毒身男の歴史談議

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アルマダ

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実は昔から疑問に思っていることがある。

世界史を勉強していると、教科書には大体こんなことが書いてある。
1588年6月、イギリス海軍がスペインの無敵艦隊を破った。
これによりスペインは制海権を失い、以降、衰退していく。
高校で世界史を勉強した人なら、かすかに記憶にあるかもしれない。
私が疑問に思っていることは、この無敵艦隊(Invincible Armada)なんだけど・・・

無敵艦隊って一体何だ?

「無敵艦隊」って名称から考えると、
当時のスペインには「無敵艦隊」と称された、強力な一艦隊があって、それはちょうど第2次大戦中のアメリカ第58任務部隊のように、向かうところ敵なし、連戦連勝の艦隊であった。
・・・なんてイメージを持ってしまうのだが、果たしてそうなのか?

そこで、1588年6月以前に「無敵艦隊」どんな活躍をしたのか色々調べてみると・・・
これがどうにも記録が見当たらない。
1571年に「レパントの海戦」というのがあって、スペイン艦隊がオスマントルコ艦隊を破ったなんてことがあるが、このときの艦隊と、「無敵艦隊」は別物っぽいしなあ〜。
どうも、「無敵艦隊」ってスペインがイギリス進攻用に、特に編成した艦隊っぽい。
そうすると、「無敵艦隊」はイギリス侵攻作戦で初めて戦って、それで敗北?
0勝1敗、勝率0割?
それで「無敵艦隊」?

結局、当時の強力だったスペイン海軍自体を「無敵艦隊」と称したのかな?
特定の艦隊は無くて、あちこちで活躍していたスペインの海上部隊全体が「無敵艦隊」。
そう考えないと理解できないネーミング。

と、思って調べを進めていくと、又、違った記述を発見した。

「無敵艦隊」はスペイン語Armada Invencibleの訳。ただしこの名称は、この艦隊を壊滅させたイングランド人が、皮肉をこめて考案した通称である。本国スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊(Grande y Felicisima Armada)」と呼ばれていた。 (Wikipediaより)

あれれ?
そうすると、やっぱり「無敵艦隊」って0勝1敗、勝率0割の艦隊ってことか?
まあ、Wikipediaの記述だからどこまで信用していいものかはわからないけど。

サッカーのスペイン代表を「アルマダ(無敵艦隊)」といったりすることがあるが、無敵艦隊の事実が、もしこうだとすると、ずいぶんと、弱々しいネーミングってことになるなあ。
まあ、史実の「アルマダ」もサッカースペイン代表も「寄せ集め」って点では共通するが。


色々調べてみたけど、どうもスッキリしない。
誰か詳しい人いたらおせーて〜


ところで、この1588年って、日本では豊臣秀吉が全国に「刀狩令」を出した年です。
受験生は覚えておこう♪

江戸城

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江戸城

日本史上で最も巨大な城郭であったといって良いだろう。
本丸・二の丸・三の丸・西の丸・北の丸・吹上・紅葉山で構成される内郭だけで、他の有名諸城の外郭を含む全城域を凌ぐ規模がある。
現在では一部の櫓や、堀などが保存されてはいるが、なかなか江戸時代の江戸城を偲ばせるような建造物は少ない。
現在では、西の丸が皇居に、北の丸が武道館になっている。

江戸城が、あまり「江戸城址」として認識されない理由の一つは天守閣が残っていないことがあるだろう。
大阪城、姫路城、熊本城、松本城、名古屋城・・・有名な城址は皆、天守閣を持っている。
まあ、近年になって再建された鉄筋コンクリートの天守も多いが…。
とにかく、現代人にとっては「城=天守閣」と言えるほど天守閣のイメージは大きい。

ところが、当時は天守閣はそれほど重要なものではなかった。
はっきり言って見掛けだけのものといってよい。
私は子供のころは、昔の殿様はあの、天守閣に住んでいるのだと思っていたが、実際は「御殿」と言われる居住施設に住んでいた。
天守閣に居住設備のあるものもあるが多くはないし、天守閣に常住していた大名はほぼ皆無(安土城は天守閣に信長が住んでいたらしいが)。

