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こんにちは、ゲストさん
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【カレー屋さんで】
昨日も上野にある神学校での講座があり、授業の前に夕方上野駅で食事をしておこうと考えました。6時半から9時までの授業45分ずつ三コマなので、ちょっと何か食べておいたほうが良いと思ったのです。
上野駅構内にはたくさんお店がありますが、昨日はカレー屋さんに入りました。
インド人風の人が数人働いていて、美味しそうな感じがしたのです。
「ほうれん草のカレーとビーフカレーのセットとナン」を注文しながら「ビーフカレーを売っているカレー屋さんということは純粋なインドカレーじゃないんだな」と思いました。
でも、ちょっと、そのお肉を食べたかったのです。
サラダと2つの入れ物に入ったカレーとナン、そしてジェロのようなスイーツがついていました。
夜の講座の内容をあれこれ考えながら、美味しく食べました。
ふと気がつくと、店内からインド人風の若い店員さんがしきりに、店の前に立って話をしている三人の女性に向かって声をかけていました。
「はい、そこの方、コーヒーだけでも、お茶だけでも結構ですよ、どうぞ、お入りください」「はい、そこの方、お茶だけでもどうぞ・・・・」
これを何度も何度も繰り返しています。一生懸命学習して覚えた日本語を使って、呼び込み。その必死さは伝わってきました。
ちょっと度がすぎるだろうと思うくらい、しつこく呼び込みをしているのです。
ところがそこに立っている女性たちは振り向きもせず、見向きもせず、立ったまたおしゃべりを続けていました。
お店の入り口のすぐ前に立っていた事もあって、お店としてはちょっと邪魔だったのかもしれません。とにかく、「お茶だけでも良いですよ。コーヒーはどうですか」「どうぞ、お入りください」「どうぞ・・・」
商売熱心だなぁと顔をあげて、ここまで呼び込まれてまったく無視し続けている女性たちとは一体、どういう人達なんだろうと店の前で話している女性たちを思わず見てしまいました。
よく観察してみると、彼女たちは肌の色や顔立ちは日本人のようでしたが、日本語を話していないのです。中国か、韓国の方なのだと思います。
これじゃ、いくら「コーヒーだけでもいいですよ」「お茶だけでもいいですよ」と呼びかけても反応がないはずだと思いました。
「あの人たち、日本語わかりませんよ」と教えてあげようかと思いましたが、さりとて、このインド風カレー屋さんの店員さんたちが中国語や韓国語をしっているとも思えず、私は何もせず、様子を見ていました。
すると、そこにもうひとりの女性が大きなキャリーバッグをもってやってきてめでたく彼女たちは移動していきました。
火が消えたような静かなお店になりました。
私はしばらく、そこで呼吸を整え、授業の用意を済ませ、学校に向かっていきました。
多国籍というけれど、日本に来て必死に日本語を習得し、店を開き、日本人はそこそこ店に来てくれているけれど、日本語のわからないアジアの方々がとても多くなっている上野駅。
そういう日本人以外のお客様対応が迫られているのだなぁと思いました。。
大変だけれど、そこをしっかり固めないと、新規のお客は取れないんですよね。韓国語や、中国語での呼び込みを始めるのはいつ頃かなぁと、楽しみを増やして店を出ました。そういう対応、どの業界も同じなのかもしれませんね。ごちそうさま。
そして、いてくれてありがとう。
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【日ごとの糧】〜ローズンゲンより〜
2018.06.15
彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
(イザヤ書53章5節)
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。
(ヨハネの手紙第一 4章10節)
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今朝の聖書の箇所はまさに「イエス・キリストの福音」と呼ばれる内容そのものだと思います。イザヤ書に語られている「彼」ヨハネの手紙に出てくる「御子」共に「イエス・キリスト」のことを指しています。
彼こそ、私たちのために打たれ、懲らしめられ、傷つけられ、裁かれ、わたしたちの「罪を償うそなえもの」となって十字架で死んでくださった救い主イエス・キリストです。そしてその中心は罪ある私たちへの「愛」でした。
赦すこと、癒やすこと、神との関係を回復し、永遠のいのちと希望を提供するためでした。
死んだも同然だった私たちを生かし、整え、希望をもって前向きに生きることができるようにするためでした。
主イエスさまに、心から感謝。
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◎今夜(6月15日)フライデーナイトという集会がお茶の水クリスチャンセンターで開催されます。会場は8階ホール。説教は関根一夫、ゲストはギター奏者 斉藤聖宏さん。時間は夜7時からです。ぜひ、どうぞ。
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【今日の聖句】
2018.06.15
【ルカによる福音書】
20:45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
20:46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。
20:47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
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これと類似している内容はマタイによる福音書23章に書かれています。マタイのほうが詳しく、しかも厳しく書かれています。
宗教指導者であった律法学者、彼らは聖書を教え、また、それを生きる必要がありました。しかし、彼らは名誉を求め、偉大さを求め、自分たちの行動に対する報いを求め、高慢、見栄、偽善のトリコになっている人たちが多かったようです。
「そういう人たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」とイエス様は語りました。
そして、私たちがこういう文章を読むとき、律法学者ってイヤな人たちだな、最低だな、という気持ちで読みやすいのですが、実は、自らもこういう罠に陥りやすいことを忘れてはならないのだと思います。
私は、時々、ひとりごとのように「人一倍厳しい裁きを受ける身だなぁ」と心につぶやくときがあります。有言不実行、言行不一致、高慢、報いを求める心が毎日のように、生活と言葉、そして態度の中に見え隠れするからです。「主よ、憐れんでください」と祈りつつ、生きています。。
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【コヘレトの言葉】
9:4 命あるもののうちに数えられてさえいればまだ安心だ。
犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。
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新改訳聖書では「すべて生きている者に連なっている者には希望がある。生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。」と訳されています。
「命あるもののうちに数えられている」「生きているものに連なる」とても大切な言葉です。
私たちは簡単に「生きている」という言葉を使いますが、生きているということは「生きているものに連なり」誰か、あるいは何かの助けを借りて「生かされている」ことです。
私たちは生き続けるために、植物、動物、魚のいのち奪い、それらを糧としていただきます。そういうふうにして「生きているものに連なっていく」わけです。
また、私たちが生きることで、誰か他の生きている人たちへの励ましや支えを提供し、笑顔を分かち合い、希望を分かち合いながら、「生きているものに連なる」責任を果たしています。
私たちは生かされていることを感謝し、それによって他者を励まし、生きているものに連なる作業を継続しているのです。
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