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			<title>My Way</title>
			<description>Its My way of life,how I startd as a palestenine from a palestenine parents till now</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ozozjapan</link>
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			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>My Way</title>
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			<title>（三）戦争に翻弄された祖父たち</title>
			<description>（三）戦争に翻弄された祖父たち&lt;br /&gt;
さて、話をh一家に戻しますが、多くの難民が生まれた第一次中東戦争の際、この家族も長年住み慣れたジャファから、命がけでガザ地区（当時はエジプト占領下）へ逃れ、ここで、国連の登録難民になりました。この時の戦争は、今から十年ほど前の湾岸戦争よりも格段に激しいもので、ジャファの住民で、全員が揃って無事であった家族は、まず一世帯もないといって良い程だったそうです。家族の誰かは、逮捕されたり、殺害されたりしました。どの家族も、ばらばらになって逃げ、赤ん坊を置いて逃げなければならなかった母親も多くいました。h一家も両親と娘たちは末の弟と一緒に、ロバに荷車をひかせて逃げました。早道でも危険な道は避けて迂回したため、二週間もかかってガザへたどり着きました。長男は単独で逃げ、当時一六才だったH ・　ooは、やはり一人で、ガザまで逃げました。こちらは徒歩、いつ撃たれるか分からない中、用心に用心を重ねながら、隠れてはまた歩く、といったことを繰り返したため、一ヶ月近くもかかったようでした。あまりにも辛い思い出なのでしょう、彼は、この時の事を自分から語ることはありませんでした。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
（四）ガザからクウェートへ&lt;br /&gt;
　ガザでは、エジプトの国籍は得られず、仕事もないため、H ・　ooは、石油産業の盛んなペルシャ湾沿岸の小国クウェートへ出稼ぎに行きました。ここは砂漠がなく、三時間もあれば、車で一回りできる程の本当に小さな国ですが、その頃、クウェートのダウンタウンには立派な高層ビルが建ち並び、確かな繁栄を見せていました。教育や技術のある多くのパレスチナ人がクウェートで責任ある仕事をし、この繁栄を支えていたのです。パレスチナ人は既述のフェニキア人の系統で、もともと遊牧の民ではなく、定住して漁業、農業に従事しておりました。アラブの中では教育が高く、開発、調査の能力に優れていたので、クウェート発展の陰の力になっていたのです。しかし、当時、彼の唯一の身分証明書は、エジプト政府発行の渡航証明書（「エジプト外務省パレスチナ人渡航証明」）。これは、他国への出入に際しエジプトを通過することが出来る、という許可証で、エジプトへの入国や、国籍、居住権を認めるものではありません。彼は、ガザに戻った折に同じパレスチナ人のF・と見合いをし、結婚しました。そして長男が誕生。当時はまだ、ガザとの間を行き来する事もできる状況でした。が、一九六七年の第三次中東戦争の結果、ガザに戻ることは不可能になりました。イスラエルが、ガザを占領した直後に実施した人口調査の時期にガザに在住していて登録出来た人を除いて、ガザに戻ることを禁止してしまったからです。つまり、この家族にとってクウェートだけが生きていく場所になったのです。クウェートで、パレスチナ人は様々な制限を受けており、その一つとして自分の名前で会社を設立することができない、という項目がありました。そのため、H ・　ooはクウェート人の名前を借りて労働ビザを取得。電気工業部品を販売供給する仕事をしていました。パレスチナ人に名前を貸して数百万円相当の料金を取る、という商売が当時存在しており、彼もそれを利用したのですが、相手の人物は、彼の他にも数十人にこの商売を行って違法にもうけていたのです。パレスチナ人への様々な規制や制限は、この他にも、次のようなものがありました。たとえば、パレスチナ人は一旦クウェートを出たら、六ヶ月以内に帰ってこなければ再入国できない、一定の居住地区に住まなければならない、家族の者をクウェートに呼び寄せることはできない、クウェートの大学にも厳しい入学制限がある（クウェート人や他の外国人が試験結果の五割ほどの得点で入学できるところを、パレスチナ人だけ、満点に近くなければならない）、運転免許は医師かエンジニアでなければ取れない等。それでも、ここでは、それなりに平和で安定した生活が営まれていました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ozozjapan/11483805.html</link>
