ここから本文です
pascalの城ある記
関東から関西に戻って、田舎暮らしと城歩きを再開しています

書庫日記

記事検索
検索

全97ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

 二日目は本格的な山城2城を含む6城を巡るハードなスケジュールです(^^;

イメージ 1

初日の渋滞アクシデントに懲りて、前倒しで行動する事とし、夜明けとともに活動を始めて、6時には最初の“園部城”へ向け出発しました。


山城の城  園部城  京都府  登城日:2019.6.13

イメージ 2

 別名     薗部城、園部陣屋
 城郭構造   平山
 天守構造   なし(小麦山頂には三層の小麦山櫓が建っていた)
 築城主    小出吉親
 築城年    元和5年(1619
 主改修者  小出英尚
 主城主   小出
 廃年    明治5年(1872
 遺構     石垣、堀、巽櫓、櫓門、番所、太鼓
 指定文化財  なし
 訪城の観点    最後の最新の城とは?
 見どころ   大手櫓門と巽櫓の現存遺構
 所在地    京都府南丹市園部町小桜町


 園部城は京都府南丹市にあり、市役所に隣接した中心部にある平山城です。
南丹市とは聞きなれない地名ですが、2006年に船井郡園部町を中心に周辺5町が合併して出来た新しい市でした。
丹波の南部だから南丹なんでしょうが、では丹後の南部はどう呼べばいいのかここも課題の残るネーミングですね。

イメージ 3
まず園部公園の駐車場へとクルマを入れます まだ朝の6:30ですが、ゲートは開いていました。 奥に立派な三重櫓が見えてますね

イメージ 4
しかしこれは南丹市文化博物館の模擬建物です。 もちろん開館は9時なので、外観だけ拝見


 戦国末期には、この園部も波多野氏の勢力圏であり、家臣の荒木山城守氏綱の居城:園部城がありました。
64月の明智光秀の侵攻で園部城は落城しましたが、その後しばらくは記録が途絶えてしまっています。
 その園部城をベースに近世城郭を造ったのは小出吉親であり、徳川政権も落ち着いた元和7年(1622)の事でした。

イメージ 5
駐車場の西側は一段高い切岸形状になっていて、上に学校の校舎が建っています 

イメージ 6
100mほど南に移動すると城址碑が そして奥には現存遺構がありました

イメージ 7
これは旧大手門の櫓門で、現在は園部高校の正門になっています

イメージ 8
そして左手には巽櫓の雄姿が が、あいにく土塀に隠れてよく見えません


 吉親は和泉岸和田5万石の小出吉政の二男であり、兄で嫡男の吉秀(出石藩主)が岸和田藩を継ぐと、兄の領地を受け継ぐ形で出石藩3万石の大名となっていました。
しかし大坂の陣が終わり、幕府の態勢も盤石になると、兄の吉秀は旧領の出石への転封を言い渡され、吉親は押し出される形で園部へと移封した次第です。

 小出氏とはそもそもは藤原南家から出た二階堂氏の支族で、信濃伊奈郡小出郷を本貫地としてたそうですが、おそらくそれは創作だと思います。
 吉親の祖父の秀政は豊臣秀吉の母:なか(大政所)の妹(栄松院)が妻であり、婚姻時期から考えてそんな名族では無かった事でしょう。

 秀吉の驚異的な出世に伴って、その一門として遇された小出氏ですが、それでも三好一族の様な過度な厚遇ではなかった事で、豊臣家とは少し距離が出来、それが関ヶ原での一族両面作戦を可能にし、大坂の陣では徳川に与する事で生き残りへの道を開いたのです。
豊臣一門の中では、先が見えて冷静な判断ができた稀有な氏族と言えるでしょうね。

イメージ 9
少し離れて遺構の全体をレンズに収めようとするのですが、建物や樹木の陰になって良いアングルが見つかりません

イメージ 10
ここなら! と思うと、テニスコートのネット越しになってしまいます 学校も大事ですが城下町園部を象徴する場所ですから、も少し写真映えを意識した整備にして欲しいものです(^^;


 小出吉親は園部に入ると宍人城を仮住まいし、園部城の跡地に新たに築城を始めます。
居館を水堀で囲み、周囲に家臣団屋敷を輪郭に配して、背後の小麦山は詰め城とする650m×450m規模の本格的な城郭でしたが、幕府からは“園部城”の名称は許されず、“園部陣屋”が名称として指示され、櫓の建築は許可されませんでした。

 吉親の石高は3万石でしたから“城持ち大名”でも良いのですが、すぐ近くの出石に小出宗家の城(有子山城)が有る事も考慮した判断だったのでしょう。

イメージ 11
本丸(高校の敷地)には入れないので、資料館周辺の公園エリアを散策して見ます

イメージ 12
しかし残念ながら、城址保全を目的の公園ではない様で、遺構らしきものは見当たりません

イメージ 13
堀跡っぽい場所に、廊下橋っぽい建物がありますが…

イメージ 14
説明看板も無いので、創作物なんでしょうね


 吉親の子孫はその後10代にわたり園部藩を維持し、一度も移封する事無く明治維新を迎えるのですが、“城持ち大名”への拘りは末代まで持ち続けていた様ですね。
 最期の藩主の10代:英尚は、幕末期の動乱の中で禁門の変や池田屋事件で騒然とする京に乗り込み、“京都見回り役”の任を志願します。
 その代償として、万一の際の対処をする為に、園部陣屋の城郭化改修を幕府に申請したものの、この時は認められませんでした。

 しかし秀尚は諦めず、粘り強く交渉し続けた為、翌慶応3年の10月にはやっと老中の内諾を得るに至ります。
ところがその数日後、将軍:慶喜が大政奉還を決めた為、この話はご破算となってしまいます。
 二条城大広間でこれを聞かされた秀尚の胸中は、さぞや無念で、大政奉還を一番悲しんだ大名だったかも知れませんね。

イメージ 15
橋を渡ると詰め城だった小麦山への遊歩道になっています いきなり竪堀っぽい窪みが現れて期待値も上がりますが…

イメージ 16
案内看板には城址の表記は最小限 遺構も無いんでしょうかね?

