走るおっさんライダーの走ったり走らなかったりブログ

時々飛ばしますが、暴走はしません。妄想族です。テーマは、ツーリング、国際情勢、物理学もどき、経済、宗教観、映画、読書、日記、等々

“科学”と“非科学”を考える

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ここ最近忙しくて、少し間が空いてしまいました・・・。
 
(その7)
今回“自然を愛する人達”と呼んだのは、自然を自分に都合が良い様に、一面だけ切り取って捉え、例えば、まるで自然であれば“本来の人間”に、都合がいいものだとでも言いたげな人達に対してである。
しかし、自然は多面的で、決して人間にとって都合よく快適な環境ばかりを与えるものではない。
 
今回“科学を愛する人達”と呼んだのは、まるで現在の人間、現在の科学が頂点を極めてでもいるかのような、そしてまた、現在の超常現象などと呼ばれる事の全てが、現在の科学で解明できると考えている人達に対してである。
科学はまだまだ発展途上であり、未知の領域は、これまで解明された領域より遥かに大きいかも知れない。
 
ある人は、「学問や科学(物理的解釈)は、浅く表面的で、より深いレベルに魂(霊的解釈)が存在する。」と言う。しかし、深いとか浅いとは、個人の主観でしかない。
「霊的に優れた賢人は、大昔から未来を予知(予言)していた。」と言うのだが、昔の予知や予言の類は、あいまいな表現を含む。
そしてそれを解釈する者の技量によって、内容の正しさが左右されると言う。しかも、解釈する者の技量の程度を、我々は判断できない。
また、ノストラダムスの予言に関して顕著だが、ある事件などの現象が起こった後で、「このことは予言されていた。」と言ったりする。
しかしその解釈は、アナグラム(文字の並べ替え)や比喩的表現として説明され、解釈の仕方によって全く違う意味を持つものだ。
これでは、もし仮に予言自体が正しいとしても、事後承認でしかないなら何の役にも立たない無意味なものである。
このアナグラムと比喩的表現を認め始めれば、どこかの学校の卒業文集の中からでも、東北地震の予言を見い出せるだろう。
 

少々横道に逸れるが、“走るおっさんライダー”の考えでは、恐らく宗教や東洋医学、風水や占星術などは、その発生及び発展段階では、それまでの長い間に蓄積された経験と知恵の結集によって形作られたのではないだろうか?
それは、その時代の最先端の言わば学問であり科学であったと思う。
そのうち、それが一旦完成した・・・事になって(して)しまった。その時点で、その分野は思考停止に陥ったのだ。
この思考停止した宗教や東洋医学、風水や占星術などの中で、「なぜ?」更なる探求を進める道が、現在学問や科学と呼ばれる分野へと発展したのではないだろうか。
 
宗教や東洋医学などの方法論が、過去の膨大な経験やデータの蓄積によって生み出された以上、現実世界に無用なものではないかもしれない。
しかし、それらは「完成された。」と主張する理論だから、齟齬があっても変更しない。変更できない。
比喩的表現であるとして、解釈によって矛盾を回避するしかないのだ。

例えば、宗教的な考え方では、この世の全ては5つ(或いは4つ)の元素で出来ていると言う。
土、水、火、風、そして空(くう) などである。
文字通り、意味通りで捉えるなら、これらは間違いである事は子供でも知っているだろう。
だからこれを、解釈によって矛盾を回避しているのであって、根本的に変更・修正を加える事はしないのだ。

今回のこのシリーズで“走るおっさんライダー”が主張するのは、
表面的なイメージ(印象)やフィーリング(感性)だけで結論を出し、その結論に対して合致するものだけを採用し、反するものを無視してはいけないと言う事だ。
自分にとって不快でも、自分の願望に不都合でも、合理的、整合性があるならば無視してはいけない。
 
学問でも、科学でも、政治でも、宗教でも、道徳・倫理でも、主義・主張でも、
雰囲気や場の空気で、追求・探求もせずに結論を決めず、更に結論に至ってもそれは不動のものではないと、心にとどめておく事は重要なのだ。
(その1)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7532697.html
(その2)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7557576.html
(その3)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7583138.html
(その4)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7614023.html
(その5)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7648190.html
(その6)
一般的な言い方としての“自然志向”の人、“地球環境保護派”の人らは、
本当に“自然の姿”“あるべき地球の環境”がどういうものかを考えているのだろうか?
 
