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唐人お吉について

2019年1月20日伊豆下田の観光バスツアーの最後は八溝山宝福寺でした。
八溝山宝福寺本堂
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宝福寺には坂本龍馬と唐人お吉の関係を示す看板が
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それは文久3年1月15日に土佐藩山内容堂が大鵬丸にて下田に入港し、宝福寺に投宿していました。
時を同じくして、幕府軍艦奉行並・勝海舟の順動丸も下田に入港しました。
その時容堂は勝海舟を招き、二人の謁見が実現し勝海舟は坂本龍馬の脱藩の罪を解き、その身を自分に預けてほしいと懇願し、間もなく長間は脱藩が許されました。
そんなことで宝福寺は竜馬がここで天馬になって飛翔したと称しているようです。
平成最後の飛翔祭が宝福寺の境内で今日行われていました。
観光バスが宝福寺に着いた時、翔華組のよさこい踊りが披露されていました。

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境内では竜馬市も
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13時からは本堂で勝海舟玄孫高山みな子氏による講演会が予定されているとか。

宝福寺には唐人お吉の墓があります。
唐人お吉記念館が本堂に並設されています。
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墓は記念館の中庭にあります。
唐人お吉の墓
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右側が墓で左側は説明碑です。
法名は「釈貞歓尼」です。
女優水谷八重子は舞台で「唐人お吉物語」を何度も演じていた関係で、新しい墓石を寄進しています。
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向かって左の五輪塔が許婚だった鶴松、右がお吉です。
五輪塔だから墓と言うより、慰霊塔と言うのが適切かもしれません。

館内には問題の写真があります。安政5年のお吉19歳の写真です。
撮影者は水野半兵衛と言うことです。
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この写真をカラーにトリミングした写真です。
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お吉は美人だったようです。

お吉が唐人と呼ばれ世間の罵声と嘲笑を浴びながら身を持ち崩し、投身自殺したお吉が淵(昭和5年頃撮影したもの)
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ここで唐人お吉を少し詳しく説明します。
宝福寺の資料によると、
唐人お吉は本名を齋藤きちと言い、天保12年11月10日に愛知県知多郡内海に、船大工市兵衛の次女として生まれました。
4歳の時家族が下田に移り住み、14歳で芸妓となりました。
新内暁烏のお吉とうたわれるほどの評判の美貌と美声の持ち主でした。
タウンゼント・ハリスが通商条約締結のため浦賀に来ましたが、幕府はこれを拒み、下田に上陸させ、玉泉寺を改修させて領事館としました。
通訳のヒュースケンはお福を侍妾とするため、姉芸者であったお吉をハリスの侍妾とするよう奉行に働きかけました。
17歳であったお吉は法外な年俸と引き換えに、心ならずもアメリカの総領事タウンゼント・ハリスのもとに侍妾として奉公に上がることになりました。
ここのお吉はハリスの侍妾としてと同時に、米国側の真意を伝える手段として奉仕し、日本側が有利になるよう努力しました。
その為許婚の鶴松にも裏切られ、ラシャメン(洋妾)として町の指弾を受けました。
これは人種的な偏見ばかりでなく、支度金25両、年俸120両をお吉が受け取った事への嫉妬と外国人との間に私生児を生むことを恐れ、外人に近づけさせないためにとった当時の町の親たちの制裁と考えられます。
その後お吉は京都の祇園で芸妓となり、勝海舟と交流の在った松浦武四郎の配下になって開国運動に奔走しました。
維新後は流浪の果てに下田に戻り、鶴松とくらし、上雄行を始めますが、程なく離別しています。
さらに小料理屋安直楼を開業しますが、二年後には廃業しています。
唐人、ラシャメンと言う世間の嘲笑と罵声を浴びながら、身を持ち崩し遂に明治24年3月27日に川に身を投げて、自らの命を絶ちました。
お吉は身寄りもなく、宝福寺では慈愛の心で遺体を引き取り、境内に手厚く葬ったと言うことです。
これが宝福寺のお吉像です。