そんなわけで、実は江戸時代、江戸城には天守閣はなかった。
もちろん江戸城の建築当時はあったのだが、4代将軍徳川家綱の時代に火事で焼失、その後再建されなかったわけで、江戸時代を通じて天守閣のない時代のほうが長かったわけである。
何回か再建計画はあったのだが、江戸初期を除き幕府財政は慢性的に逼迫していたため、あまり重要ではない天守閣の再建はなされなかったわけだ。

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上は幕末期の江戸城本丸、二の丸の復元図だが左のほうに「天守台」があるのがお分かりになるだろうか。


ところで、昨年末テレビで映画を見ていたらブッたまげた。
時代劇映画で、江島事件を題材にしていたのだから、7代将軍家継の時代なのだが
江戸城には堂々とした天守閣があって、しかもそれが何と姫路城
そう言えば、昔、某局の「暴れん某将軍」でも姫路城の江戸城が存在していたような…

まあね・・・
SFが科学的である必要はないし、歴史ドラマが史実に忠実である必要はない。
「アルマゲドン」がいくらでたらめだからって爆笑してはいけないし
「忠臣蔵」が嘘八百だからと言って怒るのも大人気ない。

でもね〜
あんまり適当なドラマを見せつけられると引いちゃうんだよねえ〜。
例えばさ、
「耳なし芳一」が実写映画になったとしてさ、
芳一が引いているのが琵琶じゃなくてエレキギターで、
しかも弾き語っているのが「平家物語」じゃなくて「源氏物語」だったらどうよ?

そのくらい違和感があるんだけどなあ〜。


ちなみにまともな姫路城は↓
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三国志と邪馬台国

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邪馬台国!

古代史のロマンを感じさせる名前である。
いったいどこにあったのだろうか?
「魏志倭人伝」の記述をそのまま信じると、日本のはるか南海上に位置してしまうが
本当は果たしてどこにあったのか?
九州か?畿内か?

ところで、この「魏志倭人伝」、実はこれは「三国志」の一部であることは意外に知られていない(そうでもないかな?)。
「三国志」とは、あの、曹操や劉備、孫権らが活躍する魏・呉・蜀について書かれた、あの「三国志」である。
ここで、「三国志」における「倭国」の立場や、魏内部の状況、さらに三国志の筆者・陳寿の立場などを考えると、色々と見えてくることがある。


まずは、邪馬台国が魏に使者を送った当時の関係事項を年表にしてみよう。

220 曹操没 息子の曹丕が皇帝(文帝)になり魏王朝を開く 
221 蜀の劉備、皇帝を自称
226 文帝没 明帝即位
229 魏の西北方面担当の将軍・曹真の働きにより、大月氏波調の使者が魏を訪問する  
    魏は波調に「親魏大月氏王」の称号を贈る
    呉王孫権、皇帝を自称し三国時代始まる
231 曹真没
    蜀の諸葛亮、魏の西北部に侵入 
    魏は西北方面担当の将軍を曹真の子・曹爽から司馬懿に変更して対抗
232 呉と遼東の公孫淵の同盟が成立
233 魏が公孫淵に圧力をかけ、公孫淵は呉との同盟を破棄
237 魏と公孫淵との関係が再び悪化 魏は討伐軍を送り込むが失敗
    公孫淵はこれをきっかけに燕王を自称 魏からの独立を宣言、呉との同盟を求める
238 魏は司馬懿を司令官にし、再度公孫淵討伐を決行 公孫淵敗死
    魏は同時に朝鮮半島にも兵を進める
239 明帝没 斉王曹芳即位 司馬懿と曹爽が後見人に
    邪馬台国の女王卑弥呼の使者が魏に来訪 「親魏倭王」の称号を贈られる
244 曹爽、西北方面で蜀討伐作戦
244〜246 司馬懿、東北方面で高句麗討伐作戦
249 司馬懿のクーデター 曹爽失脚・処刑
251 司馬懿没
263 魏が蜀を併合
265 司馬昭が魏の元帝を退位させ自ら皇帝になり、晋朝を開く
280 晋が呉を併合
    このころ「三国志」が陳寿によって書かれる


