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“おっさんライダー”は、経としての法華経(名詞)と、
その中に書かれてある法華経(形容詞=妙法蓮華)とは「別である」と主張した。 ちなみに、ZEROさんからのご教授により、法華経には三種あるとの事です。
①真理そのものと言う意味での法華経(法身仏=真理=真理としての法華経・・・月) ②その真理を示すものとしての法華経(報身仏=智慧=諸仏の説く法華経) ③言葉に変換した経典としての法華経(応身仏=方便=経典としての法華経・・・月をさす指) となっているとの事です。(詳細は【法華経の謎を解く 2】のコメント欄をご覧ください。) “おっさんライダー”は「別である」としZEROさんは「別であり3つある(上記)」と言われています。
この二つは矛盾しません。 そして、“おっさんライダー”は、②を大乗仏教としたのに対し、ZEROさんは違うと言われています。 ただ、ZEROさんのこの主張を否定する為の証拠は“おっさんライダー”にはありません。推論のみです。 なので、このことを言及してもしようが無いのですが、重要なのは、先の「別である」と言う点です。 さてここで、仮にある映画を譬えに出して見よう。(異論はあるかもしれないが、あくまでも譬えで。)
①この映画を見ると、無垢な愛を感じる。 ②映画『世界の中心で愛を叫ぶ』 ③この映画を紹介し絶賛する映画解説 頭の番号は、三種の法華経(上記)に対応して譬えている。 「法華経第一」「法華経が唯一真実」と言っている教団の多くは、その主張の文脈と、信者に読誦させたり写経させたりすることから察すると、「法華経(名詞=③)第一」「法華経(名詞=③)が唯一真実」と言っている。
しかし法華経が複数(三種)ある時、法華経だけを読誦してどれほどの意味があるだろう。 映画解説はあくまでも解説であり、それ自体を朝に夕に読んでも、何かの効果があるとは言えない。
やはり本編を見なければ、その映画が語る本来のメッセージは感じられないはずだ。 「その映画がいかに素晴らしいかを、その映画解説は教えてくれる。」・・・としてもだ。 結局、映画解説を読んで、その映画を見た気になっているだけである。 そして、教団はその映画解説のみを読ませ、勝手な(本編とは違う)解釈を加え、信者を集めているのだ。 小乗(原始仏教)がどういうものかを知らずに、声聞である弟子が大乗に目覚める流れを理解できるのだろうか?
経としての法華経(名詞)だけを信者に伝えている教団は、 本来、法華経(形容詞=②)を学ぶことを薦めているのに、法華経(③=名詞)と勝手な解釈を一所懸命学んでいるだけだ。 経としての法華経(名詞)と、その中に書かれている法華経(形容詞=妙法蓮華)とは 「別である」と言う視点に立たなければ、法華経(仮にこれが真実だと言うとしても)の意味は伝わらない。 (この視点に立つなら、無理をすれば法華経(名詞)全体が譬えになっていると言う解釈も許容できないことは無い。) 何にしてもこの経が語るのは、「法華経(形容詞)第一」であって、 「法華経(名詞)第一」では無いのだ。
経としての法華経(名詞)は、法華経(形容詞=妙法蓮華)が説かれている様子を描いている。
法華経(名詞)が永遠の過去から説かれていたのではなく、法華経(形容詞)が説かれていたのだ。 そうでなければ、文脈は矛盾している。「別である」ことを説かず、勝手な解釈を加える教団は、 真実とは言えないだろう。
※注 この一連の記事は、あくまでも“おっさんライダー”が正しそうだと思っているに過ぎない解釈を述べたもので、 専門家などの裏づけや検証は行われていません。 記事を読むだけでなく、コメントまで読んで、ご自身で判断してください。 |
★法華経の謎を解く
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法華経を信仰する方々には、さまざまな立場の方がおられる。
頑なに「釈尊の直説である。」と言われ、入滅までの8年間に説かれたと言う天台大師の説を支持する方がいる一方、ZEROさんのように、現在の学説との矛盾も解消されるような、合理的な解釈をされる方もおられる。 がしかし、“おっさんライダー”は、そのどちらにも納得できないでいる。
まず、日蓮上人は「法華経(他の経典も全て)は、釈尊の直説である。」を前提にしていたのではないだろうか?
