☆ 心の中の流星群 ☆

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その頃。
23歳の私は、
その日も下宿の四畳半の万年床から出られない日々を送っていた。
その一室の片隅に置かれた籠。

30㎤の空間で飼っていたハムスターは、
その日も7㎤の彼の寝床に立て掛けられた12cmの梯子を器用に降りると、
籠の底に置かれた餌を存分に食べてから、
その横に置かれた回し車の中に入って、ただひたすらに運動を続けていた。

寝る、餌を食べる、運動をする、
そして籠の隅の決まった場所で排泄をする。
彼の日課はその繰り返しだ。

ある日、彼はいつもの様に回し車で元気に運動を済ませ、
梯子を上り寝床へと戻ろうとしていた。
そして私は、珍しく梯子を踏み外しふらつく彼を見た。

次の日、彼は少量の餌を食べた後、
回し車には立ち寄らずに、元気無く梯子を上り寝床に戻った。

その後、彼は排泄の為にいつもの場所に降りてきたが、
梯子を何度も踏み外し、やっとのことで寝床に辿り着いた。

翌日の朝、彼は梯子を上る途中で力尽きて冷たくなっていた。

籠の隅には、彼がいつもするように排泄の後があった。
彼は最期の日も、いつもの様に寝床を汚さぬように排泄を済ませ
(大好きな回し車を回転させることは出来なかっただろうが)、
いつものように梯子を上ろうとしていた…
正にその途中で命が尽きたのだろう。

私は彼の身体を下宿の庭の隅に埋めてから、その上に奇麗な石を置いた。

明朝。
私は早起きをして外に出た。
近くの駅の売店で「日刊アルバイトニュース」を購入し、
そのまま公衆電話から警備会社に電話をしていた。
8時半〜18時まで、日給六千円。
京葉道路を作っている現場で砂利を運ぶトラックの誘導をする仕事だ。

ひと月が過ぎた。
私の顔は、マスクを当てた口の周りを除き真っ黒に日焼けをしていた。
所長からバイトの代金を受け取った私は、
友人の多かったその下宿を引き払い、都内の中村橋に転居することにした。

転居先のアパートに向かう私は、駅前の賑わいに足を止めた。

暫くしてから仰ぎ見た空は無性に青かった。



「おもいでの夏」の日

小学校4年生の夏休みのことである。
朝からうるさいくらいに蝉が鳴いていた。
私はラジオ体操から帰って朝食をとると、
その後はずっと、大好きなNHKの教育テレビに見入っていた。


市役所勤めの父は、お茶漬けを掻き込むと、
「役所に行ってくる」と言い、
テレビを見たままの私は「行ってらっしゃい」と返事をした。


続いて会社勤めの母が「工場に行ってくるからね」と言い、
「はーい」と私は返した。


その時の私には、夕方から起こる不幸な出来事を予測するのは不可能だった。
陽が傾いてくると、私はいつもの様に捕虫網を持って昆虫採集に出掛けた。
諏訪湖を見渡す小高い坂の上にある小学校の裏山の沢を、
いつも通りに進んでいくと、
高木の木漏れ日の中に、
ミドリシジミなどの蝶の乱舞は見られたけれど、
私はそれを黙殺して、すぐに帰路についた。
そして家に着くと、即座に教育テレビのスイッチを入れた。


その日の父は、珍しく薄暗くなる前に早い帰宅をした。
「ただいま!」
「お帰りなさい…」
「お前は朝からずっとテレビを見ていたのか?」
「うん、そうだよ…」

父の行動は迅速だった。
アンテナコードを引きちぎるやいなや、
重量感たっぷりの真空管テレビを持ち上げて、
そのまま開けっ放しの縁側に運び、庭石に叩き付けた。
大きな破壊音と共に、回路の焦げる臭いもした。
私はピクリとも動かずに、そのままの姿勢を続け、
今は存在しないテレビの前に座っていた。
辺りが真っ暗になり、
やがて母が仕事から帰り、夕飯になるまでずっと動かなかった。