「三国志」は陳寿(232〜297)という歴史家が、個人的な立場で自由に筆を振るった史書と言われている。もともとは彼の個人的な史書だったものが、彼の死後、官撰の史書になったものだ。
しかし、本当に「個人的立場で自由に」書かれたものであろうか。

陳寿は蜀の出身。
蜀の頃は不遇であり、蜀が滅び魏の世となり、魏が晋に変わってもなかなか浮かび上がれなかった。
その陳寿を引き立ててくれたのが、晋の有力な官僚、張華(232〜300)である。
張華は名門の出身ではないが、自分の実力だけを頼りに晋の皇帝の側近にまでなった人物。
陳寿はその張華に恩を受け、晋朝で役職に就けた人。
とすれば、陳寿は張華の立場を悪くするようなことは書けない、つまり、張華の仕える晋王室にとって都合の良いことしか書けなかったはずである。

ここで、晋王朝の事実上の創始者である司馬懿について考えてみよう。
司馬懿は政敵であった曹爽を倒してクーデターを成功させている。
倒された曹爽は曹真の息子であり、その曹真は魏の西北方面での軍事・外交に功績を残した。
特に、今のアフガニスタン・パキスタン・インド北部を支配していた大帝国、「大月氏」の使節団を来訪させたことは曹真に大きな功績の1つである。
親魏大月氏王」の称号は魏にとっては、大国との友好関係を内外に宣伝するとともに、曹真の面子を立てたものと言えるだろう。
一方の司馬懿は、諸葛亮との戦いなどにも功績があるが、何と言っても大きいのは、238年の東北方面での公孫淵討伐である。
これによって魏は東北方面の支配権を手にし、そして、倭の邪馬台国が魏に朝貢するようになるのである。
親魏倭王」の称号は司馬懿の面子を立てたものと言って良いだろう。
後の晋の王室は、晋王朝創始者の司馬懿の政敵、曹爽の父親、曹真の西方での功績のアンチテーゼとして、
司馬懿の東北での功績をクローズアップさせたいわけなのである。
陳寿は、この流れから逃れられるはずもない。

「魏志倭人伝」における邪馬台国に至る道のりでは、朝鮮半島の南部から、その距離が異様に引き伸ばされていることは良く知られている。
実はここにも「曹爽vs司馬懿」の対立が影響を及ぼしている。
「魏志倭人伝」に記された、魏から邪馬台国までの道のりは、総合すると、魏から大月氏までの道のりとほぼ等しくなるのである。
また、「魏志倭人伝」に記された邪馬台国は当時の日本では考えられないほどの巨大な人口を持っているが、これも、大月氏の人口にほぼ等しい数字になっている。

まとめるならば、こんな対立関係から「大いなる邪馬台国」がありえない位置にできてしまったのである。
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晋王朝の有力者張華に恩のある陳寿としては、この建前を捨てるわけにはいかなかったであろう。
ちなみに「魏志」には「西域伝」はない。つまり大月氏の来訪の話などは記録されていない。


また、邪馬台国の方位の問題もある。
これについても邪馬台国が魏に朝貢する直前の国際情勢を考えるとわかってくることがある。
邪馬台国が朝貢する直前、遼東の公孫淵と呉がしばしば連絡を取り合い、魏を挟撃しようと試みていた。
魏は、公孫淵を滅ぼした後、邪馬台国と同盟することにより、呉に対して圧力をかけようとしたのである。
呉に対して有効に圧力をかけようとすれば、日本列島が正しい位置にあるのでは都合が悪く、もっと西南、つまり台湾の沖あたりにないといけない。
このあたりに邪馬台国を持ってくることにより
「今度は呉が、魏と邪馬台国によって挟撃されるぞ」
と、圧力をかけたかったのであろう。

おそらくこれは魏-晋の公式の見解であったのであろう。
それを陳寿がそのまま採用したのだと思われる。

では、邪馬台国は実際にはどこにあったのか。
それは・・・!