イメージ 17
50mほどの山ですぐに頂上ですが、斜度を見てガッカリ!? 籠城戦の効く様な山ではありませんでした

 王政復古の名の元に明治新政府が樹立されると、諦めの悪い英尚は今度は“帝都守衛のため”と称して、新政府に園部城築城を願い出ます。
ところがこの申し出はアッサリと認可され、250年間にわたる小出家の宿願は実現の運びとなりました。

 新政府、主に薩長の思惑として、幕府勢との決戦(鳥羽伏見の戦い)は避けられないものであり、もしこれに敗れる様な事が有れば、明治天皇を擁して長州まで一旦退く事が決められていました。
 その想定退避ルートにある園部藩が要害構築を申し出るという事は、退避を容易にする、“渡りに舟”だった訳です。


イメージ 18
“石造物群”も三重櫓の櫓台があるのかと期待を残していましたが、コレでした

イメージ 19
結局は園部城の遺構の残存状況は手軽には見られない高校の櫓と門だけ…といっても過言でない状態ですね 『最後の築城』というアドバンテージを持ちながら、勿体ない事です

イメージ 20
絵図なども見当たらないので、往時の雰囲気を掴めず仕舞ですが、断片資料をもとに縄張りを乗せて見ると、こんな感じかなぁ?


 築城工事は翌慶応4年(明治元年)の正月から始まり、その年の内にはほぼ竣工しています。
たな防備としては二重櫓が4棟、櫓門3棟が建てられ、 総構えの堀は総延長2kmに及んだそうです。
 小麦山の山頂には天守に相当する三重櫓が建てられ、名実ともに“城持ち大名”となった英尚や小出家家中の喜びは如何ばかりかと思いますが、その喜びは1年半の限定のものとなります。

 明治2年7月発令の版籍奉還〜廃藩置県によって園部藩が廃されると、園部城も廃城とされて、まだ木の香漂う櫓や城門の多くは民間に払い下げられて移築されて行きました。
ただ、本丸正面の巽二重櫓と大手櫓門は残され、本丸跡地に立つ園部高校の施設として活用されています。

永らく粘っていましたが、やっとその気になってブログの引っ越しを決意しました。移転先はAmebroとなります。URLは http://ameblo.jp/pascal570427 です引っ越し後しばらくは整理に追われそうですが、また覗きに来てください。

 初日の最期は京都の奥座敷(と言うかどうか…)、亀岡市にある丹波亀山城です。
この城址、明智光秀が築城して明治維新まで残った城ですが、現在に遺る本丸周辺の遺構の全域は“大本教”の本山として宗教法人が所有しています。

山城の城  丹波亀山城  京都府 登城日:2019.6.12

イメージ 1

 別名     亀宝城、亀岡城
 城郭構造     平山
 天守構造     複合式層塔型55
 築城主    明智光
 築城年    1578
 主改修者    岡部長盛
 主城主     明智氏、羽柴氏、石田氏、岡部、出口氏、など
 廃年    1877
 遺構     石垣、堀
 指定文化財    なし
 城の観点      明智光秀の城の面影
 見どころ   残念ながら特になし
 所在地    京都府亀岡市荒塚町


 朝の新名神の渋滞ロスは吸収できず、亀岡に着いたのは4:30を廻っていました。
この宗教法人は、城マニアには門戸を開放してくれていて、参拝者用の駐車場を無料で使えて、受付にひと声掛けると快く城址遺構を見学させてくれるそうです。
 しかし結論から言いますと、閉門時間が迫るタイミングでの入場はさすがに厚かまし過ぎると思い、内部の見学は意外にアッサリと断念する事にしました。

 …と言うのも、追々書きますが現在の遺構は光秀の城とは似ても似つかないものになっている可能性が高いのです。
城ある記的には“時間があれば見ておいても”な遺構だとしておきます。

イメージ 2
せめて全容を俯瞰出来ないかと、イオンの立駐屋上に登りますが、木立が繁って何も見えません

イメージ 3
正保絵図 保津川を背にした南に厚い縄張りです 石垣や水堀も限定的な様ですね


 僅かながら北側の内堀は当時の雰囲気が良く残り、対岸の堀端は遊歩道が整備された“南郷公園”となっていますので、限られた条件下ですが此処から在りし日の丹波亀山城を偲んでみます。

 亀岡は京都の嵐山から桂川に沿って10kmほど遡った、丹波に入って最初にある町です。
盆地が広がる穀倉地帯のゆったりとした地域で、昔は国府や国分寺が置かれた場所でもありました。

 戦国末期に、織田家の武将:明智光秀が豪族居館のあった丘陵の“荒塚山”に城を築き、亀山城と名付けた事から、亀山と呼ばれる地名になりましたが、伊勢亀山と混同される事が多かったため、明治になってすぐに“亀岡”と改名されたそうです。
ですから、城が現役の頃は常に亀山だったので、ここでは“亀山”で通します。

イメージ 4
北側の主要な虎口だった保津門跡

イメージ 5
絵図を見る限り、此処からの景色は当時のままの気がします 内堀ですが、石垣が破却された痕ではなく、最後まで土塁だった様ですね


 亀山城が築かれる前の荒塚山には、近藤内蔵丞秀政という土地の豪族が居館を構えていたそうです。
 天正6年(1578)、信長から丹波攻略を命じられた光秀は、丹波口の要地にある亀山に眼を付け、秀政に城地の譲渡を求めました。

