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『不立文字・用の美としての信仰』 ラ・メール チャペル (Pastor)
・・・(1)「用の美の信仰」 解説 ・・・
信仰は私に限り「用の美」として息づいている。
ご存知のように「用の美」とは実用の美。
その人の生活に必要なもの、必要なので毎日用いるもの、毎日使うので研ぎ澄まされ、
機能性が際立ってくるもの、使って壊れ、捨てられていくものではなく、
何度も手直しや補修を繰り返しながら、便利さ以上にいつしか美さえ備えるもの、
それゆえに、愛着を持ってなお生活に用いられるものである。
「用の美」としての信仰は、私にとって、あたかも素人が自分で焼いた器を食卓に並べ、
ひとりにんまりとしているのに似ているかもしれない。
・・・ ・・・
「あなたがたは 聖書も 神の力も知らないから 思いちがいをしている」という
聖書の言葉(イエスの発言)を読んだときの驚きは、普通ではなかった。
しかも、 聖書に精通し 常に聖書を写し、研究していた学者に向かって
言ったものだったから、二重に驚いた。
そして 思った。
● 聖書を読んでいても、信じていても、研究していても、いつまでも聖書の真意を悟らず
神の力も知りえないことがある! ・・・ということ。
すなわち、その信心には、「自己否定」がないという発見だった。
彼らは「聖書を読んでいた、信じていた」。研究し、写し学んでもいた。
それなのに、イエスに「聖書も、神の力も知らない」と言われている。
その信心は、日常に 生きてなかったのである。
★「用の美」とは 日常によく使われているもので、本当に「実用的な器(うつわ)」
特に「美を意識して作ったもの」ではないのだけれど、毎日使われることで、美しさ、
輝きのようなものを 備えてくるもののこと。
学者たちの信心は、イエスの言葉を借りるなら、「聖書の真意も知らず、神の力も知っていない」
すなわち、宗教的で、信心は持っているが、『信仰』ではないとの指摘だったのである。
★ 確かに、「主よ、主よ、という人たちがすべて、天国に入るとは限らない」とイエスは言う。
その「思い」が ただ宗教的で、信心は持っているが、『信仰』ではない、
『信仰』に至っていない人たちが、大勢いることは、実に 衝撃だった。
ここに明確に指摘したいのは、「宗教的」であることと『信仰を持っていること』とは、
まったく違うということだ。
違いを知って、わかったことがある。
「キリスト教国なのに、どうして戦争が好きなのだろう?」
「宗教国なのに、どうして虐殺を繰り返すのだろう?」
それは、彼らの「宗教」なのだ。「信心」であって、『信仰』ではない。
聖書も神の力も悟っていない、宗教の集団・・・結局は、天地の神を知らない人たちが
自分たちの宗教の名の下に 自分たちがやりたいことを 行っているだけのこと。
天地の神を恐れ、敬い、その神に祈り求めて決断したことではない…ということだった。
それが「宗教的信心」で、天の神の『信仰』でないならば、戦争を実行しても不思議ではない。
日本を「仏教国」と未だに呼んでいるけれど、その実、「お経の真実」さえ知らないし、
ただ「仏教的習慣」をたまに行うだけの人は、「仏教徒」とは呼べない。
「仏」とは、「悟った人」のこと。「仏教的習俗」を何回か行ったからといって、
その人を、「悟った人・覚者」とは言わないだろう。それは「仏教的習慣人」に過ぎない。
★ ここでは、明確に、「宗教的信心」と『信仰』を区別している。
「仏教徒」と「習慣人」を 別種な者と 分けている。
ここを、宗教を越えた、『信仰』を学ぶブログにしている。
「用の美の信仰」を解いている。
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