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ソウル・光化門の交差点に1968年から40年間も君臨してきた李舜臣将軍(1545〜1598)の銅像 ソウル市の再開発構想で世宗路の中央分離帯の緑地を撤去する計画のために移動対象なったり、韓国の心臓部から市民を見守るり続けてきた威厳ある勇姿が、半面、軍事政権の残存という批判を受けたこともありました。 1592年の壬辰倭乱(文禄の役)で亀甲船を率いて秀吉の日本水軍を破った将軍は、一躍英雄となりましたが、その後、中傷のため失脚。左遷、投獄されました。1597年の丁酉倭乱(慶長の役)でピンチになった際に再び登用され、秀吉軍が撤退する最中に戦死します。あいご〜 ↑プサン龍頭山公園にあるやつ。対馬海峡に向かって日本を睨んで立ってます。ここは鳩がいっぱい ってなことで、救国の英雄なのでした。でも500ウォン。 「スキャンダル」のぺさんと似てます <おまけ> 1592. 5. 2 玉浦沖で日本水軍を破る
29 泗川浦で日本水軍を撃破
1597. 7.15 元均(1540〜1597)の指揮による漆川梁海戦で大敗。元均は戦死。水軍壊滅状態に
22 李舜臣が白衣従軍を命じられ再び朝鮮水軍の指揮に復職
1598.10.18 日本軍vs明・朝鮮連合軍は露梁津で激戦。日本約200の兵船を失う
李舜臣将軍は戦死。海上の封鎖が解かれた隙に日本軍は順天倭城を脱出
11.25 釜山浦を撤退した日本軍が帰国。日本の敗北で終結<407年前の来週↑> もっと<おまけ>おじんこの写真放浪記より
秀吉は、はじめは朝鮮侵略の意図はなかったと言われている。あくまでも明国の征伐が当初の目的であり、その道案内を朝鮮に命じたにすぎないと言われている。朝鮮は、これを拒否した。当時、世界は大航海時代を迎え、スペインが動けば世界が震えると言うスペイン優位の時代風潮であり、ポルトガルを併合したスペインは、マニラを基地としてアジア進出に乗り出す時期であった。 一方、日本の統一を成し遂げた秀吉は、海外発展政策を積極的に打ち出し、その構想は中国はおろか、はるか天竺(インド)までを含む東アジア全域に、一大帝国を築き上げようとしていた。そして、天皇を北京に迎え自らは寧波(ニツポー)に身を置き、東アジア全土を支配しようとしていた。秀吉は、朝鮮出兵に先立ちインドのゴアのポルトガル総督、マニラのスペイン総督、大琉球(沖縄)、小琉球(台湾)に服属するよう書状を送っている。その内容は「予は懐胎の初め慈母日輪の胎中に入るを夢む」すなわち自分は太陽の子なる故、諸国はことごとく予の門に来って屈服せよと言うことである。 ついに秀吉自ら名護屋(佐賀県)に大本営を構え、文禄元年(1592年)に15万の兵を朝鮮半島に派遣する。朝鮮では、これを壬辰(じんしん)の倭乱と呼ぶ。先陣を切った秀吉の武将、小西行長等は、釜山に上陸。鉄砲を装備した日本軍は、わずか二十日余りで東莱城、梁山、密陽、尚州へと突き進み漢城(ソウル)を奪取、その後、平壌を占領している。 一方、咸鏡道方面(朝鮮半島北東部)への先陣を切った加藤清正等は、釜山に上陸、彦陽、慶州をおとし入れ漢江を渡って漢城に至り、それから東進して北咸鏡道に向かい永興、会寧まで至っている。 李朝より救援要請を受けた明帝国は、軍隊を派遣しその連合軍は平壌で日本軍を破り、漢城(ソウル)奪回を目指したが、その直前の碧蹄館で破れると、戦局はそのまま膠着状態に陥った。膠着状態の主な原因は、李朝の水軍、李舜臣将軍率いる独特の戦艦による統営沖の戦いで日本軍が敗れたためである。その戦艦は「亀甲船」と呼ばれ、その構造は、船の上部を厚板で亀甲状に張り、その上にはハリネズミ状の尖った鉄を埋め込んで敵兵の侵入を防いだものだった。 そのため日本軍は制海権を失い、弾薬、兵糧の海上補給が困難になった。兵糧に貧窮した日本軍は、現地で略奪を行い、そのためかえって朝鮮農民の恨みを飼いゲリラ部隊が各地に蜂起し苦戦を強いられた。 その後、現地の明軍と日本軍との間で講和が結ばれることになるが、強気の秀吉は自分の講和条件がほとんど受け入れられていない事に憤慨(戦況認識の甘い秀吉の講和条件は、現地で直接交渉に当たった先陣の大将、小西行長と明の講和使、沈惟敬によって勝手に訂正されたと言われている)し慶長二年(1597年)秀吉は、再度14万の軍勢を朝鮮に出兵させる。この戦いを韓国では、丁酉(ていゆう)の倭乱と呼ぶ。 