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★『命の滾りを発見し、命ほとばしる人生に生きよ』
聖書は「キリスト」すなわち「命」に出会うための書物である。
しかし、それを、「道→真理・・・」の段階で中断させ、「命」に至らないままで
活動している宗教の、なんと多いことか。いや、世界の法に守られた「宗教」
だから、それでいいのだけれど。
イエスの時代、宗教家達は、自分の信心の立派さを、だれかに見られたくて
必死だったという。けれども、その「見栄」(みえ)、虚栄心に生きる態度は
イエスに厳しくいましめられている。
「聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と。
宗教家にとって、この痛烈な批判は、イエスに殺意をいだかせるに
十分だった。言ってはいけない言葉を、イエスは宗教家達、国の
リーダーたちに言ってしまったのである。
それが、歴史上の十字架刑の理由である。
さあ、「層の論理」のポイントの大半は語られた。
「1・2・3・4・5・・・」の「段階的連続性」の内で、神々を階層的に
対象物として安置していては、信心はもてるが、「信仰」には至らない。
「道を進み、人生やものごとのまことに出会う。そしてついには命に至る」。
この「命」の発見、「命との出会い」が、おのずと「告白」を導き出すのである。
神を信じる者はすべての言葉に「人生のまこと」を見いだし、そこに脈々と
たぎる「命」を見いだそう。その「命のたぎり」は、あなたの内で
「命のほとばしり」
となって、あなたを生き生きとさせるだろう。
復活したイエスは、エルサレムのオリブと呼ばれた山から、天に
お帰りになったという。しかし、弟子たちの前で、急に雲に囲まれ
見えなくなったというのが、真相のようである。
彼らには、「天に上った」としか表現できなかったようだ。
「復活」などというものが信じられないのは、「1・2・3・4・5・・・」の
常識的世界に住む人には当然のことであろう。そして、また、最上階の
さらに上なる「屋上の間」に、神を祭ったとしても、そこにあるのは
人間が造ったむなしいものでしかない。
人は、「段階的連続性の層」にいるかぎり、真の神を見ることはできない。
しかし、『神の救いのご計画の中心』では、奇跡はあって当然、ないほうが
異常なのだ。
これは、「レイヤー」の理論に立ってこそ、理解できる世界である。
神はレイヤーを超え、自由に行き来されている。
むずかし言い方をすると、「無なる神」が、レイヤーを透過して、
「有なる世界」に顕われるのである。
人間は、それを透過できない。
しかし「信」に目覚めたとき、それは可能になる。
この世界は「見える世界」であるかもしれないが、神の世界と「レイヤー」
一枚で「層」となっている。
あなたの足もとが透き通り、そこが、「神の救いのご計画の中心」になる!
それは、明日かもしれない。
聖書には、まことの神などいないと思い込んでいた人が、たくさんいる。
「神の救いのご計画の中心」にいなかったのであるから、そう思うのは
当然だった。
しかし、自分のいる場所が、神の世界とリンクしていた! と発見した人も
いるのである。
ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデ、ザカリヤ、エリサベツ、
マリア、ヨセフ、パウロ・・・名前をあげればきりがない。
彼らは皆、瞬時にして、自分のいる「レイヤー」が透き通り、そこに
神の顕現(けんげん)を見た。
「信」はこうして始まる。聖書は、特に新約聖書は、そんな人が次々生まれる
新しい時代がきたことを告げている書物なのである。
「層」には「二面性」がある。ひとつは「1・2・3・4・5・・・」の世界。
もうひとつは「非1・2・3・4・5・・・」の世界である。
あなたの住む世界と神の世界は、わずかに「レイヤー1枚」。
あなたは気づかずに、神の世界と重なりながら生きているのである。
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★『命に至る道の発見』
金持ちの青年議員が求めたもの・・・それは「永遠の命」。
もちろん、それは、不老不死ではなく、先々の長寿でもなく、
「今! 現在の! 充実感あふれる日々」のことだった。
イエスの言葉は単純である。宗教の教えや戒めを、小さいころから
