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ニック・カサヴェテスといえば、敬愛するジョン・カサヴェテスの息子というだけで、
もう何十点もUPなのである。ただ、この人の作品は今まで見ておらず、
今回が初めてなのだが・・・、今回に関しては、駄作と論じるほかはない。
(まだ、この映画を見ていなくて、たまたま、このブログに来た人は、以後、読まない方がいいです↓)
私見でいえば、同じ題材で、ダルデンヌ兄弟やケンローチなどが監督したら、きっといいものに
なったのではなかろうか・・と思うのだ。
題材は、実話だそうだが、非常に重い。
白血病の娘がいて、その子を助けるために、試験管ベイビーを作って、その子をドナーにする。
成長した、そのドナーの次女は、やがて両親を法廷で訴える・・・、
これが、まさに今、起こっている問題だ・・と言われれば、非常に興味深いし、
切実に感じる題材だともいえる。
非常に期待して、見に行ったのだ。
映画は、冒頭少ししてから直ぐに違和感を伴った。
次女の視点から始まって、ナレーションが始まり、またしばらくすると他の人のナレーションに変わり、
視点が変化していくのである。
まず、これは誰の視点から見たどういうドラマなのか、混乱した・・。
その視点の混乱に何か意図があるならば、ストーリーが進むにつれ
「成る程」と納得も出来るのだが、別に意図があるわけではない。
ただ単に、病気の長女を持つ、家族それぞれが何を考えているのか、説明したいが為に、
それぞれの立ち位置をナレーションで補足しているに過ぎないのだ・・。
しかも、ナレーション時に、そのナレーションをしている人の目線で映像が語られている訳でも
ないので、ただ単に混乱するだけに過ぎない・・。
まず、各々の家族の立ち位置を観客に見せたいのなら、そういう芝居を組むのが先決なのでは
あるまいか?
それを安易にナレーションに頼るので、「???」という感じなのだ。
これでは、出来の悪い朝ドラではないか?
観客に、少なくとも僕にとって、一番興味があるのは、まず、訴えを起こした次女が
どういう理由、どういう気分で訴えを出したか・・という所である。
この題材で、まず我々が興味というか、気になるのは、次女の気持ちであるのだ。
とすれば、物語は、少なくとも、訴えを起こして物語を進めて行く次女の気分を
追っていくのがセオリーなのではなかろうか?
中心に次女がいて、それに対して、訴えを起こされた両親はどう思うのか?
それを見ている長男はどう思うのか?
訴えられたおかげで、今後身体の一部を提供される事がなくなり、死を待つしかない長女は
何を考えるのか?
この物語は、あくまで、次女を中心に据えて、そこから家族の気持ちを見ていくドラマなのでは
ないのか?
作り手なら、まず、そう考える。
ま、百歩譲って、カサヴェテスもまずそれを考えたが、ありきたりなので、
今回の映画のような方法を取ったとしよう・・。
ただ、方法はどうであれ、彼の頭の中では、家族の物語にしようと思った事は確かだ。
ただ、家族を描こうという気持ちは判るのだが、腰が定まっていないので、
中途半端な「気分」しか描けていないような気がするのだ・・。
一応、状況は、実話に基づいた非常に重い状況なので、それなりにストーリーテリングがひどくとも
観客は想像して見る事は出来るのだ・・。
ただ、もっと人間存在の根幹にまで迫る事が出来る題材であるにも関わらず、
実は、何も描けてないに等しい。
キャメロン・ディアスの母親の何を描いたというのか?
何故、彼女は次女をドナーにしてまで、長女を救おうとするのか・?何故そこまで拘るのか。
頑張るのか?
キャメロンの個性のおかげで、嫌な母親には見えないのだが、かといって母親の心情は
何も描かれていない。
それは、父親もしかり、長女もしかり・・・、長男もしかり、
状況は描かれており、その時の人物の何となくの気分は描かれているが、
人物の深い所は何も描かれていない・・・。
逆に、だからこそ、重たい内容がそんなに重くなく見る事が出来る・・といえばそうなのだが、
見やすい分、何も描かれていない・・という事になる。
それでいいといえば、そういう人もいるのかも知れないが、少なくとも僕は大不満。
もっと、他の監督にリアルに撮ってもらった方が、題材が生きたのに・・と残念で仕方ないのだ。
例えば、法廷を物語の時間軸の現在にして、その中に、過去が入ってきて、しかも、家族のそれぞれの
考え方が判って来たり、それぞれの立ち位置が微妙に変わってきたり・・という風に
「藪の中」形式でやったらどうだっただろう?
サスペンスチックにはなるだろうが、それでもキリキリと家族の想いを出す事は可能だったろう。
まだ、巧い脚本家が書けば、上等なものになったはずだ。
残念な事に、カサヴェテスは、この題材に対して「情」「ムード」のみしか持ちえず、
「理」「知性」を持たなかったので、質の悪い「お涙頂戴」ものにしかならなかった
ような気がする。こんなもので泣かされているようでは、我々は駄目だ・・。
作り手に「理」がないものに関しては、断固抗議する姿勢を我々観客も持ちたいものである。
そういう意味で、冒頭言ったように、ダルデンヌやケンローチに撮って欲しかったのである。
好みといえば好みだが、題材に対して、良心的な「理」を少なくとも持ち合わせているとは思うのだ。
難病ものは難しい。その通りやれば「お涙頂戴もの」になるからである。
お涙頂戴が悪いとは言わないが、それだけでいいのか?
涙を流すという行為の果てには、何も残らない。
ただ映像が消費された・・という事実が残るのみである。
映像が消費物ではなく、きちんとした文化、メッセージとして残る為には、
安易な「お涙頂戴」に陥っては駄目なのではなかろうか・・。
その際、作り手に必要なのは、「情」ではなく、厳しい「理」だと思うのだが・・・。
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