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日頃、日本のマスコミへ苦言ばかり呈するあいご〜が「その意を得たり」と手を打った文章に出くわしました。 筆者は、ミスター・円のおっちゃん。 では、早速。 そもそも日本では「記者クラブ加盟各社に公平に」という談合ルールができているのです。あれほどゼネコン各社の談合を批判するメディアが、徒党を組んで他のメディアを締め出し、お互いに抜けがけをしないように協定する。本当におかしな話です。実は、日本のマスメディア業界は、日本語という非関税障壁に守られた、もっとも規制が強く、カルテル的体質が強い業界の一つです。多くの良心的ジャーナリスト、特に、有能な人たちはこのカルテル体質を、少なくともプライベートには強く批判しているのですが、このことが表立って議論されることはほとんどありません。政党や政府とならんで、マスコミが強い権力を持っていることが、その理由であることは言うまでもありません。政党や政府の場合、時としてメディアに批判されるのですが、メディアの場合、メディア同士の批判はできるだけ避けようとしているので、批判する人がほとんどいません。大衆民主主義国家・日本の大きな盲点の一つです。
榊原英資著『為替がわかれば世界がわかる』このメディアのカルテル体質が、日本の政府や企業が有効に海外や市場に情報発信をしていく上での大きなネックになっています。少なくとも、記者クラブ制度は廃止する等、日本のメディアのあり方を見直していかないと、ただでさえ情報後進国である日本の総合的情報力は欧米、いや、アジアの諸国に対しても、遅れをとるばかりになってしまうでしょう。 ということで、友人でアジア某国の東京駐在記者との会話を思い出しました。 私は記者クラブが日本独自のものであると信じていたので、それを揶揄するため話題にしたのですが、 彼はためらうことなく(瞬時に!)私に同意しました。 「おいおい、ちょっと待てよ。君はクラブについて知っているのか」 面食らった私の方が、彼の言葉を遮るありさまでした。 何のことはありません、彼が言う「クラブ」は外国人記者クラブ(日本外国特派員協会)のことでした。 そちらの方のことは余り知らなかった私は、逆に彼の話に耳を傾けることにしたのです。 曰わく、本当に驚いたことに、外国人記者クラブの雰囲気は日本記者クラブと同様のものだと分りました。 所属記者がものす記事は、それぞれの政治的立場で見事に規定される日本の新聞とは違うとは思いますが、 私がまさに言わんとしたことと、彼の批評は多くの部分で重なったのです。 良く取れば、外国人特派員は「A Rome il faut vivre comme à Rome」を実践してるのでしょうか? 私たちは、このシステムによる特権意識や排他性は決して賞賛に値するものでない、それどころか、 日本の民主主義の障害であるという点で一致しました。 (日本のマスコミが幼児性から抜け出せないのは、彼らの報道活動はまさに「部活」そのものだから?)