守ってきても、退屈で、むなしく、不安ならば、命に出会う方法を
あなたに教えよう。
「すべてを捨てて、貧しい人々にあげて、わたしに従ってきなさい」と。
この言葉にショックを受け、青年議員は悲しみながら帰っていった。
「全財産を売り払う」という行為は、すべてを失うと「命」だけが残る
という、まさに彼が求めたものの答えだった。最上階のトップのトップ、
スイートルームに住む彼には、不可能と思われたのである。
イエスはあの「最後の晩餐」の席で、こう言った、
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
だれも父のもとに行くことができない」と。
これを「1・2・3・4・5・・・」に置き換えると、
「道→真理→命→父である神」
となる。くわしく言うと
「道しるべ→まこと→命→告白→父である神」となる。
宗教の教えや心動かす言葉に、自分を支え導いてくれる「道」
と感じ、夢中になることはあるだろう。そして、あらゆる宗教は、
われこそは「真理」をもつ集団であると豪語する。
しかし、そんなすばらしい宗教の中に、先祖代々、自分も幼いころから
守り従ってきた青年議員は、それでも、退屈や不安やむなしさやからは
救われないままに、宗教のメンバーを続けていたのである。
イエスの使徒となったパウロが、こう言っている、
「神の言葉は・・・信仰に始まり、信仰に至らせる」と。
すなわち、「信仰」は(…笑うな!)「金太郎あめ」である。どこを切っても
金太郎の顔が出てくるあめのように、「信仰の言葉」は、どこをとっても
命にあふれ、即、神に至る言葉なのである。
「真理を持っている」と言い切る宗教に属していても、『真理とはこれだ』
という説明は受けても、それを自分の内に獲得し、一体となるようには
教えられなかった。
それが、青年議員が求めても得られなかった「永遠の命」だったのである。
だから「真理」という用語を、もうひとつの意味、「まこと」と置き換えた。
「みちしるべ」に従って進むと、「まこと」に出会う。感動する! 何かが
見えたように感じる。教えや言葉、人生のあらゆるところに、「まこと」が
見え出すのである。
目覚めてみると、そこは、脈々と命が滾(たぎ)る世界!
そのときその人は、「命」を見るのである。
だから、多くの神の人たちがそうしたように、自分が見たものを告げる。
それはくしくも、先人達が口にしたのと同じ悟り。それが、「信仰の告白」の
意味である。
自分の見たものを、その悟りを、彼らと同じ言葉で語るのが「告白」。
尋ねられて、ただ、「はい」と言うだけの、宗教儀式の言葉ではない。
その「告白」はその人を「信仰」世界にいざない、その人は神を見る。
そして、「道・まこと・命」が渾然一体(こんぜんいったい)となった
「信」の世界に生きる人となるのである。
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★『信仰の言葉を透過せよ』
「永遠の命」の入手方法を尋ねた金持ちの青年議員に、イエスは
こう言った。
「全財産を売り払って、貧しい人々にあげ、わたしに従ってきなさい」と。
階層社会のトップに暮らし、最上階にスイートルームを造り住んでいた
人が、地下の地下、穴倉のような生活をすることは不可能だろう。
青年は、悲しみながら帰っていった。
イエスは、青年が求めたから、「永遠の命」の入手方法を告げた。
無一物になると、自分に残ったものは「命」だけになる。「命」が
リアルになる生活が送れるのだ。
ここに「小さいときから知っている、守り続けている」宗教の戒めは、
やはり、青年議員の心の置くには届かなかった。
イエスの言葉が「1・2・3・4・5・・・」の「段階的連続的階層」の言葉、
すなわち、「宗教の言葉」ではなくて、「非1・2・3・4・5・・・」の
「信仰の言葉」だったからである。
「宗教の言葉」は、昔々から書物に書かれ、だれでもそれを知ることは
できる。書かれた文字は、今の時代では、映像になって、人々が
目にふれられるようになってさえ、きている。
しかし、「信仰の言葉」は、「非1・2・3・4・5・・・」である。最上階まで
駆け上がり、屋上に至っても、見られるわけではない。
これは、「透過的流動的な層」・・・すなわち、「層のニ面性」の後者、
「レイヤー」を超えなければ理解できない言葉なのである。
イエスは弟子たちに、こう言っている、
「人間にはできないが、神にはできる」・・・と。
宗教の神にはできないが、信仰の神にはそれは可能なのである。
