ブログ「いてくれてありがとう」

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MACF礼拝説教要旨
2019.09.01
「富める若者の悩み」
マタイによる福音書
19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
19:23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。
19:24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。
19:26 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。
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ルカによる福音書14章
25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
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ここに登場する一人の青年は、間違いなく真面目な人だったと思います。
そして真剣に「神に喜ばれる生き方」を考えていた人だと思います。努力家でまじめな青年です。
ところが、イエス様との話し合いの中で彼は失望して去っていくことになりました。
なぜだったのでしょう。何が問題だったのでしょう。
イエス様が指摘したかったことはどんなことだったのでしょう。
1)義務感としての「律法遵守」
彼は十戒を守ってきました。それ自体に対する達成感もあったかもしれませんが、とにかく自覚できるくらい「守ってきました」
この意識は放蕩息子の物語に出てくるお兄さんの意識と似ています。ルカによる福音書15章
15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
これは決して悪いことではないのです。しかし、神の願いは義務感で生きるのではなく、自由に生きるあり方だったはずです。

2)完全になりたいのなら
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
イエス様はこの青年に向かって「自分の持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい、そしてイエス様に従うように」と勧めました。
「完全になる」という言い方は「神に受け入れられる」という意味が含まれていると思います。神に受け入れられる、あるいは神からの豊かな祝福を受け取りたいと思うなら「自分の持ち物を売り払い」ということになります。

3)自分の持ち物を売り払い・自分のいのちさえ憎むとは
平行記事としてあげてあるルカによる福音書14章には
イエス様の弟子として歩むためには「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」
とあります。これは一体どういうことなのでしょうか。
物理的に「売り払う」「家族さえ憎む」ということではないと思います。
自分の中に育ってしまっている「先入観」「常識となっている発想」のひとつは「わたしには、これらのものがなければ幸せになれない」というのがあります。
「自分の持ち物、宝物、お金、父、母、妻、子、兄弟、自分の命、健康などなど」がなければ自分は決して祝福されない、幸せになれない、神に喜ばれる生き方はできないという発想が私たちの中にはあるのです。
これがおそらく一番根深い、私たちの問題かもしれません。
「外付けの何か」にしがみついて生きているのです。
イエス様はそれを指摘していて、それらすべてがなくても「神を味方に生きられたら幸せになれる」と教えようとしているのです。

4)悲しみながら
この青年は悲しみながらイエス様の元から離れて行きました。イエス様は「金持ちが天の国に入るのは難しい。ラクダが針の穴を通るより難しい」と語りました。
そのくらい、「ものへの執着、外付けの宝物への執着」は強いのです。一旦、それらへの執着がある自分に気づかされたら、それを認め、神様、これらのものをあなたにお預けしますので、私を祝福してください」と祈れたら良いのです。あるいは「わたしは自分への神からの祝福を、どんなものより真剣に求めます」という意識を育てることが重要なのです。

そこで「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」という言葉からの説明を加えておきたいと思います。
あなたが誰かを愛しているとして「わたしはあなたを愛し、あなたのためなら自分は不幸になってもかまいません」と告白したとしましょう。
一見、この告白は犠牲的な意識に溢れた素晴らしいもののように聞こえます。また、それを受けて相手も「私もあなたの祝福のためだったら自分が不幸になってもかまいません」と伝えたとして、ふたりがうまくいっている間は良いのです。しかし、一旦関係がこじれると「不幸な人がふたり生まれ、二人が責め合う」こと必至です。
本来は、「私はあなたを愛していますが、自分への神からの祝福を得るために、あなたに対してノーということがあります」と正直に告白できないと「愛し合う」ことの継続は難しいのです。
つまり、父母妻子兄弟のために「自分の祝福を捨てたり、自分を殺してしまってはならない」のです。
それがイエス様の教える「父母妻子兄弟を憎む」という言葉の意味です。
神様はあなたの祝福を願い、また父母妻子兄弟の祝福を願っておられます。だからこそ、双方に限界を設ける必要があるのです。
できないことはできないと言える関係、無理は無理と言える関係がないと、両方とも不幸になっていきます。

「そして自分の十字架を負って」とは自分の恥を認めつつ、自分の不足を隠すことなく、自分を生きるという意味になるでしょう。それこそが神からの祝福を受け取りつつ生きる秘訣なのです。
この青年は、せっかく真面目に生きていたのに、外付けの宝ものに握られてしまっていて、幸福を逃すことになりました。犠牲心も忠誠心もあったと思いますが、神からの愛、神への愛には気づいていませんでした。
もっともっと神に愛されている自分を大切に考える必要があると感じます。
もっともっと、神の愛の中に置かれている自分の存在価値を認め、自分を大切にして、丁寧に生きることを進める必要があると思います。自分への神の恵みをしっかり追い求めつつ生きるのです。
私たちは人のいのちを背負うことはできません。
一緒に寄り添って歩むことも不完全にしかできません。
自己犠牲は綺麗な言葉ですが、そこには無理があり、双方を幸せにする要素はありません。いつまでたっても強い人は強いまま、弱い人は弱いままです。
神は、あなたにもわたしにも「祝福を用意」しておられます。
自分に何一つ良いものがなくても、他者に対して誇れるものなどなくても良いのです。神はあなたの存在そのものを大切だと認めてくださるからです。
それを信じていますか?
そのためにこそイエス様のいのちを提供してくださったことを本気で信じていますか?
あなたもわたしも神の愛の対象なのです。その愛をしっかり受け止めることに焦点をしぼって生きるのです。

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