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【日ごとの糧】〜ローズンゲンによる〜
2019.08.22 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうかわたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり命ある者の地から断たれたことを。 (イザヤ書53章8節) あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 (ヘブライ人への手紙12章3節) +++++++ キリストの忍耐とそこにある愛の深さについて、私たちは時間をかけて考え、私たちに対する「祝福を提供しようとする心の深さ」を受け止める意識を育てる必要がありますね。 更に言えば、キリストの犠牲は「恩着せがましいものではなく、それを自らの最大の最高の使命と受け止め、無償の愛で提供してくださったもの」です。 その愛と赦し、神との和解はわたしたちひとりひとりに提供されているのです。 |
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【今日の聖句】
2019.08.22 【ヘブライ人への手紙】 6:20 イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。 7:1 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。 7:2 アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。 7:3 彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。 7:4 この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。 *** ヘブライ人への手紙には、キリストの優位性ということが記録されているのですが。この箇所もそういう風に理解できる内容です。 メルキゼデクという王であり祭司であるこの人はキリストの雛形として語られています。メルキゼデクはアブラハムが勝利して戻ってきた時、パンとぶどう酒をもって迎え、しかも大いなる神の御名によってアブラハムを祝福しました。アブラハムは戦利品の10分の1を彼に捧げています。偉大な族長アブラハムでさえも、メルキゼデクの前では礼拝者であり、メルキゼデクは神の名で祝福し、しかも「パンとぶどう酒」で祝福しているのです。 イエス様の雛形としての姿が色濃く書かれています。 この方は父も母も系図もなく、神の子に似た者、永遠の祭司なのだ著者は書きました。これは、神様によって立てられた祭司、神様の計画によって立てられた王であるということを示していると言われています。 アブラハムの礼拝を受け取り、アブラハムを祝福した大祭司、王メルキゼデク。この卓越した王、祭司と同じように、いいえ、その大祭司をしのぐほど完璧な役割を果たしたキリストこそ、 まさに、メルキゼデクのタイプの成就なのです。 キリストはメルキゼデクと同じような大祭司になられたと書かれていますが、メルキゼデクの出来事の中に記録されている麗しい部分がすべてキリストによって完成されたのです。 著者はメルキゼデクの中にやがて文字通りの大祭司として「パンとぶどう酒」で、つまり十字架と復活の出来事で私たちを祝福されるキリストを見ています。 旧約聖書は実はキリストとその救いの働きを提示するためにこそ、書かれていると考えて良いのだと思います。 ++++ 【箴言】 13:24 鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。 +++ スパルタ式に育てることは、その当時もてはやされたかもしれませんが、打ちたたくということが全てなのではなく、「子を愛する人」の「熱心な諭し」の中のひとつとして厳しさが存在すると考える必要があると思います。 厳しさの必要性は新約聖書のヘブライ人への手紙の中に 「 12:5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。 12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」 12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。 神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 12:8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 12:9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 12:10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 12:12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 ++++ 叱るべき時に「叱れる」関係、叱ってから赦しが確実に伝えらる関係が望ましいですね。 「子を愛する」とは子供を自分のペットにすることではありません。親の思い通りにするために子供を縛るのではなく、子供の自立を助け、子供が親から離れて自分で生きていけるように支援的に諭し、子供の自由を守る立ち位置を保持することなのだろうと思います。 |
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【嬉しいことを話せたら・・】
