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2012年3月19日
第6番札所 壺阪山南法華寺
奈良県高市郡高取町壺阪3
開基 辨基上人
建立 大宝3年
勅願 元正天皇
御本尊 十一面千手千眼観世音菩薩
御真言 おん ばざら たらま きりく
十一面千手千眼観世音菩薩坐像
関連映像
浪花亭綾太郎の浪曲「壺阪霊験記」の「妻は夫をいたわりつ、夫は妻をしたいつつ・・・・・」の名調子を思い出してしまいました。
有名な壷阪寺です。
御朱印
アメブロに一部引っ越ししています。
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2014年2月2日
勝連城跡の次は中城城跡へ移動です。
中城城跡は沖縄県中頭郡中城村にあります。
沖縄の歴史上のヒーローと言えば護佐丸と阿麻和利で、二人は按司と呼ばれる地方の実力者でした。
護佐丸は座喜味城を築城しそこに住んでいましたが、王府の命令で中城城に移り住んできました。
中城城は14世紀後半に先中城按司によって築城されましたが、護佐丸は阿麻和利の勝連城に対抗するため増築し、6つの郭から成る連郭式の大きな山城となりました。
なりました。城跡の特徴は石積された城壁の美しさではないでしょうか。
城壁は形成する石はサンゴ礁によってつくられた琉球石灰岩です。
中城城の築城の時期が場所によって異なっているため、石積の様子も3種類に分けられます。
自然の石をそのまま積む「野面積み」、四角形に加工された石を積む「布積み」、多角形に加工された石を積む「相方積み」です。
「相方積み」は
1458年勝連按司阿麻和利は中城城を急襲し護佐丸は滅亡してしまいます。
その後は王府の直轄地となっていましたが、1470年頃中城王子の採地になりました。
中城城跡は世界遺産に登録されています。
立体図
正門は右手側、裏門は左手側にあります。
駐車場から道を進むと、三の郭の城壁と裏門が見えてきます。
入城は裏門から
北の郭に入り、石段を上って三の郭に行きます。
二の郭から一の郭の城壁 二の郭から海が見えます。
一の郭のアーチ門
工事中でした。
一の郭拝所
別の拝所
南の郭の先の方向に廃墟のような建物が見えました。
経営企業が倒産してオープンしないまま残されたものだそうです。
傷みが激しく危険な状態で、近づかないでくださいと言われました
西の郭の拝所?
正門
中城城跡碑
正門を出て坂を下った場所からもう一度城跡を見上げました。
一の郭や南の郭は整備中で良く分かりませんでしたが、5年後の現在は整備は完了しているのではないでしょうか。
次回は北部の今帰仁城跡を紹介します。
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2019年7月25日
銀座レンガ通りにあるドミニク・ブシェ トーキョーで会食があったので行って来ました。
場所は地下鉄有楽町線銀座一丁目駅6番出口から徒歩3〜4分で、福神ビル2階です。
シェフのドミニク・ブシェ氏はフランスシャラント地方出身で、ジョエルロブション氏に見いだされ、ホテル「コンコルド・ラファィエット」の部門シェフ、「トゥール・ダルジャン」の総料理長などで腕を振るい、2002年にフランスの国民栄誉賞のレジオンドヌール勲章を受賞しています。
2004年にパリ8区に「ドミニク・ブシェ」をオープン。
2013年に銀座5丁目にトーキョー店をオープン。
2015年に現在地に移転。2013年よりミシュランガイド東京で星を毎年獲得し、現在は2つ星です。
またドミニク・ブシェ トーキョーは厳格な審査のあるルレ・エ・シャトーの会員です。
発砲ぶどうジュース
プティ・サレ
アミューズ・ブッシュ
リコッタチーズ、ズワイガニ、マイクロトマト、マイクロハーブが彩りよく添えられていました。
前菜はオマールブルーのパルマンティェ
オマールブルーの上に牛肉とジャガイモのパルマンティェを載せ、カラスミを振りかけています。
周りにはバターソースのノアゼットにブルーキャビと芽ねぎの刻んだものを加えています。
パルマンティェはフランスの国民食だそうですが、結構イケます。
ハタのポワレ
ハタの上にはウイキョウのフリットが載せられていて味のアクセントになります。
下には玉ネギが、また周りに大アサリなども。
全粒粉のパンのお替りです。
ブルターニュ産仔牛のロティ
これからデセールです。
アプリコットブーケ
アプリコットはGEWURTRAMINERの白ワインで和えています。
タイムのアイスクリーム
ミニャルディーズ
ハーブティーとプチフール
プチフールはマンゴとパッションフルーツの果汁をゼラチンで固めたもの。