しかしハリスが滞在していた玉泉寺の住職村上文樹氏の「唐人お吉物語  その虚構と真実」と言う冊子では大分事情が異なっています。

玉泉寺に通った下田の娘たちは全部で5人です。
恰もお吉さんだけだ通い、日本海国の犠牲者、唐人、ハリスの侍妾、悲劇のヒロインとされるのは、観光客の受けのいい人権問題、女性蔑視の問題と強調し、下田への集客の目玉とするための脚色があったのではないかと。
まず最初に安政4年5月22日に、下田坂下町市兵衛後家きわ娘きち(吉17歳)が役人に付き添われて玉泉寺に出仕しています。
5日後の27日に福がヒュースケンのもとに出仕している。
そのが安政5年2月5日にきよがヒュースケンのもとに出仕。
2月19日にはまつがヒュースケンに出仕。
7月16日にさよがハリスに出仕している。
これらは町会所日記により定かである。
これらの娘たちはどれくらいの期間玉泉寺に出仕いたのでしょうか。
これらの記録は古文書としてかなり残されていて、
お吉については3日以上4か月以内と伝える。
福は6か月、きよは1日、松は一年、さよは5か月、それぞれ出向している。
 
お吉について詳しく記述すると、お吉はハリスにお目見えして2日後に25両の支度金を受け取り、6月6日に7両、7月14日に5両の受領書が残っている。
最後に8月22日に解雇手当として18両、合計55料が支払われている。
 
玉泉寺先々代の文機和尚は昭和8年に下田町役場保存の古文書の中から、吉の母きわと娘婿惣五郎の嘆願書を発見しています。
その嘆願書によると、
・お吉は船員相手に洗濯などをして細々と暮らしていたこと
・ハリスのもとに行くことは親類等が反対であったが、町役人の再三の要請であり相当の給金になるので、反対を押し切って承知したこと
・その頃、お吉は腫物ができており、僅か3夜で自宅養生を仰せつかったこと
・腫物が全快したことを届けたこと。ハリスが江戸に出府する旨を申し渡されたこと。
・異人と交流があったので、船頭たちの洗濯ができなくなり生活が苦しいこと
・したがってお慈悲の沙汰をお願いしたい。

このことからお吉は3日しか(給金は4か月)出仕しなかったことが、研究者たちの定説、史実とされていると言っています。
むしろお吉さんより、1年も勤めた松さんの方が人々の目に付き噂の対象となったのではないでしょうか。

お吉物語の原点は昭和2年村松春永氏の研究と小説発表にあります。
春永はかなり研究しているのですが、小説で脚色、創作が加わってしまい史実と異なったお吉像が出来上がってしまったのではないか。
 
宝福寺の19歳のお吉の写真は撮影者が水野半兵衛となっています。
横浜で下田蓮杖から写真を学び、安政6年下田で写したものになっています。
しかし蓮杖が写真技術を身につけ、初めて自分で撮影と現像に成功したのは文久元年のことです。
写真館の開設はこの年の暮れでした。
文久元年の2年前の安政6年に蓮杖の弟子である水野半兵衛がこのような写真技術を身につけていたという矛盾すら気付かづに、平気で間違った展示をしている宝福寺の神経が理解できないと村上氏は主張しています。

