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MACF礼拝説教要旨
                  2017.05.14
「心の貧しい人々への祝福」
(マタイによる福音書5章)
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
+++
この言葉は有名なイエス様の山の上の説教の冒頭の部分です。これは弟子たちへの説教です。
この説教の理解の仕方はいろいろあるのですが、今日は「神の祝福への道」としての山上の説教を考えてみます神の祝福を受けるべく、私たちの心は聖霊により、み言葉により整えられていきます。

1)心の貧しい人々
フランシスコ会訳の聖書では「自分の貧しさを知る人は幸いである」となっています。
実際には「霊において貧しい人」は幸いというのが原文です。私たちは、日常的に、健康でお金があって、能力があって、人間関係がうまくこなせれば上出来だと考えがちです。それ以上何も望むものはないとさえ考えている人達が大勢いらっしゃると思います。
それらの人たちは「貧しい」わけではなく、むしろ「豊か」です。
イエス様がこの教えを語られた当時の社会と比べたら、私たちの現在の生活など、上流社会のそのまた上のくらいの人たちの生活水準よりも高いくらいの豊かさがあるかもしれません。
そういう意味では、無理やり自分の足りない部分をさがしたり、貧しいふりをしなくてよいのです。

2)問題は「霊において」という部分
パスカルは著作の中で「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造主である神以外によっては埋めることが出来ない。」と書きました。
人は、その空洞をみんな持っているようです。この空洞以外の部分は、能力やお金や人間関係をうまくやっていくことで満たすことができるのです。しかし、人間にとっての最大の、もしかすると最後の空洞は自分自身では埋めることができません。
人間は神によって創造されたので、神によってのみ、この空洞は埋められるのです。そして、神は霊的なお方ですから、私たちは霊的な意味で、本当に貧しく、自分でどうすることもできません。
例えば、礼拝に来て感動したり、ふと心にメッセージが届いたりするのは、神さまが働いてくださって、霊的な面での「取扱い」をしてくださっているからなのです。

3)自覚の難しさ
 ルカによる福音書の中にイエスさまが語った物語が描かれています。ルカ18:10〜
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
++
ここに出てくる徴税人は「心の貧しい人」と言えるでしょう。
それに反してここに登場するファリサイ派の人は「豊かで自信満々」に生きていた人であり、社会的にもそれなりの評価を得ていた人と考えることができます。そして、彼はどこかで、わたしの社会的影響力や実際に実行してきた神殿への献金や奉仕を考えれば、神はきっとこのわたしを満たし、祝福してくださるはずだ」と固く信じていたのです。

しかし、神様が受け入れてくださったのは「心の貧しさを知っているこの徴税人」だったとイエス様は語りました。
ここで用いられる「罪人」という言葉は犯罪人という意味よりも、むしろ、神の心に従い得ない心、知らず知らずのうちにずれてしまう心をもった存在という意味です。

3)言葉での表明
徴税人は「謙遜」「悔い改めの心」「憐れみと赦しを願う心」「心を洗って新しく出直しを願う心」がありました。自分では自分の心の霊的空洞をどうしても埋めることなどできないと知っていたからです。
しかし、ファリサイ派の人は、自信満々です。でも、それを一応、体裁よく隠して、心の中でこう祈ります。
「『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
これだけやっているのだから、神様に祝福されるのは当たり前、霊的にもきっと満足度の高いものをいただけるはずだと過信していたのです。

「心の貧しい人々は幸いです」とイエス様は語りました。「天の国はその人たちのもの」と続けました。
「神様、私はあなたから祝福を受け取る資格も実力もありません。でも、私にはそれが必要であり、それなしには生きていけません。どうぞ、こんな私を憐れんでください」
こう祈れる人は、まさに「心の貧しい人」ということになります。私たちは霊的な面での満たしのためには、常に神さまと結ばれている必要があります。
自分の「霊的」貧しさを認め、常に神さまに心の空洞を満たしていただきつつ生きること、そこに幸いな人生が開かれてくるのです。
一番の問題は、その貧しさに「気づけるかどうか」なのかもしれません。

【今日の聖句】2017.05.13

【今日の聖句】
2017.05.13
【マルコによる福音書】
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
 2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
 2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
 2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
 2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
 2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
 2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
 2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
***
律法学者たちは、「子よ、あなたの罪は赦される」というイエス様の言葉を聞いてイラ立ちます。
「そんなこと言葉だけなら簡単だ、それで済むと思うならお前はペテン師だ」という気持ちと「そんなことを本当に実行できるのは神様だけだ、このままやり過ごすならお前は神を冒涜している」
という気持ちが混ざり合ってイエス様への軽蔑と怒りが頭をもたげます。優越感からの不信でいっぱいなのです。

