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【人にしてもらいたいと思うこと】 今回の川崎の陰惨な事件。悲しみで心がいっぱいです。 テレビの報道に関して、また、ネットなどに流れてくるコメントなどを読んだりして、心が騒いでいます。 そんな中で、心に留まっている言葉はこの聖書の中のキリストの言葉です。 「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、 あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 (マタイによる福音書7章12節) 報道関係者のみな様、「あなたが被害者だったとしたら、報道関係者から何を聞かれ、何を報道されたいですか?」 加害者がすでに命を落としている状況ですが、もし、あなたがその加害者の身内だったら、どんな気持ちで過ごせますか?そして、「何をされたいですか?」 正義や真実はそんなことと関係なく、明らかにされるべき内容だという面があるのかもしれません。 報道とは、そんな生易しいものではないのかもしれません。 政治的な報道、社会正義を語る報道とこういう事件を伝える報道、それぞれルールもあるでしょうし、状況は違うのだと思います。 それでも、ニュースが「評価や価値観のコメント付きのワイドショー」になってしまっていることに、私はとても違和感を感じます。そこでのコメントや分析内容についての評価が、ある種の「決めつけ」を生み出しているような気がするからです。 物事の原因は必ずしも、一つに特定できることばかりではないでしょうし、事件直後に簡単に断定できることではないように感じます。 極度に簡素化された事件の原因や結果についての分析は 人間の心やその深層にうごめく感情などをあまりに単純なものとして決めつけてしまっているように感じます。 個人に対して尋ねるべき問題、事件そのものに向き合うべき問題、内面的な問題、手段の選択の問題、いろいろな角度から取り上げることができるのでしょうけれど、とにかくニュースは慎重にまずは事実のみを語って欲しいと思います。 そこから感じる思いは100人いれば100通りあるのかもしれません。そういう思いを結論を急かせることをせずに、少し頭の中に思い巡らす時間を許容する雰囲気が欲しいように思います。 「急いで単一の答えを簡単に判りたい」という思いは現代の世相なのでしょうけれど、そもそも、それほど人間は単純ではないように思うのです。 悲しいことですが、そういうことも人間社会の現実です。 それをなんとか止めたいと思うことは重要なのですが、それを簡単に規則を作ることで解決できると思ってしまうところに落とし穴があるような気がします。 正義を求め、真実は伝えて欲しいと思います。 でも、それをワイドショーの中に作り込むのは限界があるように感じます。 川崎での殺傷事件に関しては、私が被害者の家族だったら、あるいは、加害者の家族だったら何をしてほしいだろう。また、どうしたいだろう。 そんな気持ちを心の中にあれこれ動かしながら、心のざわめきは止まりませんが、小さな祈りをささげました。 「いてくれてありがとう」の心が社会に充満してほしいなと祈りました。 言葉が圧倒的に足りず、ご批判は甘んじて受けようと思いますが、何か言葉にしておく必要を感じて、あえて書いてみました。 ご遺族の皆様には、その悲しみを思うと言葉もありません。 私は、ある種の申し訳なさを感じつつ、ご遺族の皆様になんらかの慰めがもたらされることを心からお祈りします。 |
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