとした梅田耕太郎さんに切りつけ死亡させる事件が発生した。
犯人の小島一朗容疑者は「社会を恨んでいる」と述べている。
1.この事件はなぜ発生したのだろうか?
様々な報道によると、この犯人はアスペルガー症候群と言う病気があり、対人関係を作ることが苦手だったが、頭は非常に優れていたという。
また母親は元共産党の市議会議員をされていたという。
父親の話によると、学校入学の際、姉は新品を買ってもらったのに弟の自分にはお古を与えられたことを恨み、夜中にナイフと金づちを父親の寝ている寝室に投げつけたことがあるという。
それ以来父親は親子の関係を切ったという。
以上述べたところは、報道されたことを私が記憶に基づいてまとめたものであり、細かい間違いを含んでいるかもしれないが大筋は正しいと思う。
1.また週刊誌によると、この犯人は子供時代に十分な愛情を与えられていなかったのではないか。
またアスペルガー症候群の子供は、親から十分な愛情を受けられない場合が多いとも言われている。
母親は自分が生きていていいのだろうかとまで悔やんでおられるという。
1.さて、この話は、子供がアスペルガー症候群と言う病気にかかり、ために親から十分な愛情を貰えなかった。この恨みが爆発したのであり、今後子供に十分な愛情を与えればなくなる事件であると。
こういう簡単な話なのだろうか?私は全く違うと考える。
1.つまり母親が自分が生きていていいのだろうかとまで悔やんでおられるというのであるが、この母親は果たして十分な愛情を注がなかったのであろうか?がゆえに悔やんでおられるのであろうか?
最近共働きの家庭が多くなり、母親は忙しくなった。そしてこういう事件が起きれば母親は追い詰められる。自分が仕事にかまけて、子供をおろそかにしていたのではないかと悔いる人が多い。
しかし母親の愛情不足と言うことは証明されたことではないし、こういう事件は家庭の影響だけでなく、他の、つまり社会的影響、要するにTVなどの影響によっても起きうることなのである。
1.姉は新品を貰ったのに自分にはお古だった。だから親の寝ているところにナイフと金づちを投げ込んだという話を考えてみよう。
昔の時代、つまり我々にとっては第1子が新品を貰い、それ以下は全部お古であることは当たり前のことだった。それ以外に合理的なやり方があるのだろうか?
全員に新品を買えば、大量のゴミが生まれ地球が滅びるだけだ。
つまり現在の過剰な「平等意識」「反差別」「反ヘイト」意識こそが、そのような左翼メデアの報道が子供たちに「自分は差別されている」「ヘイトだ」と思わせているのである。
ここに様々な事件が起きる根源があるのである。
1.ドストエフスキーの小説に「悪霊」と言うものがある。
急に話が飛ぶが、この小説は今回事件と関連性があると考える。
この小説は実際にロシアで起きたアナーキスト・グループによるリンチ殺人事件を題材としたものである。
そのアナーキスト・グループの指導者の父親を西欧直輸入の民主主義者とドストエフスキーは設定しており、西欧直輸入民主主義の徹底批判がドストエフスキーの狙いだったと考えられる。
さらにこの西欧直輸入民主主義者はある貴族の息子(ニコライ・フセヴォロドヴィチ・スタヴローギン)の家庭教師を子供のころから行っており、行き過ぎた民主主義がどういう子供を育てるかがこの小説のテーマになっている。
つまりスタヴローギンと言うたぐいまれな怪物を行き過ぎた民主主義者は家庭教師をすることで生み出してしまったのである。
1.つまりこの小説は、西洋直輸入の行き過ぎた偽民主主義が、リンチ殺人と言うアナーキズムと言う怪物=悪霊とともに、スタヴローギンと言うたぐいまれな別の種類の怪物=悪霊(類い稀な美貌と並外れた知力・体力をもち、ほとんどあらゆることを万能のようにやりこなす能力を持つ)を生み出した。と言う話である。
この小説は初め、行き過ぎた民主主義者が子供時代のスタヴローギンを教育するところから始まる。
このため、初めはこの家庭教師こそがこの小説の主人公ではないかと思うのである。
だが後になってスタヴローギンこそが真の主人公であると判明する。
このため、読者の多くはこのきわめて長い小説を読み、何で初めにこういう余計な話が付くのか戸惑う。全く余計ではないかと思う。
しかしここにこそこの小説の核心があるのである。
1.この行き過ぎた民主主義者は善意の人であり、何1つ血なまぐさい面を持たない。心の優しい人である。
それなのになぜ、スタヴローギンのような怪物を生み出し、息子がリンチ殺人のアナーキストの指導者になるのか?
