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麻生太郎「とてつもない日本」批評(8)081009 2008年10月09日
=マルクス「労働価値説」への付記=
この記事は予定外ではあるが、
「麻生太郎「とてつもない日本」批評(6)081008」
への付記である。
マルクス「労働価値説」に関してはこの際私の考え方を全てまとめておいたほうが良いと判断した。

既に、
「麻生太郎「とてつもない日本」批評(5)081007」
において、
「更にここでは述べないがこの説にはさらに重要な欠陥が存在すると思われる」
と述べた。それはどういうことかを今回記事で述べる。

○「批評(5)」において、「普通に生活するに足るカネが賃金だとすると、そこに資本家にとって大きな儲けの鍵が存在すると考えられる。つまり、科学技術が発展すれば、昨日よりも今日の方が1人の労働者の生産できる商品の量は増えていくだろう。だがいきなり労働者の必要とするものが増えるわけではない。この落差をマルクスは「搾取」と呼んでいる」と述べた。

私が大きな問題だと思うのは、この「搾取」という名付け方からも明らかなように、このような命名法は決して単なる「定義」ではなく、道徳的非難を含んでいると考えられるのである。

だが、労働者は強制労働させられている訳ではない。自発的に一定の賃金と引き換えに労働を提供することを約束したのである。又経営者の側も、特定の従業員を雇うことを押し売りされた訳ではない。つまりこの両者の関係は、自由な契約関係なのである。労働者は、ある企業に対し、一定の労働を提供して金を貰うことを、そのような交換をしないで寝ているより得なことと考えたから働いている訳だ。資本家の側も同じである。両者が得をしているのである。両者が得をすることこそが経済の本質であり、社会の本質なのだ。

だから、両者が満足して契約をやっているのだから、これを「搾取だ」などということは大きなお世話である。自由にやっていることに何故けちを付けるのか?ここがマルクス主義が自由思想と相容れない点と考えられるのである。そこにマルクス主義が歴史的に大きな功績を挙げ、自由と民主主義のために闘ってこられたことと同時に、マルクス主義自体が内部から次第に改革されてより良いものに変化し、現在の日本共産党の綱領路線となっている所以もある。つまり全く初めから問題ないものであれば、不破さんなどもこれまで理論的苦労をされる必要もなかった訳だ。私は、当事者が自由意志でやっていることを「搾取」と呼ぶのは問題あると思う。

○だがこれに次のような反論があると思う。「自由意志というが、労働者は労働力を売る以外にどういう選択があるのか?」と。沢山あるのである。金をこつこつ節約してため、資本家に成り上がる人も五万といる。政治家になる人もいれば、芸術家・スポーツマン・科学者・・。これらも初めは雇われるところからはじめる場合が多いが、成功すれば独立する道が開ける。小説を書いて成功した人もいるではないか。医者・弁護士もある。選択は無限にある。あとは本人の意思と努力だ。
だから一番楽な生き方が雇われることだと言えるだろう。そしてBRICsなどが台頭すれば人手は余ってくる。余っている物の値が下がっていくのは当たり前なのである。ものの値が下がるということは、それに関するニーズが減ってきていることを意味する。その場合は、労働力でなく、別の売り物がないか考えることが賢いだろう。
また、インターネットで株のデイ・トレードということをやっており、若くして20億円くらい既に稼いだという人をTVで見たことがあるが、これは立派な人である。こういう人が多くなることが明日の日本を支えるのである。私はこういう人が増えることを期待する。ホリエモンという方が居られ、何という苗字であったかは忘れてしまったが、この方も法律さえ守っておられれば立派な方であったと思う。

