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【 今日の聖句 】
2017.05.09 【 マルコによる福音書】 1:29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
1:30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 1:31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 1:32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 1:33 町中の人が、戸口に集まった。 1:34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。 ******** 会堂で汚れた霊を追い出した出来事に続いて、シモンのしゅうとめの熱を下げ、多くの病人を癒し、悪霊を追い出すという出来事が一日の出来事として書かれています。 キリストが神の国を宣べ伝え、キリストがもたらす祝福を「病気からの解放」「悪霊からの解放」という形で表現しているのです。もちろん、これは神の国の祝福のすべてではありません。 また、すべての病気が即座に癒されてしまったということでもありません。 キリストは病気に対しても悪霊に対しても権威を持っておられ、癒す力と追い出す力を持っておられるということです。 興味深いのは、イエス様のところにやってくる人たちは、本当のところ、この方がどういう方なのかはっきり知らずに集まっています。むしろ悪霊たちだけは、イエス様がどういうお方なのか承知していることが書かれています。
これが現実です。 悪霊にものを言うことをお許しにならなかったとありますが、悪霊がどんなにイエス様を知っていてその権威を認めても、人々には奇異に映るだけで何の利益にもならないばかりか、悪霊の親玉と誤解される恐れさえありますから、ここでの禁止は理解できます。 人々は好奇心と評判だけでイエス様のところにやってきました。そして癒され、解放され、自分の健康が回復するとあっという間にその祝福を当たり前のこととしていくのです。
確かに健康は宝物です。でも、イエス様がやってきたのは、からだの健康だけのためではありませんでした。神様との関係回復、関係修復のためだったのです。あるいは心の一新をもたらすためでもありました。 病を癒し、悪霊を追い出すことのできるこのイエス様は、私たちの心を創りかえ、神様との関係を新しくすることが出来る救い主なのです。でも、確かに健康って大きな祝福ですよね。 心もからだも健康でありますように。 お祈りしています。 ++++
【 箴言】
18:20 人は口の結ぶ実によって腹を満たし、唇のもたらすものによって飽き足りる。 +++ 新改訳聖書では「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。」 人間関係における「言葉」の問題や「言葉によって得られる信頼関係」は、私たちの人生を大きく左右し、祝福や悲しい結末を刈り取ることに繋がって来ます。 「ああ、あんなこと言わなければ良かった」と心を痛めた経験は辛いものです。 また、言葉によって信頼を得た人の中に育つ、心地よさや、収穫に類することは活き心地を良くします。 言葉は、本当に難しいものですね。 言葉を丁寧に選び、祝福を刈り取る対話をたくさん経験できるといいですね。 |
キリスト教
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昨日のMACF礼拝映像はこちらです。祝福がありますように。
【今日の聖句】
2017.05.08
【マルコによる福音書】
1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
**********
突然会堂で叫び声がしました。自分の説教の最中に叫ぶ人がいたら、ちょっと戸惑います。しかし、この人の場合、その叫び出した理由は明確でした。
汚れた霊がその人の中にいて、イエス様に対して恐れを持ち、その人を叫ばせたのです。
汚れた霊と言われている存在の叫び出した内容はイエスをキリストと認めるものでした。
1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」つまりイエスが誰なのか知っているのです。
また認めているのです。
しかしイエス様は容赦なく、その霊を追い出します。
私が誰だかわかっていて信じているのであれば、それで良いなどとは言わないのです。
圧倒的な権威でその霊を追い出してしまいます。
キリストの教えと存在に極端に居心地の悪さを感じたのでしょう。大声をあげて威嚇し、騒ぎ出します。キリストの教えが妨害されたのです。汚れた霊は、病気を引き起こし、キリストの働きを妨げます。
もちろん、彼らはキリストの権威の前では何者でもありません。まったく歯向かうことはできないのです。しかし、人の心に住んで人を不幸にすることはできるのです。
キリストは、そういう力から解放するために来てくださいました。