お吉の墓の由来について、村松春永氏が墓所を捜した苦労話を「唐人お吉を語る」に記載しています。
少し長いですがそのまま引用します。
漸くお吉の屍が棺に納めず、戸板で下田の式根(敷根)の奥の野原(下田富士の麓をふかくはいる)で火葬されたことを聞き出し、なほ百方捜索の結果、やっと西野屋の子分がその世話をしたことだけは判明したが、遺骨の所在は皆目知れぬ。
そこで下田中のてらを片っ端から探しているうちに、ふとお吉の投身当時十五六だった安吉君を見つけ出し、就て訊くと、同君が、涙を流して、初めて、その時のことを話してくれた。
それに依ると、お吉の骨瓶は、同君が前記西野屋子分と共に宝福寺へ持って行き、回向埋葬を頼んだところ、手厳しく刎ねつけられ、そこで二人は念仏をとなえながら、同寺の裏にある藪の側の無縁墓の台石の下に入れて帰った。
其の後も少し余裕があったら改葬してやろうと思っても、日々に追われて其の意果たさぬという。
私は非常によろこんで、同君の朧化な記憶を手頼りに、宝福寺の草叢にある無縁墓をそれこれと捜索し、漸く阿波の船員で安次郎という者の墓の台石の下に、一つの瓶のあることを発見した。
安吉君はそれに違いないという。
土を洗い浄め瓶の蓋をとって見ると、悪筆ではあるが、確かにお吉と言う字が薄いながら読める。
そこで雀躍りして、改めて自走に談判し、境内に今の墓所の地を相し、丁度来遊して居た田中卍宗君に相談して、五輪塔を立てた。

宝福寺の説明では投身遺体快く引き取り墓所に埋葬したと書いていますが、村松春永氏の調査ではお吉の回向埋葬を宝福寺は手厳しく刎ねつけたとなっています。

こういった資料がいくつか出てくるとどこに真実があるのか分からなくなってきます。
ただ分かるのは宝福寺と玉泉寺の関係が対立状態にあることでしょうか。
私はお吉は芸妓ではなく、船員相手の洗濯をして暮らしていた女性の説をとりたいです。またハリスの侍妾でもなかったと思っています。
1年仕えたお松さんはクエスチョンマークですが。
3日の報酬が55両は常識外れです。
解雇料をもらった時まで仕えていたのではと思いますが。
また宝福寺の言っていることにかなり疑問を感じています。

伊豆下田の観光はこれでお終いです。
伊豆急下田駅発13:42の踊り子110号の指定を持っていましたが、下田駅に12:58に着いたので、13:03の踊り子108号が直ぐに発車することが分かり、慌てて指定券の変更をしてもらい発車寸前で乗り込むことができました。



2019年1月20日
玉泉寺の次は爪木崎の水仙です。
爪木崎の池の段の草原には約300万本の野水仙が群生していて、2018年12月20日から2019年1月31日まで水仙まつりが開催されていました。
今年は水仙の開花が例年より1週間くらい早く、水仙まつりも残りわずかで、水仙の見頃はとうに過ぎていました。
それでも水仙の苗の開花時期を少しづつずらして花時を長くしてあるため、1月20日でも楽しめました。
アロエが沢山咲いていて、アロエの朱色と水仙の白のコントラストがとても素敵でした。
 
爪木崎水仙まつり会場の案内板
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爪木崎入口
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水仙とアロエの映像
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水仙群落地の石碑
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水仙は八重と一重の2種類ですが、大半が一重咲きでした。

一重咲き
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八重咲き
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爪木崎の突端には爪木埼灯台があります。
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土台部分に海上保安庁のマスコットキャラクター「うみまる」君が敬礼姿で描かれていました。
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爪木埼灯台は2017年に、日本ロマンチスト協会と日本財団海と日本プロジェクトより恋する灯台に選定されています。

恋する灯台とは
未来を照らす灯台が、ふたりの道標になる。
どこまでも広がる青い空と海に、気高く存在し続ける白亜の塔。
晴れの日も、荒れ狂う嵐の日も、大海原を照らし続けてきた灯台の光は、
人生の道標のようであり、未来に進む勇気を与えてくれるような気がする。
恋に悩み、夢に迷ったとき、灯台に行こう。
愛し合うふたりが、未来を誓い合うとき、灯台に行こう。
そんな、夢見るチカラ、恋するチカラを与えてくれる灯台を、
恋する灯台と呼んでいる。
未来を照らす灯台が、二人の道標になる。

二人で撮影するスポットも用意されています。
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灯台付近の周辺の景色
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その中で柱状節理の岩も見れました。
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小雨がぱらついていましたが、少し濡れた程度で済みました。
ヨモギの串団子が売られていたので、買ってバスの中で食べました。
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観光バスの最後は、昨日既に訪問している宝福寺です。
2019年1月20日
黒船サスケハナで下田港遊覧の次は玉泉寺に向かいました。
玉泉寺は山号を吹王山、院号を不動院と号する真言宗の寺でした。
江戸時代に瑞龍山玉泉寺と曹洞宗に改宗されました。