その日から。
我が家はテレビの映像と音には無縁になった。
私は家にあった少年少女向けの文学全集を読み耽るようになり、
それに飽きると、今度はラジオを聞くようになった。
夕方からの「こども電話相談室」はお気に入りだった。
約1年間、
友達とのテレビの話題には付いていかれない日々が続いた。
そんなある日、居間に新しいテレビが置かれていた。
それはカラーテレビだった。
しばらくの間、近所では唯一だった。
近所のTくんが「カラーテレビ買ったんだって?」
「マッハGO GO GO を見せてくれないか?」
とやってきた。
番組の端には『カラー』と表示され、
それがカラー放送であることを知らせていた。
毎年、新しい電気製品や家具が増えていく・・・
そんな、のんびりした幸せな時代だった。
イメージ 1
<我が家から数分のところにある、諏訪湖の夏の夕暮れ>

マッハGO GO GO
私は、ラジオの二ッポン放送系列「テレフォン人生相談」のリスナーである。
私の聞いている信越放送の放送時間は、平日の午前11:05 ~ 11:25くらいだから、
実質は20分くらいの番組である。
その20分の中に、相談者の人生が凝縮されている。

この番組をほぼ毎日聞くようになって、かれこれ25年近くになるが、
放送の中には忘れられないものも多い。

その中から、二つの人生相談を紹介したい。
(いずれ日もパーソナリティは加藤諦三さん。早稲田大学名誉教授・作家・心理学者である)

一つ目の人生相談は、3〜4年前だったろうか…
(以下は私の記憶に残っている場面・事柄だけであるので、細かい数字は記憶が曖昧ですが)

加藤諦三「もしもし、テレフォン人生相談です」

女性相談者「あのね、聞いてよ! 息子が私のマンションから出て行かないのよ。
  私の買ったマンションなのよ。なぜか出て行かないのよ。どうすればいいか分からないから、
  それでね、電話したのよ」

加藤「最初に相談者の年齢、職業、家族構成を教えてください」

相談者「50台よ。教師をしているのよ。亭主と私と息子がいるの」

加藤「わかりました。それで、今日の相談はどのようなことですか」

相談者「だから息子が出て行かないのよ。鍵を中から掛けて開けないのよ」

加藤「息子さんが出て行かないのは、あなたの住んでいるマンションなのですか」

相談者「違うわよ。私が買ったマンションなのよ。それなのに、息子が約束の1週間を過ぎても出て行    かないのよ。すぐに出て行くって言うから貸したのよ」

加藤「あなたが住んで居る所とは別の所にマンションを買ったのに、息子さんがそこを使っていて、
  あなたを入れないということですね?」

相談者「そうよ、だから最初からそう言ってるでしょ。息子はすぐに出て行くから貸してくれって言っ    たのよ。でも、ちっとも出て行かないのよ。どうすれば出て行くのか教えてほしいのよ」

加藤「あのぅ、親子なのですから、落ち着いて息子さんと話し合ってみたらどうですか」

相談者「それが出来ないから電話したのよ。あなた、ニュースステーションに出ている評論家の人でし  ょ?  あなたなら何でも出来るでしょ。何とかしてよ」

加藤「私はあの方とは違います。加藤諦三です」

相談者「え、本当にあなた、あの人じゃないの?」

加藤「あなたは本当に先生をなさっているのですか?」

相談者「そうよ、中学で教師をしているのよ」

加藤「あのぅ…あなたは先生として、生徒さんに好かれているのでしょうか?」

相談者「そんなの当たり前でしょ。みんな私の事が好きよ。決まっているじゃないの」

加藤「はたして、そうでしょうか。私にはそう思えないのですが。息子さんのことは、あなたにも原因  があるように思えますが…」

相談者「そんなことないわよ。あなた、何を言っているのよ。もういいわよ!」

 『ガシャ!…ツー・ツー・ツー……』
(ここで放送は終了し、終わりの音楽がかかる)

私は、このような性格の人が教師をやっていることに愕然とした。
でも、これは例外中の例外だと思っていた。
そして、この日は一日中、とても嫌な気分だった。
しかし、それから数年後には、
この女性にかなり近い性格の教師を自分の生活圏内に発見することになる…。


