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★今までの論旨
「信仰」と「宗教」は 異なるものであり、「信仰」と「信心」も 同義ではない。
むしろ「信心」は「宗教」に属する。
これが『層の論理』の 根本的主張であり、「層理論の二面性」が 「信仰」と「宗教」の違いを
明確にしてくれるのである。
すでに 述べたように、「層(そう)=Schicht(シヒト)=layer(レイヤー)」である。
「層」とは (地層) (階層)のように表現され、下部から上部へと 積もり重なったものを言う。
「層」には この「連続的な重なり」の他に、「レイヤー」と言われる 現代的な意味も含まれている。
「レイヤー」とは 今日的な意味で、「画像編集ソフト」に 用いられる言葉である。
「層」の意味するところが このように「二面性」を持っている…とするのが、『層の論理』の
二つ目のポイントである。
すなわち、「高層ビル」を例にとると わかりやすい。
ビルが 「連続的階層」を 表しているのに対し、「レイヤー」は その連続性が 「透明化」されていて
必ずしも「階層」を成さないことを 指摘している。
そして、「層」の この「連続的階層」と「透明的階層」の二重構造が まさしく「宗教」と「信仰」の謎を解く 新理論へと われわれを 進ませるのである。
結論的に言うならば、「宗教」は 「層」の第一義、「連続的階層」に属し、
「信仰」は 「層」の第二義、「透明的階層」に属することである。
★『層の論理』の聖書的意義
一般的に 宗教は、それぞれに 礼拝の対象となる 「神」を持っている。
像として 可視的に 刻まれたもの、絵画的に表現されたもの、文字として 書き表されたもの、
あるいは、目視できない 「教え」そのものを 「神」とするものがある。
いずれも、哲学が 到達していない 「真理」を 有しているのが 「宗教」の特徴である。
そして、そのいずれもが 「救い」を語り、神のイメージや真理を 階層的に 対照としている。
聖書に限って言うならば、「信仰」と「信心」を 明確に分けるものが これである。
[・・・『主よ、主よ』 と言う者が、みな天国に はいるのではなく、ただ、天にいます わが父の御旨を
行う者だけが、はいるのである・・・] (マタイによる福音書 7章21節)
また、こう言われている。キリストが 栄光の王座につき、世界をさばく時の 描写である。
[・・・すべての国民を その前に集めて、羊飼が 羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、
やぎを左に おくであろう。そのとき、王は 右にいる人々に 言うであろう、
『わたしの父に 祝福された人たちよ、さあ、世の初めから あなたがたのために用意されている御国を
受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、
旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気であったときに見舞い、獄にいたときに
尋ねてくれたからである』。・・・] (マタイによる福音書 第25章32−36節)
『右に分けられた羊たち』 とは キリストにしている意識のないままに、隣人に 手を差し伸べてきた
人々である。しかし、キリストは その隣人愛を、「わたしにしてくれた」と 言うのである。
ここに、「信心の人」と 「信仰の人」の 違いが、明確に 語られているのである。
神を 礼拝の対象物としている「宗教」は、行為さえ、その神の前に 意識して行う。
「主よ、主よ」 と 対象する神に 祈り 行う。すべては 「連続的階層的」である。
そして、彼らは キリストと 出会わない。 その「行為」は 人に見せた時点で 収束する。
しかし、「信仰の人」 たちの 「行為」 は、キリストを意識して 行われない。
この 神を意識しない 「無なる行為」・・・すなわち、「無なる神」への 「無なる行為」が
「信仰の人」 の 特徴なのである。
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