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圧巻だった・・。
猿の惑星:新世紀(ライジング)である。
 
我々の世代は、猿の惑星の世代だ。TVで全5作が放送された頃…
一大ブームが巻き起こった・・。
猿が征服していた惑星は、地球だった・・・と最後の自由の女神で判った時は・・
ある種の戦慄が走った‥。
又、第4作「征服」で、話せる猿・シーザーが、人間社会を征服する様は、
子供心に怖かった…。
 
そして、11年の「創世記」に次ぐ、この第二作である。
感想は…、
エンターティメントの枠で、ここまでやるのか・・という驚きというよりは、
これはエンターティメントなのか?という感想である。
 
巷間の感想でも言われているように、これは、民族と民族の、又、国家間の戦争が
何故起こるのか・・という事を、情を交えず冷徹に描いた傑作である。
戦争が起こるメカニズムというのか、どのような掛け違いが、戦を起こすのか、
という事を、物語性豊かに描いたものだといえる。
従って、主人公の心情というか、そういうものは最低限のレベルでしか描かず、
いわゆる、システムというのか、構造というのか、そういったものを描いたものと言える。
 
最後のシーザーの一言が、端的である。
「人間は、戦争をやめない」or「闘いをやめない・・」
少し、台詞が違うかも知れないが、そういう内容の台詞。
つまり、シーザーは、リアリズムで考えた時に、人間VS猿の戦争は
個人の厭戦の気分などお構いなしに、始まってしまい、止まる事はない、
と悟ったのだ・・。
それは、あくまで、自分の生きる現実と、周囲の様と、今と現実を冷静に見極めた
結果・・そう悟ったのだ・
だからこそ、彼は仲間を守る為に、鬼となった…。
それが、最後の彼の目元のアップである‥。
 
ここには、社会を現実をリアリズムで見つめる登場人物がおり、
しかも、映画が描き出す現実を、今の社会と対置して、冷徹に描き出すリアリズムがある。
 
「猿は同胞を殺さない。だから、猿は人間より優等だ」と信じていたシーザーが、同胞の猿を
殺した瞬間、彼は真の意味でのリーダーとなった…。
しかし、それは、ある種のロマンを捨てて、リアリズムの側に立たねばならない、という
悲しい決断だった‥。
猿を殺した後の、シーザーの表情が素晴らしい…。
 
新世紀は、シーザーが、リーダーとして目覚める回だった…。
それは、猿という種を守る為には必要な事なのだが、
何かは失われた…。しかし、失う事によってしか、生き延びる事は出来ないのだ…。
その、生存していく為には、矛盾を内包しないといけないのだ・・という所が悲しいのだ。
しかし、それを、抒情で描くのではなく、あくまでリアリズムとして描くから、
なおの事悲しい・・・という事になる。
 
ハリウッドは、モーションキャプチャーの新技術を使って、現実社会を投影する
かくも素晴らしい映画を作った・・と僕は思う。
少なくとも、このエンターティメントの皮をかぶった、社会派映画が、アメリカでヒットしている
事には、快哉である。
日本でもヒットするだろうか?
 
しかし、思えば、日本の戦争関連映画・・・
例えば、「永遠の0」あたりの、思い切り、特攻隊員を抒情たっぷりに描く物語、映画からは、
涙と安っぽい感動しか生まれないだろう…。
 
ひるがえって、この「新世紀」・・・
涙は出ない。もしかしたら、感動すらないかも知れない。
しかし、見終わって、戦争も政治の世界も、極めてリアリズムの世界だ・・という認識が
生まれる。そんな中で我々一人に何が出来るのだろうか?
立ち往生せざるを得ない・・・。
しかし、それこそが、今21世紀、まさに戦争の世紀に生きる我々の生の感情、感覚に
近いのではなかろうか?
 