(鳩摩羅什や玄奘三蔵などの、経典を中国語訳をした僧達も、創作されたものだと考えていただろうか・・・。) 直説であることをベースに、現在の法華経に対する解釈や評価は、長い歴史を経ながら積み上げ、組み立てられてきたと思う。 更にそうやって積み上げ、組み立てられた法華経の解釈や評価をベースに、
学説などによって明らかになった、紀元後の法華経成立を導入しようとしても無理が生じる。 (個人的にそう感じる)
確かに、法華経が“全体として譬え話になっている。(予めそのつもりで書かれた)”を前提に解釈を進めた場合、
現代人でも、一定の筋道の通った(と思われる)理論を組み立てることはできるかもしれない。 しかし、視点を変えてもう一度考えると、そもそも法華経の創作者(達)は、
“全体として譬え話になっている”事を意図したのか?と言う問題が出てくると思うのだ。 龍樹にまつわる逸話(バラモンと対峙した際、呪術によって六牙の象を神通力によって作り出したなど) を考えるとき、法華経で描かれる壮大なスケールのストーリーは、創作者(達)にとっては、 偉大なる師ブッダを語る際、「現実に“有り得る”エピソードとして書いた。」と考える方が妥当ではないか? 創作者(達)の視点に立つとき、そうでなければ法華経の内容に権威を与えることができないと思うのだ。
当然、法華経は当時「釈迦の弟子たちによって代々伝承されて来た教えだ。」と言うポジションだったと想像する。 であれば、最初から「全ては譬え話ですよ。」と言わなかっただろうし、そう思わせたくなかったはずだ。 全ては、現実に起こった(と思わせたい)エピソードであり、そうであれば、 その裏に込められた何らかの意図を想定したものではない。 “全体が譬え話”は、当初の「釈尊の直説である。」から始まる(誤った?)解釈の、延長線上にある。(と思う。)
つまりは、あくまでも経の中で、七つの譬え話として語られたことだけが、譬え話なのだ。(創作者の意図として)
しかも法華経創作者(達)が、自説の解釈(大乗仏教?)の正当性を主張するために、生み出された経である。 そして、特にここで断っておかなければならないのは、 当時の創作者(達)には「だからと言ってそこに悪意があるとは言えない。」と言う点だ。 また、コメントをいただいているZEROさんはじめ、真摯に、釈迦の教えを解説されている方々を、 軽んじるものではないが、しかしながら、
現在、多くの法華系新宗教・新新宗教教団(一部の伝統仏教組織も含む)が、
「唯一真実」と宣言し、法華経を悪用している点は注意しなければならない。 自身の都合に合わせて解釈を曲げる者達を、見極めることが必要なのだ。と言いたいのだ。 “おっさんライダー”自身が、マイナーな新宗教教団に勧誘された経験があり、
その教団を知るに従って、矛盾を感じ、勧誘者にそれを指摘したものの、聞き入れられることが無かった。 勧誘者は、自分にとって大切に思う人だったが、意見の相違から拒絶されてしまった。 その後マインドコントロールに関する書物も読み、更にその危険性を感じた。
可能ならば、宗教を悪用する団体はなくなって欲しいが、だからと言って直接抗議はやはり危険を伴う。 このブログで語ることは、ちっぽけな自分にできる、ささやかな抵抗だ。 法華経系のカルト教団は、そこに書かれている「みだりに開示せず」を利用して(いや、悪用か)、
排他的に信者を囲い込み、外部の批判を受け入れない体質になっている。これもまた問題なのだ。 逆に言うと、外部からでは把握しづらいからこそ、法華経が悪用されていると言えるかもしれない。 だからこそ、カルト教団の信者は狂信的・妄信的になるかもしれないし、 カルト教団は、信者をそのようにコントロールしていると思えるのだ。 そもそも、法華経が仮に正しくなければ「みだりに開示せず」を気にする必要も無い。
それよりも、特定の人の内部だけで語られることこそ、悪用される原因だと思う次第である。 ※注 この一連の記事は、あくまでも“おっさんライダー”が正しそうだと思っているに過ぎない解釈を述べたもので、 専門家などの裏づけや検証は行われていません。 記事を読むだけでなく、コメントまで読んで、ご自身で判断してください。 |
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コメントで御忠告を頂きましたが、有難く心には留めておきたいと思います。
前回示したように“おっさんライダー”は、