○では、「搾取」は存在しないのか?マルクスが「資本論」で書いたようなものは搾取とはいえないが、搾取は立派に存在する。官僚の無駄遣いによる甘い汁の絞り取りがこれに当たるだろう。
また、政・財・マスコミによる「ばら撒き煽り」。すなわち、どんどん自分たちにばら撒かせる。その為に税を上げる。借金をする。或いは低金利政策により、結果的にインフレを作り出し、一般大衆の金利収入を奪い、物価値上げで苦しめ、そしてお札をどんどん印刷することで自分たちに貸し、インフレで返す時はほとんど価値のない安値を返せばよいというバラマキ。しかも、これでバブルを作り失敗したらその付けはあらかじめ全て一般大衆に行くことが決まっているというシステム。その中でマスコミが広告収入で肥え太っていく代わりにバラ撒きを煽り続けるというやり方。これこそが搾取なのである。

なお、マルクス「資本論」は「搾取の問題だけを論じた本ではない。第1巻はこの問題が中心を占めている様に見えるが、実はその後の準備の側面が強い。第2巻では、マルクスによって史上初めて確立された最初の「マクロ経済学」が扱われる。今日では近代経済学のマクロ経済学の計量経済学という分野になっている。これは今日では、「マトリックス」(「行列」と訳される)という数学的手法により極めて美しい物に発展しているが、マルクスにより初めて確立された形の方が、基本的アイデアも明確だし、そのような原始的形でも十分に今日的分析に使用可能なものである。
また、第3巻では、「平均利潤率低減の傾向の法則」というものが扱われ、第1巻で資本主義の出現の歴史的法則が扱われたのに対し、第3巻では資本主義が滅亡していくという法則が扱われている(但し、この法則は未だ証明されたものとはなっていない)。
以上、極めて興味深く、様々な発想に刺激を与える可能性に富んだ書であり、是非これからの若者が挑むべき本であると考える。

参考文献:
「とてつもない日本」(麻生太郎/2007年6月/新潮社)
マルクス「資本論」全3巻

麻生太郎「とてつもない日本」批評(7)081008
○第5章「地方は生き返る」:
この章では、「3位一体改革」、自治体の数を減らし集約する、役人を減らし「小さくとも暖かい国」を目指すなどが語られている。これらの中には大変いいことも言われている部分はあるが、政策優先順位を間違えて道路建設を最優先で推し進めているなど、言葉ではなく実態を見ていくことが重要だろう。

○第6章「外交の見取り図」:
ここでは次のようなことが述べられている。
・「従来通り、アメリカと同一歩調をとることを基本姿勢とするのが、日本にとって得策と考えていいのではないか」。

このことは、日本が嘗てベトナム戦争、イラク・アフガン戦争に協力したように、今後も米国の侵略に協力しようといっているのである。
米国の侵略戦争はこれだけにとどまらない。米国は戦中−戦後にかけ、中国自体を侵略した事実がある。蒋介石政権という傀儡・独裁政権を支えたのは米国だ。また、韓国を侵略した事実もある。韓国では戦後直後に、自発的に民族連合政権が作られた。だがそこに左翼が参加していることを理由に進駐米軍はこれを解散させた。そこに参加した右翼や保守勢力は、その後米国が連れてきた独裁者・李承晩政権により暗殺されていった。更に旧ソ連と手を組み、共同で「国連信託統治領」(植民地)にしようと図った。またフィリピンに傀儡政権を作って侵略したし、インドネシアにスハルト傀儡政権を作って侵略した。イラクがフセインの独裁になった切っ掛けも、CIAが仕込んだ毒に民主政権の首相が倒れたのが切っ掛けだった(「中東の歴史とフセインの死刑4. 070118」)。

米国の侵略の魔の手が及んでいないアジアの国は少ない。だから中国は警戒する訳だ。米国の侵略戦争に協力し、A級戦犯の祭られている靖国神社を政府首脳が参拝する。ここを中国や韓国は警戒し、だから恐らくは無駄な軍事力強化をやっているのである。日本はかつての戦争で中国人を約2千万人殺した。これを忘れろという方が無理である。忘れさせるためには日本が米国の戦争に協力せず、靖国にも参拝しないことは絶対に必要だろう。ところが麻生氏は次のような甘い考えを抱いている。