 これに対し秀政は、我が館地をお使い頂くのは無上の誉れ…』とばかりに、すぐさま山上の拡大普請に取り掛かり、作事は近郷の寺社を取り壊して移し、瞬く間に亀山城は出来上がったそうです。
 ですから、最初の亀山城は空堀に土塁と切岸の、戦時に特化した“大掛かりな砦”といった体だったのではないでしょうか。

イメージ 6
堀の外側には木桟道の散歩道が造られていて、城址を感じながら散策できます

イメージ 7
しかし対岸の主郭の様子は樹木に覆われて、窺い知る事はできません


 当時の丹波には波多野氏と赤井氏が戦国大名として君臨しており、三好与党でしたが、信長上洛の折に一度は将軍:義昭に馳走する形で織田傘下に入るものの、義昭が信長と敵対し出すと反織田の意思を鮮明にしていました。

 近藤秀政も波多野氏の一部将であったのでしょうが、京に至近の亀山に居て、織田軍の動向を耳目にしやすい環境の中では、織田への臣従こそ生き残る術と意識していたのでしょうね。

イメージ 8
参道の中間あたりにある南郷公園

イメージ 9
その片隅にひっそり佇む光秀築城の碑 光秀は今まで概してこうゆう扱いなんですが…


 光秀はこの亀山城を拠点にして、一年余りを掛けて波多野氏、赤井氏を討滅し、丹波平定に成功するのですが、すぐさまの丹後平定戦に向けては福知山に移動して城を本格整備し、拠点機能を移しています。

 また光秀にはこれと並行して中国の秀吉への後詰めや摂津有岡城攻めが命ぜられ、文字通り東奔西走しています。
こうした条件下で、光秀に亀山城を坂本城に代わる居城として整備・拡充する意義や余力がどれほど有ったかは、甚だ疑問です。

 ともあれ、本能寺へはこの亀山城に兵馬を集め、出陣しています。 後世にその事が城の価値を実体以上に高めているのは間違いありませんね。

イメージ 10
今年になって、新しい銅像が建てられた様です

イメージ 11
大河ドラマを機に、明智光秀の復権なるか!?


 天正10年(1582)、山崎の戦で光秀が滅びると、清須会議において秀吉は光秀の旧領の丹波を所望して認められます。
 秀吉は亀山城に養嗣子の秀勝(信長の四男)を入れています。 暗に、主仇の明智を滅ぼしたのは誰か?織田の跡を継ぐのは誰か?を世間に問うていますね。

 この時、亀山城は“光秀のお下がり”ではない、総構えを含めた相当に大掛かりな改修を受けていると思います。
その証拠に、秀勝が病死した後もこの城を重視して、秀勝(秀次の弟)、秀秋(小早川)の後継者候補を入れています。
京に至近の地勢的な面でも重要な城だった訳ですね。

イメージ 12
案内看板の縄張り図 京から山陰への入り口の亀山は水運で賑わった様です

イメージ 13
『時は今 雨が下知る…』愛宕山もすぐ近くに臨めます


 次に亀山城が大幅な改修を受けるのは、徳川家康の治世になった慶長14年(1609の事で、大坂城包囲網のひとつとして亀山城には天下普請の大改修が加えられ、普請奉行には藤堂高虎が当たりました。

 高虎の改修ですからおそらくは、主郭を高石垣にし、城門の強化が主だったと思われますが、明治まで残った五重の層塔型天守もこの時の建造の様です。

 江戸期を通じて亀山城主は、3〜5万石の譜代大名8家が歴任し、藩主は同時に京都所司代や大阪城代を勤めるのが通例だった様です。
 言わば幕閣の登竜門ですが、頻繁な移封は領地の分散に繋がる上、立派な城は補修も大変です。 そして出世するには何かと物要りな時勢で、どこも藩財政は苦しかった様ですね。
 
イメージ 14
蔵書より 亀山城古写真 
本丸高石垣は高虎作で間違いないでしょう(秀吉時代以前には技術的に無理と思われる)

 明治になり、亀山城も廃城令で明治10年に破却されて、土地・建物は競売に付されます。
しかし、城地には買い手が付かず荒れ放題になっていたところ、大正8年になって新興宗教の大本教が買い取り、城址に施設を建てて“聖地”として整備しました。

 この大本教は民主主義、特に貧困者の救済を教義としていたので、民衆に限らず政財界や軍人にまで信徒が急速に広がり、是に危機感を持った政府により徹底的に弾圧されてしまいます。
*詳細は大本事件で参照ください。


 教団からは逮捕者が数千名に及び、拷問死者も出る始末で、教祖には一審の裁判で終身刑が言い渡されました。
 同時に亀山城の教団施設は政府の手で1500発ものダイナマイトで破壊され、建物だけでなく城址の石垣までがすべて運び出されて日本海に投棄されたと言います。
その作業には1万人が動員され、費用はすべて教団から徴収されました。

 しかし、国のあまりに強引な手法に疑問を持つ声も徐々に高まり、昭和17年の世相にも拘わらず、法曹界は最終判決で無罪を言い渡します。

 戦後に晴れて自由の身になった教祖さんは、周囲の“国に賠償請求しよう”という声にも拘わらず、賠償を貰っても結局それは国民の血税だと、請求を拒んだと言います。
 それだけでなく、返還を受けた“更地になった城地”に元に近い形で新たに石垣を積み直し、教団施設を再建して現在に至っています。

イメージ 15
現状の天守台石垣(wikiより借用)
それらしく再現されていますが、石はすべて昭和の石材で、当時のものではありません


 以上の様に、明智光秀を語るのに、現在の亀山城址はあまり意味を為さないという思いですが、それとは別に、明治維新以降のこの国と国民が人として成熟する過程で、大きな契機を与えてくれた丹波亀山城です。