ツルっと口に入って爽やかでさっぱりした甘味です。
今日は満足できました。
ラウンジとショップカード
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2019年8月15日
私の住んでいる団地では8月中旬のお盆の頃が、蝉の声が一段と大きくなってきます。
最も多いのがアブラゼミとミンミンゼミで、少しばかりのクマゼミの声とヒグラシの声です。
ニイニイゼミは少し早い梅雨明けの頃、そして夏のしんがりはツクツクホウシです。
子供の頃セミの幼虫は地下で7年過ごした後、地上に出てきて羽化して1週間の命を終えると教えられた記憶があります。
私と同じような記憶を持っている人が年配の方に意外と多いようです。
最近になってこれが誤解であることに気づきました。
蝉の幼虫を人工飼育するのは割と難しかったのですが、最近これが簡単にできるようになり、その結果集められたデータが以下の通りです。
ツクツクボウシ 1〜2年(主に2年)
アブラゼミ 2〜4年
ミンミンゼミ 2〜4年
クマゼミ 2〜5年
ニイニイゼミ 4〜5年(主に4年)
セミのメスは樹木の幹に産卵します。
卵から孵化したセミの幼虫は幹から地上に降りて地下に潜ります。
そして植物の根から樹液などを吸って成長していきます。
ですからセミの人工飼育として簡単に思いつくのは、ホームセンターで苗木を買ってきて鉢植えにして、植木鉢の中でセミを買うことです。
しかしこの方法でセミを飼育しても殆ど羽化しません。
普通の木では木が持っている栄養の全てを蝉が利用することができなくなるからです。
それは木に自衛システムがあるからで、セミの幼虫がある一定限度を超えて樹液を摂ろうとすると自衛システムが働き、幼虫は樹液を摂れないようになります。
樹液を遮断されて幼虫はそれ以降成長ができなくなります。
自然状態では多くの草木が根を張っています。
ですから樹液を摂っていた木があるとき自衛システムを発動したら、他の草木に移動してその草木から樹液を摂ればよいのです。
この様に自然状態ではセミの幼虫は新しい根を求めて地中をあちこち移動して命をつないでいるのです。
1本の木しか植えてない鉢植えではこのようなことができません。
しかし最近になってセミの飼育に適している植物がアロエであることが分かりました。
アロエは樹木の様に自衛システムが働きません。
ですから1本のアロエがあれば、アロエの持っているすべての栄養を利用できるからです。
アロエで飼育すると早いものは1年で羽化したそうです。
地上に出たセミの命ですが、色々な人の飼育した記録例から3週間生きた記録も珍しくなく、1ケ月以上も生きた例もあったそうです。
天敵に捕食されなければ2週間以上は生きて居られるようです。
北米では17年を周期とする蝉が大量発生します。
その期間はセミの声がうるさくて、電話するにも難儀するほどです。
発生するサイクルが土地によって異なっていて、毎年いずれかの地で17年ゼミが大量派生したと報じられます。
年によってはどこにも発生しないときもあるそうです。
同じような13年を周期とする13年ゼミもいます
発生周期が17あるいは13の素数なので素数ゼミの異名を持っています。
それにしても地下生活が13年あるいは17年はあまりに長いと思うのですが。
この時期団地内には植樹された木の周辺に多くの穴が見られます。
この穴はセミの幼虫が地中から這い出してきたときにできたものです。
話が横道の逸れますが、サトキマダラヒカゲとカミキリムシがいたので
穴の近くの植物にもセミの抜け殻も沢山見つけられます。
俳句などではセミの抜け殻を空蝉と言い、晩夏の季語として使われます。
写真のような光景を見て
空蝉の庭の草木に縋りをり 松山寿美
空蝉の葉裏にすがる風の道 堀尾早苗
空蝉の取りつく草をそのままに 八木徹
と詠んだのでしょう。
また古今集でも読み人しらずの
空蝉の殻は木ごとに留むれど魂の行くへを見ぬぞ悲しき
もあります。
紫式部の源氏物語に光源氏17歳の夏の話として空蝉のことが記述されています。
源氏は紀伊の守の家で、伊予の介の後家さんと出会い、一夜を過ごしました。
女は慎み深く、その後何度も手紙を渡しましたが返事も無く、身を隠しているようでした。
その後しばらくして紀伊の守が留守の時、女の弟の手引きで紀伊の守邸に忍び込むことができました。
こっそり部屋を覗くと西の御方と囲碁を指しているのが見えました。
小柄で決して美人とは言えないが、立ち居振る舞いが上品で趣味も良く慎み深い性格で、改めて彼女を魅力的だと思うようになりました。
女は西の御方と同じ部屋に寝ていましたが、ふと昔と同じ香りがしてきて、人影がこちらに向かってきます。