人間はいろいろなものから影響を受けますが、霊的なものからの影響も少なくありません。私たちが心に歓迎すべきものは、神様からの霊、すなわち聖霊です。
人の心に住んで祝福をもたらすのは、「父なる神様がお遣わしくださる、もうひとりの助け主、聖霊」なのです。キリストと同質の力を持っている聖霊こそ、私たちが心に歓迎すべき霊的存在です。
神様は、それ以下のものが人間の心を支配することを好まないのです。「霊的」と言われているからといって安易に深入りしたり、悪ふざけすべきではありません。
神様がご自身で私たちを守り、祝福しようとしているのに、それ以外のいわば「偽の神々」が心を支配してしまうことになるからです。
キリストは「神の国」をもたらすべく、来て下さいました。
心が聖霊の住まいとして整えられるとき、神の国はそこに到来しているのです。
祝福がありますように。
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【箴言】
18:19 一度背かれれば、兄弟は砦のように、いさかいをすれば、城のかんぬきのようになる。
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新改訳聖書では「反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。敵意は宮殿のかんぬきのようだ。」と訳されています。
こちらのほうがわかりやすいように感じます。
身内であればあるほど、敵対心や反抗心、猜疑心は表に出にくくなったりすることもあり、関係修復には時間がかかることがあります。
詩篇では兄弟が一緒に食事をしている場面を描き、こう書いています。
「133:1 見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」
赦し合うことは、親子、兄弟、夫婦、など近親者ほど難しいのかもしれません。神さまの助けがどうしても必要ですね。忍耐と親切な心を互いに育てつつ生きたいものです。
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MACF礼拝説教要旨
2017.05.07 【空の鳥・野の花、そして神の国】 マタイによる福音書6章 6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。 だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、 思い悩むな。 6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 +++++ 1)「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」 イエス様の話を聞きに集まってきた人たちは、貧しい人たちが多かったと言われています。ですから、聴衆の毎日の心配事はまさに「何を食べ、何を飲み、何を着たら良いのか」という素朴な日常的な出来事すべてでした。 しかし、これは今を生きる私たちにとっても、日々の心配事、あるいは日々最も自分の考えている出来事の中心的課題かもしれません。 衣食住に関する問題、仕事の問題、人間関係の問題、それぞれ日常的な出来事で心配しないわけには行かないように感じます。そのことについて避けて通れないからです。 食事に関していえば、断食を数日やってみると、どれほど自分の脳が食べ物のことについて何にも増して活発に活動していたかよくわかります。 2)思い悩むな イエス様は「空の鳥を見なさい」「野の花を見なさい」と聴衆に訴えます。 日常的な事柄に関する心配が山積みなのに、そんなことできるはずはないと、私たちは考えやすいですが、イエス様は敢えて、それをしなさいと勧めました。 ひとつには、意識を別のところに向けることで、落ち着いて現実的な問題について考えることができるようになるキッカケ作りという面があるかもしれません。 しかし、本質的なことを言えば、鳥や花のいのちの中に溢れている神の愛、神の恵み深さを思い巡らしなさいということだと思います。 それによって、神が間違いなく私たちに対するケアをしてくださることに思い至る必要があるのです。 3)まず神の国と
そこでイエス様は大胆なことを語ります。 衣食住に関する心配は当然あるのですが、あえて、「まず、第一に神の国とその義とを求めなさい」と語っておられるのです。 そして、その順序が確定できたら、間違いなく必要物に関する提供があるとイエス様は教えています。 順番が重要なのです。まず、神の国。この神の国というのは、神の愛とケアの心による支配という意味です。そして、それを求めつつ生きるというのは、神が私たちを見捨てず、私たちの王であり、主であり、私たちの父でもあることをしっかり認めつつ、その御方にとっての最善を願いつつ生きるということです。 「神の義を求めつつ」これは神による正義の実現、神との和解、神の助け、解放、救い、赦しを求めつつ生きるということです。日々の生活の中で、何を食べようかと心配する前に「今日も神さまの支配の中に生かされていることを感謝します。神さまにとっての最善が私の今日の生活の中に実現しますように。