法華経と言う経(名詞)は、大乗仏教の【あとがき】のようなものであると例えた。 また、法華経は大乗仏教の中で最高と言っているのではなく、小乗仏教よりも勝ると主張しているのだとも述べた。 法華経が書かれた時代は、小乗仏教(上座仏教)が強く、
目新しい大乗仏教は十分認知されていなかったのだろうと想像する。
だから、妙法蓮華と形容した大乗仏教を信仰する当時の新興教団は、実際に迫害を受けていたのかも知れない。その事実を、法華経(名詞)の中に盛り込んだ。と考える方が、筋が通っている。・・・と思う。 日蓮上人はそうとは知らず、法華経(名詞)を布教しようとして自分が迫害を受けるのが、真実の証しだと思ってしまった。失礼ながら、気の毒な人だと思う。 その当時、既に複数の宗派があったし、僧の堕落ぶりも、勘違いに拍車をかけたことだろう。
この経自体に『法華経』と言う紛らわしい名前がつけられていたがために、現在まで、ボタンをかけ違ったまま長い歴史を経たのだ。 前回の記事のコメント欄にも書いたが、この説を受け入れるには、コペルニクス的転回が必要だ。
既知の宗教的(仏教徒の)常識に逆らうという意味でも・・・。 法華経の中に、多くの重要な教えが含まれている(と言われる)点も、【あとがき】だと考えれば当然である。
大乗仏教と言う“本文”から、特に要点を抽出して概説を加えるから、大乗仏教の広い範囲を網羅することになる。 『法華経は釈尊の直説ではない。』(現在の仏教学会の定説)という視点からそう考えたのではない。
そうでなければ、「法華経は永遠の過去から説かれている。」となる筈がない!・・・と感じたからだ。 ここで明らかにしておきたい論点の最初は、法華経(名詞)が素晴らしいかどうかではない。これは二次的な問題だ。最大の問題は、【法華信仰vs他の大乗仏教】という対決・対立の構図ではなく、 【大乗仏教(妙法蓮華)vs小乗仏教(上座仏教)】と言う構図のはずなのだ。という点である。 繰り返すが、法華経(名詞)が大乗仏教の中で第一なのではなく、小乗仏教に対して“大乗仏教が優っていると主張”しているのだ。
そうであるなら、法華経(名詞)だけを護持して、他の大乗経典をおろそかにするのは誤りである。 法華経信者は、ことさら他の宗派を攻撃されている所もある様だが、それこそが外道とは言えないか? 寛容な姿勢を示す方もあるが、その発言の端々に「法華経(名詞)だけでいい」というニュアンスが垣間見える。これが問題だ。と言うのだ。 本文を差し置いて、【あとがき】だけを読み、また【あとがき】を理解するために、時々本文を参考にするだけの姿勢は、本末転倒である。と言うのだ。 コメントに、【真理と言う意味での法華経】という発言を頂いたが、そうであるなら“おっさんライダー”の解釈でいえば、 【大乗仏教=真理】であると言う思想から法華経が書かれたと考えれば、 【大乗仏教=真理=妙法蓮華】となるのである。
【真理と言う意味での法華経】とは、つまり【大乗仏教】誕生と言う 宗教革命(それまでの仏教からの分裂)の正当性を主張しているのである。
少なくとも、龍樹が八宗の祖と言われるのであれば、それ以前に宗派の分裂は無かったのだ。 法華経が釈尊の直説であるか無いかを横においても、少なくとも法華経が書かれた(説かれた)時点で、 大乗仏教の宗派の対立はある筈がない。それなら、他の大乗経典との対立構造は、 言うまでもなく有り得ないし、釈尊の直説であるとあくまでも主張するなら、尚更、
【大乗仏教(全般)=法華経(形容詞)】と考えるのが妥当なのである。
法華経(名詞)の中にも、小乗仏教を非難する記述が見られるが、大乗(他の経典)を具体的に指して非難してはいない(と記憶している)。 当然である【大乗仏教=真理=妙法蓮華=法華経(形容詞)】の思想だからだ。
日蓮上人は、仏教の他宗派を法華経を盾に攻撃したようだが、それはとんだ筋違いと言えるのだ。
法華経を信仰するなら、広い範囲で大乗仏教全般に帰依しなければ意味が無い。 そうでなければ、法華経信仰の本意ではない。(“おっさんライダー”の個人的意見)
これまでの常識と言われている解釈が、正しいと言う根拠が明らかでなければ、違う解釈を否定することはできない。 そもそも、仏教の各宗派は解釈の違いによって生まれたもの。 その分派は、法華経が説かれた後のことだ。
分派以前に説かれた法華経に、他宗派・他の大乗経典を非難する発想が込められている筈がない。
日本には分派した大乗仏教しか伝わってきていないから、
【小乗仏教vs大乗仏教】の発想が無かった。
だから「一番優れている(他に劣っている教えがある)」と言われ、 【法華経vs他の大乗仏教各宗派・経典】と考えたのだ。