イスラム国、ウクライナ、尖閣諸島・・・この世界は紛争という名の戦争の種が一杯なのだ。
そんな戦争の世紀に立ち向かう為には、雰囲気ではなく、安っぽい情ではなく、
冷徹に物事を見定めること・・・それこそが、物事の本質を見誤らない唯一の方法論なのだ、
と思う。
 
この映画を見ていると、描き手のリアリズムに徹した描くスタンスをこそ、
学ぶべきなのだ、と痛感する、
特に、空気で動く我々日本人にとっては‥‥。
 
はてさて、少し仕事も落ち着き、時間もあるので、
又、感想を書きなぐってみようと思っている・・・。
 
 
 
 
 
この映画を見て、まず感じたのは、新藤監督・・齢99歳にして語るべく力は衰えず・・・という事だ。
ただ、99歳の監督が作った映画だから、と言って、手放しに誉めるのは、
それは新藤さんにとっても失礼だろう、と思うのだ・・。
 
そう考えると、この映画を批評する前に、99歳の人が作ったという事実、と
それを度外視して考えるという・・2点が必要であるし、
又、これが「戦争を体験した人が作った映画」である、という点と、
それを度外視して考えるという視座を持つべきであろう・・と考える。
 
 
まず、1点目。
99歳の監督が作ったという所から考えると、賞賛以外に、感想が思い浮かばない。
この執念、みずみずしさ、彼らしい軽妙さ・・・面白い映画だ・・。
 
ただ、それをなしで考えてみると・・・・、
1枚のハガキを巡って、豊川が大竹を訪ねるまではいいのだが・・、
それ以降、大杉を巡る三角関係の顛末、そして、大竹が豊川と共に生きたい・・
と思うに至るまでの感情の描かれ方が、少し、飛びすぎてないか・・と思うのだ。
もっといえば、少し乱暴すぎませんか?とも思うのだ・・・。
 
かたや、戦争で亭主を失った女、かたや、戦争のおかげで妻に密通うされた男、
「戦争」を介して不幸に陥った男と女が、結びつくにしては、いやに理屈がなさすぎる
というのが、正直な感想だ・・・。
 
確かに、リアルに考えると、そんな所に「理屈」はない。
あるのは、欲と、打算と、しかし、何がしかの魅惑と、
もしかしたら少しばかりの恋情も・・・あるのかも知れないのだが・・、
実際、生きた人たちには、
戦争の荒廃の中で生きざるを得なかった人たちには、
「理屈」もへったくれもなかったのかも知れない。
そこには、ただ生きざるをえないという事実だけがあり、
そこに、たまたま、ある男が目の前にいた・・
(あるいは、ある女が眼前にいた・・)
という事しかなかったのかも知れない・・・。
 
物語の作り手はそこに「ロマン」を求めるが、
現実にあるのは、そういう単純な事実に過ぎない・・ともいえる・・・。
 
 
しかし、事実がそうであったとしても、物語を作る上では、
シナリオを構築していく上では、何がしかの「理屈」がなくてはならない・・と思う・・。
その「理屈」を理屈としてではなく、「情念」として見せ、
決して「理屈」と感じさせる事なく、しかし、何がしか感じさせるのが・・・
作り手として優等である事の、一つの資質である・・と思うのだ・・・。
 
この映画でいえば、そのあたりの男女の機微が、軽やかに放置というか、
飛び越えられていて・・・、「これでいいのか?」と思えてくるのである・・・。
 
そこの所を、老人の作り手ゆえの「天衣無縫さ」と好意的に見るか、
否定的に見るかによって、この映画の見方は、
決定的に変わるだろう・・と思うのだ。
もちろん、僕の見方は否定的だ・・・。
好意的に見るのは、新藤さんに対して失礼だろう・・と思うゆえだ。
 
 
そして、もう1点。
戦争体験者=新藤さんが監督である・・という事を、批評的にどう考えるか、
という点についてだが・・・。
 
「戦争を体験した新藤さん」が台詞を書いた・・と考えれば、
大竹の台詞にしろ、豊川や大杉の台詞にせよ、その背後に「戦争を体験した」人がいるわけだから、それを考慮して映画を見ていると、胸につまされるものがある。
ある種の信憑性を感じざるをえないのだ・・。
そこの所は、重い・・・といわざるをえない・・・。
 