このメカニズムをぜひ読者はこの小説を読んで解明していただきたい。
つまり現在の「心優しき」行き過ぎた左翼・リベラルの風潮こそがテロリストや新幹線殺傷事件犯人を生み出していることをぜひ解明していただきたい。
1.この西洋かぶれの民主主義者は、家庭教師を行いながら、子供を自分と全く対等に扱っている。教師としての権威はない。
悩みも全部打ち明けるし、恋に破れたとスタヴローギンを抱きしめながら激しく泣く。
子供のスタヴローギンが一生懸命慰め、大人と子供が逆になっている。
実は現在、こういう家庭が多くなっているのである。
子供は無知なのに、大人と対等に扱われ、家庭の運営は民主的に平等の権利を持って進められるというのである。こういうことが素晴らしいのだと左翼メデアは宣伝している。
しかし実際は子供は無知なのである。だから保護され、大人に従わなければならないのである。
ところが多くの現在の犯罪者とは、落ちこぼれでありながら、自分を他よりも飛び切り優れていると思い込んでいるのである。
且つ、こんなに優れている自分が差別されているのは社会が悪いと思い込む。
1.現在の子供は昔の1.8倍くらい手をかけて育てられているという。そして母親が苦労して手をかけるほど「キレる子供」が生まれるという。
したがって幼児虐待のように大切な時期に必要な愛情を受けないでキレる子供が育つ場合もあれば、愛情が強すぎてキレる子供になる場合もあるのである。
今回の新幹線事件はどちらであるかは分からないし家庭に原因があったかもわからない。
だがいえることは、ほどほどが大切だということである。行き過ぎた民主主義は間違いである。
もしも母親が共産党員であることが関係していたとするならば、子供にお古が当然であると分からせることが出来なかった行き過ぎた平等主義にこそ原因があるかもしれない。
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マルクス哲学について180523
1.2018年5月5日はK・マルクス誕生から2百年目に当たり、ドイツ・ロシア・中国などでその評価を巡りメデアが大きく報じたという。
当HPでもマルクスについて論じてみたい。
ただし平凡なことしか言えないと思うので、内容に期待はしないでほしい。
1.さて表題の通り、単にマルクスではなくマルクス哲学についてと題した。
その意味は、マルクスとは革命家・政治理論家・経済学者などの多面的顔を持つが、その根底にやはり強い哲学があったはずだと思うのである。この点を今回記事で中心的に考えてみたい。
1.またなぜマルクスを論じるのか?何よりも私はマルクスから大きな影響を受けた。そしてそのことは良かったと考えている。
1.ではどういう意味で良かったのか?これも様々に言うことが出来るが、一番大きいことは、マルクスの影響で私の極端性が減少し、この年まで生きることが出来たと考えるのである。
私は哲学者からはマルクス、ヘーゲル、バートランド・ラッセル、ショーペンハウアーから大きな影響を受けたと思う。
私の人生において決定的な影響はシャカから受けたと考えるが、シャカを果たして哲学者と呼んでいいかどうか。
また私を日蓮から大きな影響を受けたはずではないかと考える方があるかもしれないが、実はさほどの影響は受けていない。なぜなら、私は初めからほとんど日蓮と同じような人間だったのである。したがって日蓮の影響で大きく変わるということはあり得なかったのである。
1.さて私はもっとも共感できる哲学者は、キルケゴールである。
彼は、自分がそのために生き、そのために死ねる人生の目的を発見することが重要だと言っている。
また、自分の信念を貫いて人生を棒に振れる人間がどれほどいるだろうかと書いている。
私はこれを読んだ時、アッ、自分の人生はこれで良かったんだと思った。
私は自信を持って自分の人生は全てにおいて失敗だったと断言することが出来る。
だが実は私の人生は大成功だったのである。
そのことをキルケゴールだけは知っている。大いに共感を感じた。
だが影響を受けるということはない。なぜなら初めから私は彼と同じような人間だったからである。
1.そこではじめに、なぜキルケゴールはそのために生き、そのために死ねる人生の目的を発見することが重要だと書いたのかから考えたい。
実はこれはヘーゲル哲学に対する批判だったのである。
つまりキルケゴールははるばるデンマークから、ドイツに留学し、当時の哲学の最高峰と歌われていたヘーゲル哲学を学んだのであろう。
そして、実は私自身、ヘーゲルから大きな影響を受けたと考えるが、あまりにも難しすぎて、読んだ本の数は多くない。
「哲学入門」という本に彼の哲学の概略がまとめられている。
また「哲学史講義」「歴史哲学講義」「美学講義」と言ったヘーゲルが実際に大学の講義で何を教えたのかというライブ感あふれる速記録は大いに読んだ。
理解できた本はそれくらいであるが、これによってともかくヘーゲルが極めて偉大な哲学者であることは十分に理解できた。
そして私自身はヘーゲルから大いに吸収するものがあったが、一方でキルケゴールが上のような批判を行う理由もよくわかるのである。
1.ところでマルクスではなく何故ヘーゲルの話をするのか?
