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★『命に至る道の発見』
金持ちの青年議員が求めたもの・・・それは「永遠の命」。
もちろん、それは、不老不死ではなく、先々の長寿でもなく、
「今! 現在の! 充実感あふれる日々」のことだった。
イエスの言葉は単純である。宗教の教えや戒めを、小さいころから
守ってきても、退屈で、むなしく、不安ならば、命に出会う方法を
あなたに教えよう。
「すべてを捨てて、貧しい人々にあげて、わたしに従ってきなさい」と。
この言葉にショックを受け、青年議員は悲しみながら帰っていった。
「全財産を売り払う」という行為は、すべてを失うと「命」だけが残る
という、まさに彼が求めたものの答えだった。最上階のトップのトップ、
スイートルームに住む彼には、不可能と思われたのである。
イエスはあの「最後の晩餐」の席で、こう言った、
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
だれも父のもとに行くことができない」と。
これを「1・2・3・4・5・・・」に置き換えると、
「道→真理→命→父である神」
となる。くわしく言うと
「道しるべ→まこと→命→告白→父である神」となる。
宗教の教えや心動かす言葉に、自分を支え導いてくれる「道」
と感じ、夢中になることはあるだろう。そして、あらゆる宗教は、
われこそは「真理」をもつ集団であると豪語する。
しかし、そんなすばらしい宗教の中に、先祖代々、自分も幼いころから
守り従ってきた青年議員は、それでも、退屈や不安やむなしさやからは
救われないままに、宗教のメンバーを続けていたのである。
イエスの使徒となったパウロが、こう言っている、
「神の言葉は・・・信仰に始まり、信仰に至らせる」と。
すなわち、「信仰」は(…笑うな!)「金太郎あめ」である。どこを切っても
金太郎の顔が出てくるあめのように、「信仰の言葉」は、どこをとっても
命にあふれ、即、神に至る言葉なのである。
「真理を持っている」と言い切る宗教に属していても、『真理とはこれだ』
という説明は受けても、それを自分の内に獲得し、一体となるようには
教えられなかった。
それが、青年議員が求めても得られなかった「永遠の命」だったのである。
だから「真理」という用語を、もうひとつの意味、「まこと」と置き換えた。
「みちしるべ」に従って進むと、「まこと」に出会う。感動する! 何かが
見えたように感じる。教えや言葉、人生のあらゆるところに、「まこと」が
見え出すのである。
目覚めてみると、そこは、脈々と命が滾(たぎ)る世界!
そのときその人は、「命」を見るのである。
だから、多くの神の人たちがそうしたように、自分が見たものを告げる。
それはくしくも、先人達が口にしたのと同じ悟り。それが、「信仰の告白」の
意味である。
自分の見たものを、その悟りを、彼らと同じ言葉で語るのが「告白」。
尋ねられて、ただ、「はい」と言うだけの、宗教儀式の言葉ではない。
その「告白」はその人を「信仰」世界にいざない、その人は神を見る。
そして、「道・まこと・命」が渾然一体(こんぜんいったい)となった
「信」の世界に生きる人となるのである。
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