※これはあくまでもアマチュアの歴史好きの想像ですのでどこまで、正しいかは責任がもてませんのでG了承ください。
つまらない自己満足にお付き合いいただきありがとうございました。

長篠の合戦

1575年5月。
三河の国(愛知県東部)、長篠で織田、武田両軍が激突する。
武田といえば、「戦国最強」とも言われた騎馬軍団を擁する強大な大名。
武田の騎馬軍団は勇猛果敢に織田の陣地に突撃する。
これに対する織田信長には秘策があった。
3,000丁の鉄砲を三段構えに布陣した、新戦法である。
間断なく発射される鉄砲に、武田方の武将は次々に倒れる。
大きな損害を受けた武田勝頼は、かろうじて戦場を離脱する・・・。

これが世にいう、「長篠の合戦」である。

いち早く鉄砲の威力に着目していた織田信長は、この戦いで鉄砲を有効に使う新戦術を発明。
この戦いの後も、鉄砲を有効に使いながら天下統一を進めていく。

長篠の合戦」というと大体こんなイメージを持つ人が多いであろう。イメージ 1
しかし、このイメージは果たして正しいか。

第1のウソ。「武田騎馬軍団」
当時の武田には「騎馬軍団」など無かった。
武田軍の騎馬兵の割合は、軍役の状況から見て全兵力の10%にも満たない。
これは越後の上杉氏や小田原の北条氏に比べても低い。
また、武田軍は騎馬武者50人を中核として一備(部隊)を編成したが、戦場ではその大部分は下馬してしまい、実際に騎乗するのは隊長クラスの7〜8人であった。
つまり、騎乗する資格のある10%弱の兵士のうち、さらにその中の15%程度のみが、戦場では騎乗し、残りは下馬し、槍を持って徒歩で突撃した、と「甲陽軍鑑」に記されている。
「甲陽軍鑑」の資料としての精度は必ずしも高くは無いが、これは「武田信玄配陣図屏風」にも描かれている。
このように戦場では騎乗の資格のある者も下馬して戦う、というのは武田氏だけでなく、戦国時代の日本に共通する戦い方であった。
これはフランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスも述べていることである。

第2のウソ。「鉄砲3,000丁と三段撃ち」
この「3,000丁の鉄砲を三段に構え間断なく撃ち続けた」というのは、小瀬甫庵の「信長記」に由来するものだが、実はこの小瀬甫庵の「信長記」はかなりの部分が妄想の産物であることはよく知られている。
他の書物には「三段撃ち」なる戦法は一切出てこない。
史料価値の高い太田牛一の「信長公記」にも書いていないし、鉄砲の数も「1,000丁ばかり」と記されているに過ぎない。
ただ、軍勢の規模に対して1,000丁では少なすぎる気もするのでもう少し多かった可能性もある。
また、当時の「個々人が手柄を上げて恩賞を得る」ことが目的であった、武士たちの価値観にあって一人一人が機械の一部のように振舞う「三段撃ち」が果たして現実的に考えられたか疑問である。
当時の指揮系統のうえから考えても、広い範囲の部隊に一つの戦法を行き渡らせることが可能であったかも疑問。
他にも疑問の余地はあり、この「三段撃ち」はおそらく無かったと思われる。

第3のウソ。「信長は鉄砲の威力にいち早く注目し、鉄砲を有効に使い、天下統一の作業を進めた」
鉄砲に注目したのは信長だけではない。
西国ではもっと以前から鉄砲を大量に使った戦が繰り広げられていた。
信長自身も紀州雑賀衆との戦いでは相手方の鉄砲隊のために苦杯を舐めている。
鉄砲のような強力な武器が日本中に広まったおかげで、信長の統一事業はかえって困難になったと思う。


結局、長篠の合戦はどんな戦いだったのか。
織田・徳川連合軍の勝因は3つあると思う。
1.戦場に、馬防柵・土塁・空掘りなどを作り強固な陣を作った。
2.武田方より兵力が圧倒的に多かった。
   織田徳川連合軍の兵力は3万、武田方は1万5千程度だったらしい。
   お互いもっと少なかったと言う説もあるが、いずれにせよ織田徳川軍は武田方の2倍から3倍程度の兵を
   有していたようだ。
3.武田方の背後にある長篠城の支城、鳶ヶ巣山砦を攻略したこと。