確かに、青い空や青い海、森の緑、雄大な景色等など、人の手が加えられていない環境に、“走るおっさんライダー”は感動を覚えることも多い。
しかし地球の環境は、その歴史において様々に変化している。温暖化どころではなく、高温の時もあれば氷河期もあった。
 
いったいどの時代の、どのような環境が“地球環境のあるべき状態”と言えるのか?
現在で言っても、地震や台風、酷暑の砂漠、極寒の北極や南極、野生の弱肉強食などもまた、自然のありのままの姿だ。
人間の都合でしかない事を「地球環境にやさしく」などという姿が、傲慢に見えて仕方が無い。
 
携帯電話を持ち、服や靴と言う人工物を身につけ、自転車や自動車や飛行機にまで乗って移動し、エアコンをつけた部屋で、テレビに映し出される動物ドキュメンタリーや、いわゆる美しい自然の姿を見て、“自然回帰”のようなことを言うのは、単に“イメージによる自己陶酔”ではないだろうか・・・?
どこまでが許されて、どこからが傲慢だと言うかは、結局は、個人の勝手なレッテルでしかないかも知れない。
最近目や耳にするようになってきた、江戸時代の日本のリサイクル社会は、とてもよく出来ていたと思える。
農作物を食料とし、その後に出る糞尿を肥料に農作物を育てる。燃料は薪や炭で、建築資材も木や土
自然のサイクルの中で、時間をかけて再生されるスピードと、人間の消費のスピード同調していたようだ。
但し、火災が起きれば広い範囲で延焼し、天候不順になると不作となって多くの人命が失われてもいただろう。
通信設備もないし、移動にも時間がかかるから、例えば急病人には厳しい・・・。
今知りえる情報だけで、いい点だけをつまみ上げ、過去の時代を回顧しても、本当に“正しい”かどうかわからない。
 

一方、科学や学問は、開発・発見されればすべて、直ちに使用してもいい技術だと言えるだろうか?
 
“技術”も“人類の成熟度”も、同調して発展しているところがあるように思う。
いや、そうあるべきだと言う方がいいだろうか。
また、異文化との“交流(貿易)”や“衝突(戦争)”の、頻度や規模も人類の成熟度に同調しているのかもしれない。
人類の成熟度に見合わない技術の発見や使用があった時、それを抑止する力もまた働くとも考えられるように感じる。
人間の交通手段の発達が移動可能範囲を広げ、それに並行して動力(エネルギー)技術も発達する。
それは、車に例えると、素材や加工技術の向上によってエンジンの出力が上がり、それに従ってボディの強度や安全性、ブレーキの性能、タイヤの質など、関連する様々な面が向上するようなものだ。
驚異的な出力のエンジンを、脆弱なボディに乗せれば、その車はコントロールが出来ないものとなるだろう。
 
これは、ハードウェアに限った事ではなく、ソフトウェアとしての人類の英知、道徳にも関連している。
移動可能範囲の拡大は、異文化との交流のスキルを問われる。
社会が異文化をどのようにとらえるかの問題だ。
ベクトルが、侵略や支配に向かうのか、融合に向かうのか、許容の形をとるのか、共生を選択するのか。その選択がどのような結果を導くのか・・・。
 
もし仮に、もっと好戦的だった頃の人類が、突然、核兵器バイオ(細菌)兵器を手にしていたら、人類は滅亡していたかもしれない。
この点で言えば、原子爆弾は第二次世界大戦当時、まだ持つべき技術ではなかったかもしれないし、2011年の原発事故を考えると、原子力発電はまだ人類の成熟度に見合わない技術なのかもしれない。
いや、1986年のチェルノブイリの事故の際に、十分な検証や議論が必要だったとも思えるのだ。
 
 
SNSなど通信技術の発達による、個人間のコミュニケーションが容易になった今では、独裁政権は維持できないのではないだろうか・・・。
独裁政権は、情報操作によって民衆を操作していると思われ、個人間のコミュニケーションはその操作を困難にしていく・・・。
 
DNAの解析は、コンピューターの性能向上に依存した結果だと思われるが、再生医療が現在の人類の成熟度に見合った技術なのかどうか・・・。
もしそれを使用して、コントロールできない事態が起きないよう、原子力の利用同様、十分な検討が必要ではないかと思う。
 
 
では、人類の成熟度、道徳とはどういうものか?
一般的には、道徳が宗教によってのみ形成されると考えている者もいるのではないだろうか?
そのような人は、無宗教者が“不道徳”であると捉えているだろう。
「だから科学者の中にはマッドサイエンティストがおり、不道徳な実験を行うのだ。」と。
しかし“走るおっさんライダー”そうは考えていない。
道徳は、どれだけ先の未来を予測し、現在の行動の指針とするかであると思う。
短絡的で情緒的(感情的)な、目下の欲望に支配される者が不道徳では無いだろうか?
そしてその点で言えば、
イメージにだけつられて、正しい未来の予測を怠って“自然志向”する者も、
報酬や名声を得たいが為や、或いは自説の正当性を主張したいが為に、無理やり科学を利用する者も、
現世利益を謳う宗教とその信者もまた、不道徳に思えるのだ。
 
