|
生物は、『孤立した環境』にあると、独自の進化を遂げる。
ガラパゴス島や、日本で言えば屋久島など、その島独自の固有種が多い。 ダーウィンが進化論を着想するきっかけとなったといわれるガラパゴス島は、
エクアドル本土とは、約900km離れているそうだ。 カメやイグアナだけではなく、ダーウィンフィンチが有名な鳥類も固有種が生息しているらしい。 屋久島は、九州本土から60km程度離れているに過ぎないそうだが、それでも固有種が存在する。 そこでふと思った。
日本の淡水魚、つまり河川に生息している魚は、それぞれが『孤立した環境』ではないのか? 海を介してつながってはいるが、淡水魚にとってそれは、現実的につながっているとは言えない。 台風や嵐などで、近くの川に移動することはあるかもしれないが、九州と本州と四国と北海道・・・ そう簡単に、そして頻繁に、淡水魚の移動があったとは思えない。 鳥にとって、陸でつながっていない離島で、数10km離れていても大した事ではないだろうが、
淡水魚なら、隣の川までわずか数百メートルであっても、例えば山の西側と東側などとなれば、 地球と月(ちょっとオーバーか・・・ そうであるなら、淡水魚はそれぞれの河川で、もっと独自の進化をしていてもよさそうに思う。
品種改良は数年を待たずにその変化が現れる。作物もそうだし、家畜も犬や猫も、数年で新種ができる。 意図してそうする場合と、自然環境の中で起きる変化とでは、必要な時間が違うかもしれない。 しかし、日本列島に人類が文明を築き始めて数万年・・・?
その後、どの位して養殖や放流などをするようになっただろう・・・。
淡水魚に関して言えば、それまでの間に、それぞれの川の環境に合わせて、
独自の進化をした種が、もっとたくさん居てもいいような気がする。
というまあ、どうでもいい話し
|
環境問題のはなし
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
|
生物多様性についての本を読んだ。
『生物多様性とは何か』井田徹治著 『生物多様性のウソ』武田邦彦著 の2冊だ。 生物多様性の保護活動をされている方からは、後者の本は大変なバッシングを受けているようだ。
あくまでも個人的な印象として書くが、
『生物多様性のウソ』のバッシングをしている方の多くは、生物種の保護活動をされている方々。 しかも、以前同氏が書かれた『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』については良い評価をされている。 その上で、この本の批判には、「生物多様性について、氏はよく理解していない。」と言っておられる。 それでは、生物種の保護活動をしている方は、環境問題のウソに関して、
専門家(関係者)の立場で読まれたのだろうか・・・?そうではないはず。 氏が本の中で言われている通り、情緒的(感情的)に「生物多様性は保護すべき。」と言っていないのだろうか?
“おっさんライダー”は、環境問題も、生物多様性についても、同様に素人である。
あくまでもその素人から見ての意見だが、例えば、 ブラックバスなどの外来種を脅威としながら、中国からトキを連れてきて日本の野に放つのは、矛盾を感じる。 たぶんこういうことを言うと、「トキは、日本のトキも中国のトキも、種としては同じ(?)だからOKだ。」 みたいなことを言われそうだ。(素人だから分類的な事はよくわからないが・・・) しかし、やはり無理があるように感じる。
トキを再び日本で蘇らせたいなら、まずトキが絶滅するに至った原因こそ改善すべきではないのだろうか? 種を保存するなら、その種が生育できる環境を整えることでこそ保護すべきで、 何が何でも種(トキ)を保護し、一方で、その生育環境の整備が行き届かなければ、 問題の解決にならないように思う。
もしかすると、再びトキが保護され数が増えると、別の在来種の脅威となる可能性はないのだろうか?
日本人は、数万年前、大陸から渡ってきた複数の種族の混血だと言う。
それは、日本列島にとっては外来種とか種の汚染とは言わないのだろうか?