山門
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本堂
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本堂には曹洞宗の二つの寺紋が掲げられています。
一つは大本山永平寺の久我竜胆(こがりんどう)
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もう一つは大本山總持寺の五七の桐です。
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宗祖道元禅師は久我家の出身でした。

安政元年(1854年)3月、日米和親条約により下田が開港され、5月に下田条約が結ばれると、玉泉寺と了仙寺は共に米国人休息所に指定されました。
安政3年(1856年)にタウンゼント・ハリスが米国総領事として下田に来航し、8月5日に日本最初の領事館が玉泉寺に開設され、星条旗が翻りました。
玉泉寺の境内には米国総領事旗掲揚の地碑はあります。
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碑にはハリスの日記の一部が刻まれています。
 
この帝国におけるこれまでの「最初の領事旗」を私は掲揚する。
厳粛な反省―変化の前兆ー疑いも無く新しい時代ははじまる。
敢えて問う・・・・・日本の真の幸福になるだろうか?・・・・

ハリスの苦しい心境がにじみ出ています。

ハリスは通訳のオランダ人ヒュースケン、召使の中国人とともに玉泉寺の本堂に住みました。
玉泉寺に通って、ハリス等を世話した日本の女性は5人です。
玉泉寺で入手した「唐人お吉物語 その虚構と真実」と言う小冊子によると
お吉三日、お福六か月、きよ一日、まつ一年、さよ五か月が世話した期間です。
それなのにお吉だけが有名になり、史実と違うように語り継がれていると主張しています。
お吉については別稿で取り上げようと思っています。

玉泉寺の在る柿崎村の名主浜田与平治は詳しい御用日記を残しています。
安政5年2月3日
今夕異人御掛り様より被仰候は牛の乳少々異人所望につき下役人二人白浜村へ願遺候

2月4日
昨晩白浜村へ注文致置候牛の乳五六勺程送り来候につき玉泉寺へ差上候

2月5日
玉泉寺異人掛りより牛の乳これより日々二合斗りつも調へ度由被仰候につき白浜村に遣し候

こうゆうことがあって、玉泉寺の境内には牛乳の碑がありました。
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ハリスは安政5年6月19日にポーハタン号艦上で日米修好通商条約および貿易商堤の調印に成功します。
通商条約により横浜が開港されるとハリスは下田を去りました。
2年10か月の間、玉泉寺は幕末開港の中心舞台となりました。

本堂の横にはタウンゼント・ハリスの遺品や関連資料、古文書などを展示したハリス記念館があります。
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館内は撮影禁止なので

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これで館内を想像してください。
ここには柿崎村名主浜田与平治の日記、吉田松陰の遺品、ヒュースケンに仕えたお福の遺品なども展示されていました。

玉泉寺の境内には日米和親条約付録条約5条により、アメリカ人用の埋葬所が設けられました。
ペリー艦隊乗組員5名の墓所です。
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鎮魂の碑
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ロシア使節プチャーチン提督のディアナ号は1854年の安政大地震による大津波で下田港で大破し、修理のため西伊豆の戸田に向かう途中で沈没しました。
日露和親条約付録第3条により、玉泉寺境内に3名のロシア人墓所が設けられました。
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プチャーチン提督はロシアに帰国後、再度アスコルド号で下田に入港しています。
そのとき1名の水兵が死亡しました。
その墓が下の映像です。
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1979年にカーター米国大統領が玉泉寺を訪問し、ハリス記念碑、本堂を見学し、黒船ペリー艦隊将兵の墓にお参りしました。
その時の記念碑にはカーター大統領直筆のサインが刻まれています。
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境内の傍らに六地蔵があります。
この六地蔵も幕末開国の舞台を静かに見守っていたのでしょうか。
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仏塔 150