 こうした産みの苦しみを経ずに、自己の欲得だけを考え、権力者に迎合して暮らしていたなら、今頃は意見が対立する国の製品の不買運動にせっせと勤しむ様な愚かな国民になっていたのでしょうね(^^;
先人の労に感謝すると共に、次代に受け継ぐ大きな教訓としなければ。


イメージ 16
この日の宿泊は道の駅:スプリングスひよしでの車中泊 温泉付きですよ

イメージ 17
お仲間は5台 静かな環境で、熟睡できました


今年の梅雨は長引きますね〜。
日照不足で畑の野菜の生育が芳しくありません。 暑くなってもいいから、早く開けて欲しいものです。
イメージ 18
春にグリーンカーテン用に植えた“スズメウリ”に可愛い実が付き出しました(^^♪
赤くなるのが楽しみです

 次は大坂方面に2kmばかり下って山崎城を訪ねます。
山崎城とは、山城と摂津の国境で、淀川が山に挟まれた地峡を通る狭隘な場所に築かれた山城で、西国街道を見下ろす天王山頂にあって、戦術上極めて有効な城塞として、古来から重視されて来ました。


山城の城  山崎城  京都府  登城日:2019.6.12
イメージ 1

 別名      鳥取尾山城、天王山城、宝寺城
 城郭構造    山城
 天守構造    不明(天守があったらしい)
 築城主     林直弘
 築城年     延元3年(1338以前
 主改修者   細川晴元、豊臣秀吉
 主城主    林直弘、薬師寺国長、細川晴元、豊臣秀吉
 廃年     天12年(1584年)
 遺構      土塁、櫓台、天守台、空堀、井戸、竪掘
 指定文化財   なし
 再建造物    なし
 訪城の観点     秀吉の拠点としての城の姿
 見どころ    山上に遺る土塁遺構
 所在地     京都府乙訓郡大山崎町字大山崎


 山崎城の始まりは南北朝期初期で、北朝方の赤松則祐が男山に籠る南朝勢を牽制する為に、家臣の林直弘に命じて築かせました。
 以後は京に入る西国街道を扼する要衝の要害という事で、応仁の乱をはじめ大きな戦乱が起こる度に重要拠点として争奪戦が繰り返されました。

 しかし何と言っても山崎城を有名にしたのは、織田信長を殺いた明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いです。

イメージ 2

イメージ 3
大山崎町歴史博物館 先輩ブロガーの情報通り、隣の駐車場に入れますが…


 勝竜寺城から山崎城へ向かうは、まずR171出て、まっすぐ南下するのが定石です。
途中の大山崎交差点を右折して一本西の旧西国街道(府道67)へ入り、沿道の“歴史資料館”を目指すのですが、大山崎の交差点は交通量が多いにも関わらず右折レーンが無く、→信号も無いので、交通げにならない右折行為は事実上不可能です。
 仕方なく次の山崎町交差点まで行って旧道に入り、北上するルートを採りました。

 なぜ歴史資料館に拘るかと言えば、事前の情報収集が主目的ではありますが、資料館隣りのパーキングに入れて入館すると、駐車料金1時間分は補助されるという情報を持っていたからです。
しかし結論から言えばこの情報は古新聞で、もうその制度は廃止されたそうです(*_*;

 それはさておき、この資料館、展示物は期待した程の物も無く、無料配布の補助資料の様な物も殆どありません。
最後手段の“聴き取り”を試みても、知識が無いのか、人付き合いが苦手なのか終始面倒臭そうな対応なので、行ってみる価値の高い資料館ではありませんでした。

イメージ 4
荏胡麻油の産地として古くから栄えた山崎には路傍のそこかしこに野仏があります

イメージ 5
宝積寺参道を兼ねた登山道はよく整備されていますが、最初から急坂です

イメージ 6
10分ほどで宝積寺に着きます


 早々に資料館を出て、宝積寺を経由して山崎城址の天王山へと登攀を始めます。
比高250mのこの天王山には登山道が整備されていて、手軽なハイキングコースとして京阪の人達に親しまれている様で、リュックを背負ったハイカーがチラホラ居ます。

イメージ 7
本堂の右手を奥に進むと…

イメージ 8
整備された登山道に入って行きます

イメージ 9
登り口にある看板


 天正10612日、光秀と秀吉の軍勢は山崎北方の小泉川を挟んで布陣します。
光秀は当初、一番狭隘となる天王山と淀川対岸の男山(石清水八幡宮)に兵を入れ、このラインで秀吉軍4万を分散させて有利に決戦する構えでしたが、自軍の兵力が15千しか集まらない中では主力が薄くなる為、高地の要害を棄てて地峡の出口を塞ぐ形で布陣する(正面対決のみ)という苦肉の策を採らざるを得ませんでした。

 一方の秀吉軍は難なく山崎城を押さえ(布陣したのは黒田孝高勢と言われる)、戦況の情報網を構築した上で自身は宝積寺に本陣を構えて、麓の狭い平地には配下の諸将を幾重にも配置して、分厚い攻撃陣形を敷いていました。

イメージ 10
雨で崩れたガレ場も有りますが…

イメージ 11
殆どはこんな階段道 でもこの種の階段は蹴上が高くて意外に疲れます(^^;

イメージ 12
また10分ほど頑張って登ると、休憩できる広場に着きました

イメージ 13
此処は秀吉が立てたという旗立松の広場で、麓の眺望が効くところです 南側の風景ですね

イメージ 14
松の木は代替わりしてました


 戦闘が始まったのは翌13日も夕刻の事で、日没までの2時間の戦闘で明智軍はほぼ壊滅し、夜陰に紛れて丹波や近江へと落ち延びて行くのがやっとでした。
 後世にはこの戦いを引き合いにして、均衡する勢力が雌雄を決する帰趨の知れない戦いを天王山などと言う訳ですが、実際の天王山(山崎)の戦いは、勝敗の結果は知れていた、一方的な戦いだった様ですね。
 この辺りが明智光秀ほどの者が後々の十分な手筈も無く本能寺を攻めたのは“感情的・偶発的な事件”とする根拠なのでしょうね。

