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日本一のHERO俳優 【宮内洋】 出演作品エピソードガイド&各種レポート

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 3月14日の事だった。1977年2月2日付けの新聞縮刷版を読んでいた私は気になる記述を見つけた。それはテレビ番組欄の新番組のコーナーでこの日より放映開始された「快傑ズバット」の紹介文だったが その文中に何と「26回」と記載されていたのだ。これは驚くべき事であった。視聴率の良かったズバットが玩具が売れないとの理由から32回で打ち切りにされた事は多くのファンの間で語り継がれている「事実」だが、もしも最初から2クールの予定で制作が進んでいたとしたら・・・?26話予定を32話に「延長」したのか、50余話の予定を32話で「打ち切った」のか。そんな疑問を感じた私はズバット放映打ち切りの謎に迫るべく調査を開始した。
 
◆「玩具売れない説」はどこから出たのか
 「もしかしたら私が知らないだけかもしれない」と不安を感じた私はズバットファンや特撮ファン、制作事情に詳しい知人等にこの件を尋ねてみた。だが皆口を揃えて「当初から2クールの予定だったとは聞いた事がない」と言う。では「玩具が売れなかったための打ち切り」とは一体どこから出た話なのか。色々と資料をあたって行くうちに、どうやら火元は主役を張った宮内洋やメインライターの長坂秀佳らから出た発言らしいと判明した。以下は「B-CLUBU 10号('86/8)」宮内洋インタビューより引用。
 
 「正直、ズバットが(スポンサーの売り上げ不振で)打ち切られた時は、こっちはスポンサーのCMだけをさせられていたみたいで悔しい感じもありましたね。」
 
 また、長坂秀佳も「快傑ズバット」LDの宮内との特別対談の中で
 
 「オモチャが売れないんで、オモチャのスポンサーが降りるから打ち切りって聞いたよ」
 
と語っている。またゲーム誌「SEGA SATURN MAGAZINE vol.32('97/9/19号)」でのインタビューでも
 
 「それなのに32回で終わっちゃった。見ている人間が大学生とか高めの年齢層が多くて、おもちゃが全然売れなかったのが原因なんだ。」
 
と繰り返し語っている。やはり玩具の売り上げが取れずスポンサーサイドが難色を示した事は事実のようだ。
 
◆当初予定は何クールだったのか
 長坂秀佳は続けて
 
 「どうせなら全話自分で書けばよかった。もっと長く続くと思って他の脚本家も入れたんだけど(中略)後は好きなだけ書いてくれってプロデューサーに言われた矢先に終わってしまったんだよね」
 
また
 
 「32本なんて中途半端な打ち切りをされたこととか(中略)どうせなら自分一人で書きたかった。」 
                                   「ファンタスティックコレクションNo.49 快傑ズバット」より
 
とも語っている。つまり関係者の多くは4クール1年間の放映を念頭に置いていたと思われる。それでは何故初回放映の際に「26回」と言う数字が出て来たのか。
 
 実はこの件に関して関係者から有力な情報が得られた(ご本人に迷惑がかかるため「ズバット」制作に関わった人物とだけしか表記出来ません。ご了承下さい)。ひとつの番組は局側より放映枠を与えられそれに対して会社は制作を始めるが、局側は契約の際に放映期間を明示しないと言う。つまり契約上は半年(26話)とか1年(52話)などの明確な契約がないまま制作がスタートする事になり局側としては日程を明らかにしない事で制作側に対してプレッシャーを与える(ぶっちゃけた話、視聴率次第でどうにでもなるんだよ、って事だが(^^;)。そしてどうやら当時は、局側と制作会社の間では全26回(半年2クール)が「業界のジョーシキ」であり基準になっていたらしい。「ズバット」に対しても同様で、基本的には2クール(半年)を目安に、でも気持ちは4クール(1年)と言う事で制作に着手したようである。
 
◆視聴率は本当に良かったのか
 この件に関してもいくつか引用しよう。
 
 放映当時視聴率は15%前後とかなりの数字を記録していた。(略) 「局内では一番高い視聴率だったのにね。」                      「SEGA SATURN MAGAZINE vol.32('97/9/19号)」より 長坂秀佳談
 
