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【今日の聖句】
2019.06.27
【ヨハネの手紙第一】
3:21 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、
3:22 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。
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愛し愛されながら生きるという喜びは、「心に責められることがない」関係の中に生まれます。
私たちは、神様との関係においても、心に責められることのない状況が提供されています。
自分の中には不足意識が常にありますが、それは事実であって、疚しい(やましい)ものではありません。
神に対して隠し事をせずに生きられたら、それが一番良いのです。心を責められる状況から、解放してくださったのは神様ご自身です。責めも咎めもキリストの十字架によって処分してくださいました。
ヨハネは大胆に「わたしたちが神の掟を守り、御心にかなうことを行っている」と書いていますが、これは、実は、私たちが自信を持って断言できる言葉ではなく、神様がそういうふうに見なして下さっているということです。
自分は神の掟を守りぬいており、御心にかなった生き方以外はしていないと断言できる人の背後に神の愛を私はあまり感じません。
そういう発言の中には、神の愛の世界に生かされているという謙遜さが感じられないからです。
私たちは赦された罪人に過ぎないのです。完成された聖人ではありません。
苦悩や葛藤、不足感は常に目の前にあります。キリストの憐れみを常に必要としているのです。
神が、そういう私たちを「赦す」と宣言してくださって、生かしてくださっています。それゆえ、私たちの存在そのものも、行為も、受け入れられているのです。おどおど生きるのではなく、自由に生きて良いのです。
しかし、その自由は自分の信仰で勝ち取った自由ではなく、資格などないのに与えられた恵みとしての自由なのです。
信じたから、その信仰の大きさで救われたわけではないのです。赦すと言ってくださる神の大きな愛があるから救われ
るのです。私たちには純粋な信仰など、カラシ種ほどもないかもしれません。
あるのは信仰という名の自己主張ばかりのような気がします。にもかかわらず、神は「私はあなたを知っており、私はあなたを愛している」と言ってくださるのです。そして神はキリストの十字架を通して私たちを見てくださるのです。
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【箴言】
9:1 知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。
9:2 獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え
9:3 はしためを町の高い所に遣わして/呼びかけさせた。
9:4 「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言った。
9:5 「わたしのパンを食べ/わたしが調合した酒を飲むがよい
9:6 浅はかさを捨て、命を得るために/分別の道を進むために。」
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この章でも、知恵が擬人化されています。知恵が振る舞ってくれる食事と酒があるようです。
7本の柱が何を意味しているのかわかりませんが、壮大な
建築物であることには間違いありません。また、獣を屠るとか、酒を調合するとか、食卓を整えるという表現は、すべて、かなりの段取りと準備が必要だということを伝えています。日常的な事柄に関する段取り、周到な準備の重要さをその食事を通して味わい、知恵の大切さを学べるのかもしれません。
浅はかさを捨てて、命を得、分別の道を進むとありますが、何でもかんでも行き当たりばったりではいけないのです。
もちろん、周到な準備をしたからといって、いつでもうまくいくわけではありませんが、日々の積み重ねが案外ものを言うんですよね、人生って。
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