乱読履歴
[ リスト | 詳細 ]
井戸の底と現実世界を繋げる作業世間は新作「多崎つくると…」でフィーバーしてますが、僕はやっと「1Q84 Book3」を読み終えました。
一応、自称ハルキスト歴25年を超えるのですが、世の村上春樹フィーバーについていけてないです。
出版社の販売戦略がどうのこうのとか巷で言われていますが、村上春樹という作家はそうした喧噪に一番似合わない気がしています。
また、色々な方がこの本の論評や感想を書いていますが、よく見かけるのが謎が謎のまま(例えばドアをドンドンと叩いていたNHKの集金人の正体は誰だみたいな)で解決されてなくて不完全燃焼だという愚痴。
言っちゃなんですが、村上春樹小説にそういうのを期待して読んではダメです。
井戸の底にはそんなものは無いのです。
更には、青豆と天吾が最後は一緒になってとりあえずハッピーエンドで良かった、というのもありましたが、基本的にエンディング、結末がどうなのかというのは、村上作品においてはさして重要ではありません。
これまた、井戸の底にはそんなものは無いのです。
要は、読みながら読者自身がどこまで井戸の底に足を踏み入れられるかということなのです。
だから、これだけ村上氏の作品が話題になるのは、井戸の底に行ってみたいという人々が多いということなのでしょうか。
でも、残念ながらこの「1Q84」は井戸の底へ誘う物語ではありませんでした。
それについて、あれこれ自分なりに書いてみようと思いましたが考えがなかなかまとまらず、とりあえず今回は脈絡なしに箇条書きっぽく以下にメモしておくことにします。
◆「ダンス・ダンス・ダンス」までずっと井戸を掘り続け、ついに辿り着いた井戸の底を「ねじまき鳥のクロニクル」で描いた。
井戸の底に入り込むことができた村上氏が、井戸の底と外の世界を繋げる物語を今度は書いた。
◆ジョージ・オーウェルの作品「1984」におけるビッグ・ダディの対としての「リトルピープル」。
リトルピープルとは、我々がいる世界で形作られる世論とか、集合体が作り出すもの、悪意でないところから生まれる無意識の悪意、いつのまにか形作られている空気、単純な善悪では分けられないもの、目には見えないシステム、大衆のはけ口といったところか。
◆相変わらずメタ色の強い村上春樹らしい作品だけど、これまでとはちょっと違う印象も受けた。
村上氏お得意の「僕」が登場しない三人称の形式。
今まで読者は、どちらかというと常に置き去りにされてきた。
メタファーを回収するという言い方が正しいかどうかわからないが、Book3で作者は色々な謎に答えを付している。
これが今までとは違うと感じたところ。
◆Book3が、Book2発売後約1年の期間を経て出版されたのは、何を意味するのか。
Book1,2を読んだ世間の様々な批評、物語を取り巻く空気、それこそまさしく「リトル・ピープル」であり、リトルピープルが現れるのを待ってBook3を出しているのは、完全に作為的である。
つまりは、作中に出てくる物語「空気さなぎ」をリアルに再現しようとしたのだと僕は思っている。
ふかえりだけでなく、村上氏自身も含めて小説家が書く作品は「空気さなぎ」であり、そこから自身の分身(ドウタ)が読者がパシヴァとなって生み出される。
◆登場人物名がユニークなのは何を意味するのか。
青豆、天吾、牛河、タマル。
牛河というネーミングは「ねじまき鳥のクロニクル」でも登場している。
◆オウム真理教やその他の新興宗教をモデルにした宗教団体の登場は、当然、村上氏自身の取材執筆による「アンダーグラウンド」の下地があると思って良い。
しかし、そうした宗教に引きずり込まれる人間がダメだとか、新興宗教の存在そのものは否定していない。
むしろ、青豆は王国(宗教)の太陽を求めたし、彼女にとっての王国の太陽は天吾であった。
小説家がすることとカルトや新興宗教がすることに実際は差はなく、閉じているか開いているかの違いでしかない。
閉じているのがカルトや宗教で、開いているのが小説。
◆天吾がどのようにこの世に誕生したのか明確にされていないが、天吾の母が処女懐妊によって生まれたものと解釈できる。