二つ目の人生相談は、5〜6年前だったろうか…
(やはり、私の記憶に残っている場面・事柄だけで、細かい数字は記憶が曖昧です

加藤「もしもし、テレフォン人生相談です」

相談者「はじめまして、宜しくお願いします」

加藤「最初に相談者の年齢、職業、家族構成を教えてください」

相談者「57歳、製造業、家族は居りません。昔は結婚もして家族もいましたが、今は一人で暮らして  おります」

加藤「わかりました。それで、今日の相談はどのようなことですか」

相談者「私は昔、子どもが生まれたばかりの頃に離婚して、私は家を出たのですが、その子どもに会い  たいのです」

加藤「そうですか。その前に、相談者が離婚して家を出た理由を教えてもらっても良いですか」

相談者「昔、自営業をしていたのですが、事業に失敗いたしまして、大きな借金を作ってしまいました  。その後、借金取りが家に押し掛けるようになり、このままでは家族に迷惑が掛かると思い、離婚   届を出して、私一人が家を出ました。妻は生まれたばかりの子どもを連れて実家に帰ったと、後   に友人から聞きました」

加藤「そうですか。奥さんは小さなお子さんを抱えて大変だったと思いますが、あなたも大変だったと  思います。あなたは家を出てからどうしていましたか?」

相談者「私は誰も知り合いの居ない遠い場所に行き、保証人がいらなくても良いという住み込みの仕事  を見つけて、そこで働くようになりました。そして、自分の住み込みに必要な分を差し引いて、残  りは妻と子どもへの仕送りに充てました」

加藤「あなたは、その生活を今までずっと続けていたのですか?」

相談者「はい、そうです。」

加藤「今はお子さんも随分と大きくなっているのではないですか?」

相談者「はい、息子は随分前に成人して家庭も持っているらしいです」

加藤「奥さんや息子さんは、あなたが今どこでどんな生活をしているのかは知っているのですか?」

相談者「いいえ。私は借金取りが来るのが怖かったから、住所も名前も伏せて送金をしておりました。  だから、誰も私の住所を知りません」

加藤「そうなのですか。一人でよく頑張りましたね。でも、なぜ今になって、もう大人になって家庭も  ある息子さんに会いたいのか、その理由を教えてください」

相談者「私、末期癌なのです。手遅れだから、あと二ヶ月ほどの命だと医者から宣告されました。でも、先  生とお話しをしている間に、息子には会わない方が良いと思うようになりました」

加藤「あなた…あなた、ほんとうに良く頑張ってきたね。あなた、ほんとうに一人で良く頑張ったよね   。あなたの息子さんへの思いは、きっと届いているはずですよ。あなた、ほんとうによくがんば   ってきたね、ほんとうに……」

相談者「先生、(涙声で)ほんとうに、ありがとうございました」

私はこの放送のあと嗚咽してしまった。
そしてこの日、この男性の声が繰り返し聞こえてきて、仕事をしていても、何をしていても、涙がとまらずに困った。
彼のとった行動や判断が正しいとか正しくないとか、そんなことはどうでもいい。
幼い男の子に対するこの父親の深い愛情を知らされ、この男性の一生を思うととても辛かった。
男性はいつも男の子の写真をみて、それだけを生き甲斐にがんばって生きてきたに違いない。
加藤先生の「あなた、ほんとうにがんばったね、がんばったね」という彼に寄り添う言葉と気持ちは、
たった一人でがんばり続けて、たった一人で死んでいく彼の深い孤独を救ったのではないだろうか。

ずっと忘れることが出来ない、つらい放送内容である。

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                                  加藤諦三さん

「夢」

まだ二十代の頃、初めて海外旅行に行った。

パリに着いて幾日か過ごした或る晩、
少しだけ慣れてきたパリの街を、友人と二人で、
冒険心から裏通りの見知らぬレストランに飛び込んでみた。

訳の分からないフランス語のメニューを見ながら、
何となく美味しそうな単語の並びを選んで注文してみた。

意外にも、一番安いボトルワインと共に味わった料理は格別だった。
酒に弱い友人は、すっかり酔い潰れてしまって、随分と大変な思いをしてホテルに戻った。

翌朝、友人は昨夜の店に忘れ物をしたことに気付いた。
なんと、財布とパスポートを!

昼少し前だっただろうか、再びその店を訪ねてみた。
昨夜の給仕をしてくれたその若いボーイに、
下手な英語で忘れ物のことを説明したが、まるで理解されない。

しばらくして、奥の方からその店のシェフが出てきた。
思いがけないことに、Nakaと名乗ったそのオーナーシェフは日本人だったのだ!