 「当時の東京12チャンネルの中じゃ、最高の視聴率を稼いでいたんですよ」
                                                             「快傑ズバット」LDでの特別対談より 宮内洋談
 
 「(当時:東京12チャンネルの)開局以来の最高視聴率とったんだよね。」
                                                                     「キャラ通('98/6/1号)」より 平山亨談
 
 だがここでひとつの疑問が湧く。以前テレビ東京(東京12チャンネル)の歩みを綴った本(開局30周年記念だったか?)を読んだ際に「快傑ズバット」の記述が全くない事を不審に思った事があった。当時の最高視聴率をマークした作品に一言も触れていないのは一体どういう事か。「ズバット」の前年に同枠で放映されていた「忍者キャプター」はスチール入りで記載されていたと言うのに。この辺りに謎を解く鍵があるのかも知れないと感じた私は、この点においても前述の関係者に直撃した。その結果、明確な答えは出なかったものの「ズバット」は東映エージェンシーの持ち込み企画であるため(通常は制作会社と局の共同制作)「東京12チャンネルの番組」と認められていないからではないか、と言う見解であった(でも、よく考えると「キャプター」も東映エージェンシーの制作なんだが(^^;)。
 
◆放映期間のカラクリ
 情報収集及び事情通の方々とのディスカッションの中で浮かんで来たのが「放送開始と終了時期のカラクリ」である。「ズバット」は1977年2月2日に放映開始したが、同枠の前番組が「忍者キャプター」で、実はこれも43話10ヶ月弱と中途半端に終了している。当時、民放各社の番組改編は春(4月)と秋(10月)の年に2回だった。これに合わせると「キャプター」から「ズバット」への移行はかなり不自然な時期に行われている。そして秋の番組改編に合わせるように同年9月28日で終了している事から、ズバットの「終了」は単純なスポンサー絡みの「途中打ち切り」ではなかったのではないかとの疑惑が出て来た。
 
 つまり、契約上存在しない「放映期間」を利用し番組改編時期に合わせて終了させたのは局の狙いだったのではないかと推測出来るのだ。局側としては「26回の予定を6回増やした」と言えるからである。
 
 あくまでも筆者の憶測の域を出ないが、恐らく長坂秀佳は第26話目が完成した段階で残り2クールに向けての構成を練っていたはずである。ところが26話の放映前後に終了宣言があったと考えるとその時期に着手もしくはすでに完成していた30話までは手を加える事が出来ず、31、32話での強引なジ・エンドへつなげざるを得なかったのではないかと思われる。
 
 テレビドラマは映画よりもその時々の時代背景や経済を始めとする様々な要因の影響を受けやすい。どんなに好視聴率の番組でも一度スポンサーが降りてしまうとその後釜を探すのは至難の技だと言う。資金源を断たれたら番組制作は出来ないのだから「玩具の売り上げ不振」からメインスポンサーが降りてしまった事で製作続行が不可能になったのはやむを得ない事であっただろう。それは演ずる役者やシナリオライター、制作マンたちの「熱い想い」など入り込む余地などない冷徹なビジネス的判断であり、「ズバット」の打ち切り決定はメーカーの営業活動と局の都合が一致した結果だったのかも知れない。
 
◆「伝説」への昇華と現実問題
 その特異性と宮内洋のヒーロー性が完成された作品として後世に語り継がれる事となった「ズバット」はやがて「大人にもウケる作品にしようとした結果、視聴率が良かったにも関わらず玩具が売れずスポンサーが降りてしまい、打ち切りを余儀なくされた悲劇の作品」と言う尾鰭が付き「伝説の名作」とうたわれるようになる。また、関東圏で再放送されなかった事もその「伝説性」を高めるのに一役買ったのかも知れない(恐らくは局側が再放送権を放棄したものと思われる)。
 