そして、それはそのまま青豆の処女懐妊(処女ではないが天吾と性交せずに妊娠した)に繋がっている。
また、千倉にある病院の看護婦「安達クミ」はドウタであり、「空気さなぎ」が世に出されたことによってドウタが分散した結果である。
安達クミはおそらく天吾の母の生まれ変わりである。
◆月が2つある1Q84年の世界、もしくは猫の街は自分にとってはどうにもならない不合理で理不尽な世界かもしれないが、今の自分がいる世界を受け入れ「空気さなぎ」という物語を作るのは僕らであり、その世界に向かい合わなければならない。
生きていくというのはそういうことなのだ。 |
長かった…作者はウィンタースポーツ系が得意らしく、物語の題材やシチュエーションとしてよく描かれます。
個人的には、スキーもスノーボードもやらないし、ましてや冬の山へ出かけるなんて物好き以外でしかないという人間なので、この手の作品はちょっと触手が進まないのが本当のところ。
物語背景が、自分の苦手なシチュエーションに加え登場人物が多く、それもほとんどが広く浅くといった登場の仕方で且つ、事件を追う刑事役の存在感も薄く、読んでいてこの人誰だっけ?感が多いのであります。
なので、けっこうなボリュームはあるけど、読後感として残るものはあまりなかったというのが正直な感想。
後半、若干のどんでん返しがありますが、犯人そのものは物語前半で明らかにされているので、そのどんでん返しが無かったらこの作品は成り立たないのではないかと思います。
苦手な部類に入ることもあり、もう読み返すことはないかな。 |
その手法はちょっとどうかと思うさくさく読めるし、展開としても面白いけど、個人的には納得いかなかったというのが感想。
自慢するわけではないですが、強盗犯による山荘での監禁は仕組まれたものだろうと、物語途中から感じていましたし、おそらくは主人公の男性(婚約者)が最初の事故に関係していたのも想像できました。
だからラストのドンデン返しも、まあ、そんなところだろうねと個人的には納得。
では何が納得できないのか?
それは主人公の物語内における立ち位置というか、描き方です。
前半部分で主人公自身による事故死した婚約相手やその従姉妹に対する叙述があるのですが、それを読んでしまうと、主人公が犯人(実際は殺意を持っていたかどうかが焦点)であると目星を付ける読み方が出来なくなってしまうからです。
作者としては、それが狙いだったのでしょうけど、犯人としての心情吐露は出さずに、最後の段階になって実はあの時…とやってしまうのは、推理小説としては、ほぼ反則技に近いのではないでしょうか?
導入から中盤までの部分では、主人公が事件の謎に迫りたいような描写をし(厳密に一言一句拾っていけば、そんな表現はどこにもないと作者は言うでしょうが)、後半の謎解き部分に差し掛かってから婚約者に対する思いが薄れ…云々とすると、読者は完全にミスリードされてしまうのであります。
もちろん、読者をミスリードさせるのが狙いでありますが、今回のはちょっとやり過ぎでは?
そういうのもOKってことになると、何でもあり状態の設定が可能になってしまうから。
主人公=犯人とする場合、何人称で表現するかという事も含め、あからさまなミスリード描写は読後のカタルシスを半減させてしまいます。
作者に「してやられた!」とは感じず、「そりゃないでしょ?」的感だけが残ってしまうんですよね。
東野作品では、たまにこういう設定をしたものが見かけられますが、それも個性の一つなのでしょう。 |
時代を感じさせる若い感じがしますね。
文体にしても、感性にしても、全体的にさらりとしてるというか。
宝石店、パーティーコンパニオン、距離が縮まりそうで縮まらない主人公と刑事の会話エッセンス。
そう、まさしく、当時のバブルを彷彿させる小説です。
こういうのを描いてみたかったのかはわかりませんが、らしくない作風という感じです。
時代のトレンドを取り込んでいること自体は、決して珍しいことではないのですが。
赤川次郎かと思いました。
ビートルズのカセットテープとか、読んでて妙に懐かしさも感じた一品。
|