イエス様は、それを見抜いて、彼らに質問します。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」
そして間髪いれずに「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と続きます。

つまり、イエス様には病気を癒す力も罪を赦す力もあるのです。当時は特に「罪の赦し」がもたらされれば「健康になる」という発想が強かったので、人々は驚き、神様を賛美しています。
人に運ばれなければ動くことが出来なかった人が癒され、起き上がり、自分の足で家に帰っていきました。目の前で「罪の赦し」と「病気の癒し」が宣告され、そのとおりのことがもたらされました。
イエス様の教える「神の国」の内容の一部が、この中風の人にもたらされたのです。
「意欲が戻り、病気が治り、自分の足で立ち、心が軽くなり、神を賛美する人として生きる」という出来事のひとつひとつを神様は私たちに届けようとしているのです。
福音とはそういうものです。土台にあるのは、神様の方からの「恵み」です。

イエスという一人の人を通して神様がそんなことをするはずがない、と律法学者たちは考えていました。イエス様を神のひとり子、救い主とはまったく考えていませんでしたから。
でも、実際目の前でこういうことが起こったわけですから、イエス様を信頼してもよさそうなものですが、自分の心に頑固な反イエスというか敵愾心のようなものがあって素直に神さまの恵みのみわざを喜ぶことができないのです。
イエス様への信頼、イエス様を救い主とうなずくことなどは、神様の恵みが私たちの心を押してくださるからこそできる事柄のようです。神さまが啓示してくださるからこそ、うなずけるのです。

++++

【箴言】
18:24 友の振りをする友もあり、兄弟よりも愛し、親密になる人もある。
+++
新改訳聖書では「滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。」と訳されています。
フランシスコ会訳ですと「傷つけ合う友人もあれば、兄弟以上に親しい者もある」とんっており、それぞれ特徴がでているような訳になっています。
主旨はどれも同じで、関わり合うことによる幸不幸が描かれています。
人生の中で、どういう人を友として歩むかによって、私たちの心がすさむこともあれば、豊かになることもあります。
「世には良き友も数あれど、キリストにまさる良き友はなし」という聖歌の歌詞を今、思い出していますが、キリストとだけおつきあいをして生きていくわけにはいかないので、リスクを覚悟で、何人かの人たちとおつきあいをしながら人生を旅することになるわけです。
そう考えると「滅びに至らせる友人たち」という言葉は強すぎるように感じます。「友のふりをする友」「傷つけ合う友人」だったら、体験的なわかるような気がします。
最近はそういうリスクを恐れすぎて友人を作らない若者たちが多いと言われています。
でも、私たちはいろいろなタイプの友人たちによって磨かれ、教えられ、成長のための重要な経験をさせてもらえているように感じます。
ときに痛い経験もしますが、それらは決して無駄なことにはならないように思います。

【今日の聖句】2017.05.12

【今日の聖句】
2017.05.12
【マルコによる福音書】
 2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
 2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
 2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。
 2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
 2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
****
いわば、人々が集まりすぎてしまった家庭集会の真っ只中の出来事。
4人の人が中風の人を運んできて、家に入れないとわかると、その家の屋根にのぼり、イエス様がいるあたりの屋根をはがして穴をあけ、その病人をマットごとつり下ろしたというのです。
そういう風にしてでも、この人をイエス様に会わせたかったし、迷惑とはわかっていてもそういう風にしてこの人に元気になって欲しかったのでしょう。
イエス様のところに連れて行きさえすれば、きっと憐れんでいただける、きっと何かしら愛を注いでいただけると信じていたのです。イエス様のところにいけば、何か良いことが起こると期待していたのです。

イエス様の応答は興味深いものがあります。「イエスはその人たちの信仰をみて、中風の人に、あなたの罪は赦される」と語ります。
その中風の人が懇願したので、癒しが届いたというのではないのです。4人の友達の愛にあふれた支援的な行為を見て、イエス様が動いたのです。
私たちの心の中には「あの人が信仰を持たないからダメなんだ」と批判し、非難する心はないでしょうか。
もし、イエス様が4人の友人の支援的な行動の背後にある信仰を見て、癒しが実行されたとすれば、私たちが誰かのために「イエス様に祈りつつ、支援的に愛を傾けるなら」イエス様はそこに祝福をもたらしてくださるのです。
そして、その結果、その人はイエス様に感謝することができるようになるかもしれません。
あなたが、誰かを愛し、誰かの祝福を願いつつ、その人の状況をイエス様に知っていただくなら、その人の生活の中にイエス様の祝福が届きます。パウロが語った「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31) という言葉には説得力があります。
祝福を受け取りたい人が必死になって懇願するというのもひとつの形ですが、祝福を何としてもあの人に届けて欲しいと願いつつ祈る私たちを通してイエス様の祝福があの人のところにもたらされるのです。
自分の問題だけでなく、あなたの心に大切な人として存在しているあの人、この人に、イエス様からの助けが届くために、祈りましょう。
あの人のことも、この人のことも、イエス様のところに持って行きたいですね。
一緒にイエス様のところに行けたらもっと良いのでしょうね。
祝福がありますように。 

