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【日ごとの糧】〜ローズンゲンによる〜
2019.08.29
主を畏れることは諭しと知恵。名誉に先立つのは謙遜。
(箴言15章33節)
自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。
(コリントの信徒への手紙第一8章2節)
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ギリシャの哲学者ソクラテスは「無知の知」ということを語りました。パウロもこのコリントの信徒への手紙の中で似たようなことを語っています。
「自分はまだまだ知っていない」という自覚、それが謙遜につながっていると今朝の聖句は教えています。
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【今日の聖句】
2019.08.29
【ヘブライ人への手紙】
9:9 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。
9:10 これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
9:11 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
9:12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
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9章の最初の部分で礼拝と地上の聖所についての説明が語られた後、記者は、それらの規定や捧げ物をもってしても、私達の良心を完全にすることはできず、つまり、咎めや悪をすっかり拭い去ることはできないと教えています。人間の儀式には限界があるのです。それは「雛形」であり、完成されるためには「本物の贖い主」が現われなければなりませんでした。
キリストは、贖い主としてこられ、今までのようにヤギや羊や雄牛の血ではなく、ご自分がささげものになり、身代金になり、私達の心を清めるために十字架で死んでくださいました。
キリストこそ旧約の時代から待ち望まれていた救い主なのだとこの手紙の記者は力説しています。
私たちを救うために、神様がどれほど昔から計画をたて、形式を考え、歴史を通して準備し、イエス様において実現させたのか、考えれば考えるほどその愛の深さを感じます。
私たちを赦し、良心を完全なものとし、ご自分の宝にしようと、御子イエス様を十字架で死なせる、こういう内容は人間の親子の「愛」をはるかに超えており、説明し尽くすことはできません。「驚くばかりのめぐみ」です。
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【箴言】
14:16 知恵ある人は畏れによって悪を避け、愚か者は高慢で自信をもつ。
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「畏れを持つ」とは「神への畏れを持つ」「礼拝の心をもつ」と繋がっています。謙遜さを身につけているという理解になります。知恵ある人はそういう心をわきまえているというのです。
それに対して「神への畏れも礼拝の心もなく、自分を神のように考えてしまっている人」を箴言は「愚か者、高慢」と呼んでいます。
自分の心にしっかり刻みたい言葉です。
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【人生で一番うれしかったことは?】
今週カウンセリングに出かける道々ラジオを聞いていました。その番組では小さな子どもに質問して、その子がなんと答えたか教えて欲しいという内容を放送していました。
質問は「最近どう?」「今まで生きてきて一番うれしかったことはどんなこと?」など、普通3歳児とか5歳児には聞かないような質問が用意されていました。
おもしろい答えがいくつかありました。「最近どう?」と4歳児の息子さんに尋ねたところ「ママー、パパが変なことになっている。変なこと聞いてくる」という反応だったとか。
「一番うれしかったことは?」という質問に対して
「一昨日聞いたときは、昨日友達の家でゲームしたこと」、そして昨日聞いたときは「友達の家でケーキを食べたこと」と答えていました。ショックでした。だって、今年は
沖縄に連れて行ったり、去年はバリ島に連れて行ったりしたのに、今までで一番うれしかったことって聞いたら、友達の家で遊んだこと、とか、友達とケーキを食べたこととか答え
るんですもの」
ナビゲーターをしていた人が「ああ、子供は今を一番楽しんでいるんですねぇ」と言っていたのが印象的でした。
親とすれば「今までで一番うれしかったことは、海外旅行とか沖縄旅行とか大きなイベントを思い出して言ってほしかったのでしょうけれど、お友達の家でゲームをしたこととか答えられてしまうと、あの旅行は何だったのだろうということになるのでしょうね。
それを聞きながら、子供は健全だなぁと思いました。
思い出つくりのために生きているわけではなく、今を精一杯楽しもうと生きているわけですからね。充実していますよね。
もう少し人生を経験してからでも、一番楽しかったことはと聞かれて、「昨日友達と会って食事をしたこと」と答えることができたら、もっと嬉しいなぁと感じました。
いろいろな思い出は消えるわけではないのですが、
「今」の捉え方について新鮮な気持ちにさせられました。
「昨日が最高でした」「今日が最高」と言えるような生き方をできたらいいなと思いました。
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【今日の聖句】
2019.08.28 【ヘブライ人への手紙】 8:8 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、/新しい契約を結ぶ時が来る』と、/主は言われる。 8:9 『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、/わたしも彼らを顧みなかった』と、/主は言われる。 8:10 『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。 8:11 彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、 8:12 わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」 *** 神様はモーセと結んだ契約とは別に新しい契約を結ぶことを約束しています。 その契約とは、心の通い合う、深いきずなの制定であり、霊的な新しい契約です。キリストの出現と聖霊による働きの中にその新しい契約は実現したのです。 旧約と新約の存在根拠もこの約束によるのです。 イエス様の十字架と復活、そして聖霊の付与という出来事こそ今までの文字と律法を中心にした契約の終わりであり、新しい時代、新しい契約の始まりなのです。 それまでは、律法を守ることで汲々としていたのですが、今や律法の与え主が心に住んでおられるので、そのお方を礼拝しながら生活することで律法を喜ぶ生活ができるようになるのです。神様は、私達の行動の監視者ではなく、内側に一緒にいて心を満たし、生きる動機づけを与えてくださるお方なのです。 「しなければならない」という行動原則ではなく、「喜んでさせていただく」という心に変えられます。 聖霊による心の一新とも呼ばれる新しい原則が実現するわけです。 ++++ 【箴言】 14:15 未熟な者は何事も信じこむ。 熟慮ある人は行く道を見分けようとする。 +++ 何でも簡単に信じ込むことを箴言は戒めています。 未熟な者の特徴として書かれているからです。 信じることがすべて悪いワケではないのですが、内容をし っかり確認しないと大きな間違いを起こす可能性があるのです。少し頭を冷やして、冷静に考え、先々のことも本当に冷静に考える余裕が必要です。 積極的物の考え方、肯定的なものの考え方は生きる力となるものですが、信じれば何でもうまくいくわけではありませんので、しっかり考える力が必要です。 単なる思い込みは良くないのです。 私たちは、いいえ、私はどちらかと言えば、未熟な者の側にいるような気がします。もう少し熟慮できる人間になりたいものだと思います。 もう少し落ち着いて判断しなければならないことがよくあります。 こういう箴言は覚えておく価値がありますね。 |
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【日ごとの糧】〜ローズンゲンによる〜
2019.08.28 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」 (出エジプト記3章11〜12節) すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 (コリントの信徒への手紙第二 12章9節) ++++ 旧約聖書の中のモーセも新約聖書の中のパウロも自分の足りなさ、弱さを自覚していました。 それゆえ尻込みしたり、恐れたりすることもあったようです。 でも、その都度、神様からの励ましの言葉が届けられました。「神ご自身が共にいてくださる」「神の力は弱い時にこそ表明される」という約束でした。 自分には絶対できると自信を持つことよりも、できない面があるかもしれないけれど、神の助けによってできることはやらせていただこうと考えることができると、結果については少し楽な気持ちになれますね。 失敗もありですからね。 |