 だが実は「ズバット」の打ち切りはこれまで言われて来たような単純な理由ではなく「大人の事情」が複雑に絡み合った末の出来事だったと判明した。もちろんこれ以外にも私の知り得ない所で激しいビジネスの駆け引きが行われた事だろう。
 

 今回の事で、視聴率だけでははかれない制作の裏側を垣間見る事が出来た。CMに流れている商品が売れなければメーカーはスポンサーでいる意味がない。普通のドラマであれば視聴者とスポンサーの接点はほとんどゼロに等しいため「マーチャンダイジング(MD)の失敗=番組からの撤退」とはならないだろうが、アニメや特撮に関しては「視聴者(子供)に訴える」事が可能であるが故、作品とMDが直結する。「番組を応援するには玩具を買うのが一番」とは良く聞く言葉だが、これも決して大袈裟な表現ではないのだ。「ズバットの打ち切り」と言う「事実」は現在製作されている多くの作品に対する警鐘なのかも知れない。


['00/3/28 up date]
 役者に年齢はない。役者はたとえいくつであれ与えられた年齢の役を演じなければならないのだから。そう考えた時、私が作成している「宮内洋's 全仕事不完全リスト」に年齢の記述は必要ないように思える。だが、私にとって年齢は「宮内洋」と言う一俳優を分析する上で必要不可欠なデータであった。何故なら、俳優としてのターニングポイント(転機)を掴むための目安となるからである。
 
 だがこの年表作成の中で長い事疑問に感じていた事があった。宮内洋の生まれ年である。先頃宮内洋の自伝「ヒーロー神髄」が出版され生年月日が明らかにされたが、それまでの間宮内の生まれ年は1945年(昭和20年)と1947年(昭和22年)の二説があったのだ。そんな中、私は生まれ年を1945年と結論付けホームページを展開して来た。結果としてOZが年齢詐称疑惑を暴いた形になってしまったが、これはあくまでも偶然でありOZのせいと思われるのは心外に他ならない。
 
 そこでこのコンテンツでは私が生まれ年を結論付けた経緯を縦糸に、宮内洋が何故2歳と言う僅かな年齢(宮内洋は同年代の同性と比べ充分若作りであるしこの年齢差は必要性を感じない)をサバ読むハメになったのかを考察してみたい。
 
◆経過:生年月日を結論付けた理由
 ・・・はっきり言って何もない(爆)。単に最初の頃に調べた数種類の資料に「昭和20年生まれ」「昭和43年日大卒」と記述してあったためそれを信用しただけである。これが「昭和22年生まれ」と書いてあったらそれを信用しただろう。実に単純な理由だ。
 
 だが、その後入手した資料のほとんどが「昭和22年生まれ」と記載されていた。ここで私は悩む事になる。「どっちが正しいのだろう・・・」プロダクション発行のプロフィールが22年生まれになっているなどとは夢にも思わず、単なる記載ミスだと信じて疑わなかったが確認手段がない。そんな時、一通のメールが届いた。
 
 「宮内洋について」と題名が付けられたそのメールは僅か5行の短いものだった。
 
  昭和20年生まれ
    淀橋第3小学校
    淀橋第2中学校
    国学院付属高校
    新宿区淀橋(現 西新宿)育ち
 
 挨拶も前置きも何もないそのメールに最初は戸惑った私だったが、何も書かれていないだけに妙な説得力があった。イタズラにしては具体的すぎる。私はこのメールの信憑性を確かめるために古い同人誌のコピーを引っ張り出しそこに記載されている実家の住所から調査を始めた。
 
 現在新宿には淀橋の地名は残っていないが、私は西新宿生まれなので若干の土地カンはある。まず実家のある場所から小中学校の通学区域を割り出してみた。すると該当する小中学校はあるものの学校名が違う。新宿区は現在、児童の減少に伴い中央区と共に公立学校の統廃合が進められている地区であるため、廃校になっている可能性もあると考えた私は図書館で全国の学校名簿を入手し、宮内の母校は'97年春に統合、校名変更されていた事実を突止めた。
 