私の罪を赦し、私が神さまの心に沿った歩みができますように。」という祈りの心で生きるのです 4)必要物の提供 イエス様は、「6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と教えました。 神さまは私たちが飢えに苦しむことを喜ばれません。私たちが衣食住で苦労することを喜ばれません。そして、私たちに何が必要なのか一番良くご存知です。 その御方は、私たちの必要物を満たしてくださいます。 私たちの目が鳥や花に向かい、神の恵みを発見し、神を賛美し、神の支配の中に生かされていることを信頼して感謝し、神の心のままに活かしてくださいと祈りつつ生きるなら、私たちのための必要物は、不思議にも整えられ、提供されるとイエス様は教えているのです。 祈ればなんでも欲しいものが与えられるわけではないでしょう。 欲しいものと必要なものとは区別が必要です。 大事なものが何なのか、考える順番を意識的に変える必要があるかもしれません。 ものの欠乏に悩む時、その事柄から意識を離して、別のことを考えるのは難しいものです。しかし、あえて、それをしなければ、私たちは問題の中に自分が埋没してしまい、自分で自分の首を締めてしまうことになるのです。 さぁ、神さまに心を向け、あえて、感謝をささげ、その恵みとケアの心を受取り、生かされていることを感謝してみましょう。 自分の必要物をちょっと脇において、考えにいれず、神さまに生かされていることだけ、神さまの心が実現することだけを願って祈ってみましょう。 悩みの中にいるときは、そのことへの時間がまったく取れていない事が多いのです。 信じて、神への感謝をしっかり言葉に出して神さまに伝えましょう。 そして、心の中に神さまの領分をどんどん増やしていきましょう。 それで心がいっぱいになっているときには不思議にも必要物も備えられている事が多いのです。 |
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【今日の聖句】
2017.05.06
【マルコによる福音書】
1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
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イエス様の聖書の教え方についてのコメントが書かれています。
「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」と書かれています。
律法学者は、聖書に解釈を付け、その解釈は昔のあの教師も教えていることだという形で勧めをしていたようです。いわば文献学です。常に後ろ向きなのです。でも、彼らは博学を誇っていました。
イエス様は、「わたしは、あなたがたに言います」というような形で教えたので、律法学者の語り方とは全く違っていました。
その内容は、人々が驚くようなものであり、ある部分では律法学者が激怒するようなものでもありました。いわば、旧約の定説を覆すような教えだったのです。
つまり、イエスキリストの権威は、独立したものであり、神から遣わされた御子としての権威がそこにはありました。それは人々が見たことも聴いたこともないようなものでした。
イエスキリストの存在を前にすると悪霊がおびえるような権威、汚れた霊を追い出すことができるような権威がイエス様の存在自体にありました。
いわば、人間的な権威と神様からの権威の衝突が始まっているのです。
その闘争は激しさを増していきやがて律法学者たちは「怒りと殺意」で対抗しようと謀議をはじめるほどになります。
会堂での教えの描写はその一幕目とも言える大事な出来事になります。
人間は、神様の権威をそもそも好きになれないのです。
愛に満ちた、優しいイエスキリストは好きになれても、権威ある存在としてのキリストをなかなかうなづくことができないのが私たちの心です。
ですからイエスキリストを信頼するこころが育つのは実に不思議な出来事と言わなければなりません。
イエスキリストの権威の下に自分の身を置き、それを喜べるというのがクリスチャンの姿です。それはまさに、神様の働きがあったからこそ、喜べるようになったと言える出来事なのです。
愛に溢れたキリストは、権威ある存在として、私たちに語りかけてくださいます。
「しもべは聞きます。主よ、お語りください」と応答したいものです。
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【箴言】
18:18 くじはいさかいを鎮め、手ごわい者どうしも引き分ける。
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新改訳聖書では「くじは争いをやめさせ、強い者の間を解決する。」となっています。
くじの効用というのも使いようでいろいろあるようです。
本多静六という人の「生活流儀」によると「家庭内で意見が対立した場合、2度までは意見を主張し、三度目はジャンケンで決める。すると朗らかに解決される。」というのがありました。
旧約の時代に有益だったクジ、現代社会でも、いさかいを鎮めるためのクジがあるといいのにと思います。