しかし、もし、そんな前情報をなしとして考えると・・・、当然の事ながら、
台詞の重みは台詞のみでは感じない・・・。当然のことだ・・。
それでは、重みはどこで感じさせるか・・・。
物語のリァリティーと役者の演技によって・・・という事に当然なる・・・。
 
しかしながら、僕の感想からいうと・・・、
物語のリァリティーに関しては前述したように少し強引で
人物の感情が飛ばされているような感がするし、
役者の演技に関していうと・・・・、
大竹はさすがに上手いが・・、
ただ、あの舞台調の演技は彼女の悪い面が出たような気がするし・・・
豊川の台詞術では、台詞の感情が100%伝わらない気がしたし、
大杉のオーバーな演技は紙一重なのだが、少しやりすぎなのではないか・・
と思った。
 
つまり、役者の演技に関して、監督として統括できたかどうかかについては
やや疑問という事なのである。
 
 
・・・・と、こう考えてくると、99歳の新藤さんのこの映画・・・
最後の映画(?)という事もあり、
かつての新藤さんにはあった「理屈」というものが何処かに追いやられ、
やたらと「戦争を描きたい」という「情」ばかりが優先された
ものなのではなかろうか・・・と思ってしまう・・・・。
 
つまり「理」ではなく、「情」が優先されたが故に、物語の人物たちの行動は、
どこかで飛ばされ、ある種の「激高」「号泣」というような判りやすい感情の
発露のみをもって・・・描かれるだけで終わったのではないか・・・・。
そんな気がしている・・・・。
 
つまり、映画作家として、「描く」という事よりも「伝える」「伝えたい」という情念が
先行した結果、このような形の映画になったのではなかろうか・・・・と邪推するのだ。
そうなる事によって、かつての新藤さんにはあったであろう「理屈」「透徹された論理」
というものが、脇に追いやられ、告発するというよりは、より広範な人々の感情に
訴えかける・・・という類の映画になったのではなかろうか、と思うのだ。
 
それが、いいのか悪いのか、それは見る人の判断である。
しかし、映画作家に対して正面向かって批評するならば、
「99歳の」という事は度外視すべきではないか・・・・。
 
それから、この映画を見て感じたのは、「体験者」が「戦争」を描く事の限界である。
それは、あの「戦争」から60年以上が経ち、
記憶が風化しつつある事とも関係がある。
「体験者」たちの記憶が風化しつつある結果、「戦争」に対する批評が「理」ではなく「情」に押し流せれるようになってきたのではなかろうか?
それは、つまり、「体験者」が高齢化してきたという事とも関係がある・・・。
新藤さんの、この映画を見て・・、そんな事を感じた。
 
つまり、「戦争」を描くのは、体験者の「主観」ではなく、
その次の世代の透徹された「客観」であろう・・・という事だと思うのだ・・・。
確実に、描き手の世代は変わってくるであろう、という事なのだ。
 
但し、このように書きつつも、新藤さんの今までの作品を汚すつもりは全くない。
「第五福竜丸」「原爆の子」素晴らしい作品のオンパレードである・・・。
ただ、それをもって、今回の作品の批評をするのは、新藤さんに対して失礼だろう、
そんな事を思うのだ・・・・。
 
その昔、黒澤明がハリウッドで『暴走機関車』をやりたかった・・という話があるが、
それは、止まらない「鉄の塊」を如何に人智で止めるのか・・・という事が、
映画的であるからだった・・。
 
原野をひた走る鉄の塊、ヘリコやらローアングルやらで撮影すると、
迫力ある映像になる事は容易に想像出来る・・。
黒澤は「暴走機関車」のアイデァに終生捉われていたという・・。
 
