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その昔、黒澤明がハリウッドで『暴走機関車』をやりたかった・・という話があるが、
それは、止まらない「鉄の塊」を如何に人智で止めるのか・・・という事が、
映画的であるからだった・・。
原野をひた走る鉄の塊、ヘリコやらローアングルやらで撮影すると、
迫力ある映像になる事は容易に想像出来る・・。
黒澤は「暴走機関車」のアイデァに終生捉われていたという・・。
そして、この映画は、その例にもれず、映画館で見るに相応しい映画だと思った・・。
しかも、これが、実話を基にしているというから、驚きだ・・。
物語は、暴走する機関車とそれを止めようとする男2人、が主軸だ。
男2人の家族の挿話も入れて、ウエルメイドな作品になっている、とは思う。
しかし、トニー・スコット監督に物申したい。
カメラを動かし過ぎではないか・・と。
ここぞという箇所での左から右へのカメラの動きは、いいのだ。
ただ、のべつまくなく、単調に左から右へと動き回るカメラの動きは、
単に緊張感をあおるだけの、下種な演出にしか見えない。
ここぞという所で、緊張したいのだが、ここぞという所で、緊張感を持ちえない・・。
そして、やはり、あなたは、最低限のハリウッド娯楽作を作る才にしか
恵まれていないという事を痛感した・・。
それは、脚本である。
ラスト、ただ単に生還してきた2人がいて、家族が迎えに来てめでたしめでたし・・
というのも、作りとしては勿論あり、だが、単純にそれだけでいいのか??
例えば僕なら、デンゼルワシントンのリストラされた男の仲間たちというのを
前半で、きっちりと出しておいた上で、列車が本当に止まるか止まらないのか、
手に汗を握る死闘が繰り広げられている時のカットバックに、彼らのリアクションを
はさむ。
それは、制御不能となったシステマッチク化された「鉄の塊」と彼らが、何処かで
対立関係にあったりするからだ。
暴走する「鉄の塊」は、いわば現代文明の賜物、いわば、熟練の男たちを
必要としない、創造物である・・・。
と、仮定すると、リストラされた熟練の技を持つ男たちは、その「鉄の塊」の存在に
よって葬られた存在である・・と言える。
物語が、文明の利器とそれに対する非文明(≒熟練の技、男たち)という
対立構造があるのならば、
(それは、デンゼルワシントンが主人公で、彼が暴走機関車に立ち向かうという
ストーリー立てであるのだから、そういう対立構造は必ずある、と言える)
その「非文明」を象徴する、男たちの集団を出して、テーマのある面を強調する、
という事を何故やらないのか?
又、イーストウッドならば、ラストでデンゼルが、途中で「命令違反は解雇だ」
と言い放った男(本部の部長??)を必ず殴ったであろう。
そこには、システムに対する強烈なアンチの感情を呼び起こすような、ラストと
なるだろう・・・。(例えば「ガントレット」や「ダーティーハリー」のラストの感じか?)
というような味付けを、何故施さないのか??
少なくとも70年代の娯楽作には、そのような痛烈な皮肉やら、アイロニーが
あったと思う。
単純な娯楽作の中の、ちょっとしたアイロニーに僕たちは強烈に拍手したものだが、
この物語には、そのようなものは一切なく、単純に「よかった、よかった」で
クレジットが打たれる。
それは、時代精神というよりは、作り手の精神性に何があるか・という事だと思う。
・・・というような所が、典型的なハリウッド作品だと思った・・。
(というか、ハリウッドにも良心はあるので)
監督の作り手としての精神性に疑問をつけざるをえない・・と思った、という事だ。
但し、映画史の始まりが、走る列車をただ撮る・・という所から始まったように、
暴走する機関車、というのは、現代においても極めて映画的な素材である・・
という事は、再認識した。
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