数万年前はOKで、数十年前のブラックバスはNOと言う根拠は??
現在、鯨を保護しすぎて、イワシが減っているという話も聞く。
沖縄の島で、ハブが危険だとして、マングースを連れてきて退治させようとしたら、
ハブを退治せず、他の在来種の脅威になっていると言う。 米や野菜は、盛んに品種改良が行われ、遺伝子操作をした農産物も増えている。
また、ある地域から別の地域へ、野菜や果物の種を持ち込み、栽培地は変わり、拡げられている。
外来種の脅威は、動物だけではなく、植物にも言える事のはずだ。
極論だともいわれそうだが、もし生物の種を保護すると言うなら、
ドブネズミやゴキブリは、保護せず退治してもいいのだろうか? ある種の、適切な数はどう求めるのだろう? 天然痘などを引き起こすウィルスは根絶してもよかったのだろうか? さまざまな病気の治療法を開発して、人間の数が増えて、
それでもそれは、地球にとって優しい事だと言うのだろうか?
武田氏はこの本で、情緒的(感情論)で、生物多様性を語るのではなく、
具体的(科学的)に、明確な根拠もないまま、ただ、保護を叫んでも、
的外れな、あるいは逆効果な事をしてしまいかねない危険性がある事を、主張されていると思う。
現在保護活動をされている方には、大変申し訳ないが、
人間の為=地球の為(生物全体の為)と言えるのだろうか?
結局、誰のため(人間の為?地球の為?生物全体の為?)の
生物多様性保護なのだろう・・・と疑問を感じてしまう。
|
|
野生の世界では、誰もが知る通り、草食動物を肉食動物が捕食する。
しかし、不思議な事に、追われる動物(草食動物)より、
追う動物(肉食動物)の方が走るのが遅いそうだ・・・?!
それでは、「捕食できないではないか?」と思うのだが、そこがよくできている。
つまり、捕食されるのは、年寄りや病弱な個体で、健康な個体は生き残ると言うこと。
これでバランスがとれるというのだ。
しかし、なんとも不思議な絶妙のバランスだ。
どうして捕食者は、あともう少し速く走れるようになれないのか?
もし、追われる方が早く逃げるようになると、追う方がそれに追いつこうと更に速くなる。
これを繰り返していくと、とんでもなく早く、追いかけっこをすることになりそうだ。
しかし、動物にもずいぶん長い歴史があると思うが、
とんでもない速さではない気がする。
速く走るためには、多くのエネルギーが必要だとしても、
速く走れれば、獲物をより確実にとらえることができるのだから、その心配はないはず。
追われる方が早ければ、安心して食事を摂ることができるのだから、
捕まることがなくなれば、天敵は滅び、草食動物の天下となっていてもよさそうなのに・・・
まるで、自然界にはリミッターが備わってでもいるみたいだ。
このなんとも不思議な絶妙のバランスが、生態系を維持しているのだろう。
そのバランスを人間は崩していっているのだろうか・・・?
