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【今日の聖句】
2019.05.27 【ヨハネの手紙第一】 1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。 1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。 1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。 **** 神様との関係が光の中の関係であるなら、私たちは、その中で自分の罪、具体的な罪、悪、過ちなどをはっきり知ることができます。 自分の心にも自分の態度にも言葉にも罪があることを悟ることができます。でも、私たちのプライドはなかなかそれを認めようとしないのです。あるいは、それはそれ、これはこれという考え方で、日常の出来事と神様との出来事を別物と考えてしまって、自分の非を認めないことがあります。 ヨハネは、もし自分に罪がないと言うなら、それは偽りだと指摘しています。 自分の罪を公に言い表すという表現がありますが、これは、神様が罪だと指摘してくださったことに同意し、そのとおりですと認め、言葉に表明することを意味しています。 自分を罪の無い者とするなら、私たちは、赦されることもないし、清められることもないし、それ以上に、神様を偽り者としてしまうことになり、つまり、神様に向かって「私には罪などありませんよ、何を言っているのですか、 十字架など要りませんよ」と言っているのと同じことになるのです。 もし、そうだとすれば、その心の中には、神様の恵みの言葉も赦しの言葉も存在していないのです。 神様を偽り者として断罪してしまう心は、他者をも赦さない心と通じています。 自分を正真正銘、神様の言葉通り、罪ある存在であり、赦しと恵みが必要だというところから、神様との交わりが始まるのです。 自らを正しい者としてしまっている人には、神様の恵みや赦しは不要な、愚かなものに見えるのです。 それほど大きな神様への冒涜はありません。 不正や、傲慢、罪、偽りがあるとすれば、それは神様の側ではなく、私たち人間の側に存在するのです。そして神様はそういう私たちの心を一新しようとキリストを遣わしてくださり、十字架の死と復活という出来事でそれを実現してくださったのです。 「そんなことをする神様は間違ってる。私たちに罪などないのだ」と言いたい気持ち、それこそが恐ろしい高慢不遜な心です。 赦すために来られたキリストに感謝し、心から歓迎しましょう。 ++++ 【箴言】 神に逆らう者の道を歩くな。悪事をはたらく者の道を進むな。 それを避けよ、その道を通るな。そこからそれて、通り過ぎよ。 (箴言4章14〜15節) ++ 倫理学という学問がありますが、聖書における倫理学の基本のひとつは今朝の言葉の教えです。 神に創られた者として、神に逆らわず、むしろ、神の心を教えられながら一日を丁寧に進むこと。 これが案外、簡単そうで難しいことなのです。 というのも、何が神に逆らうことなのか、何が悪事なのか、私たちはわかっているようで解っていないし、それが解っているとしても、それを判別して常によい方を選ぶ力が私たちのうちにはないからです。 頭の中では、箴言の言葉は簡単に理解できる言葉なのです。問題は、そういう言葉をうんざりするほど聞いていてもそれでも実行する力が身につかないという弱さがあるという現実です。 しかし、だからこそ読み、だからこそ聞く必要があるのです。何回でも聞き、そして心が麻痺するのを遅らせなければなりません。聖霊が私たちの心に、真理を教え、その力を求める私たちに、イエス様の救いと力とを理解させてくださいます。 「イエス様、今日もこの線に沿って、生活させてください」と祈ることができたとき、大きな一歩を踏み出したことになるのです。 祝福がありますように。 |
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