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キリスト教

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MACF礼拝説教要旨
           2017.08.13
【弟子への召命とその生き方】
ルカによる福音書
5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
++
5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
5:30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
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ここには弟子としての召し出しの記事が2つ書かれています。ひとつはペトロと仲間たち、もうひとつはレビ(マタイ)に対してイエス様が言葉を掛け、弟子として召し出すという場面です。
1)ペトロと仲間たち
彼らは夜通し漁をしていたのに、何もとれなかったと記録されています。そういう状況にイエス様がやってきて、群衆に語り、「舟を沖に漕ぎ出して網をおろし魚をとるように」という言葉はペトロにはカチンと来ただろうと思います。彼は大人ですから「「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と応えます。
ところが、ペトロの意に反して、今までなかったような大漁に、彼らはびっくりさせられ、ペトロはまるで腰が抜けたかのように、そこにひれ伏し「主よ、わたしから離れてください」と語ります。魚をとるという作業は魚群探知機もなかった時代ですから、カンに頼らざるを得なかったと思いますが、イエス様の言葉どおりになったことで、ペトロはこの人の背後にある「何か」を感じ取ったようです。
イエス様はペトロに向かって「「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と語ります。
2)人間をとる漁師
ペトロは舟の上から説教を語るイエス様を見、また、その話を聞いていました。大勢の人たちがそこには集まっていて、まさに「大漁」でした。そして、イエス様の言葉には神の愛があふれ、優しさ、権威があり、慰めや励ましがありました。人々はそれを聞いてますますイエス様の後を追いかけるようになり、癒やしや奇跡が行われていることも、ペトロは知っていたと思います。
実は、そういう背景を土台にイエス様がペトロに語った「人間をとる漁師」という言葉をペトロは、「人にいのちをもたらすために生け捕りにする」という役目を理解したと思います。それはイエス様が群衆に語り、それを聞いた群衆の心が温かくなり、生き返るような気持ちになっているのと同じです。
聖書にある「羊飼い」が羊にいのちをもたらすための牧者であるのと同じように、人を取る漁師というのも、「人を活かすために生きたまま捕える。」「本当のいのちをもたらすために生きたままとらえ、さらに元気にさせて解放する」という役目として彼らは理解しました。
3)レビの召命
当時の社会での徴税人は評判が悪く、罪人、売国奴と呼ばれていました。ローマのための税金を徴収していたからです。
何となく、心が痛む日々を送っていたレビにイエス様は声をかけました。レビもどこかでイエス様の説教を聞き、病人が癒やされるのを見たことが会ったと思います。
「わたしに従いなさい」とイエス様は彼に言いました。
ペトロには「人間をとる漁師になる」と語ったイエス様は今度は「わたしに従いなさい」と語りました。これはイエス様の真似をし、イエス様の喜びを喜びとして生きるという姿勢が求められているのです。
4)レビの主催する宴会
レビはイエス様に従うということの最初の出来事として、友人たちを招いて宴会を開きました。これは、まさにイエス様に従っているということのある意味で証しのようなものでした。
そこには彼の友人たち、つまり社会の底辺にいた人たちが招かれていました。
宗教家たちがそれを見て批判してイエスさまの弟子たちにこう言うのです。
「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
レビは、イエス様に従っているから、こういうことになったのだと信じているわけですが、イエス様はこう説明しています。「「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

5)イエス様の弟子とは
この二つの出来事はとても象徴的なメッセージを含んでいます。イエス様に従い、イエス様の弟子として生きるということは「人の命に関わり、人の困難に寄り添い、人を活かす、人を励ます」という生き方の中に身を置くことからはじまるということです。
「イエス様に従う」ということは「人が。いのち、励まし、慰め、そして救いを得られるようにという思いをもって仕える」姿勢のなかで明らかになるのです。

6)熱いか冷たいか
黙示録の中に興味深い言葉があります。教会に宛てられた手紙の一部です。
「3:14 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。
3:15 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
3:16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。
3:17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」