しかしながら、この遠征では日本軍の軍規は緩み、朝鮮の民衆もゲリラ戦で対抗し、翌年、慶長三年(1598年八月)秀吉が六十三歳で伏見城で没すると戦果の上がらないまま十月には撤退することになった。撤退命令は密かに朝鮮東部の蔚山の加藤清正、南部の泗川にいた島津義弘、そして泗川のさらに西の順天にいた小西行長に伝えられたが、小西行長は、明の水軍や朝鮮の李舜臣将軍によって帰路を阻まれた。釜山の南西に位置する巨済島に集結していた島津義弘等は、小西行長救助のため再び順天に向かい露梁海峡の海戦で明、朝鮮の水軍の李舜臣を破り、行長は無事引き上げに成功した。釜山に集結した日本軍は、その年の暮れ博多に帰還し秀吉の朝鮮出兵は終わった。 |
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要するに、卑怯者だったわけか…
2008/1/5(土) 午後 11:38 [ IB ]
はじめまして。歴史はつくられるものですから、真実は藪の中です。問題は、では自分はどんな歴史をつくるのか。私は離反より融和に、より価値があると考え、そのために何ができるか行動する側の人間ですので、軽薄な言葉で反発を煽るアホな20世紀型政治屋らに組することはありません。妄信的にならないためには、何であれ自分自身がまずは当事者と直接対話することから始められたらいかがでしょう?
2008/1/6(日) 午後 0:44
文禄・慶長の遠征において日本軍は海上で侵攻を阻まれていない。当然、遠征軍は全員上陸している。李舜臣が撃破した相手も、後方支援の部隊に過ぎない。最後に敗れたのも遠征軍全てが集まって帰還するところへ無謀にも突っ込んだ訳で、当然と言えば当然のこと。
日本の苦戦は、制海権を失っただけでなく、当時は珍しくない飢饉のせいでもあった。これが自分の治める領地であれば、口減らしなど様々な対策があったかもしれないが、占領中の土地ではそういう事は難しい。それに、食糧不足は朝鮮軍も同じ条件だった筈。そして日本は飢饉でもなく、明帝国までの遠征を前提とした備蓄もあった。そうなると、海軍は国や王を護るためでなく、食糧略奪を目的として運搬船を狙うのは李舜臣でなくとも当然であろう。
2008/1/11(金) 午後 10:11 [ IB ]
ごくろうさん。どうせ研究発表するなら、強圧的な表現は効果を失います。
2008/1/12(土) 午前 0:13 [ あいご〜 ]
ついでに、李舜臣に対する評価(の歴史)について。
まず、壬辰の講和が成った後、最大の功労者としての彼に対する朝鮮王の褒美は、左遷という仕打ち。この結果、慶長の役すなわち2度目の日本軍上陸を元均は阻止出来ずに戦死した。この後、李舜臣も死んでしまい、終に朝鮮時代には評価されなかった。
時代が変わり、20世紀初頭。とある日本人が彼を高く評価したとされている。その名は東郷元帥、日本海海戦を征した英雄として広く世界に知られた。この時点で李舜臣もようやく注目されるようになったわけだが、期せずして韓国は変なジレンマに陥ることになる。歴史を語る上で、「日本海」と「李舜臣将軍」を切り離すわけには行かないわけで。
2008/1/15(火) 午前 7:07 [ IB ]
ご高説承りました。今後は御自身のサイトで展開されますことを。
2008/1/15(火) 午前 11:23 [ あいご〜 ]
http://www.chosunonline.com/article/20050307000086
2008/1/20(日) 午後 6:10 [ IB ]
朝鮮出兵は豊臣秀吉がスペイン大帝国の侵略に備えた世界観から行われました。
まず、キリシタンの禁止は宣教師を尖兵としたスペイン大帝国の侵略の常套手段を封じるため、あるいはスペイン大帝国との手切れのため追放したとも言われています。
秀吉は当初はキリスト教を禁止しておらず、交流を深めていました。
スペインが明を侵略するとそれは日本にとっての脅威となるため、先に日本が占領してしまおうと秀吉は考えました。それで朝鮮半島経由で明を攻めることになったというものです。
1594年4月マニラ総督宛に秀吉が書状を送っておりその書状は残っています。内容はほとんど恫喝であり、既に朝鮮を占領したぞ、マニラに攻めることもできるぞ、スペイン国王に日本と友好関係を結ぶように進言しろ、というものです。
もし、秀吉の朝鮮出兵がなければ、中国や朝鮮は、1600年代前半にスペインの植民地になっていたでしょう。
2013/1/3(木) 午後 8:51 [ 底質汚染 ]