Nakaさんに忘れ物のことを告げると、
「もう無いだろうなぁ」と言いながら、
すっと身を屈め、右の頬を床にぴったりつけて椅子の下を覗いた。

Nakaさんは「お、お、やあ、あるぞ」と言って、
パスポート入りの財布を椅子の狭い隙間から引きずり出して、にっこりとした。
それから若いボーイの顔をまじまじとみて、
「こりゃあ、こいつが掃除をさぼったお陰だな」と言って、にやりとした。

彼は右の頬にべっとりと付いた砂を払おうともせず、
「どうですか、ランチでも食べていきませんか」と言った。

友人と私は、ディナーより美味しいと感じたランチと、Nakaさんとの会話を楽しんだ。
細い裏通りの店に、日本人の観光客は珍しいのだろう。
彼はとても懐かしそうな表情をみせた。

高校卒業と同時に、片道切符でパリにフランス料理の修行に来て、そのまま十数年・・・。
頬に付いたままの砂と疵が、彼のそれまでの生き方を物語っていた。

店の表まで出てきて見送ってくれたNakaさんは、
近所の店の人たちに流暢なフランス語で冗談を飛ばして上機嫌だった。
今から二十年以上前のパリでの想い出である。

そして今。
彼はシャンゼリゼ通りに店を構えるという大きな夢を実現しただろうか。




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実に三十年ぶりに東京の阿佐ヶ谷駅に降りたった。

駅の南口からまっすぐに続くアーケード街を、胸をどきどきさせながら抜けて行き、
見覚えのある交番を左折した。

かつて「 T 荘 」があった場所には奇麗で豪華なマンションが建っていた。

三十年前に、約一年間だけ住んだT荘は古い木造建築で、
当時でも珍しい三畳一間のポンコツアパートだった。

一応、押し入れらしいものは付いていたが、チャバネゴキブリが常時徘徊していたので、
とても使う気にはなれなかった。
畳に布団を敷けば、それで一杯になってしまう空間で、その茶色の昆虫と寝起きをしていたのである。

私が高校三年の秋に放映されたNHK銀河テレビ小説「黄色い涙」。
その舞台となっていたのが、杉並区・阿佐ヶ谷という街だった。

四人の夢多き若者が、阿佐ヶ谷の三畳間で共同生活をし、
一冬を越し、春が来て、夢破れた三人はアパートを去って行く・・・そんな青春群像だった。
そんな不器用で惨めな四人の生き方に憧れを持ち、
わざわざ阿佐ヶ谷に住むために、私は上京した。

その当時、夜は銭湯に寄って垢を落としてから、寝るためだけにT荘に帰るのだが、
その途中にラーメン屋「福娘」に立ち寄る事が唯一の楽しみだった。

三十年を経過して、「福娘」の大きな赤い提灯は無くなっていたが、
独特の甘いラーメンの香りに引き寄せられるように、少しだけ開いていた引き戸を開けた。

「あの、やってますか」。
「はい、いらしゃい」と懐かしい声がした。

そこには愛想の良いおばさん、
そして、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていた無愛想なオヤジもいた。
もちろん、私の事を覚えているはずもなく、
「もやしラーメン」と「チャーハン」を注文しながら、三十年前のことを話してみた。

一番驚いたのは、あの無愛想だったオヤジが満面の笑みを浮かべて、
「良く来てくれたね、店を閉めなくてよかった」と言ってくれたことである。

聞けば二人共に八十歳に近く、数年前から店をたたむ事を考えているという。

餡掛けの「もやしラーメン」の味も香りも昔と変わらない。
その甘い香りの湯気の中に・・・

友が訪ねてきて日本酒で一杯やったこと・・・
夢を語りながら酔いつぶれてしまったこと・・・
隣部屋の住人と大喧嘩したこと・・・
仲直りして、部屋にあった高橋三千綱の本を借りて、にっこりしたこと・・・
夜になると野良猫が餌をねだったこと・・・
鮮明に当時の映像が次々に浮かんでいく。

夢の他には何にも持ち合わせていなかったけれども、
若いということの証明だけは持ち合わせていたようだ。

当時は十五分程度で平らげていたラーメンとチャーハンだが、四倍の時間を要した・・・
そんな私を、老夫婦が店の外まで見送ってくれた。

老夫婦の姿が霞んで、黄色い涙。





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