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書庫科学弾圧史(TP)

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(つづき)
1.では、イエスがユダヤの王として、自分を神への生贄としてささげる目的は何だったのだろうか?私はそれを知るため、どんどん旧約を読んでいった。すると、全く意外な事実が明らかになった。その答えは、「預言の書」と呼ばれる多くの書の中に、分散されていた。私はノートを取り、つなぎ合わせた。すると、

「近未来に、罪の無いユダヤの王=救世主が出現し、道を説くが、それでもユダヤの人々は目覚めない。それどころか、彼を張り付けにし、殺してしまう。彼は死ぬ時、『神よ、どうして私を見捨てられたのですか?』と叫んでから息を引き取る。その後、天罰がユダヤ人に降り、ユダヤ人は塗炭の苦しみを受け、やっとユダヤ教の正道に戻り、救われる」

と書いてあったのである。
(そうだったのか!)私は初めて合点がいった。イエスが十字架上で最後に叫んだ言葉『我が神、どうして私をお見捨てになったのですか?』これはイエスが絶望のあまり、発した言葉では全然なかった。まさにイエスはこの言葉を発するチャンスを狙っていたのである。

旧約によると、ユダヤ人は世界を征服する権能を与えられている。しかし、イエスの時代、ユダヤ人はローマ帝国に支配され惨めであった。イエスは、本来のユダヤ人の姿を回復させるため、先ず同胞どうしが愛し合う道徳改善運動を始めた。然しイエスの目的が単なる道徳運動であるならば、わざわざ貼り付けになる必要はない。彼はユダヤの王=救世主である。彼の目的は強大なユダヤ国家の建設にある。その手段として、先ず彼は自分を道徳的に罪無き人格に鍛え上げた。そして、旧約の預言どおり、罪無き自分が十字架上で死ぬ必要がある。それによりユダヤ人には天罰が降り、ユダヤ人は最悪の事態に追い込まれる。こういう不幸がユダヤ民族の上に何百年か降り注ぐならば、ユダヤ人は目覚め、正道に戻り強大な世界帝国を築き上げるだろう・・・。

イエスの目的は果たされた。イエスの死後、ユダヤ人はローマ帝国への反乱に敗北し、パレスチナの地から追放された。そして2千年近く、ユダヤ人は苦しみ続けた。そして今、ユダヤ国家は再建されている。それどころか、米国を支配しているのはユダヤ財閥だからある意味で世界征服に成功しているともいえるだろう。

(狂っている)とわたしは思った。新約に描かれたイエスの姿は美しい。感動的である。彼が一種の偉人であることは間違いない。新約に説かれたイエスの言葉も、人間の真実の道であることに間違いは無い。イエスの言葉を実践しようとしている多くのキリスト者が偉大なのも事実である。

しかし、素晴らしいユダヤ国家を作るために、先ずユダヤ人への天罰を欲し、そのために自分の人格を磨いて、進んで張り付けになる。これは正しいことなのか?それほど深くイエスは旧約を信じた。

わたしは、「神よ、どうして私を見捨てたのですか?」と叫んで息を引き取ったイエスの心を思った。貼り付けで死ぬことは容易ならぬ苦しみである。両手両足を釘で打ち付けられて、血を流しながら、少しずつ死んでいく。あの言葉を発するチャンスは一回しかない。あまり早すぎては、最後の言葉にならないかもしれない。遅いと、あの言葉を発せずに死ぬかもしれない。それでは、旧約の預言の実現と言えず、何のために自分が死ぬのか分からない。超人的な意志の強さである。

日本の張り付けは、槍で一気に殺されるからまだいい。ローマの張り付けは、体を4本の釘で支えるだけである。体は4本の釘で空中に止まっている。傷口は体重で次第に大きくなる。

イエスは死ぬ前にあの言葉を叫び、旧約の預言を実現させることが目的だった。何という苦痛、何という意志の強さだろう。

(狂信者)ふと、心に浮かんだ。イエスは偉大な宗教家、天才的な宗教家だった。天才と狂人は紙一重だ。キリスト教とはこのイエスの天才と狂人の紙一重のところから出発した。