古来より「攻勢三倍原則」などと言い、自然の地形や強固な陣地に拠って守りを固める相手を攻めるには、三倍に近い圧倒的な兵力が必要とされている。
それなのに、兵力の少ない武田方が、兵力の多い強固な陣を構える織田方に対して攻撃する形になってしまった。
これは背後の鳶ヶ巣山砦を奪われてしまい、挟撃される形になったため前方に突撃するしかなくなってしまったからである。

鉄砲は有効に使われたであろうが、それが勝敗を決したわけではない。

この戦いを「中世的騎馬軍団」vs「近世的鉄砲隊」という構図で捕らえるのは明らかな間違えである。


参考文献:「織田信長合戦全録」谷口克広、 「謎とき日本合戦史」鈴木眞哉


自己満足の駄文にお付き合いいただき有難うございました。

大岡越前守忠相

名町奉行!大岡越前!
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「天一坊事件」「三方一両損」「石地蔵吟味の件」「実母継母の子供争」…
数々の何事件を明晰な頭脳で解決、人情に厚い「大岡裁き」、われらが町民の味方!それが南町奉行、大岡越前様だ〜!

…なんて思っていませんか?
実はこれは、江戸時代に「大岡政談」という小説によって作られた幻想である。
「大岡政談」に出てくる大岡忠相と、実際の歴史上の大岡忠相ははっきり別人と考えてよい。

実際の大岡忠相このような裁きをした事実はない。
これらの事件、裁判は大体が江戸以前の日本や中国の故事や説話を焼きなおしたものである。
「天一坊事件」に至っては、同時代の町奉行が裁いた事件をアレンジして、大岡忠相の手柄として「大岡政談」に組み込まれたものである。

では実際の大岡忠相が暗愚なボケナスであったかというと、そんなことは無い。
彼は8代将軍徳川吉宗の下、享保の改革における非常に重要な地位にあったのである。
では大岡忠相は実際には何をしたのか。

1.江戸の防火対策
これはかなり有名であろう。
江戸は冬場は非常に乾燥するうえ木造家屋が密集しているため、火事が非常に多かった。
忠相はこの対策として、「いろは47組」の町火消を創設した。
TVなんかではこの程度しか言わないが、それだけでなく
建築物の耐火構造化を強引に推し進めたり、
市街地に「火除け地」を作ったり、
あらゆる角度から、江戸の防火対策を推し進めた。

2.物価対策
実はこれが大岡忠相が最も腐心したところであろう。
これは大岡忠相の功績を語る上で一番重要なのだが、
読んでくださる皆様には、一番眠くなるところでしょうから簡単に。
大岡忠相はこの時代、大きな社会問題と化していた物価問題に取り組み、物価を安定させるために
商人に組合を作らせ(株仲間の原型)、商人を一元的に支配しようとしたり
物価引下げ令を出したり
金銀相場に介入したり
貨幣を改鋳したり
と、いろいろやっているのである。
必然的に巨大商人(特に上方商人)との戦いとなり、大岡忠相はその戦いに敗れて、町奉行の任を解かれる。
幸いにも8代将軍吉宗の信頼の厚かった彼は、失脚⇒悲惨な末路、とはならずに、寺社奉行に栄転という形で遠ざけられたのである。
ちなみに寺社奉行は地位としては高いが、実務権限には乏しく、また、将来を嘱望された若い大名がなる役職なので、さほど家格の高くない、しかも老人の域になってきた大岡忠相には非常に居心地が悪かったようである。

3.新田開発
これは町奉行としての職責ではないが、忠相は「地方御用掛(じかたごようがかり)」という職を兼ね、関東地方の農政も担当した。
ここで、忠相は新田開発を推し進め、特に武蔵野(東京の西部)の開発に大変、力を注いだ。
現在のこの地に暮らす、資産何十億という地主はこの時代に忠相によって入植させられた子孫が多いらしい。

この他にも、救貧対策や、人材登用でも大変に功績があった。


こんな積極的な「改革派」のお奉行様に庶民は共感し、「大岡伝説」になっていったのだろう。

ちなみに、大岡忠相の知行地(領地のようなもの)は相模国高座郡堤村(現神奈川県茅ヶ崎市堤)にあり、墓も同所の「浄見寺」にある。


つまらない自己満足のお話に付き合っていただき有難うございました。

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