++++++

【箴言】
18:23 物乞いをする者は哀願し、金持ちは横柄に答える。
+++
新改訳聖書では「貧しい者は哀願するが、富む者は荒々しく答える。」と訳されています。
フランシスコ会訳の聖書では「貧しいものは哀れっぽい口調で語り、金持ちはけんもほろろに答える」となっています。
これは社会の中の象徴的な一面が切り取られて表現されている言葉です。
「貧しい人の懇願、お金持ちの横柄さ」
いつの時代でも貧しい人は存在しましたし、これからも存在するのだと思います。でも、そういう人たちへの心をどのように表明するか、それは豊かな人に託された大事な宿題のように感じます。いつまでも、横柄な態度を続けることは神の喜ばれる生き方ではありません。レビ記にはこう書かれています。
19:9 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。
19:10 ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。
19:13 あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。
19:14 耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。
19:15 あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。
19:16 民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。
++
「お金持ち」として生きていられるとすれば、あなたの努力,家系の財力、仕事の幸運に加えて神の恵みがあったことを深く感謝し、そうでない人たちへの配慮を「偉そうにではなく、当たり前のこととして」実行できるようになれたらいいですね。
誰かの祝福を願う心、支援の心は尊いものです。

【今日の聖句】2017.05.11

【今日の聖句】
2017.05.11
【マルコによる福音書】

1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
 1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
 1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
 1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
 1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
 1:45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
*******
重い皮膚病にかかっている人にとって、社会の目は厳しいものがありました。
それは彼らが「汚れた者」という差別を受けていたからです。彼らは人に触れることができず、街に入るときには「汚れた者です!」と叫ばなければなりませんでした。
毎日が屈辱的な日々だったのです。そこでイエス様のところにやってきて「御心ならば、私を清くすることがおできになります」と懇願すると、イエス様は深く憐れみ、手を差し伸べてその人に触れ、清くなれと命令し、その人は清められ、癒されます。
イエス様は、社会的な弱者と見られているその人に、深い憐れみを向け、人が触れることがなかったその人の体に触ります。
触ったらその人は汚れると思われており、社会の中からはじき出されているこの病人のために、イエス様は神の愛を示しました。そして、その人は社会復帰できるようになりました。イエス様は悩む人と目の高さを合わせてくださいます。触れてくださるのです。

そのとき、イエス様は「このことを人に話さないように」と注意を与えます。
しかし、彼は喜びのあまり、個の出来事を自分の言葉と自分の理解で言い広めてしまいます。その結果、イエス様の動きが拘束されることになり、イエス様の働きが著しく妨げられることになってしましました。イエス様への信頼やイエス様についての理解が不十分のまま大いに言い広めることは、一方的な「うわさ」を広めることと同じになり、収拾がつかなくなってしまいます。
自分の身に起こった奇跡ですから、うれしくて人に伝えたいという気持ちはわかりますが、その結果がいつでも良いものになるとは限りません。特に、それをしないようにと厳しく戒められているのに、噂を流してしまう場合には、重大な問題を引き起こすことになります。
イエス様は決して有名になろうとしているわけではないのです。
病気を治す不思議な人としての評判を高めようとしているわけでもありません。奇跡を
行う人として名前を売ろうとしているわけではないのです。
ですから、イエス様について何を語るのか、何を知らせるのか、実はとても慎重に考えなければなりません。イエス様は「神の国」を教え、人々をそこに迎えるために十字架による贖いの死が重大な使命だったのです。人々はまだそれを理解していません。
その道が妨げられる危険があったのです。
思いがけない「噂話」はイエス様を極端に不自由にしてしまいました。悪意がないからこそ余計に始末が悪いものになりました。何をどのように伝えるのか、言葉と内容に吟味を加え、言うべきことをきちんと伝え、言わなくても良いことを黙っている勇気と知恵が必要です。私は最近、沈黙することの重要性をとても真剣に考えています。
自らが語らなくても、どこか生活そのものの中に輝くものが見えさえしたら、言葉以上の説得力を持つことがあると感じます。
言葉を選べる人、そして沈黙の中に何かを表現できる人になりたいものです。
彼は「礼拝者」として神様に感謝すべきだったのだと思います。
それが祝福を受け取った人の態度の原点です。
人に何かを話すことより礼拝者として生きること、もしかすれば何を語ろうかと考える事以上に、感謝を沈黙の中でどのように態度で示しつつ生きるかを考えることが大切なのかもしれません。