(今日も、多くの精神病院で、多くのキリストが生まれているのかもしれない)。だが矢張りイエスは偉大である。あのようなことを考え、実行したこと自体が、全くとんでもないことではないだろうか?それだけイエスは純粋な人間であり、ユダヤ教=旧約聖書を深く信仰していた。「若しも芥子粒ほどの信仰があれば、山を動かすことも出来る」と述べる資格の確かにある方だった。

私は日本にもっとキリスト者の増えることを望んだ。しかし、私自身はどうしてもキリスト教徒にはなれなかった。合理的思考と反するものを感じた。私はやがて仏教への関心を深めていった
(つづく)。

参考文献:
「聖書」(1992/日本聖書協会)

当HP掲載の参考記事:
当HPグループ「キリスト教」関連目次
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38568841.html

(つづき)
1.私はこれを読み、これは何だ?と思った。全くのカルト宗教ではないか?神のためには目的・手段を選ばず。どう考えても、これは太古、ユダヤ教の指導者が、信徒をユダヤ教に全的に従わせるために作った話と思われた。教団の命令には、どんな無理な要求にも従えと、言うことである。これがユダヤ教・キリスト教の聖典なのである。「アブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒、キリスト教徒、並びにイスラム教徒によって今日でも讃えられている」(ウイキペディア「イサクの燔祭」より)と言う。

次に出エジプト記、いわゆるモーゼの話が出る。ユダヤ人はエジプトに430年間すみ、奴隷の境遇から逃れるため、モーゼに先導されて紅海を渡った。そして、シナイ山において、モーゼは神より、「10戒」を授けられた。しかし、実は10戒以外にも多くの言葉をモーゼは授けられている。その中には「魔女は、これを生かしておいてはならない」と言った言葉もある
(「出エジプト記」22章18節)。

モーゼがシナイ山に登って神の言葉を受けていた時、ふもとではユダヤ人たちは、モーゼからそむき始めた。彼らは金(きん)を鋳(い)って牛を作り、これを神としておがみ始めた。モーゼは急いで山を降り、神の言葉を伝えた。
「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰に剣を帯び、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」。その日のうちに、3千人が殺された。そこでモーゼは言ったのだという。
「あなた方は、おのおのその子、その兄弟に逆らって、今日、主に身をささげた。それで主は、あなた方に祝福を与えられるであろう」
(「出エジプト記」32章1節-29節)。

こうして、ユダヤ人集団に対するモーゼの絶対独裁権は確立された。最早、モーゼの神以外の神をおがむ人間はいなかった。これが、「汝、殺すなかれ」という十戒を神から授かった直後のことである。どちらも神の命令である。そしてユダヤ教・キリスト教の歴史を見ると、「汝、殺せ」という神の命令の方が強いことが分かる。

1.更にどんどん読んでいくと、実に血生臭い。ユダヤ国家の建国のためには、元々住んでいた住民を皆殺しにする必要があった。なるほどと思った。当時の中東の厳しい情勢の中では、ユダヤ人が生き残るためには、宗教で固く団結する以外なかった。一神教とは最も独裁に都合のよい宗教である。モーゼはそのような状況の中では、やはり優れた民族指導者であった。

そしてユダヤ国家建国後、強大な敵との戦いの中で、民族の危機に陥ったことは何度もあった。そのたび、救国の英雄が現れた。それらの軍事的・政治的指導者は、「救世主=キリスト」と呼ばれた。キリストは1人ではなかった!これで福音書の謎が1つ解けた。イエスは、ローマ人の総督ピラトに引き渡された時、「あなたはユダヤ人の王であるか」との問いに、「そのとおりである」と答えている。イエスは、自分はユダヤの王=軍事・政治指導者=救世主と考えていた!