ここでの「熱いか、冷たいか」とは、決して感情のことではありません。神に対して熱いか、冷たいか、はっきりしろと言っているのではないのです。
ラオでキアの東には冷たい水で有名なコロサイがあり、北には薬効がある天然温泉で有名なヒエラポリスがありました。そこで、冷たい水で旅人の渇きを癒す役割を果たすか、あるいは、熱い温泉で疲れている人たちを休ませるか、そのどちらかの役目を果たせと言っているのです。彼らは自分たちのことばかりを考えて生きており、他者の祝福などどうでも良いと感じながら生きていたようです。
それは教会としては残念なあり方です。そしてイエス様のしもべとしても悲しい生き方です。
人のいのち、人の幸福、人に対する思いやりの心を育てつつ生きること。それは個人としても公でも礼拝によって養われるでしょうし、聖書を学ぶことでも育つ心です。
ペトロとその仲間たちは、人を活かす言葉を語ったイエス様を見ながら、自分たちでもああいう役割を担えると喜び、従っていきました。
レビは、すぐに仲間を呼び集め、彼らをもてなし、イエス様を紹介しました。
イエス様は「健康な人ではなく、病人を、正しい人ではなく、罪人を招いて救うために来た」と語り、そういう人たちへのケアを弟子たちに託しているのです。
そして、今、私達も、同じように、他者の祝福を祈る集団として教会はこの世界に置かれているのです。私達一人ひとりに対して、この世の中で「祝福の心をもって他者に仕える心。命を支える心で生きる姿勢」が求められているのです。

MACF礼拝説教要旨
                          2017.08.06
【ふたつの癒やし】
5:12 イエスがある町におられたとき、そこに、
全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。
5:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
5:14 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
5:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。
5:18 すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
5:20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
5:21 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
5:22 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
5:25 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。
5:26 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。
++++

1)わたしの心だ、清くなれ
新改訳聖書では「5:13 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。」となっていますが、当時の重い皮膚病患者の社会的立場の悲惨さは、言葉にできないほど過酷なものだったと思います。
同じ町に住むことができず、谷間の洞穴のようなところに暮らし、町に来るときには、鈴をつけ、「汚れたものです、汚れたものです」と叫びながらでなければ道を歩けませんでした。
そして、その重い皮膚病は、自分か家族かの罪の呪いによるものと考えられていましたから、いわば自業自得と見られており、同情されることもありませんでした。
嫌われ者としてはナンバーワンだったかもしれません。
しかし、イエス様のところに必死にやってきて懇願したこの病者に対して、イエス様は「手を伸ばして触れる」のです。
これは社会の中ではあり得ないことでした。触れる、そこには温かい、血の通った交流が存在します。
そして「わたしの心だ、清くなれ」と告げ、即座に病が癒やされます。
イエス様の言葉は「神の言葉」であり、語ったとおりのことが起こります。そして、その言葉は、神の心を表明しているものでもあるので、神はあなたのことを清くなり、つまり、罪赦され、病が癒やされることを望んで居ますよ、それを喜んで受け入れておられますよと伝えて、その通りの事が起こされているのです。
神は、社会的弱者、ひどい差別を経験している重度の病者にたいして、その心を表明されました。
それは「赦され、癒されること」「偏見から解放され、社会の中に復帰すること」