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【今日の聖句】
2017.05.05
【マルコによる福音書】
1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
********
「人間をとる漁師」という表現はエレミヤ書の中にある預言の成就です。
「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。」(エレミヤ16:16)
文字通り漁師を仕事としていたシモン、アンデレ、ヤコブとヨハネはイエス様の呼びかけに即座に応え、網を捨て、家を離れて付き従います。
「人間をとる漁師にしよう」と言われたことが、彼らにとってとても重大な意味と価値を持つものだったのです。
おそらく、イエス・キリストの権威や不思議な魅力を肌で感じていたのかもしれません。
間違いなく、今まで彼らが考えたこともない「神様からの大事な使命」「宣教者、預言者」という方向をしっかり感じ取っていたに違いありません。
この呼びかけは単に信仰への招きではありません。
特殊な使命のための招きです。ですから、イエス様が誰にでもこういう使命を与えているわけではありません。
さて、人間をとる漁師になるには、プロセスを踏まなければなりませんでした。少しずつ整えられ行く必要がありました。
その第一歩は「イエス様の呼びかけに、他の物を後ろに残してでも従う」ということでした。「従順」はいつでも弟子としての訓練の中では最重要の要件です。イエスキリストの権威の前に「はい」と従うこと、「網を捨てて」という表現は、生活の糧についてもキリストに信頼してついて行ったということになりますが、本当にキリストが呼んでくださったのであれば、すべての必要物が備えられるでしょう。彼ら4人は仕事を離れ、家を離れて従うことが必須でした。
そして、彼らは即座に応答し、従いました。
私たちにも、キリストは従うべきことを求めておられますが、個人個人によってその内容は違います。
キリストを信じたらすべての人が仕事を捨て、家を捨てなければならないのかと怖れる必要はありません。それぞれの尺度での従順が求められています。
ある人にはキリストを心に歓迎するようにと求められており、ある人にはキリストの愛を隣の人に分かち合うようにと促されているはずです。
また、別の人には時間を確保して聖書に向かうように、ある人には伝道者になる決心をするように、人それぞれ、キリストは心に励ましや招きの声をかけてくださいます。
しかし、実は、そういう招きや命令を心に聞き、それにしっかり応答するたびに
「神の国の民」とされていると実感できるのです。そして「従うこと」が苦痛ではなく、むしろ喜びに変わるのです。
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【箴言】
18:17 訴えごとを最初に出す人は正しく見えるが相手方が登場すれば問いただされるであろう。
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新改訳聖書では「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。」となっています。
当たり前のことが書かれているのですが、こういう言葉を読むと実に細かいところまで人間を観察し、社会を知っている人の言葉だなと感心してしまいます。
確かに、物事に対するクレームは、声高に最初に声を上げた人の意見がどうしても印象に強く残ることもあって、正論であるかのように聞こえます。
しかし、それについて、当事者である相手方の意見をしっかり聞いた上で検証してみると、そのクレームは的外れだったり、その要求は不当だったりすることがあるものです。
問題は双方の意見をしっかり聞かないと、正しい判断ができないということが結論として出てきます。
これは国と国の問題もそうでしょうし、会社と会社の争いも、個人と個人の争いも同じですね。
しかし、現代社会においては、誰かの訴えを聴いて、それをそのまま真に受けて、ネットで流したり、噂を広げたりすると、とんでもないことになりかねません。現代は情報社会だからこそ、慎重に裏を取る作業をしなければならないでしょうね。
というのも、最初にそういう情報を聞いてしまうと、それに尾ひれがついて拡散され続けてしまう恐れがあるからです、
そして、しばらくしてから訴えられた相手が登場し、弁明し、最初の情報は間違っていたと明確になっても、すでに最初の情報を否定することは不可能なほど印象に残り、イメージが作られ、信じ込まれ、誤ったニュースが独り歩きする事になってしまう可能性が高いのです。
物事の伝わり方の速さと広さが、信じられないくらい拡大しているので、今朝の箴言の言葉を悠長に構えて、
「まぁ、相手が出てきて弁明すれば、なんとか収まる」とばかり言ってはいられない時代に入ってきました。その前にいわば、世論が形成されてしまうくらい最初の情報だけが拡散されてしまうことがあるからです。
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