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人の心、その意識を心理学的に見ると、 ○ 表面意識 ○ 深層意識 ○ 無意識 と大まかに3つに分けられる。 人は誰もが多重人格者であるが、 その心を中心的に制御する自身の意識がある。 その本人の意識の思い通りに成らず、頭の外の・・・ 外部の世界から押し付けられる他人の意思等に屈せられ、 その心にストレス等のダメージを受ける出来事に対し、 抗うことも出来ず繰り返し受け続けねば成らない環境に有り続けると、 その人の意思は砕かれ、自身で在り続ける事を拒否し、 精神分裂 → 多重人格の表面化 へと流れる。 表面意識を制御し自分以外の他人や外の世界とのバランスを取る『性格』が破綻する。 その時、深層意識に存在する、「こんな人に成りたい」と願う別の性格達が、 無数に解き放たれ表面化してくる。 表面意識は自分の頭の外との織り合いを務め、 自身の意思と外の意思を紡ぎ合わせ、その織り合って出来た意識を制御する。 深層意識は、自分の意思や他人の気持ち等が絡みあい、 「こうで在りたい」と思う自分像の性格を形成して行き、 主人格のサポートや無意識から流れてくる情報や意思を意識として紡ぎまとめている。 無意識では、魂(意思のみ)となった死者達と自身との縁からその意思を継ぎ、 意識として織りあわせ、むしの知らせ等の『勘』として働いたり、 過去の罪を責める『良心の呵責』として繰り返し見る悪夢等として現れる。 人ひとりの存在を支える為に幾つもの魂が影響を与え、 幾つもの人格を形成し、その中から優秀とされる人格が、 自身の外の世界と関わり影響を与え合う。 その世界も、広い世間に対して高い影響力を与える者達で、表面意識世界を、 その人々を支えたり影響を受けて活動する多くの深層意識世界の住人達と、 生きている人々の何倍もの、数多くひしめく死者の魂達とで形成してゆく。 多くの魂達を土壌とし、意思持つ人格を作り上げ、 多くの人格達を駆使し人の意識はまた人と織り合う。
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なぜ?生まれたのか?
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死にたいと切実に願い思ったコトの在る人にとって、 『死後の世界』は興味を引くテーマであろう。 そんなことに興味を示さないで済む、 生きる事に一生懸命取り組んでいられる人達は幸福だ。 しかし絶望を味わい、生きる事を恐れ、『死』へと逃れたいと思う人もいる。 とは言え、死ぬコトは人生に取って1回こっきりしか試せない、 リスクの高い大博打だ。 今の状況よりは良くなるだろうからと試してみてからではやり直しの効かない事で、 慎重な判断が必要だ。 だからこそ死んだらどうなるのか? 考えて先に予習しておく必要がある。 その際に私の知識と経験上から見て、 共感を覚え参考になった書籍が有る。 『宜保愛子の死後の世界』 『幸せを招く先祖霊の祀り方』 これらは古本屋にて数百円で手に入れる事が出来るので、 死生観を培う勉学の教典としてお薦めだ。 また、インチキや嘘つきとまでは言わないが、 大抵の霊能力者達は人の要に足らない者達ばかりで、 その中で彼女「宜保愛子」は本当に力の有る霊能力者だ。 私は力の有る霊能力者か心理トリックを操るペテン師かぐらいは、 その人の人となりを見れば解る。 霊能力者の定義とは、 霊=死者の魂(意思)から助力を引き出せる者であり、 霊力の強さは味方に付ける霊達の質と量に比例する。 死者たちに好まれ味方されやすい人となりとは、 死者達の気持ちに寄り添い心の近い者だ。 着飾って己を良く見せよう・・・他人の関心を引こう・・・ 多くの金銭を得て豊かな生活をしている者達など、 生きる事を楽しんでいる一般的な生者達と変わらず、 多くの霊達から共感を得られはしない人物で有る事が解るからだ。 話がずれたが、死ぬ前にその後の事ぐらいは勉強してから死んだ方が良い。 何の知識も無い者より、知っている人間の方が有利にコトを運べるのが世間の常だ。 良い死に方を選べば良い生き方も得られる。 計画的で確信犯的な死に方を!