			<pubDate>Tue, 03 Mar 2009 00:18:19 +0900</pubDate>
			<category>中東情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>パレスチナの歴史</title>
			<description>（二）パレスチナの歴史&lt;br /&gt;
　パレスチナが紛争の地としていくつもの国に踏み荒らされて来たのには、第一に地理的な要因があったと思うのです。西に地中海、東にアラビア砂漠、北にシリア、南にエジプトを控えたこの地は、パレスチナという名で古くから呼ばれてきました。名前の由来は、紀元前十二世紀にこの地方の一部に定住していたペリシテ人に関係があるようです。海と砂漠にはさまれて狭く、また、丘陵や入り江によって小さく区切られてはいましたが、この地域は、アフリカ大陸とアラビア半島のつなぎ目に位置し、ユーラシア大陸への中継地点にもなっていることから、文化的、軍事的、そして政治的な面において大変重要な場所になっていました。そのため、周辺諸国からひんぱんに侵略を受けてきました。&lt;br /&gt;
　幾多の苦難を乗り越えてきた中からか、または、乗り越える時の拠り所とするためか、この地からは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が生み出されています。それぞれの宗教の聖地もここにあります。&lt;br /&gt;
　紀元前千五百年頃、この辺りではセム系の民族カナーン人が交易で活躍していました。ついでセム系三民族のアラム人、フェニキア人、ヘブライ人がそれぞれ特色ある活動を始めました。アラム人はダマスクスを中心に内陸の中継貿易に活躍、フェニキア人は都市国家を作り、地中海貿易を独占、ヘブライ人は、もと遊牧民で、紀元前千五百年頃パレスチナに定住、その後栄華を極めた代表人物としてよく使われるダビデ王、ソロモン王を生む、という具合に。アラム人が使用していたアラム語は、国際商業語として広がり、ヘブライ文字、アラビア文字、シリア文字、ソグド文字、突けつ文字、ウイグル文字、モンゴル文字、満州文字などの源となりました。フェニキア人は、カナーン人の使用した表音文字から線状文字を作り、海上での活躍を通してこの文字をギリシャ人に伝えましたが、それが今日のアルファベットになりました。ヘブライ人は、自分たちのことをイスラエル人と呼んでいました。彼らの歴史も、また、苦難に満ちたものになります。パレスチナに定住したヘブライ人の一部はエジプトに移住しましたが、そこで厳しい重労働を課せられ、苦しめられます。紀元前千三百年頃、この人たちがモーセに率いられてパレスチナに脱出したことは、出エジプトとして名高く、旧約聖書にも記されています。紀元前千年頃、ヘブライ人の国家は、前述のダヴィデ王やソロモン王に治められていましたが、その後、イスラエルとユダの南北二国に分裂。イスラエルはアッシリアにほろぼされ、ユダもメソポタミアの新バビロニアに征服され、その後彼らは長い放浪の歴史を忍ぶことになります。。&lt;br /&gt;
　七世紀よりウマイヤ朝、アッバース朝などのイスラム教徒の支配下におかれたこの地域は、その後、聖地回復を掲げる十字軍の目指す地点にもなりましたが、エジプトのアイユーブ朝、その後のマムルーク朝の支配を経て、十六世紀から三百年ほど、オスマン・トルコの支配を受けることとなります。この時代は比較的安定した状態が続き、イスラム教徒もキリスト教徒も、ユダヤ教徒も、共存して平和に暮らしていました。&lt;br /&gt;