実はマルクス哲学とはヘーゲル哲学そっくりであり、ほぼヘーゲルが観念論の立場であるのを、マルクスは唯物論の立場でひっくり返したに過ぎないからである。
つまりキルケゴールの批判は実はマルクス哲学にも当てはまり、まさにキルケゴールはマルクスの弱点を突いていると考える。
1.ではなぜキルケゴールはあのような批判を行ったのか?
つまりヘーゲル哲学とは次のような内容のものである。
まず初めに「神」が存在したという。
そしてこの神は極めて理性的である。というよりも、ヘーゲルの考えでは「神=理性」である。
神はまず自己の内部で「論理学」の研究を行う。
その結果、「量から質への転嫁」とか「否定の否定の法則」などの「弁証法」と呼ばれる万物が従うべき運動・変化の法則が発見される。
これによっていよいよ宇宙を生み出す機は熟したとされ、神は宇宙=物質を生み出す「自己疎外」ということを行う。
この時、時間や空間も生み出される。
つまりそれまでの神による論理学研究は時間の中で行われていたのではなく、無時間的に、行われたことになる。つまり別の言葉で言えば一瞬の間に行われたことになる。
これを「時間的=歴史的変化」ではなく「論理的変化」と言うのであるという。
神という精神的な至上の存在が物質・時間・空間に姿を変える。このようなみすぼらしい姿になるため、これを神の自己疎外と言うのであるという。
つまりヘーゲルによると、この宇宙自体が神そのものということであるのであるという。
1.ヘーゲル自身は以上のような考えをキリスト教の正統的考えと矛盾しないと考えていたのだが、実はこのヘーゲルの考えはキリスト教ではない。
何故ならキリスト教の神とは、宇宙にまんべんなくその働き自身は現れるのであるが、神自体は宇宙を超越したものだとされる。
ところがヘーゲルの考えでは、宇宙=神になってしまう。また神=物質になってしまう。したがって今日ではキリスト教ではヘーゲル哲学を否定するのであるが、ヘーゲルが生きている間は真相が分からなかったため、ドイツ内ではキリスト教会は大いにヘーゲルを賛美した。
1.それはともかく、以上のようにして神は宇宙に変身する。
そして、宇宙が生まれる前に研究していた論理学に従い、いよいよ宇宙を弁証法的に動かし始める。
こうして宇宙には星が生まれ、太陽が生まれ、そこで生物が発生し、進化する。
そして人間が生まれ、人間の歴史が始まる。
以上から読み取れることは、ヘーゲル哲学とは、実は人間の歴史の運動法則を解明することを狙ったものだということだ。
そして初めにアジア的な「皇帝一人だけが自由な歴史段階」が現れ、次にギリシャ・ローマ的な「少数者が自由で多数が奴隷である歴史段階」へ進化する。
さらにゲルマン的な「すべての人々が自由な歴史段階」へ進化・発展する。
こういう変化は全て法則的に起きる。
実にヘーゲルの言っていることは説得力があり、初めの人間の愚かな状態では、何が最初に認識されるか。そして常に人間は前進しようと意欲し、少しづつだが、進化していく。
ある変化が達成されると、次のどういう変化が目標として現れるか。
以上のことが、あたかも赤ん坊はまず初めに何を認識するか。ある成長が起きたら、次はどういう欲求を持つはずであるか。子供から大人に成長するように、合理的に説明される。
どこにも奇跡の起きる必要はない。神自体は姿を現すことがない。
人間自身の当たり前の成長によって困難が突破されて歴史が前進していく。
人間は神に直接導かれているのではないが、見えない手に導かれているのである。
1.ではキルケゴールはどこが間違いと思ったのか?
ヘーゲル哲学では、全てが法則的に起き、人間は神の駒にすぎない。
へーゲルの有名な言葉に「自由とは必然性の認識である」というものがある。
つまり全ては神が宇宙を作ったとき決めた計画に従っており、人間のあらゆる行為は神の決めたスケジュール通りに起きているというのである。
それを認識することを「自由」と呼ぶのであると。
神は宇宙を作ったときから、誰を天国に導き、誰を地獄に投げ込むかを決めていた。
それを認識することが「自由」ということであると。
そうだろうか?
