|
2019年7月5日
上野の東京都美術館でクリムト展が催されていたので、行って来ました。
クリムトは人気があるのか展示会場に入れるまでに45分かかってしまいました。
会場内も人で溢れていて、落ち着いて観賞できる状態ではありませんでした。
クリムト展のポスター
会場を出たところにこんな撮影スポットも用意されていました。
グスタフ・クリムトは多くの女性、通常はモデルたちと深い関係になったことは知れれていて、結婚は生涯しなかったけれど3人の子供を父親として扶養していました。
彼の死後、14人の女性が子供たちを彼の子であると主張しました。
多くの女性たちの中で2人の女性が特筆に値します。
一人はエミーリエ・フレーゲです。
クリムトの弟エルンスト・クリムトはヘレーネ・フレーゲと結婚しました。
ヘレーネ・フレーゲにはエミーリエ・フレーゲという妹がいました。
弟の結婚を機にエミーリエ・フレーゲとグスタフ・クリムトは知り合いになります。
1891年にクリムトはエミーリエ・フレーゲの17歳の肖像画を描いています。
白い服の女性は他にも「葉叢の前の少女」
姪の6歳のヘレーネ・クリムトの肖像画
白は敬意、尊厳を表すもの。
大切に思う女性を描くときに使われる色のような気がするのですが。
エミーリエ・フレーゲはクリムトにとって特別な女性を感じさせます。
「クリムト 官能の世界へ」の著者平松洋によると
「クリムトと同時代にウィーンで活躍したフロイトによれば、母親への執着が強固で官能と情愛の流れを統合できないと、その性生活は「俗愛」と「聖愛」とに引き裂かれ、女性を愛せないという。
しかし、そもそも女性と付き合うにしても、当時のウィーンが持っていた本音と建前のダブルスタンダードが、女性を遊ぶ対象の「街の女」と結婚対象の「淑女」に分裂させていたのだ。
正にクリムトが描いた女性たちも、素描のモデルとなった下層階級の「街の女」と、肖像画のモデルとなった「淑女」たちである。」
「街の女」の素描の例
右を向く恋人たち
うずくまる二人の女性
左向きに立つ女性と妊婦
「淑女」たちの例
マリー・ヘンネベルクの肖像
オイゲニア・プリマフェージの肖像
紫色のスカーフの婦人
エミーリエ・フレーゲとの永い付き合いの中、エミーリエに対して恋愛感情を抱いても不思議ではありません。
クリムトからエミーリエ宛の多くの書簡が残されていますが、殆どが短信です。
ただ中にはハートを矢で射抜いた書簡が見られます。
クリムトからのアプローチは1899年に終わったようです。
それは別な二人の女性との間にそれぞれ非嫡出の息子が生まれたことと関係しています。
この後もクリムトは生涯友情の絆で結ばれていました。
1918年2月6日死の床に会ったクリムトが最後に発した言葉は「エミーリエをよんでほしい」でした。
エミーリエ・フレーゲについて
「クリムトは敢えて幸福の責任を引き受けなかったし、彼がこれほど長い間愛した女性は死の苦しみの瞬間に彼を看護する権利を与えられただけだった。」
という人もいます。
しかしエミーリエ・フレーゲは前近代的な「家庭婦人」イメージとは異なり、ニューウーマン、開放された女性だったのです。
先の肖像画を描いてから11年後のエミーリエ28歳の肖像画です。
左手を腰にあてがい、世間に挑戦するかのような背の高い、高圧的な女性として描かれています。
キャリアウーマンタイプの「冷たい美女」として描かれていることからエミーリエ・フレーゲとの関係は終始プラトニックな関係であったことを窺われます。
エミーリエ・フレーゲは30歳の時、最先端ファッションブティック「フレーゲ姉妹サロン」をウィーン工房の内装でオープンさせ、経済的にも自立した女性として生きています。
28歳の肖像画も6年後には着ている衣装が時代遅れになったとして、ウィーンの美術館に売却するほどクリムトの関係はさばさばしたもので、二人の関係は一線を越えることはなかったようです。
もう一人の女性はアルマ・マーラーです。
クリムト展に展示されていたアルマ・マーラーの写真です。
アルマ・マーラーはウィーン宮廷歌劇場の芸術監督で大作曲家のグスダマ・マーラーの夫人だった人です。
アルマが世紀末ウィーンで活躍した芸術家たちのミューズだったことはあまりに有名です。
