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【 今日の聖句】 2017.0.28 【マルコによる福音書】 9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。 9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」 ++++ 49節の「火と塩」は善人は火という塩で整えられていくという発想から、ここでは「迫害や苦難」を表していると言われています。 また「塩を自分自身のうちに持つ」とは古代イスラエルの人たちは塩を「清め」と「腐敗」から守るために用いましたが、それと同時に「友情と契約の徴(しるし)」としても塩を用いたと言われています。ですから、ここで塩を持つという言葉は「イエス様の教えと思想を保ち、兄弟的一致を保つことを意味しています。 迫害への心備え、と、信仰上の教えや規範の理解、また兄弟としての絆を深めること、その教えのために「塩」が用いられたということです。 +++ 【箴言】 20:11 子供も、行いが清く正しいかどうか行動によって示す。 +++++ 「幼子でさえ、何かするとき、その行いが純粋なのかどうか、正しいのかどうかを明らかにする。」 これは大人に対する厳しい言葉です。 幼い子供でも、丁寧に説明したら、何が良いことで、何が悪いことなのか判断することができるし、自分でも正しいことを実行しようと頑張ることができるのです。 その心は純粋なものが多く残っており、自分の中でも正邪の判断をしっかりできることが多いのです。 現代社会における社会問題や政治家がらみの諸問題を子供たちに説明したら、子供たちはそれぞれに考えて、比較的簡単に白か黒かを判別することができるでしょう。そして、大人の行状が子供にとっての模範になっていないことが明白になることでしょう。 子供たちは「えこひいき」とか「ひとりじめ」とか「わいろ」とか「忖度」とかに対してある種の嫌悪感を持っていることが多いように思います。子供たちの喧嘩の原因の多くはその辺にあるようですから。大人になり、権力者になると、それらを全部見逃して、自分たちの思惑通り無理を通しても儲けがあるなら、それで良いというような空気が育つのでしょうか。子供たちから学ばねばなりませんね。 それが子供たちへの模範として残されることがないように・・・。 |
キリスト教
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◎おはようございます。昨日のMACF礼拝の映像はこちらです。どうぞ、お楽しみください。
https://youtu.be/-WHOQ1F8snQ ++++ 【今日の聖句】 2017.06.26 【マルコによる福音書】 9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」 **** 今朝の箇所には、弟子達の優越感と独占欲の意識を粉砕する教えがイエス様によってなされています。 弟子たちがよく知らない人がイエス様の名前で悪霊を追い出していたのです。 彼のほうが弟子たちよりも祈りに精通していたことになります。 というのも、イエス様の弟子たちには悪霊を追い出すことができませんでしたから。 弟子たちができなかったことを、彼は成功しているわけですから、弟子たちの心には悔しさとか、嫉妬心もあっただろうと思います。 そこで弟子たちはそれをやめさせようとしますが、イエス様はそれを許しません。 イエス様の御名によって「良いこと」を実行していて、イエス様に逆らわない生き方をしているなら、その人たちは味方であり、その生き方を妨害すべきではないと教えます。 その上、キリストの弟子に対して「コップの水一杯でも飲ませてくれる」人たちには報いがある、 祝福があることをイエス様は教えました。 実は、イエス様が大切なこととして教えている「水を一杯どうぞ」というもてなしの心(ホスピタリティ)が病院(ホスピタル)の原型となりました。 優越感、独占欲、嫉妬などから解放されたいものですね。そして、コップ一杯の水を必要としている人に届けられたらいいなと思います。 また、その水を届けてくださる人に対して、感謝しつつ受け取けとれる人になりたいものです。 +++++ 【箴言】 20:9 わたしの心を潔白にした、と誰が言えようか。罪から清めた、と誰が言えようか。 ++++ 新改訳聖書では「だれが、「私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた」と言うことができよう。」と訳されています。 ユダヤ人にとって「清め」は大事な出来事であり、その形式には大いに関心があり、それを守ることは彼らにとっては大切な宗教行事でもありました。食事の前に手を洗うことや神殿に詣でるときの「洗う」という儀式も大事なことでした。 しかし、いつの間にか、そういう出来事が形式化し、実質の伴わない「外面的な行為」に堕していきました。イエス様は新約聖書の中で、そういう問題について一番厳しい言葉を語っています。 マタイによる福音書23章にそれが書かれています。 23:23 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。 これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。 23:24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。 23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。 23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。 23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。 23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。 しかし、これらの言葉は、私たちにも向けられている言葉だと思います。 私たちは誰も自分の力で神様を満足させることができるほど自分の心を清くすることはできません。 また形式だけ守っていれば良いということでもありません。 イエス様の十字架に目を止めなければなりません。イエス様の十字架こそが、私たちの心と存在の「清め」のための「行為」であり、それは神からの愛の行為として提供されたものなのです。 |