　しかし、十九世紀後半、領土を拡大しようとするヨーロッパ諸国の目がこの地域に向けられることになってから事情は違ってきます。オスマン帝国は、領内の諸民族の独立運動と自国の利益のためにそれを支援するヨーロッパ諸国に苦しめられ、領土を次々に失っていきます。植民地を獲得したいヨーロッパ諸国の動きに対し、アラブ各国は、連帯してヨーロッパに対抗しようとアラブ民族運動を開始します。イラン人やトルコ人のイスラム教を堕落したものとし、預言者ムハンマドの最初の教えに戻ろうとするイスラム改革運動や、現代アラビア語を確立し、言語を通じてアラブの民族意識を高めようとするアラブ文化の復興運動もこれを助ける力となります。同じ時期に、ヨーロッパやロシアでユダヤ教徒に対する迫害が始まり、一部のユダヤ教徒は、故郷パレスチナに帰ることを目指す「シオニズム」運動を進めます。このあたりから、この地域に複雑な問題を引き起こす要因が生まれてくるのです。&lt;br /&gt;
　シオニズム運動は、オスマン・トルコに取って代わろうとするイギリスが後押しをします。パレスチナにユダヤ人国家を建設する、という約束がイギリスからシオニズム運動の指導者になされました。オスマン・トルコとの戦争で勝利するためにアラブ側の協力も必要なイギリスは、同時に、アラブ側に対してもこの地での独立を承認する、という秘密協定を結ぶ。その上、戦後のトルコ領の分割についてフランス、ロシア等とも密約を結んでいたのでした。イギリスは、内容の相反する協定を二重、三重に結んでいたわけです。こうしてこの地の問題をも抱えたまま、第一次世界大戦が始まります。&lt;br /&gt;
　大戦後、パレスチナは国際連盟の委任統治を受けることになりますが、ユダヤ人入植がこの地に割り当てられ、移住してくるユダヤ人と反発するアラブ人達との間に対立が生まれていきます。更に、ドイツでナチス政権が成立し、そのユダヤ人排斥政策のために、この地域に入植してくるユダヤ人が激増、対立は激化していきました。&lt;br /&gt;
　再び起こった第二次大戦を経て、この地の問題は国連にゆだねられます。一九四七年のパレスチナ分割決議によりパレスチナはアラブとユダヤの二国に分けられ、エルサレムは国連の信託統治下におく、ということになりました。この決議はまた、アラブの人口に対し半分の人口もないユダヤが、広大な領土を得ることを認めるものでもありました。そして、ユダヤが、この翌年イスラエルの建国を宣言。ジャファについても領有を主張して占領しました。アラブ諸国がこれを不服としてパレスチナに侵入、第一次中東戦争が勃発します。この戦争に勝利したイスラエルは、先の国連決議の一．五倍の領土を獲得、土地を奪われたパレスチナのアラブ人七十万人以上が難民として周辺諸国に散りました。この戦争後の協定で、パレスチナは、イスラエル、エジプト、ヨルダンに三分割、エルサレムもイスラエルとヨルダンの間で東西に分割されました。以後、アラブとイスラエルの間には、第四次中東戦争まで起こり、戦争の度にアラブの難民が増え続けていきました。第三次中東戦争で、イスラエルはヨルダンが制圧していた東エルサレムをとり、イスラエルの領土に「併合」、再統合したエルサレムをイスラエルの首都と宣言し、その地へのユダヤ人の移住を進めています。しかしパレスチナ人もこの都市への主張を続けていて、現在も両者の間に争いが絶えません。&lt;br /&gt;
　当時、また、これ以降、イスラエルはますます軍備力を強め、パレスチナにいるアラブ人（パレスチナ人）の自立を抑制していきますが、これに反発したパレスチナ人の中から、一九六四年、武力を闘争手段とするPLO（ パレスチナ解放機構）が設立されます。一九七〇年代に入ると、このPLO を中東和平問題解決の話し合いに参加させるべきだという空気が国際的に広まり、実践へと移されました。第二次大戦後、イギリスに代わってこの地の問題にアメリカが仲介役を果たすようになっていましたが、アメリカ国内でその中枢を支えるユダヤ人の力が大きいため、イスラエル寄りの政策をとるアメリカは、公平な仲介の役割を果たすことがなかなか難しい状況です。&lt;br /&gt;
　千九百九十一年より中東和平をめぐる話し合いが始まりましたが、一九九三年八月に発表されたオスロ合意は、イスラエルとPLO の相互承認、将来のパレスチナ国家へ向けての、ガザ地帯とエリコにおけるパレスチナ人の暫定的な自治の開始、自治地域の拡大のための交渉、イスラエル占領地の最終的な地位決定のための交渉などが含まれています。しかし、イスラム急進派、イスラエル強硬派、双方の暴力の応酬により、パレスチナの独立、中東和平への道は、進んだかと思うと後退し、なお厳しい状況が続いています。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
 参考のため、アラブ・パレスチナ間の諸事件に関する年表を付記します。&lt;br /&gt;
1947 パレスチナ分割決議　（ユダヤ人地域、アラブ人地域、国際管&lt;br /&gt;
　　理地域・・エルサレム）&lt;br /&gt;