予約表では前日午後3時に来るはずだったおばあさんが、やってこなかったのでスタッフが心配して連絡をとったところ「出かけた先からのバスに一本乗り遅れて帰りが2時間遅れることになった」とのこと。 「明日、どうしてもカウンセリングに行きたいので予約を入れて欲しい」とのこと。 「明日は先生は予約いっぱいなんですよ」とスタッフがいうと「私はあした点滴をしてもらう予約が入っているんだけど、10分でも20分でも話を聞いてもらえないだろうか。もしそれが無理なら点滴しながらでも話を聞いてもらうことはできないか」と言われ、「それじゃ先生に点滴の間でも話を聞いてもらいたいと言っていると伝えておきます。でも、明日はぜひ来てくださいね」 ということで、「先生どうしましょう」とクリニックの事務のスタッフがやってきました。 「そんなに話したいことがあるのなら、いいですよ。時間の都合をつけましょう」とにかく来た段階で様子をみましょう」と私。 そして当日、全部の予約者が終わって、ちょうど点滴が終わった彼女が出てきたのでカウンセリング室に迎えました。 「昨日は大変でしたね。バスに乗り遅れたんですって」 「そうなんです。まったく、もう少し本数を増やしてもらうように町長に直訴しようと思うんです。でも、しょうがないから近くのコンビニでおやつを食べていたら高校生が入ってきてジュースを飲んだりしていてね、真っ黒に日焼けした若者たちが元気そうだったので声をかけたらプールの中でボールを投げたり入れたりするスポーツがあるんですってね。なんて言ったかなぁ」 「あ、水球かな」「そうそう。そのクラブの若者たちでね、ちょうど1000円札があったから、その若者たちにあとでこれでアイスでも食べなさい」って渡そうとしたら「いや、いいですよ、大丈夫、結構です」っていうのよ。いいからいいから、おばあさんからのお小遣いだからとっておきなさい」って言ったら「ありがとうございます」って嬉しそうにとってくれてね。わたしも嬉しくなりました。それでバスが来て、窓のところから学生たちに手を振ったら学生たちも手を振ってくれてね、嬉しくなりましたよ。」 「それは良かったですね。若者が喜ぶのを見るとうれしくなりますよね。ところで今日はどうしても話したいことがあったの?」とたづねると「うーーん、若者のことを話したら気持ちがスーッとして、嬉しくなって、先生の顔も見たし、これで帰ります。もう大丈夫。ありがとうございました。点滴して、先生の顔を見たら元気になりました。嬉しいことを話せたら元気になりました。はい、さよなら」 こういうカウンセリングばかりだったら、いいのになぁと思いながらおばあさんを見送りました。 のどかな田舎のクリニックでの昨日のお話。 いてくれてありがとう。 |
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【日ごとの糧】〜ローズンゲンによる〜
2019.08.21 わたしは主に罪を犯したので主の怒りを負わねばならないついに、主がわたしの訴えを取り上げわたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれわたしは主の恵みの御業を見る。 (ミカ書7章9節) 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。 (ヤコブの手紙4章10節) ++++ わたしたちは誰もが心の中に「人への罪」「神への罪」を持っています。「神に対する不信仰、不信心、不義」と「人に対する悪意や不義」はおそらく誰の心の中にも存在していると思います。 しかし、神はそういう私たちを見捨てず見放さず、その心を指摘しつつ導き、生きる意欲をお与えくださいます。 生きているように見えて、実は私たちは生かされているのだと思います。 その気づきは謙遜の土台になるものだろうと感じます。 生かされているからこそ、生きているという自覚の中に 感謝とかありがたい気持ちとかが育つのです。 その気づき、大事です。 |
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【今日の聖句】
2019.08.21 【ヘブライ人への手紙】 6:19 わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。 6:20 イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。 *** 希望がないと気力も食欲もまったく湧いてきません。 どんな希望であれ、それは私たちに意欲をもたらします。聖書は、私たちにどんな嵐にも耐えることができる希望を約束しています。しかも、その希望は神様との和解を土台にしたものであり、キリストの犠牲によってもたらされる神様とのきずなという希望です。 そういう実体を私たちは自分で作り出すことができませんし、勝手に想像してこれを私の希望にしようと決めてしまうわけにもいきません。希望はキリストによってもたらされます。 神様との隔てのない交わりという出来事は、この地上に生きている間は不十分な感じがしますが、やがていつの日にか永遠的な出来事に変わります。私達の関係的充足欲求はそこで永遠に満たされることになります。そういう希望が私達の前に提示されているのです。 そして希望があると、今を丁寧に生きることができるようになるのです。 +++++ 【箴言】 13:23 貧しい人の耕作地に多くの食糧が実っても正義が行われなければ奪われる。 ++++ 社会の秩序が保たれるためには「正義」が必要であり互いに「約束を守る」姿勢が必要です。 先日沖縄の映像をみながら「貧しい人の耕作地や青い海や緑の山が存在しても、正義が行われなければ、国策の名の下にいくらでも奪われ失われてしまうものだな」と感じました。国の側の言い分では、それが「正義」なのかもしれません。つまり人間の語る正義は常に流動的な要素があり、 状況によって変わってしまう可能性がある正義です。 聖書が語る正義は必ずしも法律を守ることによる正義だけを教えていません。法律そのものが強者による圧政のための道具になることがあるからです。 「神の正義」とは「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」というイエス様の言葉がありますが、圧倒的な優しさ、寛容さの中にあるようです。つまり、治めるための規則ではなく「生かすための愛」こそ聖書で教える「正義」なのです。 ですから、この箴言の言葉は「貧しい人の耕作地に多くの食糧が実っても正義が行われなければ奪われる。」を「 貧しい人の耕作地に多くの食糧が実っても愛がなければ奪われる。」と考えることが可能です。 愛があったら「奪われる」という言葉の代わりに「分かち合う」という言葉を用いることになるでしょう。そういう正義を生きたいものです。 |