NO. 746  寂光山滝口寺   五重塔
       神奈川県藤沢市片瀬3−13−37
       明治43年建立
2007年10月6日撮影
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NO. 747  聖徳久里浜霊園  五重塔
       神奈川県横須賀市長沢1−54−1
       昭和63年建立
2010年11月27日撮影
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NO. 748  済度山宝船寺  五重塔
       神奈川県小田原市酒匂2−35−22
       平成6年建立
2012年1月18日撮影
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NO. 749  中道山明王院  五重塔
       広島県福山市草戸町1473
       南北朝時代 貞和4年建立   国宝
2007年9月29日撮影
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NO. 750  厳島神社  五重塔
       広島県廿日市市宮島町1−1
       室町時代 応永14年建立  重要文化財
2015年4月20日撮影
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2019年1月20日
須崎恵比寿島から伊豆急下田駅に戻り、1番バス乗り場に行くとガイドさん運転手さんが待ち受けていて、急いでバスに乗り込みました。
前方の席は埋まっていて後部座席しか残っていません。
乗客の殆どが御夫婦の方で、私と40代の男性が一人ものでした。
最初に向かったのが伊豆クルーズ遊覧船乗り場で、ここで黒船サスケハナに乗り換えて下田港を遊覧します。

黒船サスケハナ
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船内はこんな感じ
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実際の蒸気船サスケハナはこの遊覧船の長さの3倍、排水量は20倍以上もある巨大なものでした。
蒸気船サスケハナは神奈川条約調印後はマカオに向かったため、代わりに蒸気船ポーハタンが旗艦として下田に入港しています。
つまりサスケハナは下田を訪れていないのです。
ですから、遊覧船の名前はポーハタンとすべきだったのかもしれません。

下田湾には昆沙子島(みさごじま)、弁天島、犬走島、少し大きい赤根島があります。
昆沙子島
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特にこの島についての物語はあまり残されていないようですが、犬走島は「イヌワシが棲む島」と言うのが名前の由来と伝えられていますから、昆沙子島は鷹の仲間の「ミサゴが居た」とする由来は如何でしょうかと言う人がいます。
しかし島をよく観察するとミサゴでなく、現在はウミウが住み着いているようなので、この説どうなのでしょうか。

弁天島
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柿崎弁天島とも呼ばれ、元は湾内に浮かぶ島でしたが、防波堤により地続きになり道路が通じています。
1854年日米和親条約締結のためペリー提督が2度目の来日で、下田に入港しました。
幕末志士吉田松陰と金子重之輔は黒船に密航して渡米しようと企て、下田にやって来ます。
弁天島の祠に隠れて夜を待ち、小舟でペリーのポーハタン号に接触することに成功しますが、ペリーは江戸幕府との外交交渉に差し障ると考え、松陰らには面会せず、ボートで返しています。
密航失敗が露見するのも時間の問題と考えた松陰は、柿崎村の名主のもとに出頭し、番所に連行され、江戸で投獄され、さらに国もとに蟄居を命じられ、長州へ護送されました。
その後安政4年(1857年)叔父の主宰した松下村塾の名を引き継いで、杉家の敷地に松下村塾を開塾し、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋などを弟子に持ったことは有名な話です。
弁天島には吉田松陰と金子重之輔が身を潜めたという社が現存し、石碑が建てられているそうです。

犬走島
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西の和歌の浦側から長さ350m程の防波堤で繋がれています。
前日の19日に防波堤を通ってこの島に渡りました。
島から東に30m程防波堤が伸びていて、先端部分に下田港西防波堤灯台が建っています。
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湾内にはこの他にも

下田港東防波堤灯台
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下田港仮設外東防波堤灯台
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下田港西防波堤仮設灯台
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下田灯台
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などが見えます。
名前が分かりませんが、灯台なのでしょうか、標識なのでしょうか。
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湾内には利島・新島・式根島・神津島を巡る神新汽船のフェリーアザレア号や海上保安庁の船舶が観れました。
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また赤根島近くに下田海中水族館の建物が見えました。
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所要30分の遊覧でした。


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