1.これでは主体的決断の意味は全くない。自己責任と言うこともあり得ない。どんな悪事も災難も全責任は神だけが負うことになる。
たとえば大泥棒も殺人者も、自分がこうなったのは神が宇宙を作ったとき決めたことなのさと言うわけだ。
テロリストが生まれるのは社会が悪いからだと叫ぶ左翼に似ていることに、ここで注目する必要がある。
キルケゴールは、自分がそのために生き、そのために死ねる人生の目的を発見する為ヘーゲル哲学の中にその答えがあるに違いないと当時の世界最高峰と呼ばれたヘーゲル哲学に取り組んだ。しかしその落胆は大きかったと思われる。
なぜなら、全ては神の決めた通りに動くならば、そのために生き、そのために死ねる人生の目的を発見する必要性は全くないからである。
何も考える必要はない。なるようになればよい。そうすれば神の決めたスケジュール通り運び、万事ハッピーなはずである。
確かにヘーゲル哲学においても、人生何をなすべきかという内容はある。つまり隣人を愛しなさいとか、国のため尽くしなさいなどの名目は一応存在はしている。
だがヘーゲル哲学においては肝心の人生論は希薄である。なぜならそもそもがヘーゲル哲学とは、人生哲学を必要としないものだからである。神が万事を決める以上、そういうものは不要である。
ヘーゲルも人生何をなすべきかという関心はあったであろうが、彼のそれ以上の関心は、観念論の立場から、人類の歴史がどう運動発展するかの法則を解明することだったと思われる。
1.以上のヘーゲル哲学にマルクス哲学は極めてよく似ているのである。
第1に理性重視の点。
第2に、人類の歴史に強い楽天的見方を行う点。
第3に、歴史発展の法則性を強調する点である。
1.そこでまず、マルクス主義とはどういうものかを説明する。
マルクス主義とは共産主義革命を目指すものであり、哲学・経済学・政治理論の3部門から成り立っている。
そこでこれらを簡単に概観するが、まず政治理論においては、資本主義社会を革命によって打破し、労働者階級が独裁を行う社会を作るという。
また労働者階級が独裁を行うという意味は、労働者階級の「歴史的使命」(ここが肝心なため、あとで詳しく説明する)を自己の歴史的使命とする党が独裁を行うことであるという。
このような社会を「社会主義社会」と言い、全世界が社会主義社会になったときには国家の必要がなくなり、独裁も不要になるという。
ところで日本共産党においては、以上の独裁政治を否定しておられ、プロレタリアートの「デクタツーラ」を「独裁」と訳したことは誤訳であり、正しくは「労働者階級の執権」と訳すべきだという。
しかしこのような解釈は間違いであり、マルクスの言葉は正しく「労働者階級の独裁」と訳すべきである。
また何よりも、マルクスの実際の行動自体が、民主主義を無視して暴力革命や独裁政治を強行しようとしたことこそまぎれもない事実である。
そのことは1848年のフランス革命や1871年のパリ・コミューン革命で明瞭になる。
1.次にマルクス経済学について。
アダム・スミスやリカードーの創始した労働価値説に基づき経済学を発展させ、特に「資本論」第2巻は、世界最初のマクロ経済学を創始したものとして今日近代経済学者からも高く評価されている。
ただしその後の経済学においては、限界効用学説が発見され、今日においては厳格で正確な経済学は近代経済学のみと考えられる。
ただしマルクス経済学も一種の近似理論として、一定の限界内においては相当に有効性を今日においても持つと私は判断している。
1.次に問題のマルクス哲学を概観する。
これは「弁証法的唯物論」とそれを人類の歴史に適用した「唯物史観」の2部門から成っている。
ただしこのように分けることは、マルクスが生きていた時代には行われておらず、あくまでものちの時代の人がそのように整理したということである。
そして「弁証法的唯物論」は多くの場合、唯物論とは何か、弁証法とは何かの順番で説明されており、これものちの時代における整理ではあるが、これ以外に合理的説明の方法が無いためこれに従うことにする。
1.まず唯物論とは、初めに物質が存在しており、つまり宇宙の歴史においては人間や生物がまだ生まれぬ前の時代があり、その後生物や人間が進化によって存在するようになった。
つまり心・意識・精神とは、物質の進化によって生まれたものであるという。
故に物質とは精神さえ生み出す力を持つものであるから、精神に比べ物質とは強力な力を持つものだという。
したがって精神力とは物質力に比べ、弱いものであるという。
1.次に弁証法とは、物事は個別に存在するのではなく、全体的に相互作用の中で存在しており、絶え間なく変化・発展を遂げているという。
その際に「わずかな量的変化が蓄積されて大きな質的変化が起きる」(=量から質への転嫁の法則)とか、物事は一直線的に変化発展するのではなく、らせん状的に発展する(=否定の否定の法則)などが言われる。
以上のことは私は相当に正しい考え方だと考える。
しかし次の2点で間違っていると考える。
第1に、では物事の変化発展の原動力は何か?その説明において、マルクスは(むしろマルクス哲学を説明したエンゲルスがよく口にする言葉であるが)発展の原動力は「内部矛盾だ」と言うのである。
このことも文学的表現としては理解できる。だがこのことは科学的説明になっているであろうか?