・「和解と協調の精神で過去を克服し、過ぎ去った事実を未来への障害としないことが重要である」(p.133)。

米国の戦争に協力し、靖国に参拝してそういうことを言うことは全くの無理難題を吹っかけるという物だろう。また、

・「中国に日本と同じような透明性を求めたいと思う。とりわけ軍事面で・・」(p.133-134)。

これまた無理難題以外の何物でもない。軍事的力とは、強い側は見せびらかし「透明に」することで敵を威圧することが出来る。弱い側は軍事力を秘密にせざるを得ない。日米に比べ、中国の側は軍事的に弱いのである。だから日米の側が軍縮をすべきであり、中国が軍事費を増やすことを無駄なことを忠告は出来るが批判は出来ないのだ。先ずもっともっと日米が軍事秘密を明らかにすべきである。又軍事費を削るべきだ。そのことにより中国の側を安心させなくては、中国に何をいっても大した効果はないだろう。勿論次の麻生氏の論は完全に間違いであろう。

・「私に言わせれば、これは原点から問題を見ようとしない、倒錯した発想に思える。
私は靖国神社についてものをいう場合、常に物事の本質、原点を忘れぬよう心がけてきたつもりだ。靖国神社が、やかましい議論の対象になったり、いわんや政治的取引材料になったりすることは、絶対にあってはならない。靖国は、国家のために戦いに命を投げ出した尊い御霊とご遺族にとって、とこしえの安息の場所である。・・靖国はそのような場所であるべきだ」(p.140)。

このような考え方は、自国中心主義の非常に甘い考え方である。2千万人を殺した事実は重い。こういう考え方ではアジアの真の平和友好は出来ないだけでなく、我々日本国民の道義心・モラルを破壊することになる。だから奇妙な事件が連発しているのである。麻生氏のような人物が首相になること自体が日本人の品格とモラルを破壊するものであるとしか言うことは出来ない。

○第7章「新たなアジア主義」:
ここにも様々な良さそうな言葉はある。「柄にもなく、美辞を弄しすぎたかもしれない」とのことだが、何れにせよ、自民党政権の行なってきた実態が重要だ。アジアを「価値外交」で「自由と繁栄の弧」にするという。だがベトナム戦争に協力し、イラク・アフガン戦争に参戦している事実がはっきりと示しているだろう。麻生政権の倒れるのも遅くはないだろう(以上)。

参考文献:
「とてつもない日本」(麻生太郎/2007年6月/新潮社)

麻生太郎「とてつもない日本」批評(6)081008
=前回記事への追補=
先に進む前に、前回記事への追補を行なっておく。
前回記事で書いた。

「マルクスは「労働価値説」が適応可能なのは飽く迄も労働によって幾らでも増やすことの出来るものだけに限定している。ピカソの描いたたった1枚しかない絵を、労働時間で測ることは不可能だ。こういうものは初めから労働価値説は適応できない。すべての商品に適応可能な「限界効用説」と大きく異なるところである。だが豊かな社会になるほど、労働価値説が適応不可能な物が増えていくのである。我が子の形見は世界に唯一のものであり、親に取り無限の価値を持つ。こういうものが歴史が進むほど増えると予測される」。

だが読者の方の中には、「科学技術が進めば、ピカソの1枚の絵でも同じ物をコンピュータ技術によって2枚、3枚と製造できるかもしれない。そうなると、どんな物にも労働価値説が適応可能になるのではないか?」との疑問があるだろう。ここでその答えを出しておく。

例えば、アフリカか何処かの王国があり、3百年ほど昔そこに欧州人が来て、ビー玉と交換に黄金を得たとする。そのビー玉にその当時非常に尊敬され、大きな功績を挙げた王が手で触ったとする。なお、この同じビー玉が世界に現在百個残っていたとする。
さて、その国の民にとりその王は神にも等しい人であり、故にその王が手で触ったということは十分にそのビー玉が国宝であるということになる。それはお金に換算できないことだ。
だがその玉が盗まれ、取り返すため1兆円かかるとし、1兆円までならその国の人はカネを出すというならその玉の価格は1兆円ということになる。だがそれと同じ玉が世界に他に99個残っていて、だがそれにはその王は手を触れていなかったとする。するとその国の民に取り、王が手に取ったということが重要であり、その唯一の1個のみが価値があると考えるかもしれない。だから、労働価値説は全然当てはまらないのである。
こういうものが歴史が進むほど増えていくのである。思い出の品はますます大切にされる。