そして、この映画は、その例にもれず、映画館で見るに相応しい映画だと思った・・。
しかも、これが、実話を基にしているというから、驚きだ・・。
 
物語は、暴走する機関車とそれを止めようとする男2人、が主軸だ。
男2人の家族の挿話も入れて、ウエルメイドな作品になっている、とは思う。
 
しかし、トニー・スコット監督に物申したい。
 
カメラを動かし過ぎではないか・・と。
ここぞという箇所での左から右へのカメラの動きは、いいのだ。
ただ、のべつまくなく、単調に左から右へと動き回るカメラの動きは、
単に緊張感をあおるだけの、下種な演出にしか見えない。
ここぞという所で、緊張したいのだが、ここぞという所で、緊張感を持ちえない・・。
 
そして、やはり、あなたは、最低限のハリウッド娯楽作を作る才にしか
恵まれていないという事を痛感した・・。
 
それは、脚本である。
ラスト、ただ単に生還してきた2人がいて、家族が迎えに来てめでたしめでたし・・
というのも、作りとしては勿論あり、だが、単純にそれだけでいいのか??
 
例えば僕なら、デンゼルワシントンのリストラされた男の仲間たちというのを
前半で、きっちりと出しておいた上で、列車が本当に止まるか止まらないのか、
手に汗を握る死闘が繰り広げられている時のカットバックに、彼らのリアクションを
はさむ。
 
それは、制御不能となったシステマッチク化された「鉄の塊」と彼らが、何処かで
対立関係にあったりするからだ。
暴走する「鉄の塊」は、いわば現代文明の賜物、いわば、熟練の男たちを
必要としない、創造物である・・・。
と、仮定すると、リストラされた熟練の技を持つ男たちは、その「鉄の塊」の存在に
よって葬られた存在である・・と言える。
 
物語が、文明の利器とそれに対する非文明(≒熟練の技、男たち)という
対立構造があるのならば、
(それは、デンゼルワシントンが主人公で、彼が暴走機関車に立ち向かうという
 ストーリー立てであるのだから、そういう対立構造は必ずある、と言える)
その「非文明」を象徴する、男たちの集団を出して、テーマのある面を強調する、
という事を何故やらないのか?
 
又、イーストウッドならば、ラストでデンゼルが、途中で「命令違反は解雇だ」
と言い放った男(本部の部長??)を必ず殴ったであろう。
そこには、システムに対する強烈なアンチの感情を呼び起こすような、ラストと
なるだろう・・・。(例えば「ガントレット」や「ダーティーハリー」のラストの感じか?)
というような味付けを、何故施さないのか??
 
少なくとも70年代の娯楽作には、そのような痛烈な皮肉やら、アイロニーが
あったと思う。
単純な娯楽作の中の、ちょっとしたアイロニーに僕たちは強烈に拍手したものだが、
この物語には、そのようなものは一切なく、単純に「よかった、よかった」で
クレジットが打たれる。
それは、時代精神というよりは、作り手の精神性に何があるか・という事だと思う。
 
・・・というような所が、典型的なハリウッド作品だと思った・・。
(というか、ハリウッドにも良心はあるので)
監督の作り手としての精神性に疑問をつけざるをえない・・と思った、という事だ。
 
但し、映画史の始まりが、走る列車をただ撮る・・という所から始まったように、
暴走する機関車、というのは、現代においても極めて映画的な素材である・・
という事は、再認識した。
 
 
ジョゼッペ・トルナトーレ監督は、いわずと知れた「ニューシネマ・パラダイス」の作家だが、調べてみると、彼も50代中盤(56年生まれ)らしい・・。
 
年齢と作家の熟成は関係あるといえばあるし、全てを年齢とくっつけて考えるやり方はあまり好きではないが・・、でも、トルナトーレ監督の非常に熟達した冴えを見たような気がするのは、僕だけだろうか??
 