たとえば物理学の教授が全て原因は内部矛盾だで済まし、具体的な計算を行おうとしないことがあるのである。
またエンゲルスによると、「A=A且つA≠Aという矛盾こそが発展の原動力だ」と書いているのである(エンゲルス「自然弁証法」)。
以上はヘーゲルの言っていることをそのままエンゲルスは言っているのであるが、このような「弁証法的論理学」は今日否定されており、ヘーゲル・マルクス・エンゲルスの否定した「形式論理学」こそが厳密・正確な科学であり、それによってこそ、そしてそれによってだけ、今日あらゆる科学における変化発展は説明されているのである。
言い換えると変化・発展・運動を解明することが弁証法の目的だったのだが、弁証法的論理学はそれに成功せず、形式論理学こそが、そして現代数学こそが今日あらゆる宇宙における変化・発展・運動を解明出来ているのである。
以上から考え、弁証法とは厳密には間違ったものであり、一定の限界内においては近似的有効性を持つものであることは明らかである。
1.次に第2の点。このことは単なる私の疑問と言うことで、何か決定的なことを言うわけではない。
つまり弁証法においては、否定の否定によってらせん状に発展していく。
言い換えると、あらゆるものは絶え間なく前進し、決して元に戻るということはない。
つまり来年になれば再び春が来るが、それは去年の春と同一と言うことはないと言われるのである。
1.だが、そのように断定していいのであろうか?
2つの点で私は疑問を持つ。
(1)一般相対論を宇宙全体に適用した最初のものとして、次のようなものが発見された。
つまり、時間は無限の過去から無限の未来にまで続く。
但し空間は閉じており、まっすぐに直進すると元の場所に戻るという
(空間は有限)。
このように我々の宇宙がなっているのだというのではなく、1つの可能性としてこういうものも一般相対論と矛盾しないこと発見されたのである。
ただしその後、宇宙のビッグ・バンが発見されたため、無限の過去と言う部分は修正しないといけないであろう。
ところでその後、様々な一般相対論と矛盾しない宇宙のモデルが発見されたのであるが、その1つに次のものがある。
つまり、空間は無限だと。しかし時間は有限であり、未来へ未来へと進んでいくと、過去に戻るというのである。
こういうものも今日の科学的知見では全くあり得ないことだと断言できないのである。
ところが弁証法においては、こういうものが否定される。しかし今日の科学的知見では、こういうモデルは否定が出来ないのであるから、弁証法とは、理由もなく現実を否定する内容を有している、もしくは現実の可能性を理由もなく否定しており、反知性的と考えられるのである。
(2)今日多くの科学者は、我々の宇宙の空間的大きさを無限大だと考えている。
また、数十年前までは、宇宙が将来収縮に転じるのではないかと考えられていたが、今日では宇宙が永遠に膨張すると考えられている。
したがって、ホーキングの理論によると、宇宙が将来収縮すると、宇宙が一点に集まり、そうなる直前に突然消滅する可能性があるという。
そうなると、そこで時間自体が消滅する。
だが宇宙が収縮することはないため、今後宇宙は永遠に存続し、無限に時間は流れるはずである。
そうなると、宇宙には無限の空間と無限の時間が存在し、そこには無限の物質が存在することになる。
ところでそういう場合には、フランスの大数学者であるポアンカレによると、必ずある起きた事件は何度でも繰り返すというのである。
つまり輪廻と言うことが存在し、我々と同じものが再び同じ地球と同じ太陽と同じ隣人の下で同じ人生を送ることが現れることになるのである。
1.ただし、今日最も有力な物理学理論によると、陽子が何兆年か後崩壊し、光になって消えるという。そうなると全ての物体は消滅して光だけになってしまうため、果たして輪廻が起きるか分からないのであるが、ただしこの理論はまだ実証されておらず、現在カミオカンデで検証中である。
したがって輪廻が起きるかどうかはまだ分からない。しかし輪廻の起きる可能性は今のところゼロと断定は出来ず、輪廻を否定する弁証法はやはり反知性と言うことになる。
1.次に以上の弁証法的唯物論を人類の歴史に適用した「唯物史観」についてみる。
これによると、歴史を前進させる根本的原動力は経済的な「生産力」の増大であるという。
生産力の増大によって、その時代の生産関係の枠にはまり切らなくなる時、これを暴力的に一気に解決するため「革命」が起きるという。
こうして人類の歴史は革命の歴史であり、それによって
原始共産制社会→古代奴隷制社会→中世封建制社会→近代資本主義社会へと発展する。
そしてさらに生産力が増大すると、資本主義の枠に収まりきらなくなるため革命が起き、社会主義社会になるという。
1.以上のように、人類の歴史を人間の意志によって発展すると見るのではなく、経済力が向上するため起きるのだと見るのが大きな特徴である。
しかしここで疑問が生じるわけだが、しかし社会を変革するのは人間が自分の意志で行うのであり、それはどうなっているのかの点である。
唯物史観においても、人間の意志と全く無関係に社会が変わるわけではないという。
つまり、経済力、俗な言葉で言えばGDPがある一定値にまで高まると、その社会の人々は資本主義ではなく社会主義を何故か欲するようになるという。
こうして自動人形のように、人々が革命に立ち上がるため社会が変わるのだという。
1.ここで「人々は資本主義ではなく社会主義を何故か欲するようになる」と書いたが、もっと具体的にはどういうことか?