又、厳密に考えると労働価値説は一切のものに当てはまらないとも考えられる。
よく、「同一労働・同一賃金」というスローガンが言われる。これは常識的に見て当たり前に思える。だが厳密に考えると、誰が一体如何にして同一労働と証明するのだろうか?
例えば、ピカソが絵を描いたと。同じような絵を他の者が描いたと。良く見たら他の者の方が絵も旨く、素晴らしい絵だったこともありうる。だがピカソのファンに取り、当然ピカソの絵こそ価値があるのだ。自分を満足させるのである。うっかりピカソが絵の具をこぼして染みが出来たとしても、何百年か立ったら、「これはピカソが絵の具をたらして出来た染みです」と1億円の値が付くかもしれない。
つまり、サービス業とはそもそも、「あそこの散髪屋(最近はヘアーカット屋というらしい)は自分はファンだから行く価値がある」というものである。
では1つの会社を考えてみよう。従業員が10人いるとして、「同一労働」ということが有りうるのか?極端に言えば、社長に取り「あの子の笑顔は可愛いから、可愛い笑顔を作る努力をしているのだから給料を10%上げてやろう」と考えたとしても、その可愛い笑顔がその社長に取り何物にも掛替えのないものであるとしたら立派に大きな価値を作り出しているのであり、価値の高い物が高く売れるのは当たり前だと言うことになる。
よく、「派遣社員は正社員の2−3倍働いている。それなのに給料が低い」といわれる。だが同じことが言える。会社は正社員には初めから高い給料を出している。人間とは自分が入れ込んだものを益々愛着するようになる。可愛い人間に沢山給料を出すのは当たり前だということに成る。

つまり経済学とは飽く迄も一定の前提や仮定を置いた上での理論構築であり、以上に述べたことまで全部厳密に理論に入れてしまえば、当然全く別の経済学が構築されるだろうし、こうしたことをある程度のところで切って考えることにすればマルクス経済学が出てくる。そもそも人間の行動は予測不可能なのであり、完全に厳密な経済学は存在しない。だから如何にして重要なポイントを抜き出して数学的にこなせる物に出来るかが重要なのである。

労働価値説が正しいか、限界効用説が正しいか、それは総合判断の問題であり、私は後者に軍配を上げているが、どちらが絶対に正しいとかの問題ではない。ただ、商品価値は消費者だけが決めるのだと決め付けすぎると、上で見た様なえこひいきが生じる。逆を考えすぎると「穴を掘って埋める労働」に権利を与えすぎることに成り極めて不経済なことになる。そればかりか、泥棒にさえ、自分たちは汗をかいたのだと権利を主張されることになる。だからバランスの問題なのだ。施政者は経済が発展する良い方法を考え、然し世論が「同一労働・同一賃金」ということを支持するようであるならばある程度これを考慮していくということではないだろうか。