「ニューシネマ・パラダイス」における過剰なる叙情が、全くと言っていい程ないのである。映画は2時間半以上あるにも関わらず、全く緩んだ箇所がなく、非常なるテンポと緊張感でもって押し切られる・・。
しかも、叙事詩の体裁を崩さず、モリコーネの音楽も叙情といえばそうなのだが、
過剰なものではなく、叙事詩の背景にきっちりと寄り添い・・、
その結果、テンポのいい叙事詩なのだが、しかし、かえって人間の叙情を浮き上がらせるというか・・・、そういう作りになっているような気がした・・。
 
「ニューシネマ」もいいが、もしかしたら、映画としてはこちらの方が上かも知れぬ
という程、3時間近くの至福の映画体験であるといっていいような気がした・・・。
 
描かれているのは、ある家族の20世紀なのだが、そこには、当然家族愛から、
離反、別れ、喜び、様々な要素が入り込み、その縦軸として、シチリアを襲う
戦争、政治、共産主義・・等々の歴史が描かれていく・・・。
 
個人的には、主人公が共産主義にのめりこむ描写があるからかも知れないが、
つくづく20世紀は「政治の季節」だったのだな・・と思えた・・。
ハネケや、ケン・ローチがこの物語を描けば、当然もっと違ったテイストになったとは
思うが、トルナトーレの関心は、やはり家族の繋がりを中心とした、人と人の繋がり
みたいなものをきっちりと描きたい・・という事なのだろう。
 
テンポのいい叙事詩なのだが、叙事的に描けば、描くほど、情が醸し出されてくる
という非常に高級な物語・・であったような気がしている。
これが、「ニューシネマ」の頃の彼であれば、もっと押すシーンは押してきたであろう、しつこく描いたであろう事が想像されるのだが、
今回は、決してあっさりと描いている訳ではないのだが、作家が「押している」事が
我々観客には非常に判りにくい・・感じに仕立てている・・。
これは、紛れもなく作家の熟成・・である。
 
作家の熟成と共に見せられた、この大作は、映画館で経験する至福の体験、である。このような気分は久々である。
 
いつもは、作品を解剖して他山の石としようと試みるのだが、今回は、手放しで
賞賛である。そのくらい、至福の体験だったのである。
 
ケン・ローチ、僕が最も尊敬する映画作家である。
今、自分の中では、イーストウッドと双璧、新作が出れば必ず見る・・。
 
ただ、今回の「エリックを探して」に関しては、自分の中ではどう評価していいのか、少し戸惑ったのは事実だ。
 
同じ日に、熊切和嘉監督の『海炭市叙景』を見たのだが、
これが、予想に反して、凄く良かったのだ・・。
これとの比較で、少し考察してみたいと思う・・・。
 
 
『海炭市・・』に関しては、冒頭のCUTから、匂いを感じた・・・。
曇りガラスに子供が手をやり、曇りをふくと、
鈍色の街並みがあらわる。
 
そして、子供たちの授業風景が描かれる・・・。
そこに、ドックの火事の報があり、小学生の兄と妹の二人が手を
携えて、廊下を後ろ姿で去っていく…姿がある・・・。
 
その何年か後に成長した二人の姿・・・。
この二人、谷村美月と竹原ピストルの挿話が非常にいい。
この二人の挿話だけでも、この物語を見た価値がある・・といっても
過言ではない。
 
僕は、この鈍色の街で、解雇された兄とそれを思いやるが言葉少なに
見守る妹の姿に涙した。
しかも、二人を包み込む街並みのルックが非常にいい・・。
(他の挿話に占める、画面のルックと違うように見えたのは気のせい
 だろうか・・・??)
 