つまり、GDPがある一定値を超えると、恐慌とか侵略戦争、あるいは極度の公害や貧困が発生し、このため人々は社会主義を望むようになるという。
また、単に貧困化が進めば進むほど革命が近づくのではなく、革命党がさまざまな改良闘争をやり、それによって人々が相当高い生活水準を当たり前と思っているほど、革命が近くなるという。
つまり、革命党による改良闘争で一般民衆が「このくらいの生活水準は当然だ」と思うレベルが高まり、それだけのレベルを支配階級が保障出来なくなった限界において革命が起きるという。
しかも、どの程度革命党が改良闘争を行えるか、どの程度人々が生活レベルを当然と思うか、どの程度のレベルを支配階級が保障できるかがその社会の経済力の「生産力」と「生産関係」によって物質的に決定されているという。
またその社会が現在どの程度の生産力と生産関係を持つか自体も、生産力と生産関係によって決定されることだという。
1.こういうことになると、いつ革命が起きるかは人々の意志と無関係に経済的・物質的に決定されることになる。
このため昔からマルクス主義者とは、まだ革命が起きそうにないとみると、ではそれまで待てばいいやと考えるものが絶えなかった。
マルクス自体がそうであった。
こういうことを「自然成長論への跪拝」と呼んで批判し、「意識的に外部から革命意識を持ち込んで注入せよ」と主張した人がレーニンであった。
だがレーニンの行ったことは、唯物論の否定ではないだろうか。
唯物論とは読んで字のごとし、物資だけが存在し心などは存在しないという考え方である。
存在するものは物質だけであり、心とは物質の一種である脳髄の働きにすぎないと唯物論は主張する。
つまり心とは存在するものではなく、働くもの・機能である
(「存在」を広い意味に取れば唯物論においても心は存在するという人もいる)。
存在するものは物体だけであるから、人間も社会もすべて物体であり、物体は物体の物理法則に従って運動するはずである。
だからこそマルクスも、人間の意志と無関係に人間の歴史は原始共産制社会→古代奴隷制社会→中世封建性社会→近代資本主義社会へと発展すると言っているのである。
確かに革命は人間の意志が行うものである。だがいつその意思を人間が持つかは物質が決定するのである。
だがレーニン以降においては、マルクス陣営においては、原始共産制社会→古代奴隷制社会→中世封建性社会→近代資本主義社会→社会主義社会へ変化すること自体は人間の意志で変えることは出来ないが、その変化の時期は人間の自由意志で決定されると主張するようになった。
しかし、原始共産制社会→古代奴隷制社会→中世封建性社会→近代資本主義社会→社会主義社会へ変化することは歴史の必然であると、必然を強調することが多いため、相変わらずマルクス主義者とは、革命とはいずれ起きることだから、それまでは何もせず待っていればいいと考える怠け者が多いのである。
逆に一生懸命党の命令に従う人間はあまり勉強していない人が多いことは事実なのである。
共産党にインテリは多いのであるが、こういう人たちはさっぱり戦力になっていないのが現実である。
1.以上のようにマルクス哲学とヘーゲル哲学はよく似ている。
さらに次の点が決定的に同じである。
1.それは、「労働者階級の歴史的使命は資本主義社会を倒し、労働者階級の独裁社会を作ることである」と主張する点である。
つまり、一人一人の労働者が自分の生きる目的は何かを考える必要は全くないのである。
それは以上の歴史的使命を果たすことであると、天下り的に決定されているのである。
ここが、神によってすべての人間の人生があらかじめ決定されているヘーゲル哲学と同一なのである。
1.しかし、人々が何を自分の生きる目的・使命と考えるかということは全く自由意志によって決めることではないだろうか。
ところがマルクス主義においては初めから天下り式に決定されている。
それはどういう論理構造によってそうなるのであろうか?