イメージ 15
北側の景色 高速道路の辺りが主戦場でした

イメージ 16
広場にある合戦図屏風の壁画 左上に淀古城、その下は勝竜寺城、右奥には石清水八幡宮があって、両軍の布陣が判ります

イメージ 17
こちらは戦いの様子を描いています

イメージ 18
広場の上が少し平地になり、木の伐採がされて拓けています

イメージ 19
これは十七烈士の墓と言い、幕末の蛤御門の変で敗れた長州藩の家老:真木和泉らが自害した場所だそうです


 戦後、秀吉は京に入って明智残党の討滅を指揮した後、627日の清須会議に臨みます。
会議の遺領配分で山城と丹波を得たものの、近江長浜を失った秀吉は、京に近い地での新たな拠点探しを始め、最終的に山崎城を拠点に定めます。

 天王山山頂の古城を大々的に改修し、天守まで建てたと言いますが、さすがに比高250mの山城に住む訳には行かず、これは詰め城として、麓の宝積寺周辺に根小屋となる館と家臣団の城下を形成しました。 
山崎城の別名が宝寺城と言うのは、城郭の主体が麓に整備されたから故なのでしょうね。


イメージ 20
また10分ほど登ると酒解(さかとけ)神社に着きます 養老年間創建の古い神社で、素戔嗚尊を祀ります

イメージ 21

イメージ 31
現地看板より 神社を過ぎるといよいよ山崎城(詰め城)の城域です

イメージ 22
どうも城域全体が私有地らしく、地主さんにとっては史跡買い上げもされず、開発もできず、頭の痛い所ですね(^^; せっかくの檜も伐り方が金にならない玉切りです

イメージ 35
でも切り株は連郭式の縄張りに… 遊び心がありますね(^^;

イメージ 23
ここは主郭の虎口ですが、もう少し整理しないと判りにくいですね

イメージ 24
入り口は入り口石段の跡も確認できますが、だいぶ荒れています


 ではなぜ山城なのかという疑問ですが、当時の秀吉の基盤がまだ万全ではなく、最悪の場合籠城する事態も考えての事なのでしょう。
  次に、山城なら近くに規模も大きい芥川山城や飯盛山城といった堅固な城があるのですが、それを活用しなかったのはまだ自領ではない事に加え、山上の平坦な地形があると思います。
数万の兵で籠る事ができる発展性と、攻め下りるルートの多様さが決め手だったのではないでしょうか。

イメージ 25
門の礎石らしき石もあります

イメージ 26
主郭はこういう山城の本丸では広い部類で、奥の高みが天守台かな?

イメージ 27
眼下の様子も、直下は樹木に遮られて見えません この高さだと戦況が見えても指示を伝えるタイムラグで指揮所としては役に立ちませんね

イメージ 28
天守台の礎石痕 何らかの建物が有った証拠

イメージ 29
石垣の積み石か? 集積されていました

イメージ 30
主郭の南の郭 兵力を集められるまとまった広さがあります

 ともかく、翌天正11年春の伊勢、美濃進攻と賤ケ岳への出陣は、この山崎城から行なわれました。
 賤ケ岳に柴田勝家を破った秀吉は、すぐに論功行賞と大名の再配置を行ない、摂津大坂を領していた池田恒興を美濃大垣に移し、大坂石山本願寺跡地に新城:大坂城の築城を始めます。
そしてその年の暮れには山崎から大坂に本拠を移し、天下取りの仕上げへと邁進して行くのです。
山崎は廃城となって翌天正123月までには跡形も無く廃棄されました。

イメージ 32
山上にあった野仏群 最近まで供養されていた様なんですが…

イメージ 33
麓に戻って宝積寺。秀吉の居館があった根小屋の地域です

イメージ 34
立体地図で見ると、居館を中心に郭塁が積み重なっていた様子が手に取る様に判ります


次は初日の最後の城、時間も押していますが、丹波亀山城を訪ねます。
 淀古城から北西に2km、桂川と支流の小畑川を渡った目と鼻の先にあるのが勝竜寺城址です。
戦国中期の京をめぐる争いの中で、その入り口にあるこの城は、京を護る、または京を窺う上での重要な拠点として歴史の舞台に登場します。

山城の城  勝竜寺城  京都府 登城日:2019.6.12

イメージ 1

 別名     小竜寺
 城郭構造     梯郭式平城
 天守構造     あり(詳細不明)
 築城主    細川頼春
 築城年    延元4年(1339
 主改修者    細川孝、明智光秀
 主城    細川氏、永井氏他
 廃年    慶安2年(1649
 残存遺構     土塁、空堀、石垣、土橋
 指定文化財    なし
 再建造物     模擬石垣・櫓
 訪城の観点    細川藤孝の城づくり
 見どころ   広範な残存土塁遺構
 所在地    京都府長岡京市東神足2丁目

 現在の勝竜寺城址は本丸周辺が城址公園として整備され、模擬の櫓や門、土塀が復元されていて、中世の平城らしい雰囲気が再現されています。
 公園には珍しく無料の駐車場もあり、この地域の城址としてはとても質の高い整備が為された城址ではないかと思います。
しかし、本丸だけとはいえ城域はわずか100m四方ほどのエリアに留まり、知名度の割には小ぶりな、城と言うよりは中世の大名居館の体なのはちょっと意外な感じがします。

イメージ 2

イメージ 3
案内看板より 城縄張り  公園整備は本丸と沼田丸で、他は完全に市街化されています
*下が北になっています

イメージ 4
公園には無料のパーキングがありました。 京阪神では珍しい事です(^^;  手前の井戸は城遺構を復活させたもので、『ガラシャおもかげ水』と命名されています。 飲めるみたいですよ