大晦日の晩、市電が走る奥を後姿で行く二人の後姿、それに続く
函館山で初日の出を見る谷村美月の顔と、それに気づいてるのか
どうなのか・・、兄の眼差しに、感じるものがあった・・・。
 
この挿話の後の、おばあさんの挿話もいい。
(中里あき、さんという函館の素人のおばあちゃんと思われる)
 
ただ、その後の小林薫の挿話、加瀬亮の挿話になると、
なぜか少し
魅力が半減していくような気はした・・・。
 
ただ、全体的に言えば、函館という地方都市の空気感と、
そこにいるであろう、人々のリァリティーを非常に
醸し出していたような気はした。
 
それは、最初の兄妹の挿話もそうだし、
おばあちゃんの話ももちろん、
小林薫の挿話も如何にも、地方都市にいそうな夫婦のあり方、と
男の我慢の仕方、水商売をする女房のあり方にリァリティーを感じたし
加瀬亮の挿話には、如何にもありそうな地方の男社長のイラつき方、夫婦のあり方に、鈍色の街のリァリティーと共に、感じ入った・・。
 
ただ、2時間を超す映画のリァリティーのあり方に非常の好感を
持ったのだが、ラスト一つに不満があった・・・。
 
たぶん、作家的には、ラストで、自分の家の周囲は取り壊されようと、
猫を抱いて不遜に生き続ける、おばあちゃんの姿に、
鈍色の都市に生きる、そしてこれからも生き続ける人たちの逞しさと、希望と、又未来へのなにがしかの感情を託したのは間違いない。
 
 
僕的には、一種の逞しさと希望を感じたのは確かだ・・・。
 
ただ、感じたとはしても、見た後の不満は、
もっと希望を、又、逞しさを感じさせて
くれてもよかったのではないか・・・というものだ・・。
 
ここが、一番表現の難しい所である事は十分承知だ・・。
 
この物語は、地方に生きる人たちの息遣いをテーマにしている。
物語を描く事よりは、むしろ、登場人物の存在そのものに焦点を
あてている・・といってもいい。
その為(もちろん、製作条件的なものもあったのだろうが・・)
函館に住む素人に、役を演じさせてもいる。
 
 
その結果、フィクションではあるのだが、いわば、ノンフィクションの
境界にきわめて近い領域にまで踏み込んでいる・・。
そこの所は、きわめてデリケートに描いており、
成功を収めているといってもいいと思う。
 
僕は、凄く好きなティストの映画だった・・・。
 
 
なので、当然ラストはあのような形で幕引くのもありなのだが、
少なくともラストで、おばあちゃんだけではなく、他のキャスト達の
「現在」を描いてもよかったと思うのだ・・。
 
その上で、ラストだけは、もう少し描き手の「願望」なり「希望」を
前面に押し出してもよかったのではなかろうかと思ったのだ。
それは、本当にほんの少しだとは思うのだが、
それまでリァリティーの積み重ねで描いてきたのだから、
もう少し描き手の視点というか、希望というか、
この物語を通して描きたかったこと、訴えかけたかった事を、
もう少しではあるが、
前面に出して表現してもよかったのではないか、と思うのだ。
 
 
そうすれば、今、3割にしか伝わらなかったテーマが7割に届くように
なった・・というか、「伝える」だけではなく「仄かな希望」を
より多くの人に感じさせる、優れてよい映画になったのではなかろうか
と思うのだ。
 
 
そこの所が少しだけ、残念なのだ。
 
 
そこで、ケン・ローチである。
正直、今回の「エリック・・」に関しては、戸惑いを覚えたのは事実だ。
あまりに、今までの作風と違うからだ。
 
ただ、見終わった後、これに関しては、ほんのりとではなく、
「希望」と「勇気」を貰えたのは事実だ。
今までのケンの映画でいうと、、例えば「重苦しさ」であったり、
「社会の矛盾」であったり、「怒り」であったり、を感じて、映画館を
出るのが常であった・・・。
 
が、今回は、非常に明確な感じで前向きな感情を貰えたのは
確かである・・・。
 
 
そこの所が、熊切の「海炭市・・」と「エリック・・」の違いである。
 
そして、作り手として、観客にどちらの感情を持って帰ってもらいたいか・・というと、題材次第で何とも言えないとはいえ、
それは明らかに、「エリック・・」を見終わった後の感情を
観客に与えたい・・と思うのは、自明の理である。
 