1.すなわちマルクス主義においては、経済分析などにより、労働者はいずれ資本主義社会では生存することも不可能になるという
(絶対的貧困論)。
しかし実際にはこういう絶対的貧困によって先進国で革命が起きることはない。
先進国では次の相対的貧困によって革命が起きるという。
つまり、革命党の改良闘争によって人々がこれくらいは当然だと考える生活水準のレベルが引き上げられる(A)。
一方で資本主義の矛盾により、支配階級は次第に人々に保証できる生活レベルを切り下げざるを得ない(B)。
こうして(B)が(A)以下に達した時、人々は資本主義を倒すことを望むようになり、労働者階級の独裁社会を作ることを望むようになるという。
1.だが、このようなマルクスやマルクス以降の人々によって整理された考え方は、あくまでも事実分析・現実の研究を行っているだけである。
しかし人間の生きる目的・使命とは、「自分はどう生きるべきか」という価値判断であり、主体的決定である。
事実判断と価値判断は次元を異にしており、いかに事実の研究を行ってもそこに主体的決断がなければ価値判断は出てこない。
にもかかわらず、マルクス主義においては、「君の生きる使命・目的は資本主義社会を倒すことである。これが正しい生き方である」と天下り的に主張されるのである。
1.しかしそうなのであろうか?
では資本主義を倒そうとせず、金を儲けたいと考え、仕事を頑張って出世しようと考える労働者は間違った生き方をしているのであろうか?
そうではなく、民主主義社会においてそういうことは自由なのである。
特に2015年以降の日本共産党が、自分の意見と合致しない人間を口をきわめて赤旗で罵倒し、自由な言論を弾圧していることを知らない人間はないだろう。
2015年、平和安全法案審議において民主党は自民党委員長の首をへし折るというテロを働いた。沖縄高江では、活動家が住民を恐怖に陥れ、国の役人をペンチで殴りつけている。
沖縄県知事はいかなる手段を使っても絶対に辺野古に基地は出来ませんと宣言した。
この知事は現地での暴力的「闘争」を一言も批判していないことから明らかなとおり、このようなテロによって辺野古基地を阻止できると思っているのだろう。
こういう勢力と連携することによって自らがテロリストであることを明らかにしたものこそ日本共産党である。
世界の多くの共産党は、政権を取るまでは民主的に、しかし政権を取ると独裁を行った。
世界でただ1つだけ日本共産党は政権を取る前から独裁をやっているのである。
1.以上のように日本共産党は自由と民主主義を認めようとしない。ここにマルクス哲学の本質が現れているのである。
1.だが私はマルクスが人類の幸福を願った人であり、そのために善意を持って行動を続けた人であると認める。
また、マルクス哲学には、若い時期の私の頭を冷やす効果を持ったものが多かった。
たとえば社会がどう動くかは法則に従うのだとの主張は、やみくもに盲動しがちだった私に、何をやるにもまず詳しい研究が必要だとの意識を植え付けた。
マルクスが非常に冷静沈着な人であり、ものの見方が客観的な人であったことは間違いないと考える。マルクスだけではないが、こういう人の影響を受けることが若い私には必要だったと考える。
それでいてマルクスは心の非常に暖かい人でもあったと考える。
ただ、マルクスは民主主義と程遠い国で生まれ、その後半生を自由な英国で過ごしたのだが、最後まで真の民主主義的な感覚を持つことが困難だったのだろうと考える。
彼が自由な国に生まれていたら、真に人類のためになる偉人になれたことを惜しむ。 |
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藤井聡太四段の将棋について170626
1.初めに述べておくが私は将棋に関し全くの素人である。
藤井聡太四段が快進撃を続けられており、おそらく今夜、連勝記録の単独第1位を達成されるであろう。
今後も連勝記録をさらに伸ばされることもまず間違いないと考えている。
1.大変すばらしいことであり、大天才と言えるだろう。将来名人などになられることも間違いあるまい。おそらく第21世名人になられるのではあるまいか。
1.しかし今回記事ではあえて藤井四段に対しケチをつけてみたい。そもそも氏は「礼儀正しい」などと言われているが、大天才が礼儀正しいなどは全くの堕落である。
天才である以上は一癖も二癖もなくてはならない。
例えば羽生19世名人はいわゆる「ハブにらみ」と言う恐れられる癖があったという。将棋に夢中になるあまり相手に対する配慮を完全に没し去り、これをやると相手はたまらずに陥落したという。