(つづく)
(その1)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7532697.html
(その2)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7557576.html
(その3)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7583138.html
(その4)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7614023.html
(その5)
宗教に心酔している人、神秘世界や霊や魂などを信じている人は、それらを信じない人が“道徳的でない”とでも思っているようだ。
自然とかオーガニックなどが好きな人は、そうではない人を“地球の将来を考えない人”だとでも思っているようだ。
 
“走るおっさんライダー”は、現在無宗教だと言っていい。(但し、無関心ではない。)
墓も葬式もいらないと思っているし、可能ならば死後には火葬しないで、そのまま海(自然)に還してもらっていいと思っている。
無宗教だが、人と人とのつながりを大切にしている(つもりだ)し、人を傷つけたり騙したりするのが嫌いだ。

それに、そもそも人類の歴史の中で、そして現在も、宗教にまつわる争いのなんと多い事か・・・。
 
まるでベジタリアンが、自然志向の『良い人』だとでも言いたげなのも矛盾を感じる。
自然には草食動物もいれば肉食動物もいる。本人が野菜以外を受け付けない体質であるなら、それはそれで“良い”も“悪い”もない。
或いは、主義としてそうだと言うなら、単なるエゴではないかと思う。褒め称える価値を感じない。
菜食主義者の中には、菜食イコール善人とか道徳的、或いは徳が高いなどと、アピールでもしているかのようだ。
しかし、人間が雑食動物である以上、主義としてそうするのは、逆に自然に逆らう行為と言えるのではないだろうか?
何も、動物をむやみやたらに殺しても構わないとは言わない。それもまた、自然に逆らう行為でもある。
動物であろうが植物であろうが、要は必要な分だけ、そして無駄なくその命を頂くことなのだ。それが命を粗末にしないと言う事だと思う。
これは、別に「生き物の魂が・・・」とか「動物の恨みが・・・」などと言う問題ではない。
「粗末にするのは、人が生きていく為の、自然の共生システム(持ちつ持たれつ)に反する。」と言う考えだ。
 
最近の日本の、太陽光発電ブームにも疑問がある。
それらを設置するために、いわゆる自然に人為的な手を加えているのではないだろうか?
土地が狭く緑豊かな日本で、無機質でコストの高い太陽光パネルを製造し、設置するのが地球に優しい選択なのだろうか?
製造にはエネルギーを必要とする設備の整った工場が必要で、材料は鉱物資源などを採掘して使用している。
そう考えると《再生可能エネルギーへの移行=環境保護》とは言えない様に思うのだ。
再生可能エネルギー自体が必要か不要かを言っているのではなく、
太陽光発電は、環境保護や「地球に優しく」と言う方向とは対極にあるのではないかといっているのだ。
 
これらは、日本の借金が多いと言って危機感を煽って消費税増税を納得させながら、歳出を減らせないまま、今度は「社会福祉に使います。」と言って、増税を押し通した上に、借金額の話題がどこかへ行ってしまった政府の予算のようだ。
 
“走るおっさんライダー”は、宗教とかスピリチュアルと言ったものが嫌いで、理由も無くそれらに反対している訳ではない。
逆に、科学的であるというイメージだけで、鵜呑みにしてしまう人に対しても、その姿勢には反対である。
イメージだけで何かを理解した気になっていると、それより深く追求する事がない。思考停止である。
となると、「パッケージ(イメージ)と中身(本質)が違う。」と言う可能性を考えない場合があるだろう。

民間療法と言われるものの中に、効果があるものもあるが、気休めにしかならないものや逆効果のものもある。それと同じだ。
 
(つづく)
(その1)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7532697.html
(その2)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7557576.html
(その3)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7583138.html
(その4)
宗教と学問・科学は、本当に対立する立場なのだろうか?
 
“走るおっさんライダー”の知る限り、新宗教、新新宗教の場合、理論(教説)の深い部分は、ほとんど明らかにされない。
それらの宗教は金銭目的で、本来の宗教の目的を曲げて、辻褄が合わないために隠しているわけで、それを「人智を超えた真理だ。神秘だ。」などと誤魔化しているだけなので除外する。

何にしても、自分にとって都合が良いと感じたものを妄信し、不都合とか不快な反対意見や証拠から目を背けることは問題だ。
不都合な真実ではなく、都合の良い嘘を信じていては、結局誰の為にもならないのではないだろうか?
いつまでも天動説を信じていては、天体の“正しい”運動を説明する事は出来ない。
 
人間には“知恵”がある。人間が生きるために獲得した武器だ。
もし、人間を創造主が作ったのだとしたら、人間に知恵を与えたのも創造主であるはずだ。その知恵が発展して学問になった。
それを否定するなら、トラやライオンの牙や爪、コウモリの超音波、象の長い鼻、キリンの長い首・・・、
植物の光合成を否定するのとどこが違うのだろう。
 