 
「エリック・・」を見終わった後、如何に失敗しようと前向きに生きなくてはいけないとは思ったし、子供には正面切って向かい合わないと
いけないな・・と思ったし、何よりも「前向きな」気分を持てた。
 
絵空事の映画では、ここまで味わえないのではなかろうか・・。
それは、たぶん、映画としてのリァリティーがきっちりとしているが
ゆえに、観客は余計な所でひっかかる事がなく物語に入れるから
こそ、感じる事の出来る感情なのだろうと思うのだ・・・。
 
 
それは、今までケン・ローチが積み上げてきたリァリティー、
ノンフィクションとフィクションの狭間で物語を描いてきた実力が
あるからこそ、このような「リアルファンタジー」をものの見事に
描けるのだろうと思うのだ・・・。
 
 
そう、である。
今回の「エリック・・・」は、言ってみれば、「リアルファンタジー」である。
リアルファンタジーを描くに、一番大切なのは、
リアルを如何に保持するか、である。
リァリティーの担保があって、初めて「ファンタジー」を観客に
感じさせる事が出来うるのである。
 
そういう意味では、ケンにとっては「リアル」をきっちりと描くことは、
得意技であったはずだ。
そんな彼が「ファンタジー」を感じさせる事が出来たのは、
いわば、必然だったのかも知れない。
 
特に、僕は、冒頭10分の入り方の上手さに驚嘆すらした。
 
車のハンドルを所在無げに握る男の斜め後姿・・。
不安定に走る車・・・。やがて、車は衝突事故を起こし・・・、
そして主人公の現状が説明される・・・。
 
冒頭の男の斜め後姿一つで、男が置かれている所在無げな
感じをものの見事に描ききっている・・と感じた。
 
又、ラストにしても、大仰に描く訳ではなく、エリックが元女房の
身体をそっと所在無げにしかし自信をもって抱く・・その行為一つで、
これからの主人公・エリックの未来、行く末を暗示している・・
見事である。
 
カントナーの登場にしても、ある程度のリアルは保証しながら、
ファンタジー的要素も失しないように細心の注意を施しており・・、
何の疑問をさしはさむ・・余地がない。
 
ケンの職人芸といえばそれまでだが、過不足なく説明的でもなく、
物語が進行していくが故に、ファンタジーの感情が、直線的に
入り込んでくるのは事実だ・・・。
 
 
と、ここまで考えてきて、では「海炭市・・」で、どういう風にすれば
良かったのか、と考える。
「エリック・・」は、カントナーという飛び道具があったからこそ、
愉快なものになったが、「海炭市・・」はあくまで鈍色の街が
舞台である・・・。
 
何が出来たのだろうか??
そこの所は、何とも言えない。
ただ、極めてリアルな人間像、街並みを表現出来たからこそ、
照れずにもう少しだけ、作り手の感情を出しても良かったとは思う。
 
又、少しだけ、作り手の感情を表に出したからといって、作風を
破壊するようなことにはならなかったとは思う・・・。
 
日英の優れた映画を同じ日に見て、考えたのは、
ラストにおける、作り手の感情の出し方、だった・・・。
 
もちろん、そこに「リアルさ」という壁がなければ、
単純に作り手の感情のみを押し出した、品の悪いものになる。
 
「海炭市・・」を見て感じたのは、2時間以上、抑制した表現の中で
ものの見事に事象を描き切っただけに、
描き切った者の特権としての、表現を、もう少し前面に出しても
良かったのではなかろうか・・という事だ。
 
それは、とどのつまり、最近の邦画では珍しくも
「海炭市叙景」は、特権を有する映画である・・という褒め言葉を
述べている事でもある。
 
「ノン子36歳」といい、熊切監督の今後は、目が離せない・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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