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MACF礼拝説教要旨
2019.04.28
イエスの生涯12
【中風の人を癒す】
〜イエスが求めた信仰姿勢〜
マルコによる福音書2章1〜12節
2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。
2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、
「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、
心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。
神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。
人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
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イエス様の評判は「癒しをもたらす人」として広がりました。
そんな中で、ここに出てくる物語では「イエス様が望んでおられる信仰姿勢」について考えさせられます。
中風の人が担架に乗せられて運ばれてきました。彼らはイエス様のところにこの病人を連れて行けばきっと良いことが起こると信じていたのです。
しかし、イエス様のところに向かう前に、いくつかの問題が置かれていました。
1)「群衆・狭い戸口」
「群衆」は聖書の中では悪い意味で使われることが多いのですが、ここでも、彼らがイエス様のそばに行くことを阻んでいます。
さらに混雑した狭い戸口が彼らの行く手を阻んでいます。狭い戸口と群衆しか見えていないと、がっかりして引き返してしまうことになりやすいのです。
私たちにとってイエス様から妨げる「群衆」はいないでしょうか。あるいは自分の中に住んでいる誰かがまるで群衆のように「無理無理、あんたなんか出会ってもらえないよ」と叫んでいる声は聞こえていないでしょうか。
2)諦めなかった5人。
彼らは群衆にもめげず、狭い戸口にもめげず、イエス様に会うための手段を考えました。
この際、仲間が4人いたことは心強かったと思います。おそらく中には、ちょっとひるんでしまって、もう帰ろうと言い出した人もいたかもしれません。
でも、結果的に彼らは諦めませんでした。
彼らは大胆なことを考えました。屋根に上ってそこからこの病人を吊り下げようというのです。
日本の家屋でそんなことを考えたら大問題でしょう。損害賠償を求められると思います。
当時のイスラエルにおける家屋は日干しレンガで作られており、一般の人の家は小さく狭く屋根は木の枠にレンガを乗せたり、棕櫚の葉や木の枝などが乗せられていたようなものだったと言われています。ですから、それほど深刻なことをするわけではなかったのかもしれません。
それにしてもこの行動は大胆でした。
彼らは諦めずに、戸口からダメだったら屋根の上からと視点を変えてイエス様のところに行くことを考えたのです。
ここにイエス様の喜ばれる信仰姿勢があります。
諦めないこと、視点を変えて考え、なんとかイエス様のところに心を向ける努力をしてみること。
彼らの信仰の態度は、基本として見方を変え、視点を変え、諦めずにイエス様のところに近くあろうとすることでした。
3)イエスは彼らの信仰を見て
イエス様は、病んでいる人の信仰だけを見たわけでなく、協力してイエスの近くに病人を連れてきた、かれらの「イエス様に近づくことを諦めない姿勢」を見たのです。
2人、3人の人たちが心を励まし合いながらとにかく絶望しないでイエス様の近くに行こうという姿勢を保つように努力することは尊いこと、大切なことです。
教会は、それを励ます集団として存在しています。「教会にいるときはなんだかイエス様に近くにいるような気がするけれど、家に戻るとなんだか自信が持てず、弱さを感じます」という人のためにこそ、教会は存在しているのかもしれません。
イエス様は、私たちの信仰を見てくださるからです。
3)起き上がる、赦しを願う・新しい意欲で生きる
〜絶望しない生き方〜
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、
「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
とありますが、病気の人に向かって罪の赦しを語りました。
神の恵みによる「病気の癒し」は「罪の赦し」と連動して起こると理解されていました。
律法学者たちは、それを人間イエス様が宣言することは神への冒涜だと考え、イエス様を非難しました。
しかし、イエス様は自らが罪を赦す権威も病気を癒す力もあることを示すべく、その人を癒しました。
そしてここでも信仰が求められました。
彼はイエス様の言葉を受け、布団を片付けること、自分の足で立ち上がって歩き出すことが求められました。友達に連れてこられたこの病人。
今までいろいろな苦労をしてきたと思いますが、ここでは「癒される願い」「立ち上がる勇気」「辛い現実の社会に向き合う勇気」が求められています。
実は、私たちの中には「癒されたくない」「病気のままでいい」「寝ているままで良い」という思いが案外育ちやすいのです。
「人との関係を持ちたくない」「祈ってもらいたくない」「霊的引きこもり」のような状況があり、それを後ろに追いやって、「新しい生き方を始めたい」「前に向かいたい」という意欲がないと、イエス様の言葉にきちんと応答することが難しいのです。
この中風の人は癒されて喜びをもって家に帰ってきました。
仲間の信仰に励まされ、自分でも新しい生き方を願い、群衆にもめげず、狭い戸口にもめげず、イエス様に触れていただくため、イエス様に近づき、そこ言葉に誠実に応答したのです。
心から「新しいいのちにあふれた生き方」「罪を赦され、心も体も健全に生きたいと願う生き方」を求めてイエス様に近づきました。それをイエス様はしっかり受け止め、大いに喜ばれたのです。
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