|
|
今、ほとんど誰でもが「エコ」や「省エネ」を訴える。リサイクル、循環型社会を目指そうと言う。
そして、ほとんど無批判にそれに従うのは、世界でもたぶん日本人だけではないのか? 一番大声で叫んでいそうなアメリカは、研究も盛んで、多くの調査資料も発表されているが、 しかし、1997年12月の、第3回気候変動枠組条約締約国会議(京都議定書)の時を見て判る通り、
いざとなると、損をしてまで従う気はないらしい。彼らの損得勘定はシビアである。 さて、もし・・・
① 地球環境の保全(改善)
② 現在の生活水準の維持 を両立させたいと思う時、一体どんな方法があるだろうか? この前の記事に関連するが、
一番無駄なのは、死者を葬る行為(葬式、火葬、墓地、墓石など)ではないかと思った。 葬式では多くの花が捧げられ、火葬でエネルギーを消費してCO2を排出し、 自然を破壊して土地を馴らし、石を切り出して遠方から運搬している。 この一連の行為は、全く生産性がない。リサイクルから切り離されている。 そもそも、故人を葬る(ほうむる)のは人間だけだ。死者に付加価値を与える生物が、人間以外にいるだろうか? 人間が自然を破壊したと言うなら、その責任を負い、 人間しかしていない無駄の最たる行為“葬る”を辞めるのだ。
まったく個人的な解釈だが、“死”を恐れるのは人間だけだ。
野生動物は常に“死”と隣り合わせで生きている。
人間以外の生物は、“死”を嫌がって(避けたがって)はいるが、恐れてはいないと思う。 人は“死”を恐れるから、それを克服するために、死後の世界や霊や、天国や地獄、浄土を生み出した。 ほとんどの人は“死”と言う現象から目をそらす。大量の家畜が殺されている事実に知らん顔だ。 肉を食べながら、それがどのようにして食卓に並ぶか見ようとしない。“死”を恐れているからだと思う。 話をもどそう。
故人を葬る行為は、そこから何も生み出さない。
それでも尚、転用できない土地(墓地)を増やす。
多額の使用料を払って墓地(霊園)を買い(実際は借りるだけ)、都会でもないのに、そこには、 わずかの植物(面積に対しする植物のボリュームが少ない)しか生えていない。 それは非自然的でささやかな緑だ。それは循環型社会の対極にある。
人によっては、
「葬る行為なくして、故人との悲しい別れに、どうけじめをつけたらいいのか?」と言うかもしれない。 しかし、悲しみを引きずるか引きずらないかは、葬式や墓の有無には関係していないのではないか? 葬る行為は必要だ。と言う感覚は、先入観によって生まれているだけ。 けじめをつける方法は、葬式や墓が無くとも可能だし、けじめをつけない選択もある。
忘れるか忘れないかと、悲しいか悲しくないかとは別なのだから、つまるところ、 けじめのつけ方は本人(遺族)次第だ。現在のような墓の形式は、数百年の歴史しかないそうだ。
「神仏を恐れない罰当たりな考えだ。」と言う人がいるだろうか?
しかし、仏教の祖、釈迦は自らの葬儀を弟子が行うことを承認せず、「在家信者に任せよ。」と言った。 浄土真宗の初期の僧親鸞は、「自分が死んだら川に流せ、魚の餌にしろ。」と言ったそうだ。 ちなみに、チベットでは鳥葬が現在でも行われているそうだ。これは、人としての究極的循環ではないだろうか。 故人を鳥に処理させるのは、日本人の感覚からすると抵抗感があるかもしれない。 しかし、これもれっきとしたチベット仏教に基づく葬り方だ。
「その行為の中から文化・芸術・音楽なども生まれた。葬る行為は無価値ではない。」と言うかもしれない。
しかしそれは詭弁である。なぜなら、葬る行為に関係しない優れた、文化・芸術・音楽のほうが圧倒的に多い。 逆説的にいえば、文化・芸術・音楽を生み出すために、葬る行為を始めたのではないのだ。 それらは、単なる副産物である。
そもそも、“葬る(ほうむる)”と“弔う(とむらう)”とは、別のものだと思うのだが、
葬式必要論者は、“弔う“重要性を述べ、それを“葬る”理由にすり替えている様にしか感じられない。
故人を、大いに弔えばいいと思う。しかしそれは、葬る行為の、大いなる無駄を正当化できていない。 では、どう葬るのか?