 勝竜寺城は南北朝騒乱の時に、南朝方の京都奪還を警戒した北朝方の細川頼春が築造したのが始まりと言われています。
 頼春はこの地に大城郭を築き、万余の大軍を常駐させて攻城戦に備えたのかと言うとそうではなく、あくまでも古式の作法に則って、互いに平地に陣を張って対峙し、日和と刻限を選んで一斉に合戦に及ぶという戦い方を前提とした“戦闘指揮所”の様な城を意識しての築城だったんではないかと思います。

イメージ 5
本丸には模擬ですが、復元建物がたくさん建っており、素人目にも当時の雰囲気を味わえます この建物は公園管理棟。

イメージ 6
大手口 石垣で枡形を造り、左折れで四脚門があります 実際こうだったみたいですね。
細川の城ですが、幟は光秀・ガラシャ父娘のが…

イメージ 7
大手門前の堀は約3mと狭く、走り幅跳びで余裕で跳べます(^^;  道路を造るのに削られたのでしょうね


 永禄11年(1568、将軍足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、5万の大軍をもって洛南から摂津の三好三人衆の城塞群を攻めます。
勝竜寺城には三好家きっての勇将:岩成友通が居て、果敢に戦いますが、防戦2日目には堪らず城を棄てて逃走しました。
 他の諸城はというと、すでに近江において昨日までの強敵だった六角氏のあっけない敗退が伝わっており、大した防戦もないまま城を退去して信長軍に明け渡したそうです。

イメージ 8
東側の堀は10mはありそうで、これが正規の幅なんでしょうね いかにも在りそうな隅櫓が良い雰囲気をだしています。

イメージ 9
土塁に鉢巻き腰巻き石垣の構造 腰巻きは土留めに有り得ますが、鉢巻きは多聞を建てる為の少し後の技術ですから、土塀じゃ意味ないですね

イメージ 10

案内看板より 本丸復元と総構え全容  え? 細川の城でしょ? と思うかも知れませんが、当時は1万石有ったかどうかの身代ですから、こんなもんかも。 居住屋敷(御殿)は洩れていますね


 織田方の城となった勝竜寺城には、幕臣で義昭の側近の細川藤孝が入り居城としました。
藤孝は信長の許可を得て、ほぼ単郭の居館然としていた城の大々的な改修をします。
 まず城の周囲を二重の堀で囲み、多くの兵が籠城できる“戦える城”へと変貌させました。
本丸周辺も強化が図られ、大手、搦手門は石垣を多用した枡形門とし、南西隅の物見台には天守が建ったといいますが、詳細は判っていません。

イメージ 11
内部に入りました 庭園の復元は中途半端ですが、細川の城らしく、防備よりも力を入れてたかも…

イメージ 12
土塁上には全面に土塀が設えてあり、水色桔梗がなびいています。 この“麒麟がくる旗”、このあと丹波、丹後でも嫌というほど見る事になります。『是非も無し…』(^^;

イメージ 13
土塀の外側は下見板張りで、念の入った仕様です


 藤孝の意志として、信長に掃討して追い払ってもらった三好勢を、今後は自らが勝竜寺に陣取って室町幕府を守り抜く決意を示した…と思いたいのですが、義昭と信長の仲が上手く行かなくなった折に、 義昭の不穏な行動を逐一信長に報告していたのは藤孝だったと言いますから、なかなかの食わせ者です(^^;
 幕臣として義昭を擁立して行動を共にする中で、義昭と信長の歴然とした差を見るにつけ、室町幕府体制の無理を見極めていたのではないでしょうか?

 以後、藤孝は信長の一部将として畿内各地を転戦し、次いでは明智光秀の与力として丹波攻略に参戦して行きます。
その頃に、信長に薦められて嫡男:忠興に光秀の三女:玉子娶りました。天正6年(1578)の事です。
祝言この勝竜寺城で行なわれ、同時に新居となった訳ですが、2年間ほど此処で暮らした事になりますね。

イメージ 14
城内にある細川忠興・ガラシャ像 15歳で嫁ぎ3男2女を設けたそうですから、夫婦仲は良かった様ですね

イメージ 16
百合を持つガラシャ像は良く見る画像がモチーフでしょうが、この城の時代を反映して十字架が省かれています

イメージ 15
天守があったという櫓台から見る大手前の通り 『ガラシャ通り』だそうで、毎年行列イベントがあります


 天正81580)、光秀と藤孝は丹後の攻略に成功し、細川家は恩賞として宮津の城と丹後半国(6万石程度)を与えられて移ります。
 代わって勝竜寺城を支配したのは京都所司代だった村井貞勝で、家臣を城代に置いていましたが、101582)、本能寺の変が起こると貞勝も二条館で信忠と共に非業の最期を遂げてしまいます。

 変の直後は朝廷工作と近江平定の傍ら味方勧誘に多忙な光秀でしたが、中国筋から羽柴秀吉の軍が猛烈な勢いで東上しているのを知ると、京に戻って迎撃態勢を整えます。
 地形が狭隘な山崎を決戦の地と踏んだ光秀は、勝竜寺城に入って此処を本陣にしました。 遂に麒麟がやって来ましたね(^^)

イメージ 17
城内北端の郭:神足屋敷跡に土塁が遺っているそうなので行って見ます。 道路が削り取った断面がタイルで再現されていますが、何層にも積み重なっていますね

イメージ 18
肝心の土塁はと言うと、歩道を造って見学しやすくなっていますが、年に三回は草刈りしないと、こうなってしまいます(*_*;