旧約に戻る。ユダヤの英雄たちは、戦争に勝利するため神への生贄を必要とした。中には自分の娘を生贄にした人物もいる。それでは、それらの生贄はどうなったのだろうか?勿論殺されるのだが、問題はその後である。旧約によると、生贄は後で人々が食べることになっていた。そこに例外規定が書かれていないのである。

旧約には、次から次へ、人間が人肉を食べる話が出てくる。ユダヤ人とは人肉を食べる文化を昔有していたのである。それらは大部分、ユダヤ教を裏切った異教徒が、自分の長男を異教の神にささげ、食べたと述べられている。では本物のユダヤ教徒はどうだったのだろうか?

旧約が異教徒を非難するときの決まり文句は、「彼らは自分の長男を、異教の神にささげ、そして食った」ということである。「異教の神にささげたからいけない」とも読める。ユダヤの神にささげるなら良いことは、アブラハムの話で明らかだ。すると、新約聖書の謎が1つ解ける。

イエスは最後の晩餐において、ブドー酒とパンを、自分の血・肉だと言って弟子に食わせた。彼は、自分の肉を弟子に食わせるという形式を必要としていた。何故か?彼のエルサレムに上京した目的は、自分を神への生贄としてささげることであった。そして旧約の掟によると、生贄は必ず食べなければならない。しかし、イエスは自分の死後、死体が厳しく監視されることが分かっていた。イエスが死から復活したという、流言が広まることをユダヤ既成教団は恐れていたからである。そこでイエスは、死後弟子が自分の肉を食べられないことを心配し、死の前日にあらかじめ自分の肉を弟子に食べさせたのである。イエスの食べさせたものは、本当にパンとブドー酒だったかは分からない。旧約聖書に忠実だったイエスは、本物の肉と血を弟子に食べさせたかもしれない
(つづく)。

参考文献:
「聖書」(1992/日本聖書協会)

キリスト教は排他的か「3」091213
(つづき)
1.旧約に戻ろう。次にアブラハムの話が出る。神はアブラハムを試みて、次のように言ったそうである。「アブラハムよ。あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、私の示す山で彼を燔祭(はんさい;英語では「ホロコースト」。灰になるまで焼き尽くすこと)として捧げなさい」。つまり、息子のイサクを殺して神への生贄に捧げなさいと命じた。アブラハムは息子に薪を背負わせ、山に登った。そして祭壇を築き、薪を並べ、息子を縛って薪の上に乗せた。刀を取って殺そうとした時、天使がやってきて神の言葉を伝えた。「わらべを手にかけてはならない。あなたのひとり子さえ、私のために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることを私は知った」。

そして、「あなたがこのことをし、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、私は大いにあなたを祝福する。あなたの子孫は大いに増え、敵の門を討ち取るだろう」と神は言った。このアブラハムの功により、その後のユダヤ国家の繁栄、今日のイスラエルがあるのだと言う(旧約聖書『創世記』22章1節-19節)。
(つづく)

参考文献:
「聖書」(1992/日本聖書協会)

(つづき)
1.すると、キリストは大変に旧約聖書に忠実であろうとした人であることが分かる。悪魔に「石をパンに変えてみろ」と言われた時、旧約聖書を引用して「人はパンのみにて生くるにあらず。神の言葉によって生きるのであると書いてある」と述べて退けている。

又イエスは、あくまでも忠実なユダヤ教徒であろうとしたのであって、宗教改革をやろうとか、新宗教を起こそうとか、ましてやキリスト教を始めようとした人物ではないことが分かった。イエスの言動は、死刑の前と後で大きく変化している。死刑の後では、弟子たちの前に現れて、「この教えを世界の隅々まで伝道しなさい」と言っている。つまり、ユダヤ教と言う民族宗教から、別個の普遍宗教=世界宗教への飛躍を促している。しかし、死刑後に死からよみがえって弟子の前へ出現し述べた言葉とは何だろうか?それは、弟子たちの創造した幻影ではないだろうか?真のキリストの教えとは、あくまでもイエスの生前の教えではないだろうか?

