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★『見える世界と見えない世界』
若いころ、毎日を 「生きる」 を キーワードにして あせっていた。
自信はあったが、何かしら 「生き生きしていない日々」 に むなしさを感じていた。
「生きる・・・」 という活字を見ると 敏感に反応し、その本を 読みあさっていた。
ハタチの愛読書が アウグスチヌスの 「死の準備」 だったころである。
図書館の すべての本を 読み終えて、ひとつ 悟ったことがあった。
どの「本」も 「生き方」 を 説いてはいるが、それが どうすれば 手に入り、
どうすると 生き生き過ごせるのか、その「方法」を 示せないでいた。
それらは どれも、私にとっては 「絵に描いたモチ」で、飢えた心は いつまでたっても
満たされないまま、放置されていたのである。
結論を言うと、私は あれほど熱心に続けていた 「読書」をやめた。そして、自分の心に響く
言葉のみを、求めるようになっていくのである。
★ いくつかの「聖書」の言葉が、私の心に 響いてきた。
『主なる神は 土のちりで 人を造り、命の息を その鼻に 吹きいれられた。
すると 人は 生きた者と なった』 (創世記 2:7)
大げさに言うと 「本」は 「目に見える世界」 に属している。
「目に見える世界」に むなしさを感じ、生き生きとした日々を 探していたが、私は そこで
「目に見えない世界」 の 存在を 感じ始めていた…と 言えるだろう。すなわち、こういうことである。
「見える世界」 は、「見えない世界」 に 支えられて 成立している・・・という真理(まこと)である。
さらに 言うならば、「下位の思想は、より上位の思想によって 支えられて 成り立つ」 ことである。
すなわち、この世界のなにものを 用いても、リアリティー豊かな生き方は できないのである。
「見えない世界」 が 「見える世界」 の リアリティーを 支えている!
この発見は、私の視点を 「目に見えない世界」 に向けるのに、十分な 衝撃だった。
★ 「見える世界」 と 「見えない世界」 は 別存在として 無関係ではなく、互いに かかわりあって
存在している。 「見える世界」 は 「見えない世界」 から生まれ、しばらく生きて 「見えない世界」に
還っていく。そして、その「いとなみ」 は、私たちの からだの中で 日々、実行されているのである。
すなわち、「破骨細胞」 が 文字通り 骨を破壊し、そこに 「造骨細胞」 が 新しい骨を造ることで
人は成長しているのである。
★ ここに 『層の論理』 の 展開がある。
「層」 の意味には 「二面性」 があることは、すでに論じた。
「歴史のレイヤー」 を さかのぼって チェックしていくと、突然 「人間」の歴史が 見えなくなる。
人類誕生以前の昔に 入ったからである。
事を 「人類」 まで 広げる必要はない。 「私」 を 例にとると、ある「レイヤー」 に 至るまで、
私は 「見える世界」 に 登場しない。
受胎のその日、誕生の年月日の「レイヤー」 に至って 初めて 登場してくるのである。
私は 生まれ育っていくが、それは 「層」 の 「連続的階層」 を たどることである。そして、
やがて 「見える世界」 から 消えていく。その翌日の「レイヤー」 に 私は もう 登場しない。
「見える世界」 から 「見えない世界」 に 移ったからである。
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