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(三)戦争に翻弄された祖父たち
さて、話をh一家に戻しますが、多くの難民が生まれた第一次中東戦争の際、この家族も長年住み慣れたジャファから、命がけでガザ地区(当時はエジプト占領下)へ逃れ、ここで、国連の登録難民になりました。この時の戦争は、今から十年ほど前の湾岸戦争よりも格段に激しいもので、ジャファの住民で、全員が揃って無事であった家族は、まず一世帯もないといって良い程だったそうです。家族の誰かは、逮捕されたり、殺害されたりしました。どの家族も、ばらばらになって逃げ、赤ん坊を置いて逃げなければならなかった母親も多くいました。h一家も両親と娘たちは末の弟と一緒に、ロバに荷車をひかせて逃げました。早道でも危険な道は避けて迂回したため、二週間もかかってガザへたどり着きました。長男は単独で逃げ、当時一六才だったH ・ ooは、やはり一人で、ガザまで逃げました。こちらは徒歩、いつ撃たれるか分からない中、用心に用心を重ねながら、隠れてはまた歩く、といったことを繰り返したため、一ヶ月近くもかかったようでした。あまりにも辛い思い出なのでしょう、彼は、この時の事を自分から語ることはありませんでした。
(四)ガザからクウェートへ
ガザでは、エジプトの国籍は得られず、仕事もないため、H ・ ooは、石油産業の盛んなペルシャ湾沿岸の小国クウェートへ出稼ぎに行きました。ここは砂漠がなく、三時間もあれば、車で一回りできる程の本当に小さな国ですが、その頃、クウェートのダウンタウンには立派な高層ビルが建ち並び、確かな繁栄を見せていました。教育や技術のある多くのパレスチナ人がクウェートで責任ある仕事をし、この繁栄を支えていたのです。パレスチナ人は既述のフェニキア人の系統で、もともと遊牧の民ではなく、定住して漁業、農業に従事しておりました。アラブの中では教育が高く、開発、調査の能力に優れていたので、クウェート発展の陰の力になっていたのです。しかし、当時、彼の唯一の身分証明書は、エジプト政府発行の渡航証明書(「エジプト外務省パレスチナ人渡航証明」)。これは、他国への出入に際しエジプトを通過することが出来る、という許可証で、エジプトへの入国や、国籍、居住権を認めるものではありません。彼は、ガザに戻った折に同じパレスチナ人のF・と見合いをし、結婚しました。そして長男が誕生。当時はまだ、ガザとの間を行き来する事もできる状況でした。が、一九六七年の第三次中東戦争の結果、ガザに戻ることは不可能になりました。イスラエルが、ガザを占領した直後に実施した人口調査の時期にガザに在住していて登録出来た人を除いて、ガザに戻ることを禁止してしまったからです。つまり、この家族にとってクウェートだけが生きていく場所になったのです。クウェートで、パレスチナ人は様々な制限を受けており、その一つとして自分の名前で会社を設立することができない、という項目がありました。そのため、H ・ ooはクウェート人の名前を借りて労働ビザを取得。電気工業部品を販売供給する仕事をしていました。パレスチナ人に名前を貸して数百万円相当の料金を取る、という商売が当時存在しており、彼もそれを利用したのですが、相手の人物は、彼の他にも数十人にこの商売を行って違法にもうけていたのです。パレスチナ人への様々な規制や制限は、この他にも、次のようなものがありました。たとえば、パレスチナ人は一旦クウェートを出たら、六ヶ月以内に帰ってこなければ再入国できない、一定の居住地区に住まなければならない、家族の者をクウェートに呼び寄せることはできない、クウェートの大学にも厳しい入学制限がある(クウェート人や他の外国人が試験結果の五割ほどの得点で入学できるところを、パレスチナ人だけ、満点に近くなければならない)、運転免許は医師かエンジニアでなければ取れない等。それでも、ここでは、それなりに平和で安定した生活が営まれていました。
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