イメージ 19
城外である左側が高いので、土を掻きあげて高さを稼いでいますね  左手奥には神足神社があって、その名前からスポーツ選手の参拝も多いそうです


 此処で光秀は与力の筒井順慶の兵6千の来援を待ちますが、一向に来る気配がありません。 細川藤の兵力は千2百程度なので、残念さほどに影響は大きくありませんが、筒井が来ないのは困ります。
 やむなく単独での決戦を決めた光秀は、1km南の小泉川河畔まで出て布陣し、自身はその後方の恵解山古墳の高台で指揮を執りました。

 光秀軍1万6千と秀吉軍4万は2日間の睨み合いの後に開戦しますが、2時間ほどで主力の斎藤利三隊が崩れると総崩れとなり、敗走を始めます。
 一旦勝竜寺城に退いた光秀も、一息つく間もなく近江坂本での再起を期して勝竜寺城を後にしますが、その夜半に伏見の小栗栖で土民の襲撃に遭い、敢無い最期を遂げました。

イメージ 20
城内搦手門脇には墓石が集められていました。 山崎の戦の戦没者の物でしょうか?

イメージ 21
これは 我が家の庭に咲く桔梗です(^^)


 その後の勝竜寺城に主は居なく、秀吉による淀古城修復に資材が大量に持ち去られるなど、荒れるに任せていましたが、江戸初期の寛永10年(1633)から10年余り、永井直清が2万石で長岡藩主となり、勝竜寺城に居住します。
 しかし、城の修築は許されず、城内北側の一郭に陣屋を建てての陣屋大名という条件付きでした。 その直清も高槻に転封になって去ると、勝竜寺城は正式に廃城となります。
ですから、最後の城主は明智光秀だったという解釈はアリかも知れません。


 麒麟が去った勝竜寺(長岡京市)と隣の山崎は、今ではサントリーの工場が建ち並ぶ一大拠点となっていますがそれは関係ないか(^^;

京洛への表玄関 淀城

 続いては伏見城の残材で建てられたという淀城を訪ねます。
築城した元和9年(1623年)8月、淀城に入ったのは松平定綱(久松家)で、遠江掛川から35千石での移封でした。

そう書くと、淀城自体が小規模で大した城ではない感じに聞こえてしまうかも知れませんが、 思ったより随分と大規模で豪華な城だった様です。


山城の城  淀城  京都府  登城日:2019.6.12 
イメージ 1

 別名     てん城、新淀城
 城郭構造   梯郭式平城
 天守構造   連立式望楼型55階地下1階(二条城からの移築:非現存)
 築城主    松平定綱
 築城年    元和9年(1623年)
 主な改修者    永井尚政
 主な城主   久松松平氏、石川氏、稲葉氏他
 廃城年    明治4年(1871年)
 遺構     石垣、堀、天守台、本丸跡、二の丸跡等
 指定文化財    なし
 訪城の観点      規模感と果たした機能
 見どころ   そのまま遺る大きな天守台
 所在地    京都市伏見区淀本町167

 二代将軍:徳川秀忠は伏見城を廃城するにあたり、“淀の津”に新城を築城し、“淀藩”を設立して譜代大名を置き、この地を治めさせました。
淀の津は淀川が木津川、桂川、そして宇治川と枝分かれする分岐点にある湊町でした。

イメージ 3
市街化に埋もれた淀城に行く目印は京都競馬場。 京阪淀駅前にあります。 

イメージ 2
淀城址に登城者用の駐車場はなく、神社脇のコインパーキングに停めるしかありません。 かないまへんなぁ(*_*;

イメージ 4
残存遺構は本丸と内堀が城址公園になり、二ノ丸には神社が建っています。


 上流に琵琶湖という巨大なダム湖を持つ淀川は水量が安定しています。
ここまで舟で遡上して来た人や物資は、淀の津で陸に上がり、この先は陸路で京・丹波、近江、大和・伊賀へと向かって行った訳ですね。
 つまり、京都守護の重要な戦略拠点であり、物流の国内最大級のHUB拠点だったのが当時の淀の津だったのです。

 淀城を整備した松平定綱は10年の在城の後、美濃大垣6万石に加増転封になり、代わって下総古河藩89千石から永井尚政が10万石で入ります。
淀城の外郭の武家屋敷や町人町、堤防、湊などが整備されたのは主にこの尚政の35年間の治世によるもので、地元にとっては最大の功労者かも知れません。

イメージ 5
ガラス越しで見にくいですが、江戸時代の縄張り図 淀川の分岐点を抑える水城で、堀が多用されています。 内堀、中堀は淀川の水位より高かったので、大きな水車を設置して水を汲み上げて注入してたそうです。
城内には大天守の他38基の櫓と21棟の門がありましたから、ほぼ豊前小倉城に匹敵する規模(*_*;

イメージ 6
城址内でよく整備されているのは與杼(よど)神社で、二ノ丸跡の大部分を占めています。 これは奈良時代から有った淀大明神を永井尚政が城内に祀ったもので、この拝殿は1649年製の重文です

イメージ 7
本丸には稲葉氏を祀った稲葉神社もありますが、こちらは荒れています

イメージ 8
本丸は天守台と周囲の石塁がほぼ完全に残っていますが、天守台の大きさが目立ちます

イメージ 9
ず天守台に登ろうとしますが、付け櫓の石段は閉鎖されています。 近付くと巣があるのか頭上でカラスが大騒ぎしています(^^; あまり訪れる人が居ないんでしょうね

イメージ 10
南側の雁木から多聞跡に登って近付きます 天守台のデカさが判りますね
伏見城天守を移築する為に積んだ天守台は二条城天守に変更されたのでデカ過ぎ、余白となった四隅に変形二重櫓を付けた異形の天守でした


 永井家は尚政の子の尚征の時に丹後宮津藩73千石に移封になり、以後は石川家3代、戸田松平家2代、大給松平家1代と替わって行きますが、いずれも6万石での在任でした。
 享保年(1723)、下総佐倉藩から稲葉政知が102千石で入ると、以後は稲葉家が12代続いて明治維新を迎えます。