では生前イエスは何と言っているか?イエスはある時、ツロとシドンとの地方へ行かれたそうである。するとそこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、自分の娘の病気を治してくれと頼んだ。するとイエスは、「私は、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、遣(つか)わされていない」と断った。つまり、自分はユダヤ人だけを救うのであり、異邦人は救わないのだと答えた。更に、「子供たちのパンを取って子犬に投げてやるのは、よくない」と言われた。つまり、異邦人の病気まで治すと、自分の神通力が減るから、肝心のユダヤ人の病気を治せなくなると困ると言われた。

そのときカナンの女は言った。「主よ、お言葉どおりです。でも、子犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは頂きます」と。これにイエスは答え、「女よ、あなたの信仰は見上げたものである。あなたの願いどおりになるように」と。その時娘の病気は癒されたとマタイ福音書に書かれている。

つまり、イエスは常にユダヤ教徒として忠実に生きようとした。彼の常に強調するのは、旧約聖書に忠実であること、その教えを勝手に変えるのではなく、「完成する」=「成就する」こと、その立場から旧約聖書に新解釈を施すことである。

1.こうして私は、イエスを真に理解するためには、新約だけでなく、旧約聖書の全体と取り組む必要を感じた。そこにイエスの真の目的が示されているに違いない。

言うまでもなく、旧約聖書とはユダヤ教の聖典である。ユダヤ教は旧約聖書を聖典とし、それ以外に聖典はない(準聖典とされるものはある)。一方、キリスト教は旧約と新約の両方を聖典としている。キリスト教にとり、これ以外の聖典はない。また、新約だけを聖典にするとか、旧約だけを聖典にすると言ったキリスト教はない。それはプロテスタントもカトリックも共通している(但しプロテスタントの中には、新約だけを特別に重視するとか、更にその一部である福音書のみを重視すると言った派は存在する)。

そして私は旧約を読み、これがキリスト教の正体だったのか?これがイエスの真の目的だったのかと仰天する思いだった。私は新約聖書を読んで確かに感動した。だが、新約聖書だけでは真のキリスト教の姿・本質は理解できないのである。

日本では明治以降多くの宣教師たちが来日し、キリスト教にとって好都合なイメージが広められた。キリスト教を相当詳しく知る人も、その知識は新約、特に福音書によっている。そして福音書を読むかぎり、イエス・キリストは愛と徳に満ち、限りない優しさを感じる。精神力の強さを感じる。とても人間心理を鋭く洞察する人物、偉大な教師・宗教家と感じられる。しかし、新約を読むだけでは多くの謎が残るのも事実である。むしろキリスト教の本質は旧約にこそある。

1.旧約聖書は、先ず神が7日間でこの宇宙を創造した話で始まる。そしてエデンの園でのアダムとイブの話。彼らの楽園からの追放が語られる。そしてノアの箱舟の話となる。

私が初めて聖書を読んだ高校時代には分からなかったが、ヨーロッパや中東では、神が人間を滅ぼす神話が多い。その原型は、メソポタミア神話のギルガメシュ叙事詩にあるようだ。つまりこういうことのようだ。

エジプトでは、洪水があるたびに、川底から泥を丘の上へ上げ、年月がたつにつれ、町はますます洪水に強い状態へ改善されていった。川はますます低く、町はますます高くなった。そして肥料は上流から洪水で運ばれてくる。エジプトの人々は、世界で最も安楽な労働と生活が出来た。こうしてエジプトは平和であり、エジプト神話には何処にもドラマティックなところはなく、寝ぼけたような・退屈な繰り返しだけである。

一方、メソポタミアでは技術の質が違っていた。人々は堤防で洪水を防いだ。年月がたつと、堤防はますます高く、川底はますます泥に埋まり高くなった。一方、堤防を築くため土が運ばれ、町はますます低くなった。こうして、何時か大洪水が発生することは必至となり、実際に何度も大洪水が発生した。人々は、どうしてこんなに度々洪水が起こるのだろうと思った。そしてその答えを、神が人間を憎んでいること、人間の持つ原罪に求めた。