参考文献:
「とてつもない日本」(麻生太郎/2007年6月/新潮社)
マルクス「資本論」全3巻

麻生太郎「とてつもない日本」批評(5)081007 2008年10月07日
*マルクス「労働価値説」の紹介:
私の理解では、これは資本主義社会における「商品価格」の説明の理論だと思う。
先ずマルクスは、
原始社会における物々交換
を考える(そのような言葉は使われていない。あくまでも私の把握できた内容を、こなしてご紹介している)。
そのような物々交換社会において、海辺の村が魚を取り、山の中の村が猪を取って交換したとすれば、当然労働時間に比例した率で交換されることはないだろう。そこには様々な駆け引きがあるからだ。
しかし、相当な時間が経ち、互いの手の内が分かり、互いの獲物がどのようにして取られているかが分かり始めると状況は変わる。同じ位の努力をしたものが同じ位で交換されなければ一方の側が損をしたと思い始める。そうなれば、損をしたと考える側が何時かは自分たちで今までは他の村から入手していた獲物を取りたいと考え始めるだろう。こうして長期的には、交換される獲物の量は、その中に込められていると想定される努力の量・汗の量・結局「普通人の平均的に要する労働の時間量」が等しいと思われる分同士が交換されることになるだろう。
これは、「等しい労働の量がこめられたものが等価で取引されるべきだ」という規範を言っているのでなく、結果的に交換とはそうなるはずだと言う科学的結論を言っているのである。

次にマルクスは、
近代社会以前の経済社会
を考えるが、技術の発展、道具類の発展により、労働が商品価格に結実する仕方が次第に変化してくる。この為単純な「普通人の平均的に要する労働の時間量」が商品価値を決定すると言えなくなる様子が描かれる。例えば前回記事でも書いたように、文化の発展により、自分の責任でもないのに自分の労働が一気に大きく価値を喪失することが起こり得てくる。これに伴い、マルクスは「価値」の定義を少しずつ変えている。つまりマルクスの言う「価値」の定義とは、それぞれの時代に応じて変えるべきものとされているのである。
だが兎も角、近代以前の社会においては、「価値」とは「価格」の長期的に見たときの平均値であり、それは複雑な定義から演繹される物とされている。

ところが、
初期資本主義社会段階
になると、マルクスの記述は大きく変わる。これまでの常識とは異なると思うが、私の話が信じられなければ是非原典に当たっていただきたい。資本主義社会になると、「商品価格」を時間的に長期平均したものが「商品価値」と言えなくなるのである。つまり、労働時間と商品価格が非常に乖離した物になる。
その説明の前に言っておくが、マルクスは「労働価値説」が適応可能なのは飽く迄も労働によって幾らでも増やすことの出来るものだけに限定している。ピカソの描いたたった1枚しかない絵を、労働時間で測ることは不可能だ。こういうものは初めから労働価値説は適応できない。すべての商品に適応可能な「限界効用説」と大きく異なるところである。だが豊かな社会になるほど、労働価値説が適応不可能な物が増えていくのである。我が子の形見は世界に唯一のものであり、親に取り無限の価値を持つ。こういうものが歴史が進むほど増えると予測される。だが元に戻る。
資本主義社会になると、商品の売り手は労働者を雇った資本家である。つまり、商品の作り手が直接商品を売るのではない。資本家は相互に競争しており、儲からない産業からは資本を引き上げ、儲かる産業に進出するだろう。この競争の結果、長期的に見ると各資本家の利潤は、資本額に対し等しい利潤率を持つようになるはずだ。若しも低い利潤しか上げていない資本があれば、その資本はもっと儲かる産業分野に引っ越すだろうから、新たに参入した分野で競争が高まり、結局多くの参入があるために儲かる分野は左程儲からなくなり、儲かっていなかった分野で会社の数が減ることで競争が減り、儲かるようになる。こうして利潤率は平均する。

ところで生産とは、同じ投下資本でも、ほとんど労働者を雇うことに費やされ、機械や原料を買うことがない産業もある。逆にほとんど人を雇わないが、機械や原料に沢山投資する産業もある。この2つで利潤率は等しくないといけない。