1948 イスラエル共和国独立宣言　&lt;br /&gt;
1948 第一次中東戦争　エジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、&lt;br /&gt;
　　サウディアラビアがイスラエルに侵入。　イスラエル優位で停戦、　&lt;br /&gt;
　　イスラエル、領土を五十％拡大&lt;br /&gt;
1956 第二次中東戦争（スエズ動乱）エジプト、スエズ運河国有化&lt;br /&gt;
　　宣言&lt;br /&gt;
1964 PLO パレスチナ解放機構　創立&lt;br /&gt;
1967 第三次中東戦争（六日戦争）イスラエルがエジプト、シリア、&lt;br /&gt;
　　ヨルダンに圧勝、占領地を大幅に拡大、ガザ、ヨルダン西岸に&lt;br /&gt;
　　入植地設定、難民大幅増加&lt;br /&gt;
同 11月　国連、イスラエル撤退決議採択（国連安保理決議二百四&lt;br /&gt;
　　十二号　イスラエルに占領地の返還を、アラブ側にイスラエル&lt;br /&gt;
　　との共存を求める）&lt;br /&gt;
1969 アラファト議長の姿勢「闘うPLO へ」&lt;br /&gt;
1973 第四次中東戦争（十月戦争）エジプト、シリアがイスラエル&lt;br /&gt;
　　を攻撃、政治的にはアラブ側勝利&lt;br /&gt;
1974  PLO が国連オブザーバーに&lt;br /&gt;
1978 キャンプ・デーヴィッド合意　両陣営歩み寄りの機運芽生える&lt;br /&gt;
1987 第一次インティファーダ（パレスチナ民衆蜂起）&lt;br /&gt;
1988 PLO イスラエルの生存権承認・テロ放棄明確化&lt;br /&gt;
　　国連オブザーバーPLO を日本を含め百余国が承認&lt;br /&gt;
1991 湾岸戦争　&lt;br /&gt;
1991 12月　ソ連崩壊&lt;br /&gt;
1992 イスラエル、ラビン政権　パレスチナ暫定自治を最優先課題に&lt;br /&gt;
1993 オスロ合意　パレスチナ暫定自治宣言&lt;br /&gt;
1994 アラファト、ラビン、ノーベル平和賞受賞&lt;br /&gt;
1995 パレスチナ自治拡大協定&lt;br /&gt;
同　11月　ラビン暗殺&lt;br /&gt;
1996 パレスチナ評議会選挙　アラファトを暫定自治政府議長に選出&lt;br /&gt;
同　5月　イスラエル、右派リクードのネタニヤフ勝利&lt;br /&gt;
2000 リクード党首アリエル＝シャロン、イスラエル旧市街「神殿&lt;br /&gt;
　　の丘」訪問を強行後、イスラエル・パレスチナ間の衝突激化&lt;br /&gt;
　　　第二次インティファーダ&lt;br /&gt;
2001 シャロン、イスラエル首相に&lt;br /&gt;
　　　ブッシュ米共和党政権成立　中東和平に消極的　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ozozjapan/11483159.html</link>
			<pubDate>Tue, 03 Mar 2009 00:05:43 +0900</pubDate>
			<category>中東情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>第一章　家族の歴史と私の生い立ち</title>
			<description>第一章　家族の歴史と私の生い立ち&lt;br /&gt;
（一）祖父たちの時代&lt;br /&gt;
　一九〇〇年代の中頃、パレスチナの地中海沿岸の町、ジャファ（ヤッファ）━━　現イスラエルのテルアビブジャファ　━━　で、地元特産品オレンジの貿易を営んでいるパレスチナ人の家族がいました。広大なオレンジ畑を所有し、産物は、王冠をモチーフにした商標を使って、イギリスに輸出しておりました。家長のいとこには、地域のリーダー的な存在で、常に武器を携帯して歩く有力者もいたようです。このパレスチナ人の家族の名は、ooooooo家。同家には八人の子供がおり、次男は、名前をoooooooといいました。歴史をさかのぼると、一族の中には、トルコの植民地時代、アルカリルとエルサレムで、税務署長を務めた者もおり、その名が記された書類も現存しています。アラビア系の名前で、エルが付くものは、その一族が相当な地位と力を持っていたことを示しているのです。&lt;br /&gt;
