『生きる実力養成講座:「信」のセミナリオ』

◆『春のいぶき』を感じるように、輝く言葉に出会いたい

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   「層」には その意味に 「二面性」 がある。それを説いてきた。
 
   そして、この「層の二面性」が、「宗教」と「信仰」を みごとに説明する
  キーワードになっているのである。「層の論理」では、「信心」と「信仰」を 
  異質なものとして 取り上げているが、それを 解き明かすのも この
  「二面性」である。
 
   「信心」は 「宗教」に属し、「信仰」には至らない。それは、「宗教」が
  人間に属するもので、対象的に「神々」を設置し、「層理論」の第一義、
  「段階的階層的」に 「神々」を 規定しているからである。
 
   それを明らかにする記録が、旧約聖書にある。
 
   『だれが神を造り、役にも立たない偶像を鋳たか。
 
    木の細工人は、それを人の形に造り、安置する。
 
    彼は、木を選んで育て,その一部をたきぎとし、パンを焼き、
    肉をあぶって食べ、身を暖め、その余りをもって神を造って偶像とし、
       その前にひれ伏して拝み、これに祈って、
 
    「あなたはわが神だ、わたしを救え」
 
       と言う。・・・』 (イザヤ書44:10〜17)
 
   人間に属する材料を使い、人間が造る「神々」は、
  どんなに清め、聖別しても、人間に属するのは当然である。
 
   それにもかかわらず、その「神々」を人々の前に安置し、「段階的階層」を
  定めて 権威のピラミッドを構築する。信者を集め、寄進やお布施(献金)で
  「教団」を経営する。
 
   もちろん、この世界の法律で守られているゆえに、その始まりが何であれ、
  「宗教」には 合法性がある。その活動も、違法ではない。社会的に認められて
  当然の存在である。
 
   しかし、それらは 「宗教」とは 呼びうるが、「信仰」ではない。「信仰」は
  神に属することであるゆえに、人間が造り出し、人間が定めたものは、
  「信心」ではあるが、「信仰」ではない・・・と 「層の論理」は主張する。
 
   では、「信仰」とは 何か。それは このように 規定できる。
 
   『信仰は 告白から始まる』 と。・・・「告白」とは 何か。
 
   「告白する」 とは [ομολογω](ギリシャ語)
 
  もともと 「同じ心になって 同じ言葉を語る」ことをいう。
 
    これは「信じるか」と尋ねられて、ただ 「はい」 と答えるような
  「宗教」の儀式ではない。  
 
    その人が信の世界に達して、そこで見たものの「告白」。
  信の世界を 自分の言葉で言い表した 「悟り」を言語化する行為である。
 
   信仰は 「信」の世界を 見たことの証として 始まる。そして、
  「信仰に始まり、信仰に至る」。彼らは常に「信仰に生きる者」となるのである。
 
   「信」に生きる者は、ふしぎな力によって 「信」を育てる。目には見えないが
  多くのエネルギーが 暗黒の宇宙を越えて、地球に届くように、お言葉に
  秘められた「神のいのち」を いただく。
 
    聖書のお言葉を用いて 示すならば、
 
   『わたしは道であり、真理であり、命である』 (ヨハネによる福音書14:6)。
 
   「信仰」は 「告白」に始まり、愛の発見と 愛を示す 具体的な行為に表れ、
  信じる者に 無なる者としての「神」を 体感させるのである。
 

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