 山城国唯一の大名で、10万石超の大藩の稲葉家で、京の表玄関の守護は万全に見えましたが、それまでに処世術で戦国の世を生き抜き、転々とした稲葉家の領地は全国に細かく分散していて、財政は火の車でした。
 その上譜代大名としての幕閣の務めも有って藩主は江戸詰めが多く、おのずと藩政は有能な家老に任せる事態が慣習として代々続き、それが幕末の悲劇を生んでしまいます。

イメージ 11
天守台内部も施錠されて入れませんが、半地下構造になっています

イメージ 12
水堀は天守台を囲む様にL字型に残っています。

イメージ 13
そのすぐ脇を京阪電車が走っていて、淀駅があるので開発は急ピッチで進みました。 もう少し離す事は出来なかったものか…。

イメージ 14
本丸南西隅の櫓台 三ノ丸へ出る搦手口です

イメージ 15
そこ(土橋)から見る堀と石垣の様子が一番古城らしさを醸しています。

イメージ 16
積み石が置かれて看板が立っていますが、石の説明文ではない様ですね
通り掛りの老人と話したら『昔はきれいな蓮と菖蒲の池だったのに、外来の魚と亀に荒らされてこのザマだ…』と嘆いていました。


 最期の藩主:稲葉正邦は陸奥二本松藩丹羽家からの養子で、その聡明さゆえに稲葉家初の老中にまで昇進しますが、藩政の実権を握る筆頭家老の田辺権大夫とは確執を深めてしまいます。
 そして迎えた鳥羽伏見の戦い。
伏見で敗れた幕府軍は一旦淀城に入っての態勢の立て直しを図りますが、城を預かる田辺権大夫は門を固く閉じ、威嚇射撃をして入城を拒否しました。
幕府軍の首脳の(留守城の)裏切りは消極参戦の諸藩の寝返りも呼び、混乱の極に達した幕府軍は、雪崩を打って大坂城へと敗走し、これで幕府の瓦解は決定的となってしまいました。
 普通の外様藩なら結果的に惨劇を避けた賢明な措置…という見方もできますが、藩主の立場を勘案すれば、武士の本分を棄てた後味の悪い終わり方ですね。

イメージ 17
本丸には付近の開発で撤去された石碑が集まっています



【忘れられた淀古城
 淀城といえば、秀吉の側室の茶々が長男の鶴松を産む際に産所として建てられた城ではないのか?』…という声がありそうですね。
 その淀城は別物で現在は“淀古城”という名を与えられており、淀城の北の外れに僅かながらその痕跡が遺っているそうなので、訪れてみます。

イメージ 18
旧京阪国道を北上した妙教寺の辺りが城址という事前情報で近くまで行きますが、甍は見えるものの行き止まりです(*_*;

イメージ 19
仕方なく半分戻って、路地に入り西側からアプローチします
淀城址にもあった唐人雁木跡の碑 唐人とは朝鮮使節の事で、淀に上陸してから陸路江戸に向かった様です

 そもそも淀の地に城が置かれたのは室町中期の事で、管領:細川正元の勢力下に築かれたのが始まりだそうです。
その後は細川→三好→松永→三好と勢力図の変化に応じて城主が代わりますが、その都度激しい争奪が繰り広げられた城でした。

 永禄11年(1568)に織田信長が上洛すると淀古城も攻め落とされ、その後は近隣の勝竜寺城を拠点とした細川藤孝の管理下に置かれた様ですね。
 本能寺の変の後、明智光秀は東上して来る羽柴秀吉を迎え撃つべく、淀古城と勝竜寺城を改修して備えたと言われます。
しかし、実戦(山崎の戦い)は桂川西岸の一帯で行なわれた為、淀古城での大きな攻防はありませんでした。

イメージ 20
路地を小さな川が横切っています その護岸の造り方から見て、これは淀古城の堀跡ではないでしょうか?

イメージ 21
桂川に合流する方面 こりゃ絶対堀跡だ

イメージ 26
桂川の堤防からは山崎方面の天王山が間近に迫ります


 秀吉の天下になると、秀吉は弟:秀長に命じて淀古城を大々的に改修させました。
これは側室:茶々の懐妊〜出産に合わせての改修であり、大坂城と京(聚楽第)を行き来する秀吉の行動範囲に母子を置きたいとの思いからだと思いますが、鶴松を産んだ茶々は以後は“淀の方”と呼ばれ、鶴松が3歳で病死するまで淀古城に居住していました。

 淀の方が淀古城を去ると、城は豊臣秀次の管理下に置かれ、家老の木村重茲が城主になっていましたが、秀次事件に連座して自害すると廃城になり、資材は悉く運び出されて伏見城(指月城)築城に使われたと言います。

イメージ 22
さらに進むと妙教寺の入り口がありました

イメージ 23
妙教寺は法華宗の寺院で、1626年に淀古城跡地に建立されました

イメージ 24
その庭にある“淀古城址”の石碑のみが城の存在を証明しています

イメージ 25
併記してある“戊辰役砲弾貫通跡”とは、鳥羽伏見の戦いで戦場となった折り、新政府軍の砲弾が本堂の壁を貫通したもので、その孔は修復せずに、カバーを掛けて保存されています


 淀古城がどんな縄張りで、どんな建物があったか、資料が無くてまったく不明な訳ですが、秀吉が愛妾と唯一の嫡子を住まわせ、頻繁に通った城ですから、相応の防備を備え警備兵も沢山常駐できる城であり、尚且つ御殿機能が充実した城であった事は疑いありませんね。
 ひとつの手掛かりとして、木村重茲は維持管理費を含め18万石で遇されていたと言いますから、それに相応しい威容を誇ったのでしょう。

全97ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事