ギリシャ神話を日本人は、日本神話と同様の気楽な神話と誤解している。確かに、罪を犯したら、牛を百頭も直ぐに殺し、それを生贄にすれば許されると語られている。人々は牛を焼いて食べ、酒を飲んでドンちゃん騒ぎする。牛を焼いた香ばしい匂いは天に昇り、神々はこの匂いをかいで満腹する。これにより神々は買収され、人間の罪は許される。これは日本神話にある、何かまずいことがあったら、川に行って身を清めればよい、このみそぎによって全ては水に流される・・・これにそっくりの太平楽で脳天気な話である。

然しギリシャ神話の本質はそこにはない。プロメテウスは、天上から火を盗んで人間に与えた。このためプロメテウスは永遠の罪をゼウスから与えられている。人間の進歩は神々に祝福されていないのである。また、トロイ戦争は何故生じたのか?人類の人口が増えたため、大地の女神が苦しがった。そこでゼウスは、一挙に人類を抹殺する計画を立てたのである。人類を抹殺するためには、世界1の美女を作り、それを英雄たちの中に投じる。すると英雄色を好み、取り合いの戦争が生じる。これがトロイ戦争である。つまりギリシャ神話の基本構造は旧約聖書と全く同一である。その源流はメソポタミア(イラク)神話だろう(つづく)。

参考文献:
「聖書」(1992/日本聖書協会)

キリスト教は排他的か「1」091210
1.先日民主党の小沢幹事長が、「キリスト教・イスラム教は排他的だ。仏教は寛容だ」と発言され話題になっている。政治家は政治に関係する全ての問題(結局、森羅万象)に付いて真実を語るべきだと言われている。小沢氏は原理・原則に付いて高い理想を持つ政治家といわれており、きっと何らかの高い理想に基づき語ることが有ったのであろう。
また政治家は真実だけを、語るべき時と場所において語るべきであると言われている。私のような政治に疎い素人が何故小沢氏があの時と処において語ったのかが分かるはずもなく、きっと何らかの深い理由があったのだろうと想像する以外ない。

処で、学者や哲学者、宗教家は、あらゆる場所と時において真実を語るべきであるとされている。私は別にそのような者ではなく只の3文文筆家であるが、キリスト教の本質に関しては深い関心を抱き続けてきた。そこで、キリスト教が寛容な宗教であるかないかということは今回の記事(何回かのシリーズになる)ではっきりと決着をつけておきたい。どうかキリスト教信者の方は気を悪くせず、ここに書かれたことが真実だとしたら、事実を認めた上で信者を続けてこそ本物であると言いたい。

1.処で、次のようにも言われている。その宗教の全歴史を見ず、部分的に寛容だったかそうでなかったかを論じても意味がないと。イスラム教やキリスト教は寛容だった時もあろうし、そうでなかった時もあるであろう。然し私の考えでは、そうした歴史的事情とは別に、その宗教の本質により、根源的にある宗教が非寛容だったりそうでなかったりすることがあると思う。もっとはっきり言えば、その宗教の創始者の性格が色濃く後を引く場合がある。

仏教の場合はどうか?仏教とは「仏の教え」と定義される。仏とは「悟った人間」の意味である。全てを悟った人間が寛容でないはずがない。相手の事情の全てを知った人間が相手を許せぬはずがないのである。だから仏教は本質的に寛容であろう。寛容でなかったらその「仏教」が偽物であるだけである。
つまり仏教とは、宇宙の根本法則への信仰である。少なくとも日蓮大聖人の仏教はそうである。特定の神や人間を信仰するのでなく法則自体を信仰するのである。

然しキリスト教ではキリスト=神とされている。だから教祖の性格が大きな影響を与えるであろう。イスラム教もアラーの神を信仰する。だからアラーの神とは何者なのかが重要になる。

