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日本の未来に関わる「重要記事」
平成31年4月29日(月) 昭和の日
(大熊良樹いのちの講話) はい大熊です。明日で、平成という尊い御代も終わりです。5月1日からは、また、素晴らしい「令和」という御代の始まりでございます。
今日は、一日一日を大事にするという話をさせていただきます。このことは大事ですね。「時間」は「いのち」であります。時間を大事にすることが「いのち」を大事にすることでもあります。
仏教哲学では生有(しょうう)の一念という言葉がございまして・・・お母さんのお腹の中に受胎した第一念を生きる、そして有限会社の「有」と書いてですね、「生有(しょうう)の一念」と言います。この初めの一念というのが大事でしてね、お母さんが出産してくれる時に誕生したのではなく、お母さんが受胎した時点で「生有の一念」と言いましてね、私たちは生まれたのであります。
この一念は大事でありますね。266日、十月十日なんていいますが実は出産のときに生まれたのでなしに、私たちは受胎した時点で立派な人間として生を授かっているのでありますね。そしてもう一つ大事なのが、「臨終の一念」と言ってですね、生有の一念に対して臨終の一念。これは死ぬという字にですね、先ほどと同じように有限会社の有と書いて「死有(しう)の一念」と言います。
この「生有の一念か」ら「死有の一念」。これがお腹の中で六か月で帰幽(きゆう)してしまう人もあれば、またお腹の中から出て三年で帰幽してしまう方もいる。帰幽とは神道で人が亡くなることを帰幽というのでありますがね、また十歳で帰幽する方もあれば三十歳で帰幽する方もいる。また六十歳で帰幽する方もあれば百十歳で帰幽する方もある。
この帰幽というのは老少不定(ろうじゃくふじょう)と言いましてね、だれがいつ帰幽してしまうかわからないのであります。ですから十六歳、十七歳の男の子が女の子が七十歳八十歳のおじいちゃんおばあちゃんが先に帰幽してしまうんだろうというのは大きな錯覚でありまして、歳とったから先に帰幽してしまうのではないのであります。
いつだれがどこで帰幽するかわからない。
人生は老少不定でございます。ある方が詠みました。
つひにゆく 道とはかねて聞きしかど
昨日今日とは 思はざりしを つひにゆく 道とはかねて聞きしかど
昨日今日とは 思はざりしを 私もこの歌を中学校で聞きましてね、震撼しましたね。
私は臨終の一念、この臨終に際してこんな心持だったらどうだろうと思うと、強烈に恐怖が襲ってまいりました。そして思ったのは「臨終の一念」この時に後悔のない臨終を迎えたいという思いでありました。
その後私が三十を前に僧堂という禅宗の専門道場に入門しまして、托鉢をしていた頃の話であります。あるお寺の前を通りましたら、こんな言葉が告知板に載っておりました。
愚人の百年生きるは 賢人の一日生きるには
及ばない
これは法句経のお釈迦様の言葉であります。
驚きましたね。実はこの後、私の従弟のかわいい十六歳の長男が病気で帰幽してしまいましてね、この時にえらいもんですね。十六歳で昇天の寸前にこんなことを言うたそうであります。「お父さん、ありがとうね。百年生きることが幸せではないよ。僕は十分に幸せだったよ。」そう言ったそうですね。発句経の中にもこんな言葉があります。
人もし生きること 百年(ももとせ) ならんとも これ百年と書いて「ももとせ」と言います。
人もし生きること 百年(ももとせ) ならんとも 人がたとえ百年という月日を生きようとも すべてのものの一切の、いかに起こり、いかに亡ぶかを知ることなくば、この生滅の理(ことわり)を知りて 一日生くるにも及ばざるなり
すなわち何のために生まれ、人間が死ぬのかということを知らなければ百年生きても真理を悟れる人の一日にも値しないという、大変厳しい言葉でございました。大変衝撃でございましたね。
この肉体が自分であるという錯覚を禅僧はこう言います。「この糞袋め!」。大変強烈な言葉ですね。大便の入ったただの袋め、と一喝するわけでありますね。それは自分の本体ではない。そんな糞袋を生命(いのち)そのものと勘違いするなー」という一喝であります。
まさにお釈迦様の直伝の一喝をいただいたわけであります。
じゃあ肉体生命が本物の命でなければ何が本物の命なのか。法句経には書かれてあります。
不死、死なないと書いて不死。死なざるの道を見ることなくば、この不滅の道をみる人の一日生くるにも及ばざるなり。とこう書かれて・・・
論語に「あしたに道を聞かば 夕べに死すとも可なり」という言葉がありますけど、やはり人間は何のために生きるかー、ということを知ることは大変重要であります。
わたしはその告知板を見たときに「ああ愚人の百年ではなく、賢人の一日、悟れる人の一日を生きたいと思ったわけでしたね。自己究明こそが今日の大願目であります。
それでは人間は何のために生きるのか。それは本当の自分を生きるためであり、本当の自分というのはなんであるか―、これは仏教の「唯識」という学問がありましてですね、三蔵法師という有名なお坊さんがおりますけれども、三蔵法師はガンダーラに何をしに行ったかというと、
お経を取りに行ったんでありまして、このお経、特にこの唯識という仏教心理学のお経を取りに行ったんでありましてね、そこに何が書いてあるかといったらですね、
一識(いっしき)から八識(はっしき)まで、一識二識三識四識五識、これが般若心経の「眼・耳・鼻・舌・身・意っていってこれが五官。それから心の働きについて書いておりまして、そのあと七識八識があるというんですね。
それは何かといったら、ここ百年間学問としてでてきました潜在意識、潜在無意識、表面意識が述べられておりまして、そして実はですねその奥に、八識の奥に九識十識という仏性・神性という「人間の本質が」あるということが書かれております。
心の王様の意識と書いて心王識(しんおうしき)という表現もありますよね。ここから観れば、すべて差が取れるのでありまして、この差とりを仏性・神性というのでありまして、この 「ころころ」と 移り変わる様を 現象といいますね、この現象に立ってみたら全てが虚しいのでありまして、虚しい現象に立ってものを見るんではなしに、その心王識から自分を見たときに人を見たときに、ああなんて素晴らしいんだろうなあということになるのであります。
ここに立って尊い素晴らしい命を眺め見て、そして一日一日久遠の今を生きる。百年を一日のように生きる人もあれば、一日を百年のように生きる人もあるのであります。
余命一か月となんていう人がたまに私のところを訪れてきますけれども、「あと三十日しか生きれない。」私は言います「三十日も百年も変わりませんよ。一日一日を百年のごとく生きる。久遠の今を生きる。今、今、今を生きるということが大事ですよーとその時は私は話をさせていただいております。
そうしましたらですね、なかに一か月以上たってですね、一日一日を一生どころか永遠と思って、久遠と思って二か月三か月と時間が過ぎても全然いまのところ大丈夫ですという答えや電話がかかってきたりしますね。
これはおそらく引っかかりのないところから免疫が上がっていきいきと命が弾んでいるのではないだろうか、と私は思うわけであります。私は医者ではありませんから、医学的なことは何も言えないのでありますが、命に関するほんとに大事な大事な理に関してはそういうことが言えるのであります。「一日に百年を生きる。」こんな生き方だってある。
うれしい楽しいありがたい。うれしい楽しいありがたい。
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。今日は人生最良の日だ。今日は人生最良の日だ。今日は人生最良の日だ。 今日もご清聴ありがとうございました。 日本の未来に関わる「重要記事」
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