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(二)パレスチナの歴史
パレスチナが紛争の地としていくつもの国に踏み荒らされて来たのには、第一に地理的な要因があったと思うのです。西に地中海、東にアラビア砂漠、北にシリア、南にエジプトを控えたこの地は、パレスチナという名で古くから呼ばれてきました。名前の由来は、紀元前十二世紀にこの地方の一部に定住していたペリシテ人に関係があるようです。海と砂漠にはさまれて狭く、また、丘陵や入り江によって小さく区切られてはいましたが、この地域は、アフリカ大陸とアラビア半島のつなぎ目に位置し、ユーラシア大陸への中継地点にもなっていることから、文化的、軍事的、そして政治的な面において大変重要な場所になっていました。そのため、周辺諸国からひんぱんに侵略を受けてきました。
幾多の苦難を乗り越えてきた中からか、または、乗り越える時の拠り所とするためか、この地からは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が生み出されています。それぞれの宗教の聖地もここにあります。
紀元前千五百年頃、この辺りではセム系の民族カナーン人が交易で活躍していました。ついでセム系三民族のアラム人、フェニキア人、ヘブライ人がそれぞれ特色ある活動を始めました。アラム人はダマスクスを中心に内陸の中継貿易に活躍、フェニキア人は都市国家を作り、地中海貿易を独占、ヘブライ人は、もと遊牧民で、紀元前千五百年頃パレスチナに定住、その後栄華を極めた代表人物としてよく使われるダビデ王、ソロモン王を生む、という具合に。アラム人が使用していたアラム語は、国際商業語として広がり、ヘブライ文字、アラビア文字、シリア文字、ソグド文字、突けつ文字、ウイグル文字、モンゴル文字、満州文字などの源となりました。フェニキア人は、カナーン人の使用した表音文字から線状文字を作り、海上での活躍を通してこの文字をギリシャ人に伝えましたが、それが今日のアルファベットになりました。ヘブライ人は、自分たちのことをイスラエル人と呼んでいました。彼らの歴史も、また、苦難に満ちたものになります。パレスチナに定住したヘブライ人の一部はエジプトに移住しましたが、そこで厳しい重労働を課せられ、苦しめられます。紀元前千三百年頃、この人たちがモーセに率いられてパレスチナに脱出したことは、出エジプトとして名高く、旧約聖書にも記されています。紀元前千年頃、ヘブライ人の国家は、前述のダヴィデ王やソロモン王に治められていましたが、その後、イスラエルとユダの南北二国に分裂。イスラエルはアッシリアにほろぼされ、ユダもメソポタミアの新バビロニアに征服され、その後彼らは長い放浪の歴史を忍ぶことになります。。
七世紀よりウマイヤ朝、アッバース朝などのイスラム教徒の支配下におかれたこの地域は、その後、聖地回復を掲げる十字軍の目指す地点にもなりましたが、エジプトのアイユーブ朝、その後のマムルーク朝の支配を経て、十六世紀から三百年ほど、オスマン・トルコの支配を受けることとなります。この時代は比較的安定した状態が続き、イスラム教徒もキリスト教徒も、ユダヤ教徒も、共存して平和に暮らしていました。
しかし、十九世紀後半、領土を拡大しようとするヨーロッパ諸国の目がこの地域に向けられることになってから事情は違ってきます。オスマン帝国は、領内の諸民族の独立運動と自国の利益のためにそれを支援するヨーロッパ諸国に苦しめられ、領土を次々に失っていきます。植民地を獲得したいヨーロッパ諸国の動きに対し、アラブ各国は、連帯してヨーロッパに対抗しようとアラブ民族運動を開始します。イラン人やトルコ人のイスラム教を堕落したものとし、預言者ムハンマドの最初の教えに戻ろうとするイスラム改革運動や、現代アラビア語を確立し、言語を通じてアラブの民族意識を高めようとするアラブ文化の復興運動もこれを助ける力となります。同じ時期に、ヨーロッパやロシアでユダヤ教徒に対する迫害が始まり、一部のユダヤ教徒は、故郷パレスチナに帰ることを目指す「シオニズム」運動を進めます。このあたりから、この地域に複雑な問題を引き起こす要因が生まれてくるのです。
シオニズム運動は、オスマン・トルコに取って代わろうとするイギリスが後押しをします。パレスチナにユダヤ人国家を建設する、という約束がイギリスからシオニズム運動の指導者になされました。オスマン・トルコとの戦争で勝利するためにアラブ側の協力も必要なイギリスは、同時に、アラブ側に対してもこの地での独立を承認する、という秘密協定を結ぶ。その上、戦後のトルコ領の分割についてフランス、ロシア等とも密約を結んでいたのでした。イギリスは、内容の相反する協定を二重、三重に結んでいたわけです。こうしてこの地の問題をも抱えたまま、第一次世界大戦が始まります。
大戦後、パレスチナは国際連盟の委任統治を受けることになりますが、ユダヤ人入植がこの地に割り当てられ、移住してくるユダヤ人と反発するアラブ人達との間に対立が生まれていきます。更に、ドイツでナチス政権が成立し、そのユダヤ人排斥政策のために、この地域に入植してくるユダヤ人が激増、対立は激化していきました。