もう1つの大きな問題がある。それは、その宗教の信者の識字率である。識字率が低ければその宗教の解釈権は教団に独占される。だから教祖やその信仰対象の神の性格ではなく、その教団の性格こそが重要になる。つまり現在イスラム教は、マホメットの性格が寛容だったかどうかと言うことは一部の原理主義者を除けばほとんど問題にならない。日本人がテロリストに捕まれば必ず現地のイスラム教指導者が解放のため努力してくれる。それはスンニ派もシーア派も同じである。つまり現在イスラム教は極めて寛容な宗教といえるだろう。問題はキリスト教である。なお、今回のシリーズは宗教に関心を持つ人以外は読まれなくて結構である。

1.私がキリスト教に大きな関心を持ったのは生い立ちが関係しているであろう。キリスト教系の幼稚園に通っており、何時も神様の話をされた。またよく親に寺社に連れて行かれた。和尚さんが木魚をたたくのを聞いて、ここには何かあると感じた。

私は高校時代、ともかく聖書を読んでみようと思った。しかし、膨大な紙の量に圧倒された。とりあえず「マタイ福音書」を読むことにした。

それはとても美しい物語だった。生まれて初めて、真に感動し、魂を揺さぶられたと思った。涙があふれて止まらなかった。イエス・キリストと言う人物は、何という精神力の強い人なのだろうか。腐敗した世の中を正すため、愛と徳の道を説いた。そのために既成ユダヤ教団に弾圧され死刑にされたのだが、「神よ彼らを許したまえ」と祈りながら死んだ。

私は、これは真理だ、これこそ私の求め続けていた真理が手に入ったのだと思った。

然し同時に多くの疑問をも感じた。一番強く感じた疑問は、何故キリストはエルサレムに上京しなければならなかったのか?結局死刑になるのだが、何を上京してやりたかったのかが分からない点だった。それを知るため新約聖書をどんどん読んでいった。すると、イエスの弟子たちは、次のような解釈をしていることが分かった。

「アダムとイブがエデンの園に住んでいた頃は、人間は全的に善なるものだった。然し蛇の誘惑により、2人は神の言いつけにそむき、リンゴを食べてしまった。このために人間には知恵がつき、堕落してしまい、エデンの園を追放され、以後人間は原罪を遺伝的に有するようになった。そこで神は人間を原罪から救うため、先ず神の子イエスを、肉を有する人間としてこの世に降し、それを十字架上で死なせることにした。これにより、人類は原罪から救われるだけの価を神に支払ったことになる。だからこれからは、人々はキリスト教徒として忠実に生きれば、天国へ迎えられ、原罪から解放されるのだ」と。

1.この話は信じられなかった。私はキリストの説いた愛と徳の道が人間の正しい生き方とは信じられたが、また神の存在も信じられたが、キリストが神の子であると言うこと、天国の存在は信じられなかったのである。また神がこのような手の込んだやり方で人々を救うという話も信じられなかった。だから実在の人間と考えられるキリストがエルサレムに上京して何をするつもりだったのかは依然として大きな謎だった。

また、キリストは自分が死刑になることを予期していたように見える。そして逃げなかった。何故生きて多くの人々に道を説かなかったのだろうか?

また、キリストが死の前日、「これは私の血である」と言って弟子たちにブドー酒を飲ませたのは何故か?「これは私の肉である」と言ってパンを食べさせたのは何故か?

1.次のように考えればつじつまは合うかもしれない。キリスト自身が自分は神の子だと信じていた。だから、エルサレムで死刑になれば人類はその最も高価ないけにえを神にささげたことになるかもしれない。そして原罪は許される。

然し新約聖書の何処でも、キリストは自分を「神の子」と呼んでいない。彼は自分を「人の子」つまり人間であると述べている。さっきのは飽くまで弟子たちの解釈ではないか?更に何度も福音書を読んだ(つづく)。

参考文献:
「聖書」(1992/日本聖書協会)

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