 単なるファンなのか、宮内に近しい人間なのか・・・。男性名で送られて来たそのメールは事実を伝えてくれていたのだ。この一件で私は「宮内洋は1945年(昭和20年)生まれ」と確信する事となる。
 
◆証拠物件:生年月日、年齢が記載されている資料から抜粋
 1973年 (「V3」当時)某女性誌 「27歳」「9年前、宮内洋は国学院付属高校の3年生で(略)」
  1978年 (「暴れん坊将軍」当時)某紙 「30歳」「芸歴10年」「昭和22年6月14日生まれ」
  1980年 (「Gメン'75」当時)読売新聞 「33歳。日大商学部を出た(昭和)43年(略)」
  1985年 某同人誌 「とても38歳には見えないらぶりーさである(はあと)」
  1993年 エクシードラフト超全集 「47年6月14日生まれ」
  1996年 B-CLUB 「1947年6月14日生」
  1996年 日本映画人名事典男優篇 「1945年6月14日」「68年、日本大学商学部経営学科卒業」
  1998年 キャラ通 「生年月日 昭和22年6月14日」

 現在手持ちの資料からの抜粋だが、V3当時の資料が一部正確に記載しているだけでそのほとんどが1947年生まれとなっている。ところが生年月日以外の年(大学卒業年や芸歴)が実際の年数なのでつじつまが合わない。この辺りの曖昧さが「記載ミス」と判断していた理由のひとつでもある。近年の資料では唯一「日本映画人名事典」が「1945年」と記載しているが、この事典はプロダクションからの資料のみならず各執筆者が独自で調査した記事が多いため、正確な生年月日を記載出来たものと思われる。
 
◆推理その1:キーワードは「キイハンター」
 1970年(昭和45年)春からレギュラーとなった「キイハンター」。宮内洋は長い間「『キイハンター』でデビュー」と語っていたようだ。大概のプロフィールにもデビュー作として記載されている。「日大卒業後東映にニューフェイスとして入社、『キイハンター』がデビュー」と言われれば、成る程1970年(昭和45年)に23歳であっても違和感を感じる事はない。2年の差はここで生じたのではないかと推測(憶測?)される。
 
◆推理その2:宮内洋が「キイハンター」をデビュー作と位置付けた理由
 現在の宮内洋を支えるアクションのノウハウを「キイハンター」の現場で学んだという意味合いが最も大きいだろう。また顔見せ程度でウロウロしていた(失礼^^;;)「あゝ忠臣蔵」よりも当時高視聴率街道を突っ走っていた東映の看板番組にレギュラー出演し、千葉真一と共に番組を支えるアクション編を担当していたと言う自負と誇りが「デビュー作」と言わせているのではないだろうか。
 
◆推理その3:何故今まで訂正されなかったのか
 近年、宮内は「本当のデビュー作は『あゝ忠臣蔵』だった」とコメントする事が多くなったが、番組放映年度から年齢を逆算して割り出すようなコアなファン(爆)は少なかったと思われるし、またプロダクション提供のプロフィールが(あえて?)訂正されていなかったため、各種雑誌などへそのまま掲載されて来たのだろう。

◆推理その4:今後、この年齢差は是正されるのか
 恐らくなされないであろう。何故なら1947年(昭和22年)誕生説は当時のレコードジャケットやファンクラブ会報などにも記載されている「定説」であり、多くのファンはそれを信じていると思われるからである。また、今更訂正したところで何の意味も持たない。その程度の事で宮内洋の存在価値は揺らがないし、ヒーローは年をとらないのだから。
 

◆結論:カリスマ性を高める要素としての年齢
 なかなか素顔が見えないと言われる宮内洋。プライベートを見せないのもそう言われる理由だろう。だがそのミステリアスさが彼のカリスマ性を高めているひとつの要素でもある。年齢もまたしかり。謎が多ければ多い程、より一層「実在するヒーロー」としての宮内洋の価値観は増す。そう考えると二通りの誕生説があるのもまた宮内らしい。「知る人ぞ知る」宮内洋の生まれ年はそんな情報なのかも知れない。


['98/12/16 up date]

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