遺体を放置すれば、腐敗し病原菌などが発生し、生きる人にも悪影響が考えられる。 山野に放置し、鳥や動物に与える場合、遺体の一部を目にする可能性があり、トラブルの元になる。 国土が狭い日本では、この方法は向かない。日本らしいのは、焼かずに“海へ還す”と言う方法だ。 自治体ごとにでも、一定の海域を決め一般の立ち入りを禁じ、更にその一部を囲って(遮断はしない)、 生物分解性の装束を着せ、囲いの中で遺体を海に沈めるのだ。
そこで、さまざまな海洋生物に処理してもらう。故人との最後の別れは、合同で港で行う。
遺骨ではないので“海洋葬”とは違う。骨だけ戻しても、大した栄養にはならない。 火葬場は廃止する。遺骨もない。墓も墓地もいらない。
まあ、まず実現しないだろうとは思うが・・・ 例えば、かなり大規模な宗教改革が必要だろう。あるいは、社会状況の危機的な激変であるとか・・・。
しかし、人が自然の破壊に対する責任を感じ、尚且つ、生きている間、豊かさを享受したいなら、 死んだ後ぐらいは、少しでも自然にお返しする覚悟を持っていいのではないだろうか・・・ |
|
数年前に、本屋で『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』と言う本が目にとまり、
買って読んでみた。
最近よくテレビに出ておられる、武田邦彦教授の本である。
環境問題について、報道などで言われていることが、どれほど事実に反することなのか・・・
科学者の視点で、データを示しながら解説されている。
特に目を引くのが、今、盛んに地球温暖化が叫ばれ、海面上昇が危惧されている問題。
国際的な研究機関である ICPP(気候変動に関する政府間パネル)では、
予想されているシナリオの平均数値で、海面上昇は30年間で11cm程度。
これを多いと言うのか、少ないと言うのか・・・?
過去40年間に海面は既に、7cmほど上がっているそうである。
では、それで何か問題が起きたのか?う〜ん、思い当たらない・・・。
テレビでは今も、
家族のいる家から、仕事に出かける男が、潜水の装備を付けて、
水中を泳いで会社に向かう映像で、危機感を煽っている。
何百年先のことを言っているのだろうか・・・?
“節電”を叫び、照明をこまめに消灯したり、家電の待機電力を心配して、
プラグを抜くことを勧めたりしている。
それでどれだけの電力が節約でき、どれほど二酸化炭素の排出を抑えられるというのか?
二酸化炭素の排出が、温暖化の原因であると証明されていないのにである。
そんな微々たる努力など、一回の海外旅行のジェット燃料分にもならない。
エコカーに乗り換えても、燃費が良くなった分遠くへ出かけるなら、環境に優しくはない。
それどころか、走行距離が増えるなら、道路の維持管理や新たな道路の建設が増え、
そのために、化石燃料は使われるのである。
自動車の製造にも、多くのエネルギーが使われる。
何らかの危機感を煽って、ある方向に人の意思を向かわせようとするのは、
その原因が、明確に証明されていない以上、それは宗教であると言える。
宗教の終末論と同じだと思うのだ。
政治も産業も、「エコ」と言う新興宗教で、信者(国民)から労力と金を巻き上げているのようなものである。
多くの人が「テレビや新聞の情報は正しい」と思っているわけではないだろう。
しかし、“環境問題”と言うと、その疑いがどこかへ簡単に飛んでしまうようだ。
日本の報道は、本質(原因)部分の証明を示していない。
「テレビや新聞で言っているから。」「あの人が言ったから。」「国際会議が開かれているから。」
そんなことは、本質(原因)の説明になっていない。現象の一部を見せているだけである。
政治や産業は、本質(原因)を問題にしてはいないからだ。
「民意がそうなら、その方向で…。」というだけである。報道は、注目されればそれでいいのだ。
「ゴミの分別」が必要だと言っておいて、焼却炉では一般ゴミとペットボトルを一緒に焼いているのと同じだ。
リサイクルより、リサイクルしない方が、現状ではコストが安い(原油の消費が少ない)のだ。
それなのに、ゴミ処理の有料化が進むのは、そこに利権があるからである。
”環境問題”という呪文に思考停止していては、本当に環境にやさしい必要な措置はとれそうもない。
|
全1ページ
[1]