1.現在の氏の将棋の強さはどこからきているのであろうか?第1に詰将棋や終盤に非常に強いことがあげられる。つまり考え抜く力が極めて強い。
それだけでなく、これだけ終盤力の蓄積がある以上、直観力もすでに抜群に育成されており、将棋盤をパッと見ただけでおよその手の発見は常に可能になっておられると考えられる。
1.だが第2に、パソコンを使って相手を研究し、相手がどういう手を繰り出してくるか。その場合の最善手は何かなどを予習する力が抜群に高いと考えられる。
このため、相手は全く自分の力を出し切れないうちにノックアウトされていると考えられる。
ではなぜ藤井四段はこれほどPCの使い方が旨いのか?それはそもそも将棋の力が強いからである。PCやアプリとは、人間の力を助けるのであるが、どんな場合も使い手である人間の能力が高ければPCやアプリの潜在能力を120%引き出せる。
つまり翻訳とか医学・法律など、どんな場合も使い手の専門能力が高いほどPCやアプリの利用効率が高くなる。
だが使い手がそもそも専門能力が低ければPC・アプリを使いこなすことは困難である。
数学者や物理学者がPCを利用する場合も同じである。
つまり元々の基礎的専門的能力はやはり必要なのである。
純粋にPCの力だけで勝負できることは、将棋名人がPCに負けたことで証明されたが、それでも将棋名人が「ポナンザ」などのパソコン・ソフトを使えば(正確に言うと、その開発にかかわれば)最強になることに変わりはない。
1.さて、ではこれでいいのであろうか?おそらく今後藤井四段はますます強敵に当たるであろう。すると例えば羽生19世名人や佐藤天彦名人・渡辺明竜王らと当たるであろう。
これらの棋士はそれぞれに将棋の実力が強いだけでなく、現代の将棋に不可欠な要素としてPCの使いこなし方も非常に能力が高い。
すると藤井四段は負けるであろう。
ではそこから四段はどう強くなっていったらいいのであろうか?
1.羽生19世名人が非公式戦(持ち時間が極めて短い早指し戦)で藤井氏に負けた後、こんな感想を述べておられる。
「まったく荒削りな部分がないスキのない将棋だった。自分が14歳の頃はこんなだったかなー。全然違っている」と。
「すでに相当完成した将棋だった」とも。
14歳で完成したスキのない将棋。荒削りでない将棋。それで果たしていいのだろうか?
四段はパソコンを使って相手を研究し、相手がどういう手を繰り出してくるか。その場合の最善手は何かなどを予習している。
このため、相手は全く自分の力を出し切れないうちにノックアウトされている。
これでは四段は極めて楽な勝ち方をしていることになる。楽な勝ち方をする以上、自分の力を最大限に使い切ってはいない。苦しむことによって人は克服する喜びを感じるのだが、そうした真の喜びを感じていない。
四段は世間にもてはやされる喜びは感じているだろうが、これは堕落だ。
ちまちましたいい子になるのではなく、荒削りに破天荒に自分の能力を最大限に発揮しなければならない。
佐藤天彦名人もやはり詰将棋・終盤力の強い人である。氏は奨励会に入った当時、なぜ序盤や中盤の研究をしなければならないか分からなかったという。
プロになってからも、どうすれば序盤や中盤の研究をやったことになるのかわからず模索が続いた。藤井猛九段(*)に巡り合ってようやく序盤・中盤の構想を練るやり方が分かったという。
(*)藤井猛九段:
久保利明王将・鈴木大介九段と共に棋界を代表する振り飛車3人男の一人。「藤井システム」や「角交換型振り飛車」などの新戦術の開発で有名。
佐藤名人が語るところによると、本当に強くなるためには単に勝てばいいのではなく、相手の一番得意とするところに飛び込み、そこで苦しむことが大事だという。
相手の強みを殺すのではなく、むしろ相手に最大の強さを発揮してもらう。そうすれば大いに勉強になるという。
そうやって地力をつけた後で、最近になって序盤・中盤の研究も十分に行うようになったしPCの活用も十分にやるようになったので名人になれたという。
これが本当ではないだろうか?
1.藤井四段もいずれは真に強い相手と当たるであろう。その時真に勝ちたいというインセンテブが得られるであろう。
しかし負けることによって再び下位の人間と当たることになる。その時同じやり方をしているのでは楽な勝ち方しかできず時間の無駄だ。
今やっている楽な勝ち方も時間の無駄だ。
1.やはり若いときは勝ちにこだわるのではなく、真に地力をつけるため、がむしゃらに無我夢中で取り組むことが重要ではないだろうか。他人の評価は必要ない。堕落だ。
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