そもそも、もし仮に神などのいわゆる創造主が存在するとして、この世界を創ったのだとしたら、真摯にその現実を探求(観察・研究)する学問の分野が、なぜその創造主の意思に反することだと言えるのだろうか。
学問や科学が、聖書や経典や神話の記述に反するとしたら、それは創造主に反する事ではないはずだ。
探求によって明らかになっていく理論が、もし聖書や経典の記述に反するとしたら、それは、それを伝えた過去の預言者とか、或いはそれの解釈が誤っていたと言う事だ。
実際に現実に起こっている現象を否定する事こそ、創造主の創造物を正しく見ようとしない姿勢では無いだろうか。
誤りが見つかれば「そうか過去の人間(預言者)にも至らないところがあったのだな。」と理解すれば良いだけだ。
 
『神秘』とは、疑問に答えられなくなった時の、預言者・伝道者と称する者の逃げ口上だと思う。
仮に創造主が存在するとしても、探求は人間が創造主に近づこうとする“大それた行為”などではなく、創造主の意思を正しく捉えようとする行為であるはずだ。創造主の意思を、人間が理解できる形に噛み砕く作業だ。
その意味で、学問・科学の分野は、創造主と対立する立場ではないと主張する。

もし対立があるとするなら、創造主が作った世界を、聖書や経典に固執して偏った見方をする宗教こそ、創造主と対立している。

なぜ創造主が作った世界を直接探求するより、人間が説き伝えたものの方が優先すると言えるだろう。
 
学問・科学の分野が発展する事で生まれた対立は、むしろ 宗教vs科学 では無く 創造主を信じるvs預言者を信じる の対立だろう。
 
(つづく)
(その1)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7532697.html
(その2)
http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/7557576.html
(その3)
さて一方で、逆に学問・科学の分野に対して過度な信頼を持つ人も、同様に注意すべきだと思う。
「自分で見たものしか信じない。」
と言う人など、その典型と言えるかもしれない。
逆に、スピリチュアルな世界観では、“見えない”ものに、過度に重要性を説く人がいるが、そもそも、学問・科学の分野で“見えない”“聞こえない”“感じない”ものの存在を否定などしていない。
 
科学や物理、西洋医学など、様々な学問は未成熟である。
全ての謎や疑問に、現在の学問で答えられているわけではない。
しかしだからこそ、様々な分野で今も研究が続けられているのだ。
にもかかわらず、学問に過度な信頼を持つ人は、現在の科学で説明できない現象を、思い違いや捏造だと決め付ける人がいる。
しかし、現在の学問で解明できていないからといって、確認できていない“何か”を全て否定するのは道理に合わない。
「“霊(または魂)”は非科学的である。だから“霊(または魂)”は存在しない。」と言うのは、
正しい判断とはいえないだろう。
科学が完成されていない以上、学問の未完成・未発見部分に“霊(または魂)”の存在を証明できる“何か”が、無いとは言えないからだ。
できるのは、宗教などで語られるそれらの定義や説明に整合性が無い時に、その定義の範囲内で否定できるかどうかと言う判断である。
例えば「地の底深くに地獄がある。」などといわれれば、その間違いを指摘できる。
 
とにかく、理論に『整合性がある』なら、発見できていない“何か”であっても、その存在を否定する事はできないのだ。
それは現在の物理学で考えれば当然のことであり、例えば、相対性理論で予言(予想)されていたブラックホールの発見は20世紀後半である。
現在は、ダークマターやダークエネルギーと言う、いまだ探知できず理論上の存在でしかない“何か”の存在を信じ、探査されている最中だ。
その昔、電波の受信機(探知機)が無い時代、電波の存在は認識できなかったはずだ。
しかし現在、電波は現代の人間になくてはならないものになっている。このことからも、未知の“何かの存在”の可能性は否定できない。
 
常識を疑う事も時に必要である。
人間は完全ではない。その人間が発見、構築した“学問”もまた完全ではない。
コペルニクスの発見は、それまでの常識をひっくり返した。大変な勇気だと思う。
我々は、単に非科学的だとか非常識だとか、既知の情報だけで結論付けていると、正しさから離れてしまうことがあるのだ。
学問・科学の分野に対して、過度に信頼している人は、注意した方が良いと思う。
期待を掛け過ぎ、その期待に学問・科学が応じられない時、一気にその反対側の世界に心酔してしまうことがあると思う。カルト教団として騒がれた事件では、その信者に高学歴の科学者も抱えていた。
これはまるで、純粋に想いを寄せていた人が、自分の期待に沿わない時に“可愛さ余って憎さ100倍”となるようなもの。
或いは、自分勝手な献身に相手が応じない時に、転じてストーカーになってしまうようなものだ。

 
(つづく)

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