2)イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」
次の癒やしは、興味深い内容を含んでいます。それは4人の友人たちに運ばれてきた中風の人が致されたというものです。人が一杯で、家に入ることが出来ないとわかったその仲間は屋根に上り、屋根をはがして、彼をイエス様の前に吊り下ろしたのです。
この4人は全員かどうかわかりませんが、とにかくイエス様に対する信頼がありました。あの方のところに連れていけばきっと何か神の恵みに浴することができると考えていたはずです。
そして、イエス様は中風の人の信仰ではなく、彼を運んできた友人たちの信仰を見て、中風の人に「あなたの罪は赦された」と宣言するのです。
罪の赦しと病の癒やしは結びついて考えられていました。病は罪の結果だと信じられていたからです。
イエス様はここでも、神の心をそのまま言葉に宣言します。「人よ、あなたの罪は赦された」
ところが、それを見ていた宗教指導者たちは文句を言い出します。罪を赦すことなど人にはできないはずだ、それなのにイエスの態度は不遜であり、神を冒涜していると文句を考えていたのです。
イエス様はそれを知って、
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
5:25 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。
人間には「あなたの罪は赦された」ということも、「起きて歩け」と宣言するのも、不可能です。でも、イエス様はその両方を宣告し、神の言葉の権威と、自らが神の御子であることを示されました。
興味深いのは、イエス様が仲間たちの信仰を見て、赦しと癒しの恵みをその病者に提供したこと、そして、前と同じように神の言葉の権威を示されたことです。
あなたが、もし家庭の中で唯一のキリスト者であるなら、それを悲しむのではなく、あなたを通して神の恵みが他の家族に届くのだと自信を持ってほしいと思います。
この4人の信仰をご覧になって、癒やしをもたらした出来事を思い出して、勇気を持ってほしいのです。当事者の決心だけが神の恵みを味わう道ではないし、それだけが人を救うのではないのです。
神の恵みがあなたと関係しているキリスト者とのつながりによって、もたらされることをここでは教えています。
とても大切な教えです。
MACF礼拝説教要旨
2017.07.30

「イエス様の福音」
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(ルカによる福音書4章16節〜21節)
++
イエス様の最初のメッセージはマルコの福音書によれば「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)というものでした。
神の国というのは、解放、平和、喜びなどを伴う神の支配という意味があります。そして、悔い改めと言うのは、視点を変えること、Uターン、方向転換を意味しています。
さて、ここに「福音」という言葉が出てきます。単純に説明すれば「良いニュース」のことですが、イエス様が語った福音とはどういうものなのでしょうか。
ルカの福音書を手がかりに見ていきたいと思います。

1)貧しい人たちのための福音
イエス様は、この福音は貧しい人たちのためと定義されました。山上の説教の中には「心の貧しい人々は幸いです」という言葉がありましたが、貧しさを自覚している人たちのための福音ということになります。

2)捕らわれている人に解放を
様々な形の「捕らわれ」方があります。文字通り、牢獄に入れられている人もあれば、悪い習慣に捕らわれている人もあります。それが何であれ、神の恵みを阻むものに捕らわれているなら、そこからの解放があるとイエス様は宣言なさいました。
イエス様の十字架は、私達を捕らえて離さない罪からの解放のためでした。また、罪から来る裁き、恐れ、不信からの解放をイエス様は提供してくださいました。

3)目の見えない人に視力の回復を
文字通り視力が衰えている人もありますし、心の目が閉じていて神の恵みがわからない、理解できない、見えないという方もおられるでしょう。神を見るというと語弊がありますが、わかるようになる、ためにこそ救い主は来られました。そして、「わたしを見たものは、父を見たのだ」とイエス様はヨハネの福音書の中で語っています。
イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
(ヨハネ14:9)

4)圧迫されている人に自由を
様々な抑圧を経験している人たちへの自由と解放が福音の内容としてここにあげられています。
当時の人たちにとっては、税金がとんでもなく大きな抑圧であり、さまざまな宗教的規制もまた抑圧だったと思います。
イエス様は、それらの状況に「自由」をもたらし、教えに縛られるのではなく、愛によって応答する生き方を示してくださいました。
私達の人生にも様々な抑圧があります。いわゆる「プレッシャー」です。
イエス様は共に居て、それらのプレッシャーを跳ね除けながら生きられる力をお与えくださいます。

5)神の恵みの出来事として提供する
それらの事事はすべて、恵みの出来事、神からの一方的な出来事として提供されていることをイエス様は教えてくださいました。

そして、イエス様は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と話されました。
つまり、イエス様が、これらの福音の提供者、解放の主としてきてくださったのだということなのです。
どうしたら、この福音を手に入れる事ができるかと言えば、漠然と「助けてください」と祈るのではなく、「福音が神によって提供されている」ことを信じ、この「福音が自分に必要であることを自覚」し、この福音をもたらすために来られた「救い主イエス・キリストに心を向け直し、信頼する」ことによってもたらされます。
実はこの部分が一番、簡単なようで難しいのです。プライドの問題と、自分に救いが必要だという自覚がなかなか育たないからです。プライドについてはシャープ、鋭敏ですが、救いの必要性ということについては鈍感なのが人間なのです。
聖霊は、そういう私たちに働きかけ、気づきを与えてくださいます。神の恵みはそういう私達を包み込み、キリストへの信頼を喜ぶ心を与えてくださいます。
MACF礼拝説教要旨
2017.07.02
「平和を実現する人たちの幸い」
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5章9節)

