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「私の人参」 関根 一夫
昨日は久しぶりにお茶の水クリスチャンセンター7階にある日本臨床美術協会主催の臨床美術教室に参加しました。
毎月2回開催されているこの教室は、毎回興味深い内容の作品作りを提供しています。
その描かせ方、造らせ方が、かなり考えられていて、やっていて夢中になり、あたまがすっきりしてきて、しかも、興味深い、まさに自分ならではの作品ができあがるのです。
芸術の時間です。
昨日は素材は人参。
黒い紙の上においた人参をその形そのものを描くのではなく、別の紙に墨汁で人参の形を残して周辺を塗りつぶしていくことから始まります。
あれこれ話をしながら、色を考え、形を見、出来上がってみると、間違いなく自分の描いた人参がそこに浮かび上がってきます。
その間、一時間ほどの作業です。人参を見て、感じて、観察して、周囲の形を塗り込めて行き、あとはパステルで色を付け、完成。
もう20年以上も前からこういう指導を、特に認知症患者さんと介護している家族の方々に提供してきている臨床美術。そこにあるのは並々ならない「芸術は脳を元気に、笑顔と達成感をもたらす」ものとしての工夫研究がありました。その描かせ方、造らせ方、会の始め方、そして技術的な工夫など、まだまだ広がりはこれからです。
そして今回も若い先生が「皆さん、ようこそ来てくださいました。久しぶりでもあるので、握手させていただいて良いですか」と言いながら全員との握手から始まりました。決まったように「いてくれてありがとう」で始まるのです。 |
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【日ごとの糧】〜ローズンゲンより〜
2018.09.08
諸国の民はあなたの正しさを見王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもってあなたは呼ばれるであろう。
(イザヤ書62章2節)
門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
(ヨハネによる福音書10章3節)
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神は私達を「単なる人間のひとり」として取り扱うことをせず、ひとりひとり固有の名前をもった存在として認め、しかも自分の大切な羊のように取り扱ってくださいます。
「名前を知られる」「名前で呼ばれる」ということはそこに絆が存在し、そこに個人的な関わりが存在していることを表しています。
神様は私達ひとりひとりを名前を呼んで導き助け、守ってくださいます。つまり、私達固有の、個別のさまざまな問題をご存知で、それに対する応答をしてくださる神なのです。だからこそ、祈ることができるのは、本当に嬉しく、ありがたいことです。
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【今日の聖句】
2018.06.08
【ルカによる福音書】
20:1 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、
20:2 言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」
20:3 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。
20:4 ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」
20:5 彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
20:6 『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」
20:7 そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。
20:8 すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
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イエス様に対する嫌悪感、嫉妬、偏見はどんどん深刻化していっているように感じます。祭司長、律法学者、長老という宗教界における重鎮たちがイエス様のところに来て、いわば尋問します。
なんの権威で教えたり、癒やしたりしているのか?その権威はどこから来たのか?と尋ねているのです。いわば、どこの神学校を出て、誰の弟子なのか?というような質問です。
質問している人たちの心には、どんなところを出たにせよ、私達のほうが上だという意識が丸見えです。
イエス様は彼らの質問に対して、別の質問で応えました。「ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも人からのものか?」という質問です。
これは興味深い質問です。彼らはヨハネが神殿ではなく荒れ野で洗礼式をしていたことについて怒っていましたし、ヨハネに対して決して快く思っていなかったので、この質問には困惑しています。
「天からのもの」といえば「では、なぜ信じなかったのか」と言われるだろうし、「人からのもの」といえば「民衆はそれを許さず、我々を殺すかもしれない」と彼らは考え、「わかりません」と答えました。
イエス様はそれを受けて「それでは私もなんの権威でこのようなことをしているのか、言いません」とこの場を退けていきました。
信じる心がなければ「神からの権威」や「神の働き」はわからないものなのです。
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【コヘレトの言葉】
8:11 悪事に対する条令が速やかに実施されないので人は大胆に悪事をはたらく。
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新改訳聖書では「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行う思いで満ちている。」となっています。
この数年間の我が国の財務省などの文章改ざん問題などのニュースを聞くたびに、基準があいまいな判断に任され、身勝手な問題が起こってきて、しかも、それが罪に問われないようなことになり、収拾が困難になっている様子を見るとこのコヘレトの言葉をそのまま映し出しているように見えてきます。
「裁判で勝てれば、何をしてもよい」というような風潮が溢れており、「朝飯は食べましたか」という質問に「いいえ食べていません。(パンは食べましたけれど)」などというすり替えの議論が平然となされるに至っては、
もはや言論の誠実さが信用できなくなっているに等しいと感じます。
これは、条例で悪事を取り締まるまえに、その悪事とはなんなのかを確認する作業、彼らの既得権益の再検討、善悪についての共通理解を国会議員たちが本気になって学んでほしいものだと感じます。
この国全体の空気が、まじめに生きたらバカを見るような雰囲気になりつつあります。「何かが大きく狂い始めている」と感じます。国会議員のせいだとは思いませんが、歯止めが利かなくなりつつあるように感じます。
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