+++

【箴言】
18:22 妻を得るものは恵みを得る。主に喜び迎えられる。
++
新改訳聖書では「良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、【主】からの恵みをいただく。」と訳されています。
ちなみにフランシスコ会訳の聖書では「妻を見つける人は大きな幸いを見つけ、主の恵みを受ける」となっています。
男性にとっての結婚の重さ、女性にとっての結婚の幸いは、感じ方が違う面があるかもしれませんが、新改訳聖書の言葉は、いかにもプロテスタントの人たちの訳だなぁと感じます。
というのはカトリック教会においては結婚は秘跡のひとつとして理解されているので、結婚自体の中に特別な神の祝福があると考えていて、妻が良いか悪いかなどは関係なく、
結婚そのものの意義をとても重大なものとして訳しているのかもしれません。
プロテスタントの人たちにとって結婚は幸いではありますが、どういう人と結婚するかによってその人の幸不幸が決まってしまう事があり、必ずしもすべての結婚が幸いとは言えないという考え方があるように思います。

それはそれとして、結婚は神さまが人間のために制定してくださった大きな祝福であることには違いありません。宗教、人種に関係なく結婚は重要課題であり、大切にされるべき出来事です。
そして、結婚生活を継続する時、そこには困難や問題もありますが、基本的には大きな幸いをふたりで見つけることができる可能性があり、継続のための恵みを神からいただくことができるのだと聖書は教えています。
ちょっとこの箇所、原文ではどうなっているのかチェックしたくなりますね。
祝福がありますように。

【今日の聖句】2017.05.10

◎今週の金曜日、バイブルワークショップが開催されます。ローマの信徒への手紙の学び最終回です。1020amと1920pmの2回。OCC 404号室です。ぜひ、どうぞ。
+++
【今日の聖句】
2017.05.10
【マルコによる福音書】
1:35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
1:36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、
1:37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
1:38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
1:39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
****
イエス様の日常は、朝早いうちから始まりました。まだ暗いうちにとありますが、祈りを日課としていたのです。
祈りは父なる神様との交わりの時間であり、心を整えてその日の歩みをしっかり進むために必須でした。
昼間は説教や癒し、悪霊の追い出しなど人への奉仕で「与える」ことの多い時間になっていましたから「受け取る」ための時間は朝の祈りの時間しかありませんでした。
そこで、人間的な言い方をすれば英気を養い、展望を広げ、意欲を燃やしてその日の歩みが始められたのです。
イエス様は、弟子たちにもその時間のことをあまりお話になっていなかったようで、弟子たちはイエス様を捜しに来ました。
イエス様は、意欲的に宣教への熱意を語ります。
「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」
宣教への意欲は、まさに朝の父なる神様との交わりの中で、祈りの中で養われたようです。
そこには、群集のざわめきや噂話による扇動には動じることなく、淡々とご自分のペースで神様のこころを実現しようとするイエス様の謙遜な姿が書かれています。
柔和さ、謙遜さ、そして奉仕へのタフさ、明確な使命の確立などが、朝の祈りを継続する中で備えられ、整えられていったのです。

朝の時間、いちばん忙しい時間でもあり、一番眠い時間でもありますが、その日のための英気を受け取るためにはとても大切な時間でもあるはずです。
イエス様は、朝をそのように利用しておられたのです。
あなたの朝が、清々しいだけでなく、神様との交わりのために有効に活用されますように。

++++++

【箴言】
18:21 死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう。
++
新改訳聖書では「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」となっています。
前の節とのつながりで読んでいくともう少し理解が広がるかもしれません。前の節の言葉は「人は口の結ぶ実によって腹を満たし唇のもたらすものによって飽き足りる。」
となっていて、やはり「言葉」のことが語られていました。これは、各人が「語った言葉に対する責任」があるという意味があります。
21節は「言葉」によって「長寿と繁栄」を得ることもできるし、逆に「短命を刈り取る」ことになる場合もあるという比喩とされています。
だからこそ「舌の力」となっているのです。
自分で語った言葉で人を潤すこともできるし、人から語られた言葉で自分が慰められることもあります。逆に、人を傷つける言葉もあるし、傷つけられたと感じる言葉もあります。
態度での「威圧」もありますが、それに激しい言葉が加わると、圧力は倍加します。
逆に、笑顔と優しい言葉が添えられると心がなごみます。
それは、きっと「生き心地の良さ」に大いに影響します。そして、当然、健康面にも大いに影響があるのだと思います。

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