ところで賃金とは何だろうか?労働者が普通に生活できる額より多いわけでもなく、少ない訳でもない。勿論賃金が非常に高い時代もある。だがそういう時代は、子どもの数を産めば親は儲かる訳だ。だから「労働者育成業」(子供を生み・労働者に育てる産業)が盛んと成り、人口が急激に増える。これにより需要と供給の関係が働き、「普通の生活が出来る額」に比べ賃金は下がっていく(何が普通かを決めるのは主観だから、「普通」のレベルが上がれば人口は減っていく。賃金が上がり・人口が減ることもある)。
一方、賃金が下がりすぎては生活が出来ないから、賃金の下限も存在している。こういう訳で賃金とは上限と下限のあいだで振動し、結局「普通に生活できる金額」に落ち着く。
だが以上は、マルクスは「資本論」を「完全自由競争社会」を仮定して理論構築している為、つまり経済学とは飽く迄も一定の仮定に基づくモデルの上での理論だから、現実には労働者の政治権力が強くなるとか、労働組合の力が強くなれば当然「完全自由競争社会」でなくなる為、賃金がこういう仮定よりも上方に突き抜ける可能性は存在する。だがいまは、マルクスの生きた初期の資本主義、「完全自由競争社会」に近かった時代はどうだったかを考えていく。

普通に生活するに足るカネが賃金だとすると、そこに資本家にとって大きな儲けの鍵が存在すると考えられる。つまり、科学技術が発展すれば、昨日よりも今日の方が1人の労働者の生産できる商品の量は増えていくだろう。だがいきなり労働者の必要とするものが増えるわけではない。この落差をマルクスは「搾取」と呼んでいる。

具体的に考えるとこうだ。分かりやすく説明する。科学技術の発展により、すべての生産が2倍の効率に高まったとする。すると労働価値説の考え方では、全商品にこめられている労働の量は変わっていないから、商品価値は全部2分の1に下がることに成る。つまり、労働者が必要とする生活必需品も、半分の価値になるわけで、労働者の受け取る賃金も半分になる。この為剰余分を資本家は儲けることが出来、搾取が可能となるわけだ。

ところがこれは飽く迄も単純化された説明であり、資本主義の最も初期の、余り資本家の数が多くない頃の話であり、資本家の数も増え本格的に資本主義が始まると実はこういう話は成立しなくなる。

先ほどの平均利潤の話に戻そう。話を単純化するため、ここに全く人を雇わない産業があるとする。いわば商業の一種とする。右の品物を100万円で買い、左に移す。だがこの産業も平均利潤を受け取らねば成らぬ。平均利潤率が10%だとすれば、右の品物を100万円で買い、左に移して110万円で売る。全然労働が付加されていないのに値段が10万円高くなる。これでは全く労働価値と無関係に見える。実際、これで「搾取説は消滅した」とマルクスの時代は言われたのである。では資本主義社会では労働と価値は無関係なのか?ここをマルクスは「資本論」第3巻で解明し、商品が流通を通じて価値の再分配が生じ、「時間的に長期平均すれば社会全体で生産される商品価格と労働の量が比例する」ことを突き止めた。

以上より分かることは、マルクスの「労働価値説」とは、個々の商品価格と・それを生産するために要した労働の量の一致を主張する理論とは全然別物であることだ。だからマルクスのこの説をもって、「自分はこれだけ努力したのだから・これだけ受け取る権利があるはずだ」というようなことは全く出てくることはありえない。

先にマルクスの理論は労働によって幾らでも増やせる品物だけに適応できることを述べた。だが
現代の資本主義社会
では、そのような品物であってもマルクス理論を当てはめることは無理である。過去の金本位制時代と違い、現代は通貨管理制である。例えばインフレ政策を取れば、諸商品は不均一に値上がりする。資本主義初期には成立したと考えられる「時間的に長期平均すれば社会全体で生産される商品価格と労働の量が比例する」ことも現在は成立しない。更にここでは述べないがこの説にはさらに重要な欠陥が存在すると思われる。

○この章のまとめ:
麻生太郎氏のこの本の第4章第1節から話は発展した。私の言いたいのは、マルクスの考えが間違いだから麻生氏の考えが正しいのだということではない。
「この平等主義思想を作り出したもとは労働価値説だろう」(同書p.89)。
だから後者が誤りなのだから前者も誤りだとする考え方が可笑しいと言いたいのだ。「労働価値説」が誤りでも「平等主義思想」が誤りとは限らないのだ。
「ちょっと乱暴な議論だが、何しろ仏教やキリスト教ですら、この世での平等は唱えなかった。彼らが説いたのはあくまでも、あの世での平等・・」(p.88)。
そんなことはない。シャカはこの世での平等をこそ説いている。日蓮もそう説いているし、小乗仏教以前の原始仏教においてシャカは初めから大乗仏教を、日蓮仏教を説いていたのである。また、マルクスの試みは失敗に終わったとはいえ、彼の著作にも平等主義思想への模索と大きなヒントが存在している。マルクスはそう簡単には否定できないのだ。