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★『天に宝を積みなさい』
高いビルを建て、その最上階にスイートルームをかまえ、さらに、その
屋上に神をまつるのが「段階的連続性の層」・・・いわゆる「宗教」である。
自分と同じ土俵にまつる神だから、自分の思い以上には働かない。
どうしても、人間と同じ限界性をもってしまう。
失楽園以来、ひとの心を支配している「不安」「むなしさ」「退屈の気分」を
解消できないのである。
夢中になれるときは短くて、大人になり、することを色々に見つけて
行動はするけれど、どこか不安、どこかむなしい、どこか退屈になり、
生き生きと日々を送られない自分に直面する。
金持ちの青年議員は、イエスにそのむなしさを訴えた。それに対する
イエスの言葉は、驚くべきものだった。
「全財産を売り払い、貧しい人にあげなさい。天に宝を積んで、わたしに
従って来なさい」。
青年はとまどい、ついには悲しみながら帰っていった。たくさんの資産を
持っていたからである…と聖書はしるす。
ここに、段階的連続性をもつ「宗教」のむなしさがあるだろう。
大金をつぎこんで仕えても、自分のすべてを失うことはできない。
たとえ、この世のすべてを失って、残るのは「命」だけになったとしても・・・。
すなわち、「命」の躍動に出会いたいのなら、自分を飾っているもの
すべてを捨てて、「命だけ」になれ!・・・とイエスが言ったとしても。
人は、青年は、本心から「永遠の命」・・・生き生きとした充実する人生を
求めていたのだろうか。おそらく、そうなのだろう。
しかし、「1・2・3・4・5・・・」の階層において、スイートルームを捨てて、
地下の地下、窓もなく、陽の当らない人生を生きるのは無理だから。
金持ちの青年議員は、悩みながら帰り、再び、充たされない日々を
送ることになった。
ただ、こんなうわさが届いている。この青年議員は、イエスの十字架刑の
あと、勇敢にも総督に申し出て、イエスのからだを引き取り、自分所有の
新しい墓に埋葬した・・・と。
アリマタヤのヨセフこそ、その人であったと。
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★『充実した人生を送るために・・・』
「層」には「二面性」がある。ひとつは「段階的連続性」をもつ「層」。
もうひとつは「透過的流動性」をもつ「層」である。
単純に言い切るならば、前者は「1・2・3・4・5・・・」であり、後者は
「非1・2・3・4・5・・・」である。
この『二面性』こそが、「宗教」と『信仰』を明確に区別するアイテムになると
「層の論理」は主張する。
金持ちの青年議員がいた。彼はトップエリート集団に行きついたにも
かかわらず、日々にむなしさを感じ、充たされない思いでいた。
そんなとき、イエスを見かけた。走りよって言葉をかけた。
「良き師よ」・・・と。
当時、「師(ラビ)」という呼びかけは、十分な尊敬を表す言葉だったから、
彼の言い方は「尊敬申し上げる先生様」のような議員言葉だった。
「わたしを良き師と言うのか。良き師はもっと別にいる!」
イエスは青年に怒りを覚えたのか、かなり冷たく突き放している。
「永遠の命を得るにはどうしたらよいのでしょう」と彼は尋ねた。
「もう知っているはずだ。戒めを守りなさい。父母を敬え、姦淫するな…」
青年は悩みをむき出しにして、こう言った、
「そんなことなら、小さいときから守っています!」
・・・ここに、「段階的連続性」の「層」に属する「宗教」の、限界がある。
その宗教の戒めを、幼いときから守り続けても、「永遠の命」すなわち
生き生きした充実感の人生を歩めないでいると、青年は訴えた。
1・2・3・4・5・・・という階層的な社会に暮らして、その極みに「神」を
安置する。その神は、自分がいて神がいるという「対照的な宗教構造」
である。すなわち、人も神も、同じ土俵にいることになる。
その神は、ギリシャ神話のように人間的で、迷信的にいわしの頭を
拝んだりする宗教となる。さらに、その宗教の神を信じても、日々の不安、
退屈の気分、むなしさは、少しも解消しないのである。
青年の告白が、まさに、それを語っている。
信じても、信頼しても、どこか心がむなしくて、不安で、退屈なのである。
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