わたしの心とからだ

白秋に足を踏み入れたと思ったら、まだ朱夏だった。

父のこと

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父の被爆体験

「私の被爆体験」
 
                                  ○川 ○克
 
 
 昭和3年9月23日、長崎県西彼杵郡村松村(現長崎市)に生まれました。
 
 昭和19年、門司鉄道管理局長崎機関区(現JR九州)へ入社しました。
 
 長崎機関区には、機関車で使用する為の石炭が送られてきていました。
 
 石炭車から機関車に石炭を積むのには、一旦、炭台という台に載せてから積み
 
込みます。私はその炭台に石炭上げをする仕事をしていました。
 
 
 
 長崎駅は、原爆落下地点より南に2キロのところにあります。
 
 
 
 昭和20年8月9日11時02分。
 
あの熱い恐ろしい時間がやって来ました。
 
 五人で炭上げの作業をしていたとき、私が「何か光るものが三つある」と言った
 
瞬間、反射的に石炭の上に腹這いになって身体を伏せました。もしかしたら、爆風で
 
飛ばされたのかもしれません。
 
 顔を上げて見ると、同僚はケガをしていて「熱い、熱い。」と言っていました。
 
私は、東の方向を向いて上半身裸で作業をしていました。そのため、上半身と
 
左半身に火傷を負いました。
 
 その場所には、水道があり、交代で水を浴びました。水を浴びたあとは、潤滑油
 
を塗ってもらいました。
 
 被爆したあとのことは、あまり覚えていません。
 
 ひと晩かふた晩、長崎駅近くの防空壕で過ごしました。
 
 落下地点よりやや北にある大橋まで救援列車が来ることになり、約10キロ離れた
 
長与駅前の鉄道管理部の救護所に行くことになりました。
 
 列車にはケガをした人がたくさん乗っていたと思います。長与駅に行く間も飛行機
 
が来たと言っては列車が止まり、線路の横に隠れました。
 
 8月12日頃、実家のある村松村から長与駅まで、親戚がリヤカーで迎えに来てく
 
れました。当時、片道5時間位かかったと思います。
 
 夜中の12時頃、自宅へ着いたと思います。
 
 砂利道であったためゴトゴトとその振動がとても傷にひびきました。
 
 自宅に戻ったからといって、特別な治療があるわけではありません。
 
 天花粉を傷につけてもらい、その上に「ツワ」の葉を貼ってもらいました。
 
 ガーゼだと皮膚がガーゼに付いて痛いので近所の人達から「ツワ」の葉をたくさん
 
採って来てもらい治療していました。
 
 ほぼ全身なので、たくさんの葉が必要でした。
 
 自宅に戻り、2日後位から39度くらいの熱が8月いっぱい続きました。
 
 あとで聞いた話ですが、私はみんなから死ぬだろうと言われていたそうです。
 
 ただ、自分では「死」とかを考える余裕さえありませんでした。痛みがとれさえ
 
すればいいと思っていました。
 
 火傷の皮膚が腐って自分でも臭いと思っていました。
 
 夏だったこともあり、ハエが卵を産み付けに来ないように蚊帳の中で寝ていました
 
 治療は、毎日母親がしてくれました。
 
 妹は、「あれは、母親にしか出来ないこと。兄さんには申し訳ないけど、時々、
 
食事を運ぶとき、臭いが辛かった。」と言っていました。
 
 西瓜が好きで西瓜を食べていたことも脱水にならずによかったのかもしれません。
 
 今でも西瓜が大好きです。
 
 現在、火傷の跡は、左脇腹に少し残っていますが、手や顔の傷跡はほとんど
 
わかりません。当時の顔は、火傷で眉毛もない状態だったため、対面しても名前を
 
言わなければわかりませんでした。
 
 終戦後は、事務職に就きました。
 
 機関士を目指していたのですが、中国から引き揚げて来た満鉄の人達の就職
 
などであきらめました。
 
 私は、27歳で結婚しましたが、長崎には被爆者が多く、被爆者であることが結婚
 
の障害になると考えたことはありませんでした。
 
 子供は二人いますが、子供を授かるにあたり、放射能の影響が出ることも心配
 
しませんでした。第二子は幼い頃から、鼻血ばかりを出していましたが、そのことと
 
白血病を結びつけることもありませんでした。
 
 現在、84歳になりました。
 
 左腎臓の摘出、両膝の人工関節の手術、初期の胃がんの手術、肺結核などの
 
病気をして、日常生活に不自由なことはありますが、原爆や戦争で亡くなった
 
方のことを思うと申し訳ない気持ちもあります。
 
 仲間は、15歳や16歳で亡くなりました。その人達に生かされているという思い
 
もあります。
 
 最後になりますが、とにかく原爆はなくすこと。あれば使うからです。
 
                                           合掌
 
 
平成17年8月から平成24年10月にかけての口述筆記。
「長与町被爆体験談集」参照。
Special Thanks 毎日新聞 ○川○代様
 
 
私が盲腸がんの手術をした夏に父が初めて語ってくれました。
 
やっとここに完成させることが出来ました。
 
父の被爆体験は、父の葬儀の時に参列いただいた方にお渡しすることにしています。
 
思い出したくないことを何回も聞いてごめんね、お父さん。
 
毎日新聞の○川様、本当にご協力ありがとうございました。
 
このブログをたくさんの方に読んでいただきたいと思っています。
 
転載してもいいよ・・・という方、転載をお願いしたいと思います。
 
また、文章の中に出てくる「ツワ」というのは、本来は観賞用の植物ですが、
 
長崎では春先に新しく出た茎を食べます。「ツワブキ」が正式名称です。
 
 
 
私の父は、昭和3年生まれで83歳になります。
 
父はいつも凛として、白は白、黒は黒・・・とグレーゾーンのない人です。
 
国鉄に就職しJRに移行するときに55歳で定年退職しました。
 
世間から見ると早い定年だったと思いますが、父にはやりたいことがあったのです。
 
それは、ソフトボールの審判です。
 
私が気が付いたときには、ソフトボールの審判員をしていました。
 
夏は、早朝ソフトの審判をしてから出勤していました。
 
土・日は大会がありその審判に出かけていました。
 
でも、シーズンオフには必ず旅行に連れて行ってくれました。
 
今は審判は出来ませんが、ソフトボール協会の役職についています。
 
人様に迷惑をかけないうちにやめて欲しいのですが・・・。
 
 
 
我が家は、電化製品にとても恵まれていました。
 
それは、父が新しい物好きだったからです。
 
ジューサーミキサーにはじまり、綿菓子製造器、ビデオもマックロードという新製品
 
がありました。
 
カラオケ・レーザーディスク、今も流行っていますがパン焼き器も20年前には
 
ありました。
 
ルームランナーや今は使わないものだらけでどう処分しようかと思っています。
 
 
 
父から被爆体験は聞いたことがありませんでした。
 
母が祖母に聞いたことを間接的に聞いていました。
 
その父が、私ががんになったとき、初めて自分の口から語ってくれました。
 
もしかしたら自分が被爆しているから、私が被爆二世だからがんになったと
 
考えたのかもしれません。
 
 
がん予防の啓蒙活動と父の被爆体験を伝えていくことは、私のこれからの仕事
 
だと思っています。
 
今日は、父がどんな人なのかを少し書かせて貰いました。
 
次回は、父がどこでどのように被爆したのかを書こうと思っています。
 
 
読んで頂いて、ありがとうございました。

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