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MACF礼拝説教要旨
2017.06.25 「心の清い人々の幸い」 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 (マタイ5:8) 1)ユダヤ人たちの最大のこだわり 「清め」という意識はユダヤ人たちにとって最大のこだわりでした。 彼らは良く手を洗い、足を洗い、神殿に詣でるときには、それなりの清めのしきたりがありました。彼らはそれらを厳格に守ることで神との関係を保つことができると考えていました。しかし、それらがいつしか「形式主義的」「掟主義的」になり、外見だけ、格好だけの清めの儀式に堕していきました。 イエス様は、宗教指導者たちに向かって、最も厳しい言葉を語りました。 23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。 23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。 (マタイ23:25〜28) 外見だけのことではなく、形式主義でもなく、心の内側が取り扱われなければダメなのです。 聖書が勧めているのは「悔い改め」と「神を見る」という発想の確立です。 2)悔い改め どのように身体を洗い清めても、私たちの心の中には神が喜ばないであろう内容がたくさん見え隠れしています。それ故、私たちは罪ある者であり、神の前に立つことのできない存在であることを認めなければなりません。 だからこそ、詩編51編にあるダビデの祈りのように祈らなければなりません。 実は、そこでダビデは、自分の罪深さに対する認識と神の憐れみへの懇願を祈っています。 51:3 神よ、わたしを憐れんでください御慈しみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。 51:4 わたしの咎をことごとく洗い罪から清めてください。 3)イエス様の教え ルカによる福音書18章には有名な例えが語られています。 18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 清くされたのは、自らの心を見つめ、神に憐れみを懇願した徴税人だったのだとイエス様は教えました。 ファリサイ派の人は、自分しか見ていないし、他者との比較ばかりしていて、神の前に謙遜に立つことをしていません。つまり、神を見ていないのです。 徴税人は、ただひたすら神を見つめています。罪人である自分の姿を嘆き悲しみ、その自分からは目を離して、ただ神様の憐れみを求めています。 だからこそ、義とされ、心の清い者と認められたのです。 心の清い人とは、自分の姿から目を離し、神様を見つめ、神様の憐れみを求める人。 神様から目を離し、比較の世界に身を置き、自分がどれほど立派な人間がばかりを見つめるようになると、私たちの心は、誇り、高ぶり、プライド、嫉み、うらみ、卑屈な思いなどの汚れで満たされていくようです。 4)その人たちは神を見る 自分のことばかり気にして、ここがまだ汚れている、あそこをもっと清くしなければ、と言っているのをやめて、神様をこそ見つめ、神様の憐れみを願い求めるところでこそ、あなたがたは神様を見ることができる、神様と出会うことができるのです。 頑張って修養し、汚れも罪もない、清い純粋な心になることによって神を見るのではないのです 。 むしろ罪や汚れの中にいる者が、その中から、神の憐れみと赦しをひたすら求めて祈る所で、神を見ることができる。 実は、イエス・キリストの十字架の中に私たちは、私たちを愛してやまない神の姿を見ることができるのです。 神の憐れみと赦しは主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって与えられるからです。ただひたすら、主イエス・キリストの十字架を見つめていく者こそが心の清い人であり、そういう姿勢で生きる人たちに神はその人にご自身を示してくださいます。 |
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【今日の聖句】