女はすぐにそれが誰なのか気づいて、1枚だけ着物を着て後の着物は残したままで逃げ去ります。
(まるでセミの抜け殻の様に着物だけを残していったので、この女を空蝉と呼びます。)
源氏は部屋に入ってみると空蝉だと思っていたのが、よくよく見ると西の御方だったのですが、心ならずも西の御方と契った後、空蝉の着物を抱えて持ち帰り、着物に顔をうずめて懐かしい香りを愛おしんだとか。
状況は異なるのですが田山花袋の私小説「蒲団」を思い出させます。
去って行った女教師の布団の中で彼女残り香をかぎながら泣いている主人公のことです。
源氏の思いは募り、
空蝉の 身をかえてける 木のもとの なほ人柄の なつかしきかな
(空蝉の様に着物だけ残されていても、それでもあなたのことを思い出して胸がいっぱいになります。)
と歌を詠んで空蝉の弟に歌を託します。
これを読み空蝉も源氏の愛を受け入れられない自分の境遇が悔やまれて辛い気持ちになります。
そして源氏の書いた歌の横にそっとこう書きました。
空蝉の 羽に置く 露の木隠れて 忍び忍びに 濡るる袖かも
(セミの抜け殻についた露が木に隠れて見えないように、私も誰にも気づかれないように泣いて涙で袖を濡らしています。)
空蝉のモデルは境遇や身分が似ているため、紫式部自身ではないかと言われています。
平凡で目立たない私に学校一のイケメンで秀才の男子が惚れているみたい・・・・紫式部はそんな妄想をしていたのでしょうか。
ちょと話が変わりますが、先日朝日新聞のコラム欄に空蝉のことが書いてありました。
大分記憶がおぼろげげ申し訳ないのですが、
空蝉は脱皮の跡です。
脱皮とは変身です。
セミの変身は1回限りです。
人も変身できます。
変身して新たなより豊かで美しい人間になります。
セミと違って人はその気になれば何度でも変身できて、
より高い次元の自己実現が可能です。
最後はこんな感じのコラムだったような。
空蝉---色々とイメージは拡がって行きます。
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2014年2月2日
前回、座喜味城跡を紹介しましたが、沖縄の城繋がりと言うことで、2014年2月に訪れた勝連城跡、中城城跡、今帰仁城跡について少しづつ紹介したいと思い、今日は勝連城跡についてです。
琉球は北山、中山、南山の3国に分かれて3人の王同志が覇権を争っていましたが、最終的には中山の尚巴志によって統一されました。
統一される以前の中山には、座喜味城、知花城、喜屋武城、勝連城、越来城、、中城城、浦添城、首里城がありました。
その関係勝連城跡は、首里城跡、座喜味城跡、中城城跡などとともに、世界遺産に登録されています。
一番高い部分が一の曲輪です。
出入り口は南風原御門と西原御門の二つです。
私たちは西原御門側から入城していきます。
勝連城跡石碑
ここで恋が成就すれば永遠の契りとなるが、失恋すると男女いずれかが命を落とすと言われています。
ウタミミガー
井戸の水が少ないと豊作、
井戸の水が多いと凶作となります。
四の曲輪から三の曲輪の石積みが臨めます。
三の曲輪城門から三の曲輪に入ります。
三の曲輪
三の曲輪は儀式などを執り行う広場として、使用されていたようです。
トウヌムトゥ
すり鉢状の遺構
三の曲輪の石積み
三の曲輪の上が二の曲輪で、首里城の正殿のような建物があったと言われています。
城の中枢部分です。
建物の礎石跡でしょうか。
ウミチムン(火の神)
ウシヌジガマ
一の曲輪の石積みを望む
一の曲輪
かつては二の曲輪のウシヌジガマと繋がっていたと言う説があります。
一の曲輪の石積み
四の曲輪から中国陶器類が大量に出土することから、勝連は海外貿易の中心地として栄えていたと考えられます。
繁栄をもたらしたのは人々から信頼の厚かった、阿麻和利という10代目の城主でした。
阿麻和利の勢力に脅威を感じた琉球王・尚泰久は重心の護佐丸を中城城主に任命し、阿麻和利をけん制する一方で、尚泰久の娘・百度踏場を阿麻和利に嫁がせます。
ところが天下統一を目指した阿麻和利は1458年に中城城の護佐丸を倒し、王府打倒へと動き出します。
それを知った妻の百度踏場と付き人の大城賢雄は国王に危機を密通し、阿麻和利を裏切った大城賢雄は王府軍を率いて、勝連城を滅ぼしてしまいます。
百度踏場は夫を殺した大城賢雄と再婚します。
しかしその賢雄も王府の陰謀で殺されてしまいます。
百度踏場は二度も夫を殺された悲劇の女王と言われていますが、自分自身も阿麻和利を裏切っているのですから、私は同情できません。
女性は父親と夫の究極の選択を迫られたとき、血の繋がった父親を選ぶものなのでしょうか。
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