新改訳聖書では「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」となっています。
新共同訳聖書ではもう少し具体的に「平和を実現する人々」と訳しています。
平和を作り出し、平和を具体的に実現する人々は幸いだとイエス様が教えておられるのです。
そして、そういう人たちは「神の子」と呼ばれると結ばれています。
つまり、神は「平和の神」であり「平和の父」なのです。ここでイエス様が語られた平和とはどういうものなのでしょう。
1) 「平和」
この平和は「シャローム」です。
しかし、ここでの平和の意味は漠然と「平安」ということとは違うようです。
それは実現されなければならず、作り出され、保持されなければ平和の状態が保てないものとして理解されているからです。
平和を実現する者、そして神の子と呼ばれる存在、そのつながりについてイエス様はマタイによる福音書5章43節からの箇所でこう語っています。
「5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

2)) 「平和を実現する」
上にあげた箇所でわかることは、イエス様が求めている平和を実現する作業というのは、単に仲間同士が仲良く生きるということではなく、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
また「自分たちと生活習慣の違う異邦人たちに対しても誠意を持って生きる」ということのようです。

ここに教えられている平和とは、単純に「争いがない」ということではなく、自分に対して悪意を持っている人たちに対しても、あるいは自分と生活習慣が違う人たちに対しても、神からの祝福を祈る心を保持しつつ生きることで実現される平和です。
また、同じ信仰を持っているなら、そういう状況を知ったら共に祈る心で接することも大事な要素です。
平和は、決して自然にできあがるものではありません。むしろ実現を願い、そのために労することで実現されるものです。
私たちの心はもろく、あっという間に関係にヒビが入り、あっという間に仲間割れが起こり、あっという間に絶交状態になってしまうことがあります。
人間は誰でも利己的要素が強く、何よりも自分の都合を最優先し、神さまとの平和でさえ後回しにしてしまう傾向があるのです。ですから、隣人のことより自分の利益は当然優先されるわけです。
自分を不利な状況に陥れようとする人たちを私たちは赦さず、そういう人など地獄に落ちれば良いとさえ考える傾向を私たちはもっています。
平和など不要だと考えることさえあるほどです。憎しみがあって当然と考えやすいのです。

3) 「平和の神」「平和を実現された救い主」
私たちの神は「平和の神」であり、救い主イエス様は「平和の君」と呼ばれています。
したがって、神さまにとって人間が、そして世界が平和であることはとても重要な意味を持ちます。それが神さまの心だからです。
実は、私達には簡単に敵のために祈ることはできないし、敵を赦すことはできません。
ただ、私たちの主イエス様は十字架の上で、敵を赦し、自分を犠牲にして、人間と神との間の平和をお作りくださいました。ルカによる福音書の記録です。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

実は、イエス・キリストこそ、人間と神との間の平和を実現された救い主なのです。
まさに、その教え通りに生きたお方であり、平和の実現者なのです。

私たちはその御方に愛され、その御方に包まれて生きています。
したがって、その御方の心が実行に移されないと私たちの心が不自由になっていくのです。
不思議なことに、私たちがイエス様を信頼したときから、イエス様の心が私たちの中に育てられ、私たちもイエス様と同じように生きたい気持ちが増えていくのです。
それは大変な道でもあります。犠牲が必要なこともあります。
赦せない気持ちになることもあるでしょう。
でも、イエス様が私たちのためにそうしてくださったように、わたしたちも「相手のために祝福を祈れた時」「相手に善いことが起こりますように」と祈れた時、心が軽くなっていくのを感じます。
God Bless Youを誰かのために心の中に歌えた時、平和が実現されることにつながるかもしれません。

+++

「平和を求める祈り」

神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。

わたしたちは、与えるから受け、赦すからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。
アーメン

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