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自殺という甘ったれた死に方は、 この世にも、あの世にも、しこりが残る不利益な死に方よ。 死にたい者が死ぬ為の方法の一つを記す。 死後の世界は罪を贖う為、悔いて反省と後悔を繰り返し、 自身の生世の行いを浄化し魂を清め、 また生まれ出る為の準備と清算の時間だ。 自殺は、人殺しと、 一番近くに居て苦しみと悲しみを共有する、 絶対に裏切ってはイケナイ自分自身に対する裏切りの行為だ。 やってはイケナイ。 苦しみ悲しみ助けを求める悲惨な人間を自ら殺し、 思う以上に悲惨な死後の世界へと誘う、 軽はずみで、しかし深く尾を引き負の世界へと引きずり込まれる。 しかし…もしも愛する者を失い、 この世に未練無し、愛しい者を追いたい。 そう願い、この世に別れを告げ、 その魂を愛しき者を追う為に導こうと思うのなら…。 何も飲み食いするな。 『絶食』し己が身を朽ち果てる迄、見届けよ。 その死に方有りて『自死』は成立する。 その間、我が身と魂との対話が続き、 生と死の折り合い点を、肉体と精神が繰り返し話し合う。 大抵は拒絶が起こる。 生から、あるいは死す者の側から… 死と愛を天秤に掛け、 人は生死の中にある。
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人がイズレ死ぬコトなど誰もが分かっている。 しかしその時期を正確に推し量るコトは難しい。 まるで何時までも生きているで在ろうと錯覚を起こすほど、 人は突然に命を失い、この世から居なくなる…。 死に際を看取り、逝く様を見れずに、後で知らせを受け、 その人とはもう会えるコトも無く… 今生の別れを認識し喪失感を味わうのダケの…。 そんな人との別れ方もある。。。 お世話になった人達や音信不通になった友人、知人達よ。 何時も当たり前の様に逢えなくなっていても、 嫌いになったり決別した思いも無く、 時に思い出し、こんな人で有ったと懐かしく思い出す時もある。 どうせ何時か逢える、 「お互いもう少し良くなった状態でまた逢えるさ」 ぐらいの意識でいた自身が不甲斐なくすら思えてくる。 死がお互いを分かち、 生きる者と死す者へと分ける。 その認識甘く、『死』は己の者、 この身という命は自分自身で好き勝手にしても良いモノと、 誤解し死に方を違えた者の末路は悲惨だ。 死が訪れるのは自然な姿に近ければ近い程望ましい。 自殺で無く、他殺よりも事故死、よりも病死、よりも老衰と、 如何に自然死へと近づけられるかが最良の生き方では無いか? とすら思う。 別れは辛いモノだ、それが今生の別れとなる時に如何に和らげるべくか思う。 『死は死者の為で有らず、その人と関りの在った、後を生きる生者達のモノよ』 死は新たな世界への旅立ちで有り、 神に選別され運命という名の元に起こる別れだ。 死は誰にも平等に訪れ、皆死ぬのが当たり前だ、 死者を哀れんだり悲しんだりするのも筋違いだ。 順番が異なるだけで、死は自然の摂理。 その 『死』 を受け止める生者達の為に人の死は在る。 人が死ぬ時、その人と関った者は、 命有る時間が有限なモノで在ると思い出す。 もっと良い関り方が出来はしなかったと思いも巡らす。 本当はどの様な生き方、人との付き合い方が有れば良いか、 それを考える。 まるで人の死が生きる者の肥料となる様に… 人が死を恐れ悲しむのは望ましい。 死を望み、死を免罪符や恩赦の如く勘違いするな。 借金を抱えるように他人からの恩や借りを抱え、 何か始めたり、旅立ったりしても上手く行く訳ナド無いのは当然。 敵すら増えど味方や、苦労を癒してくれる者も無く、 自滅するオチしか無い。 人はコズルイ人間など支持しない。 しかし苦労多くてもその人生を生ききり志半ばに亡くなった人の、 その人の魂から溢れる遺志を汲み、 人はその別れを惜しみ、 逢えなくなる悲しみに心を満たすのだ。 ボンバヘッドへ捧ぐ不肖の弟子の餞よ…
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人はイズレ死ぬ。 そして2極論的に陰陽を踏まえ、逆説を詠えば、 人はまた生まれる。 生と死を昼と夜の様に分けて思えば、 死している時…或いは生まれる前の状態の記憶ナド無い。 寝ながら見る夢の様なオボロげな残像…。 夢は気持ちや思考の整理をつける為の、 世俗を離れた意識の世界。 死してその心となる魂を苛ませるのも生世の悔いよ。 生き切ったと誇り抱きながら死後の世へと旅立てれば、 次の世は善い生を得られる様な気がし、 理想を違え不浄な行いの禍根のみを多く残した…、 と思えば、その多くの課題と罪滅ぼしを背に抱える、 重苦しい生き方を強いられるだろう。 人や生物の繰り返す生死の世に残る、 成長や退化の歴史も、新陳代謝を促す、 循環器官の一つの動きだ。 人も生き物も死ぬし、また生まれて来もする。 記憶は引き継がれはしないが、その意思は紡いでいる。 生も死も自然の摂理。 生まれ変わるのも至極当然、 生きている間に、死んでいる間に、 生死の境界を跨ぎ悔いを浄化せし間に。 生まれ変われるたびに階段を登る様に天国へと近づいて行く。 そんな気が遠くなる様に遠大で、地道な、 しかし着実で誠実な生き方と死に方を積み重ね、 恋焦がれる様な理想の HEAVEN を目指す… そんな永久の流れに魂を委ね漂うのも悪く無いかも知れない…、 いくらでも善い方へと生まれ変わって魅せるさ。。。
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