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東京・日本
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○○家の人々は情が深い。 △△家の人々は成り上がりの成金趣味。 例えば、自分の父と母がいるとして、その生い立ちや親戚筋を思い描いてみましょう。 その家々の血筋がもつ独特な習性のようなものがあるとします。 (多くの方々が父方の姓で今日まで生きています) また、その土地土地が持つ共通した習慣や生活文化、あるひは言語と密接な精神構造があったりします。 関西人は気取りや権威を嫌うとか、北海道の人は大陸的とか…。 (同じ関西でも京都と河内の人間は違うと言ったりもします) 海外生活の経験がある人もない人も、自分の国や他の国々の人たちに対して漠然とした認識があります。 □□国の人は調和を重んじる、◇◇国人は金が価値基準だ、などなど。 一つの国に長く暮らすに従って、他の国々への評価は固定化(一般化)してゆくようです。 先日読んだ春江一也の『上海クライシス』。 自分自身の感想よりも興味深かったのは、これを読んだ人たちの多くがブログなどの記している事柄。 大多数の人はこうです。 「中国に興味のある方にお勧め」「共産主義のことが分かった」「元外交官である作者ならではの筆致」…。 いかにも日本の多くの読者が際立って純情であることを象徴するような文言が並びます。 彼らは、装置となった国や組織を統制されたマスコミ報道の価値観のままに受け入れているようです。 本作で外務省のチャイナスクールは度し難い悪であると規定されているように、 著者によって安易にかたちづくられている中国をはじめとする舞台となる国々や民族、集団を、 ほとんどの読者が「真面目に」受け入れてしまっています。 (筆者のバックボーンを勘案することがない様は、医者の誤診を疑わない患者のようです) このノンポリで純粋無垢な絶対多数の読者たちは、いとも簡単に「有能な」役人に洗脳されるのでしょうか。 まるで社保庁の職員と外交官はまったく次元の異なる世界の住人だと盲信しているかの如くに。 確信犯として浮かび上がる本当の悪は、人々を自己の価値観のままに操れると信じている権力の走狗たち! 長く変わらない一方のステレオタイプの日本の外務官僚たちのフィルターを通して、中国は描き上げられます。 作者の視点にはチェコに対する一千万分の一ほどの愛情も中国の人々には注げないまま。 脱亜入欧以来の「優秀だった」官吏たちと同様に根拠のない選民思想を打ち破ることができないようです。
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日本には数詞が「いち」「に」「さん」の仲間と「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」の仲間があるように、 韓国にも数詞の使い分けがあり、日本より2番目のグループの数が圧倒的に多いのです。 (日本語は大陸から伝わった言語によるところが多いので当然です) 日本では現在、「じゅう」と「とう」の以降は「じゅういち」「じゅうに」…と1種類に収まってしまいますが、 韓国・朝鮮語ではその後も続いてゆきます。 で、タイトルが「つづき」となった訳です。 分る? (「とうか」の後ということで) ・・・ ま、どうでもいいことでした。 昨日の続きです。 しかしトマーシ・ガリグ・マサリクは単なる学究ではなかった。一八九一年、青年チェコ党から立候補し、オーストラリア帝国議会に選出された政治家でもあった。その政治目的は、チェコスロバキアの独立であった。チェコ問題の解決は、自己変革と「頭脳そして心の革命」によって、自らの存在を世界に認めさせ、フスの宗教改革の伝統と結合した民族復興運動を完成することにあると説いた。また人道主義的立場から、労働者の物質的条件の向上、八時間労働制、男女性差別の撤廃、反ユダヤ主義批判など、社会・労働問題に取り組んだ。もっとも階級的な観点には立たず、マルクス主義を批判し、道徳的社会主義を根拠にする姿勢であった。
われわれ抑圧され続けたチェコ人にとって、その存在を主張し防衛する手段は、武力でなく言葉だったのです。言語こそ『難攻不落の砦』であるとして、言語の機能的分析、簡単に言ってしまえば、真理をいかに正確に伝達するか。そのために言語の意識と構造、つまり言語の有機的結合をできるだけ明示的に法則化する(後略)
右であれ左であれ、独裁者がおのれの非を認めることは決してない。すべて敵の隠謀ときめつける。しかしこの混乱にゴムルカは震えあがり、プラハのせいだと思った。
わたくしたち、ドイツ人の反省と経験によれば、正しいと思ったこと、おかしいのではないかと思ったことを、信念をもって発言する勇気がいかに大切であるかということを忘れてはいけません。ナチズムのデマゴークとプロパガンダに踊り踊らされ、侵略とユダヤ人迫害に積極的に荷担した大衆精神の薄弱さ。それに引き替え、チェコスロバキアの人々の言葉の自由に対する執念と勇気、チェコスロバキア共産党が、言論の自由を求め約束するのは当然のことです。
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ようやく一段落ついたのですが、あすも早朝からの仕事です。 まずは帰宅しようとおもいます。 ああ。
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昨日、今国会中で初めての法案が成立した。 |

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