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2018年3月8日
以前テレビ番組で田中一村の特集があった時、亜熱帯植物や動物を描いた強烈で神秘的な絵画の世界に魅せられてしまいました。
生前は画業も認められることもなく、奄美大島での清貧の中で多くの傑作が生まれたと言うことも、田中一村に興味を持たせられ一因です。
大分後になって、田中一村記念美術館が奄美大島に在ることを知り、その美術館の建物がユニークな造形をしていることもあって、いつか尋ねてみたいと思っていました。
最近になって田中一村記念美術館のある奄美パーク十分に滞在時間をとってあるツアーがあったので参加を決めました。
ツアーの予定では4日目に奄美パークによる予定でしたが、初日が雨模様で天候に左右されない奄美パークの訪問に変更になりました。
2時間半くらい時間があったので田中一村の作品をゆっくり楽しめました。

田中一村は栃木県で生まれ、5歳の時東京に移り住み、30歳の時に千葉に転居しています。
50歳の時奄美大島に渡り、52歳の時一時千葉に戻りますが、53歳の時再び奄美に戻り、以降奄美大島で世捨人のような生活をして描き続け、この時期に代表的な作品群が生まれています。

一村は彫刻家の長男として生まれ、幼い頃より絵の才能が優れていました。

大正4年  7歳の時の菊図
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落款の下の葉の部分に父稲村が手を入れたのが気に入らず、7歳の米頓はその部分を破いています。
7歳のプライドの跡と言うことらしいです。
輪郭線を描かない没骨法の技法を既に習得しています。

大正10年  つゆ草にコオロギ(部分)
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没骨法も可成り上達しています。

大正15年に東京美術学校に入学した当時の作品
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4月に入学した美術学校も6月には退学しています。
 
昭和3年 20歳の時の菊水図と牡丹図
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昭和4年 竹蘭図
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昭和10年代の作品
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終戦の頃の観音像
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団体公募展で初入選した「白い花」(部分)
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ヤマボウシの緑の葉と白い花がみずみずしく印象的です。
39歳になっていました。

この頃屛風も描いています。
イメージ 9
 部分
イメージ 10
部分

以降公募展に挑戦するものの、落選が続き公募展に出品しなくなり、奄美行きを決意したようです。
昭和33年奄美に渡りました。
一村50歳の時です。
知人にあてた手紙に
「私のえかきとしての生涯の最期を飾るえをかくために来ていることがはっきりしました・・・・
東京で勝負をつける材料にします。」と書いています。
しかし奄美に渡って2年で、突然千葉に戻っています。
それは一村の結婚話があったからです。
仕事も市の教育委員会のポストが用意されていて、仕事が決まれば休みの日にでも絵でも描いてみようと思ったらしいです。
一村には画業の面倒を見てくれた姉の喜美子がいました。
結婚の成り行きの逐一を姉の喜美子に知らせていなかったようです。
そして世話になる川村家で一席が設けられて時、姉の喜美子が一村の結婚話を知ることとなります。
その時姉は「不昧ちゃん、私もお嫁に行こうかしら。結婚相談所っていうのあるんでしょう」とヒステリックに叫んだと言います。
一村のために独身を通して来たこの姉の一言で、一村ははっと我に返ったと言います。
翌日一村は自分で縁談を断り、次の日荷物をまとめて、奄美に帰っていきました。
姉は弟の大成を願い、弟は姉のために生活の安定を願って、互いを想うゆえの行き違いだったのでしょうが。

千葉の土産として描いたソテツとアダン 昭和36年
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 左部分
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右部分

昭和37年に一村は大島紬工場で染色工として働き始め、5年後にやめて3年間絵画制作に専念します。
この時期に奄美時代の主要な作品群が描かれています。

昭和37年 ビロウとアカショウビン
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上半分
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下半分

昭和40年 白花と赤翡翠
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上半分

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下半分

昭和40年  草花と蝶
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上半分

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下半分

昭和40年 ビロウとブーゲンビレア
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昭和40年 岩上の赤翡翠(部分)
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昭和40年 ビロウ・コンロンカに蝶
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上半分

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下半分

昭和40年 ビロウ樹の森深く
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上半分

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下半分

昭和40年 棕樹に虎みみずく
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上半分

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下半分

昭和44年  アダンの海辺の図
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空の黒い雲は作者の将来のある種の不安の想いを象徴しているのかもしれません。
手前の細かな波、海岸線の礫の描写は詳細で素晴らしいです。

昭和45年に再び大島紬工場で働きだし、2年後には工場をやめて絵画制作に専念しています。
全てを振り切って渡って来た奄美の生活でしたが、頼る人のいない孤独の暮らしの中で、絵画制作も体力の衰えと共に従前の様に行かなくなってきていました。

そして昭和49年に知人にあてた手紙で
「それは二尺五寸の巾丈五尺二寸の大物で、一枚半年近くかかった大作二枚です。
これは一枚百万円でも売れません。
これは私の命を削った絵で、閻魔大王えの土産品なのでございますから。」
大作二枚の一つが前の「アダンの海辺の図」で、もう一つが

昭和49年 クワズイモとソテツ  です。
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上部
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下部
着物のデザインのような平面的な画面ですが、亜熱帯植物の神秘的で不思議な姿が私に迫ってきます。
植物に一村の情念が乗り移った感じでしょうか。

昭和50年 花とシンジュサン
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昭和51年に軽い脳溢血で昏倒し入院し、世話になった隣人へのお礼に二枚の絵を描いています。
ポインセチアとツマベニチョウ
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海の幸
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昭和52年に体調がやや回復し、千葉に帰郷したりしますが、9月に心不全で69歳でこの世を去りました。
画家としては清貧で孤高な生き方を通しまし、奄美の亜熱帯の動植物を独自のイメージで描き上げましたが、中央画壇からは忘れられた存在でした。
にも拘らず奄美時代の絵には殆ど弱音を感じ取れる印象がありません。
自分の絵に対して可なりの自信家であったのでしょう。

田中一村の写真
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田中一村記念美術館
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イメージ 35
 
天井部分
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一村像
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一村の作品を観た後時間に余裕があったので、喫茶・ミュージアムショップのチェーロにはいって休みました。
普通のソフトドリンクのほかに、ハイビスカスミルクや黒糖ソルトのジェラート、喜界島アールグレイ、奄美のパッションフルーツジュースとかパッションフルーツのキビ酢ソーダなどがありました。
私はパッションフルーツジュースを勧められたのでそれにしました。
結構甘酸っぱくて美味しかったです。

田中一村記念美術館、来て観て本当に良かったと思いました。

チェーロ
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イメージ 39
 
イメージ 40
 
イメージ 41
 
イメージ 42
 
イメージ 43
 
パッションフルーツジュース
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奄美の焼物のカップ
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現在は製造販売されていないそうです。

閉じる コメント(2)

おはよう〜。
奄美大島に行かれたのですね。
見る所が沢山ありますよね。
以前に行っているのでトラバします。
ナイス

2018/4/1(日) 午前 5:53 ヒロ ♪

顔アイコン

> ヒロ ♪さん
こんばんわ。

ヒロさんも奄美大島に行っていたのですね。
トラックバック見せてもらいました。
田中一村記念美術は良かったですよね。

2018/4/4(水) 午後 8:26 [ pa2***** ]

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