何故私はここに拘るか言おう。麻生財閥は太平洋戦争中、朝鮮人を強制労働させていたのである。朝鮮人の血と汗の結果現在の麻生財閥が存在するのだ。人間の命の価値は無限である。麻生財閥は無限の朝鮮人の命に負っているのである。だから、労働の価値を麻生氏はどう考えるかが問題になるわけだ。経済学は一定の仮定に基づく理論体系であり、どれが絶対に正しいとかは言うことが出来ない。マルクス経済学も十分に1つの参考となるものである。だから一定の限定された状況を考える上では、「何であれだけ努力したのに報われないんだ」ということが正しいと考えられることも有りうるのだ。麻生氏がその大きな包容力の下、労働価値説をも参考資料として頭の片隅に入れておいて頂くことを希望するものである。

この問題に関し追記の記事あり>麻生太郎「とてつもない日本」批評(6)081008
更に追記あり>麻生太郎「とてつもない日本」批評(8)081009

参考文献:
「とてつもない日本」(麻生太郎/2007年6月/新潮社)
マルクス「資本論」全3巻

○第4章「「格差感」に騙されてないか」:
心境の変化があり、以下簡単にまとめていきたい。と思ったが、この章は内容が重要で、密度も濃く、しかもレベルの高い話を分かりやすくされている。所謂週刊誌のいうような軽薄な方とは全然思えない。
そこで、この章は全3節から成っている為、各節毎に検討する。
まず、第1節は後回しにし、第2節から見る。

*第2節「なんとなく気が晴れないだけ?」
ここでは最近の格差拡大の原因、または格差が広がったと錯覚が生じる原因を3つあげている。
第1に高齢化だ。現在も年功序列が広く存在している為、高齢化が進めば統計上は格差が広がったような数字が出る。
第2に長く続いたデフレの関係だ。物価値下がりで実際は生活水準は向上したかもしれないが、給料が上がらない為生活が苦しいとの錯覚が生じる。
第3に規制緩和で例えばタクシー運転手の給料が競争の為下がったという類の話だ。だが規制緩和がなければ失業者がタクシー運転手に成ることも出来ないから、その人はずっと失業のままだったかもしれない。そうなると逆に格差は広がっていた。
以上より氏は、活力を失わないように競争を維持しつつ、然し行き過ぎたところは是正することが望ましいとする。
これらの主張はそれぞれもっともであろう。だが氏の分析に決定的に抜けているところがある。氏は収入格差という「フロー」の面しか見ていない。格差で重要なことは「ストック」だ。株券や土地・銀行預金などの「財産」で考えると、日本の場合も世界的に見ても、「所得」(年収)よりも格差は圧倒的に大きいのだ。つまり、経済が高度化すればするほど所得よりも財産こそが大きく蓄積され経済に決定的となる。これが投資・投機の形で現在の世界的インフレを引き起こしている訳だ。
フローに比べストックは把握が困難だ。しかも合法的に少なく見せかけることが出来る。自分の財産はゼロで全て会社が保有しているところもある。財産は大きくなるほどその威力を発揮する。だからストックの格差は急速に大きくなっていると思われる。

*第3節「教育は格差より悪平等の問題」
この節で氏は大変に重要な話をされている。耳を傾ける価値がある。明治以来の教育制度とは、先進国に追いつくための国策に基づく物だった。そこで、各人の長所を伸ばすより、欠点を克服し、粒をそろえることが優先されたのである。こういうやり方が時代遅れになっているのではと訴えられているのだ。