　当時、パレスチナではアラブ人とユダヤ人との間に争いは起きていたものの、この家族の住んでいた辺りは、まだ平和が保たれており、家族は豊かな生活を楽しんでいました。・・・・・・・・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかし、この家族にとって幸福な時代は長く続かず、他のパレスチナ人と同様に、歴史の荒波を受け、苦難の時代を歩むことになります。パレスチナ人はどうして今も昔も悲しい試練の時を過ごさなければならないのでしょうか。ここで、パレスチナの歴史を短くまとめてみましょう。&lt;br /&gt;
　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ozozjapan/11329548.html</link>
			<pubDate>Sun, 01 Mar 2009 00:57:06 +0900</pubDate>
			<category>中東情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>祖国での迫害を逃れて</title>
			<description>アンナージー&lt;br /&gt;
ー　祖国での迫害を逃れてー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まえがき&lt;br /&gt;
　「パレスチナ」に関する問題については、日本でも毎日のように新聞やテレビ、ラジオで報じられています。パレスチナやパレスチナ人関連の問題を知らない人は少ないでしょう。といっても、実際、パレスチナと言えば、報道のほとんどは、イスラエル・パレスチナ間の争いに関してではないでしょうか。&lt;br /&gt;
　パレスチナ人の私は、クウェートでの迫害を逃れ、家族とも離れて日本に亡命してきました。「アンナージー」とは、アラビア語で、「命がけで難を逃れてきた者」の意味です。日本に着いた私は、長い期間に及ぶ難民申請を経て、やっと難民として認められました。私の場合は、一度却下された申請が、異議申し立てを通して認定に至った、日本における初めてのケースと言われました。それまでは、異議の申し出でによって前の判断が再考された事実はありません。「開かずの門」が多くの申請者達の前に立ちはだかっていたのです。しかし、政治運動に関わってきた経験もなければ、犯罪歴もない私は、日本の外交、内政に、害を及ぼすことなどありません。どのような理由で認定されなかったのか、法務省の判断は理解に苦しみました。しかし、日本の多くの人の支援を得て、時間をかけ、一九九五年十二月やっと申請が認められました。感謝の気持ちでいっぱいです。&lt;br /&gt;
　ところで、なぜクウェートでパレスチナ人が迫害をされたのか、と疑問に思う方がおられるのではないでしょうか。クウェートのパレスチナ人迫害については、マスコミで報道されていなかった訳ではないのですが、あまり知られていないように思います。イスラエル・パレスチナ問題の方が、大きく扱われていたからでしょうか。そこで、このクウェートにおける問題を中心に、私達パレスチナ人が忍ばなければならなかった、そして現在でもその渦中にある苦境を伝える事を思い立ち、この本を書きました。本書を通して、遠い地で苦しんでいる人達がいることを、日本の人々にも知っていただきたいのです。&lt;br /&gt;
　二十数年前、少年だった私が父から聞いたパレスチナ人の歴史は、当時クウェートの学校で教えられたものとは随分違っていました。そして、父の話の方が本当であったと知ったのは、私が日本に来てからでした。&lt;br /&gt;
　そのような経験をした私が心から望むのは、真実を知らせたい、ということです。政治の力でコントロールされた「歴史」は、今でも現実に多く存在します。しかし、少なくとも私が語ることのできる歴史、私自身が身をもって体験した、偽りのない事実については、読者の方にすべて知っていただきたいと心から願うのです。思い出にするにはまだ生々し過ぎる私の過去を最終の章まで読み通していただければ、これ以上の喜びはありません。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ozozjapan/11327839.html</link>
			<pubDate>Sun, 01 Mar 2009 00:25:39 +0900</pubDate>
			<category>中東情勢</category>
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