再び起こった第二次大戦を経て、この地の問題は国連にゆだねられます。一九四七年のパレスチナ分割決議によりパレスチナはアラブとユダヤの二国に分けられ、エルサレムは国連の信託統治下におく、ということになりました。この決議はまた、アラブの人口に対し半分の人口もないユダヤが、広大な領土を得ることを認めるものでもありました。そして、ユダヤが、この翌年イスラエルの建国を宣言。ジャファについても領有を主張して占領しました。アラブ諸国がこれを不服としてパレスチナに侵入、第一次中東戦争が勃発します。この戦争に勝利したイスラエルは、先の国連決議の一.五倍の領土を獲得、土地を奪われたパレスチナのアラブ人七十万人以上が難民として周辺諸国に散りました。この戦争後の協定で、パレスチナは、イスラエル、エジプト、ヨルダンに三分割、エルサレムもイスラエルとヨルダンの間で東西に分割されました。以後、アラブとイスラエルの間には、第四次中東戦争まで起こり、戦争の度にアラブの難民が増え続けていきました。第三次中東戦争で、イスラエルはヨルダンが制圧していた東エルサレムをとり、イスラエルの領土に「併合」、再統合したエルサレムをイスラエルの首都と宣言し、その地へのユダヤ人の移住を進めています。しかしパレスチナ人もこの都市への主張を続けていて、現在も両者の間に争いが絶えません。
当時、また、これ以降、イスラエルはますます軍備力を強め、パレスチナにいるアラブ人(パレスチナ人)の自立を抑制していきますが、これに反発したパレスチナ人の中から、一九六四年、武力を闘争手段とするPLO( パレスチナ解放機構)が設立されます。一九七〇年代に入ると、このPLO を中東和平問題解決の話し合いに参加させるべきだという空気が国際的に広まり、実践へと移されました。第二次大戦後、イギリスに代わってこの地の問題にアメリカが仲介役を果たすようになっていましたが、アメリカ国内でその中枢を支えるユダヤ人の力が大きいため、イスラエル寄りの政策をとるアメリカは、公平な仲介の役割を果たすことがなかなか難しい状況です。
千九百九十一年より中東和平をめぐる話し合いが始まりましたが、一九九三年八月に発表されたオスロ合意は、イスラエルとPLO の相互承認、将来のパレスチナ国家へ向けての、ガザ地帯とエリコにおけるパレスチナ人の暫定的な自治の開始、自治地域の拡大のための交渉、イスラエル占領地の最終的な地位決定のための交渉などが含まれています。しかし、イスラム急進派、イスラエル強硬派、双方の暴力の応酬により、パレスチナの独立、中東和平への道は、進んだかと思うと後退し、なお厳しい状況が続いています。
参考のため、アラブ・パレスチナ間の諸事件に関する年表を付記します。
1947 パレスチナ分割決議 (ユダヤ人地域、アラブ人地域、国際管
理地域・・エルサレム)
1948 イスラエル共和国独立宣言
1948 第一次中東戦争 エジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、
サウディアラビアがイスラエルに侵入。 イスラエル優位で停戦、
イスラエル、領土を五十%拡大
1956 第二次中東戦争(スエズ動乱)エジプト、スエズ運河国有化
宣言
1964 PLO パレスチナ解放機構 創立
1967 第三次中東戦争(六日戦争)イスラエルがエジプト、シリア、
ヨルダンに圧勝、占領地を大幅に拡大、ガザ、ヨルダン西岸に
入植地設定、難民大幅増加
同 11月 国連、イスラエル撤退決議採択(国連安保理決議二百四
十二号 イスラエルに占領地の返還を、アラブ側にイスラエル
との共存を求める)
1969 アラファト議長の姿勢「闘うPLO へ」
1973 第四次中東戦争(十月戦争)エジプト、シリアがイスラエル
を攻撃、政治的にはアラブ側勝利
1974 PLO が国連オブザーバーに
1978 キャンプ・デーヴィッド合意 両陣営歩み寄りの機運芽生える
1987 第一次インティファーダ(パレスチナ民衆蜂起)
1988 PLO イスラエルの生存権承認・テロ放棄明確化
国連オブザーバーPLO を日本を含め百余国が承認
1991 湾岸戦争
1991 12月 ソ連崩壊
1992 イスラエル、ラビン政権 パレスチナ暫定自治を最優先課題に
1993 オスロ合意 パレスチナ暫定自治宣言
1994 アラファト、ラビン、ノーベル平和賞受賞
1995 パレスチナ自治拡大協定
同 11月 ラビン暗殺
1996 パレスチナ評議会選挙 アラファトを暫定自治政府議長に選出
同 5月 イスラエル、右派リクードのネタニヤフ勝利
2000 リクード党首アリエル=シャロン、イスラエル旧市街「神殿
の丘」訪問を強行後、イスラエル・パレスチナ間の衝突激化
第二次インティファーダ
2001 シャロン、イスラエル首相に
ブッシュ米共和党政権成立 中東和平に消極的
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2重3重ねに口車を労してひたすら国益を貪った英国に対して「諸悪の根源は英国にあり。」と言える様な気がしました。
あそこの国がお墨付きで訳したKJVと言う聖書とその翻訳に準拠して訳出されている世界の多くの聖書翻訳をまず否定して、正しい聖書の翻訳が今のパレスチナ問題に光を投げかけるような気がします。
要するに 「英国の王様がお墨付きの翻訳はでたらめで、それに準拠する英語圏の国(米国)がパレスチナに酷い問題を引き起こしているように思えるからです。」
2009/6/13(土) 午後 4:29 [ 油食林間 ]
イギリスの二枚舌外交が悪い。ヨルダン川西岸の分離壁建設は住民の移動の自由を奪っているのですぐにやめるべき。全ての入植地は違法にパレスチナ人から奪ったので、返すべき。イスラエルはいつもパレスチナが悪いと言い逃れをしてるが自分から挑発して和平を台なしにしてるようにしか見えません。
2010/2/13(土) 午前 10:42 [ - ]