*第1節「平等が生み出す不平等」
ここを最後に回したのは、ここに一番の問題性があると考えたためである。レベルの高い説得力のある議論をされているが、ここで最も重要なポイントは、マルクスが唱えた「労働価値説」の是非である。氏のマルクス批判はレベルが高く説得力がある。普通に考えるならば正しいものと大体考えて差し支えない。

だが、ここでは厳密に考えたい。
「この平等主義思想を作り出したもとは労働価値説だろう。マルクス経済学の中心となる考え方で、人間の労働が価値を生む、というものである」(p.89)。

このような考え方が常識化されており、経済学の教科書には必ず出てくる。多くの優れた・良心的経済学者もこう解説している。そればかりか、マルクス経済学者自身がこのように解説することもある(マルクスの同志だったエンゲルスもこれに近い説明を確かしたことがあった)。

この説明が正しいならば、つまり同じ位努力した人は同じ位報われるべきだという平等主義がマルクス主義ということになる。そうであれば、地面を掘り、それを埋め戻す労働も、同じ位一生懸命汗を流した労働と同じに報われるべきだと言うことになる。これは幾らなんでも可笑しいから、麻生氏は”結果の価値”ということの重要性を訴えられる。

”同じ汗をかいても人気グループのコンサート券は高く売れ、麻生太郎が同じコンサートをやっても高く売れないではないか”(p.90)と。

これは全く正しいのであり、労働者は自分のことではなく・相手が何を望んでいるかというニーズに応える必要があるということである。相手の望んでいるサービスを頭を使って発見し、ニーズに応えるならばその労働は報われ「価値」を生み出す。だが自分勝手に不必要な「労働」をやれば、それは「価値」を生み出さず、同じ価値で買えというのは押し売りなのである。結果が重要なのだ。汗の量ではない。頭である。

問題は、確かにこのような幼稚な論理に基づき「平等」を叫ぶ連中もいるし、昔「新左翼」にいたこともある。だが問題は、果たしてマルクスがこのような幼稚な考え方をしていたかどうかである。マルクスの「労働価値説」には間違いなく誤りが含まれている。だがそこから学ぶべき多くの点もあるからこそ「資本論」は現代の古典といわれているのだ。

実はマルクスはこのような単純な見方をしていない。今手元に「資本論」がないため記憶に基づいて解説する。
「資本論」第1巻の冒頭に次のように述べられる。「商品は価値と使用価値から成る」と。「使用価値」とは消費者から見た商品価値(ニーズ)と思われる。そのすぐあとの注があり、地面を掘って・埋め戻す労働は、「使用価値」がゼロだから「価値」もないと書かれている。
これだけでも先の単純な見方を否定している。
更に、では「価値」の方は労働者から見た「努力度」のような物だろうか?実はこれも違う。
マルクスは述べる。ある高度な技術を要する労働が、養成に年数がかかったとする。労働者は働けなくなるまでに元を取らねば成らないから、その分の積み増しの賃金を受け取らねば成らない。ここまでは「労働=価値」説で辻褄が付く。だがその後マルクスは次のように言う。
若しも文化の発展により、或いは発明により、或いは機械の出現により、その高度な労働が誰でも出来るものに変じたら、一挙にその労働は価値を喪失し、積み増し分の価値を失うと。

つまり、マルクスの考える「価値」とは、外部の状況で大きく変動するのだから労働の汗のかき方とか・「努力度」と言ったものとは全く異なるのだ。今までそのような理解をしていた人はマルクス理解がお粗末だったことを反省すべきだろう。

つまり、マルクスの「労働価値説」とは、確かに商品価値を労働に関係付ける説ではあるが、「労働の努力が価値を生む・若しくは価値そのものだ」とか、「同じ努力をした人は同じだけを受け取るべきだ」と言った考え方とは無縁なのである。少しわき道に走ってしまうが、ではマルクスの言う「労働価値説」とは一体何なのか?そして何処が間違いなのか?これを論じ出すときりがなくなるため、次回記事でこの説の紹介だけをごく簡単に述べる。

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