2017.06.23 【マルコによる福音書】 9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。 9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。 9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、 9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」 9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。 9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。 9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。 9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。 9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。 9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。 ++++++ マルコによる福音書には無力な弟子たち、ある意味で無能と思えるような弟子たちの姿が浮き彫りにされています。 この場面でも、弟子たちにはこの子供を助けることができませんでした。 イエス様は汚れた霊を叱りつけ、この子供から追い出し、正気に戻します。 そして、弟子たちの「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのか」という質問に対して「祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と語り、弟子たちの祈りの不足、あるいは祈りへの無理解を指摘なさいました。 祈りは父なる神とのライフラインです。 私たちの問題は、その祈りの先に、間違いなく聞いていてくださる父なる神、力ある創造主なる神がおられ、そのお方の心は愛と真理に満ちていて、私たちへの支援的なケアの心でいっぱいになっていることを信じているかどうかです。 祈ることへの軽視は危険です。祈らないことはもっと危険であり、もったいないことです。 祈りましょう。どんなことでも、祈りましょう。 +++ 【箴言】 20:7 主に従う人は完全な道を歩む。彼を継ぐ子らは幸い。 +++ 新改訳聖書では「正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう。」と訳されています。 自分の生き方がもたらす子供たちへの影響や周囲の人たちへの影響を考える時、いつも、私は身の縮む思いがします。 でも、時々、身を引き締めてしっかり生きなければと思って再出発を意識することがあります。 あなたの生き方が今まで様々な形で良い影響を周囲の人たちに与えて来たとすれば、それはこの聖句の言う通りであり、ますますその線で進んで欲しいと思います。 それができなかったなぁと感じている人たちは、どうぞ、私と一緒に、今日再出発の意識で神の前に祈って見たらいかがでしょう。 |
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【今日の聖句】
2017.06.16
【マルコによる福音書】
8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
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イエス様の正体は何なのか、人々はいろいろな噂を流していました。その噂の中心は昔の偉大な預言者エリヤの再来というものでした。これは、終わりの日が来る前に、預言者エリヤがやってくるという預言がありますので、それをイエス様に当てはめようとしたわけです。
しかし、ペトロは「あなたはメシアです」と答えました。
メシアとはヘブル語ですがギリシャ語ではキリストと呼ばれました。「王、預言者、祭司とし
て神様から油注がれ、特別な役割のために任職された存在」という意味があります。一般的には救い主と理解されています。しかしペトロのメシアのイメージはイエス様のものと異なっていました。
彼はメシアをローマ帝国の圧政から救い出す政治的な解放者と考えていたからです。
病気の癒し、悪霊の追い出し、律法学者との論争、様々な教えを総合的に考えて、このイエス様こそ救い主キリストだと考えることは当然のような気もしますが、人々にはキリストの本質が見えていません。
奇跡にも説教にも驚くのですが、イエス様への信頼が育ってこないのです。結局、信仰というより好奇心だけで近づいているのかもしれません。
キリストは信仰を求めておられます。しかし、人は頑張りで「イエスは主です」と告白することはできません。聖霊の助けがなければ、本気でその告白することは不可能なのです。
信仰とは思い込みではなく、神様からの啓示とうながしによるによる救い主との信頼関係なのです。
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【箴言】
20:1 酒は不遜、強い酒は騒ぎ。酔う者が知恵を得ることはない。
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新改訳聖書では「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない。」となっています。
酒は適量であれば健康にも、和やかな歓談にも良いのかもしれませんが、度を越すとその人の思いがけない品格の悪い一面が見えてしまうことがあります。
強い酒を求め、酔うことに逃れ場を求めるような生き方は、どこか息苦しく、あまり希望的な方向には向かっていないように感じます。
酒がなくても和やかに、明るく生きられたら良いですね。
弟子たちが聖霊に覆われた時、人々は「彼らは酒に酔っているのかもしれない」と感じるほど、不思議な高揚感と明るさがもたらされました。
神さまは、私のたちの心に間違いなく、ある種の明るさを届けようとしておられます。それは酒では生み出せないものです。
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