夫マーラーの死後は画家オスカー・ココシュカの恋人であり、バウハウス設立の建築家グロプウスと作家ヴァルター・フランツ・ヴェルフェルの妻となっています。
アルマは「あげまん」と言うか、彼女と関係のあった男たちは悉く超一流の有名人になっています。
アルマは少女時代から美貌ん持ち主で、10歳代でニーチェやスタンダールを愛読し、17歳でワーグナーのオペラのスコアを暗譜するほどの才媛で、知的な男性を魅惑する術にたけていました。
実父の風景画家エミール・ヤコブ・シントラ―は良く娘に「神様たちと遊びなさい」と言っていたとか。
アルマの最初の「神様」というか初恋の相手はグスタフ・クリムトだったのです。
クリムトは35歳で数々の女性と浮名を流していましたが、17歳のアルマはクリムトのハートをたやすくとらえてしまいます。
クリムトはイタリア旅行に旅立ったアルマ一家を追いかけ、家族の目を盗んで彼女に関係を迫りました。
二人は一線を越えることはなかったようですが、クリムトはアルマの義父モルから、出入り禁止を命じられてしまいます。
そして義父のモルに長い謝罪の手紙を書いたものが残っています。
アルマは作曲家・指揮者のグスタフ・マーラーと婚約するまでクリムトに思いを寄せていました。
この辺りのことはフランソワーズ・ジルー著「アルマ・マーラー ウィーン式恋愛術」に詳しく記述されています。
この展覧会の目玉は「ユディットI」でしょうか。
伝統的にはユディトの行為は道徳的には模範的なものと解釈され、ユディト自身は貞淑な夫人として描かれてきました。
ルーカス・クラナッハ作
カラバッジョ作
ジョルジョーネ作
ボッティチェリ作
いずれの作品も剣と首がセットで描かれています。
しかしクリムトのユディットは剣が描かれてないため、サロメと混同されることが多かったです。
「ユディット」と「サロメ」は若い女性と生首というモチーフでは共通していますが、違いはユディットが自ら手を下して、みずから生首を持つのに対し、サロメは処刑されたヨハネの首が皿に載せられていることです。
サロメは新約聖書に登場するヘロデヤの娘で、罪のない領主の王女でしたが、いつしか時代が過ぎていく中に男の首をねだる妖女サロメとして描きつがれるようになりました。
フランツ・フォン・シュトルック作サロメ
同様にユディットも19世紀頃からその色気で男を破滅へと導くファム・ファタルとして描かれるようになりました。
クリムトのユディットもそのような類の絵です。
国を救う聖女の面影はなく、半開きの口、いまだ恍惚の境にあるかのような焦点の定まらない目つきには、官能の疼きに捕らわれた女を感じるだけです。
ちなみに展示されていませんでしたが、「ユディットII」です。
1902年分離はグループはベートーヴェンをテーマとした展覧会を催しました。
中央にはドイツの彫刻家マックス・クリンガーの17年越しの大作ベートーヴェンの彫像が置かれました。
クリムトはこのベートーヴェン像をコ字状に囲むように、3面の壁にベートーヴェンフリーズという壁画を制作しました。
今回の展覧会ではこのベートーヴェンフリーズが再現されていました。
「第9」の4楽章に相当する部分の一部です。
「幸福への憧れは詩に安らぎを見出す。諸芸術は我々を理想の王国へいざなう。そこでのみ我々は混じりけのない喜びを、幸せを、愛を見出す。楽園の天使たちの合唱。
喜びよ、美しき神々の火花よ、
この接吻を全世界に」
クリンガーの彫像の除幕式には、グスタフ・マーラーの指揮で「第9」の第4楽章をマーラー自身が金管用にアレンジして演奏されました。
マーラー夫人の義父(母親の再婚相手)のカール・モルは分離派の主要メンバーだったため、グスタフ・マーラーも個人的な縁で除幕式に参加しました。
なお、前にも書いたとおり、マーラー夫人にとってグスタフ・クリムトは初恋の人でした。
ここからはダイジェスト風に
女の三世代
印象派やゴッホを連想させるような風景画
アッタ―湖畔のカンマー城III
東京都美術館
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2019年07月17日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]