これらに基づけば、法華経信仰とは、大乗仏教を広く包み込むものの筈であって、
他の経典を否定し『法華経(信仰)が唯一の真実』と言うのは恥ずかしい間違いだ。
真理を求めるなら、不要な先入観に支配されてはいけない。
それでも、あくまでも『法華経(名詞)第一』と言い、他の大乗経典や、大乗各宗派を排斥する気持ちになるなら、真理は2の次でいいと考えていることになる。
これをベースにして、次に、法華経の真偽の話になるのである。
がそれはまだ先の話し・・・。
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以前、ある人から、法華系のマイナーな新宗教に勧誘された。
仏教(あるいは宗教全般)に関して興味があったため、何度か話を聞いた。 興味があったと言っても、魅力を感じていたのではない。 世界には、宗教に大きく左右される人たちがいる。
近年騒がれるテロに限らず、過去の欧米の、世界各地への侵略も信仰に基づいているようだ。 歴史的に見ても、宗教は建築・文化・芸術など、多方面で大きなウェイトを占めている。 そういった事に好奇心をそそられていたのだ。しかし、改めて勉強する機会はそれまで無かった。 勧誘を受けた事を機に、初めて法華経を読んだ数年前、
書かれている事にとても違和感を覚えた。なんとも矛盾した事が綴られている。 この内容は、日本書紀やギリシャ神話のように、奇想天外なエピソードが満載だ。 と言っても、それだから違和感を覚えたのではない。 一方で、法華経を最上と賛美し、その世界観に没頭している人たちがおられる。
これから書くことは、恐らくそれらの人から見れば、不快感を覚えるだろう。
(不快感を抱いた方は、まだまだ修行が足りないと自己を戒め、寛容の心で受け止めて下さい。 しかし、先入観なく(実際には全く先入観が無かったとは言えないかもしれないが・・・)読むと、 矛盾しているのである。 法華経は霊鷲山(りょうじゅせん)で、一万二千人を超える聴衆を前に説法をする様子が語られている。
弟子たちが質問をして、釈迦仏がそれに答えたり、比喩(例え話)を用いて教えを説くのである。 途中、とてつもなく大きな塔が地面から出現し、空中にとどまったりする。 その大きさ(現在は使われていない単位)を、資料などから計算すると月ほどの大きさが有る途方も無さだ。 しかし違和感・矛盾を感じたのはそういった事ではない。法華経の中で、法華経を称えている点だ。
法華経では、法華経が見事に説かれた最高の教えだと言うのだ。 釈迦仏が言うのではない。弟子たちが言うのだ。
法華経が説かれている最中に、その法華経が終わらぬうちにそう言っているのだ。これは有り得ない。
そしてまた、この法華経をどのように継承していくかを話すのだ。 まるで、自分の死後の葬式の様子を、本人が“ありのまま”に、生前に話すような不思議さだ。 しかも、この法華経は永遠の過去から説かれていると言ってのけるのだ。 ●これからまた、これらの矛盾を解消する『個人的な見解』を述べてみたい。 まずこの法華経と言う経自体と、経の中で書かれている法華経とを分けて考える。 前者は法華経という固有名詞。後者は、形容詞としての法華経である。 法華経(名詞)とは、大乗仏教を妙法蓮華(法華経)と形容して、
その概略を説きながら神話化したものである。
法華経(名詞)の中では、この経自体を賛美しているのではない。大乗仏教を指しているのだ。 大乗仏教が“最高の教え”だと言っているのだ。 大乗仏教が“永遠の過去から説かれている”と言っているのだ。
決して大乗仏教の中で、法華経(名詞)が最高だと言っているのではない。 それは、小乗仏教(上座仏教)に対抗して、それに勝る上位の教えが、 大乗仏教であると主張しているに過ぎない。
つまり、法華経(名詞)は、大乗仏教の『あとがき』のようなものである。 或いは、本の『帯に書かれた宣伝コピー』のようなものである。 このように考えると、矛盾はかなり解消される。
現在の仏教学では、法華経の成立は釈迦入滅後、数百年後の事だと言うのが定説だそうだ。
日蓮上人は、まさか多くの経の中で、釈迦入滅後に創作された経が有るなど、考えもしなかっただろう。 そのころ既に、大乗仏教は解釈の違いから、いくつかの宗派(中国八宗)に分かれていた。 だから、日蓮上人は「大乗の中でも法華経が最上だ。」という風に考えたのだろうと、 勝手に推測した次第だ。
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