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【今日の聖句】2017.06.15

◎明日のフライデーナイトは高橋めりーさんの賛美と私のメッセージがあります。
お茶の水クリスチャンセンター8Fで夜7時からです。ぜひどうぞ。。
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【今日の聖句】
2017.06.15
【マルコによる福音書】
8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
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ここに出てくる癒やしの記事は、2段階になっています。最初は「人が木のように見える」ということであり、次は「なんでもはっきり見えるようになる」というものでした。
一回ですべてがすっきりすることもあるし、段階的に見えるようになるということもあるということなのかもしれません。
神さまの私たちへの取り扱いは、一回で完結ということもあるでしょうし、少しずつ見えるようにしてくださるということもあります。初めてイエス様の福音を聞き、救い主として信じた時、まるですべてがわかったような気持ちになることがありますが、それは出発点であり、本当に奥深い真理が先にあるということが後にわかります。
癒やしは信じた時に始まりますが、それはどんどん深く全人格に浸透し、人生を変える出来事となっていきます。それは多くの場合、段階的に進みます。
この先、何があるのか、何が見えるようになってくるのか、大いに楽しみにしていきたいと思います。

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【箴言】
19:29 不遜な者に対しては罰が準備され、愚か者の背には鞭打ちが待っている。
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新改訳聖書の訳では「さばきはあざける者のために準備され、むち打ちは愚かな者の背のために準備されている。」となっています。
フランシスコ会訳の聖書では「杖はあざける者のために、鞭打ちは愚か者の背のために用意されている」となっています。

正義や公正を軽んじる者たちへの神さまの評価は厳しく、神への畏れと社会的な公正への熱意が大切なこととして教えられています。フランシスコ会訳にある「杖」と「鞭」は裁きのためですが、詩篇23では羊飼いが全く別の用途のために杖と鞭を持っています。
神への反感を持って、公正や正義を軽視する者たちのためにはそれらは裁きの道具となり、神に従い、愛されている羊のような存在に対しては「生命確認と保護」のために用いられています。


【今日の聖句】207.06.10


【今日の聖句】
2017.06.10
【マルコによる福音書】
7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
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イエス様の使命の重要な要素のひとつは、ユダヤ人たちへの宣教、ユダヤ人たちへの「神の愛の教えと悔い改めへの促し」でした。
でも、ここにはギリシャ人の女性が登場し、悪霊によって苦しんでいる幼い娘さんへの助けを要請します。
イエス様の答えはちょっと冷たいような感じがします。「「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
でも、そこを承知で懇願しているこの女性は訴えを取り下げません。諦めないのです。
「「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」という返事の中に、自分たちを憐れんで欲しいという願いが訴えられています。自分たちは取るに足りないものであり、本来癒しを願う資格など無いかもしれませんが、「食卓の下にいる小犬でさえ、子どもが落とすパン屑を食べることを赦されているのですから、ぜひ、ぜひ」という謙遜な、そして真剣な訴えにイエス様は応えます。
そして、解放がもたらされます。
謙遜な、しかし、熱心な訴え、懇願がイエス様の心に届き、救いが届きました。
諦めない姿勢、なんとか助けてほしいという熱意、必要ですね。

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【箴言】
19:25 不遜な者を打てば、浅はかな者は熟慮を得る。聡明な人を懲らしめれば、知恵を見分ける。
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新改訳聖書による訳は「あざける者を打て。そうすれば、わきまえのない者は利口になる。悟りのある者を責めよ。そうすれば、彼は知識をわきまえる。」
となっています。
ある人の姿勢を正すために叱ったり、責めたりすることは、その受取り手によって反応や影響が違いますが、それ自体は決して無駄なことではないということがわかります。
「叱らない子育て」が大切なこととして評価されています。でも、それは「叱らない」ということよりも、むしろ「頭ごなしに怒りつけない」 「人格否定しない」 「叱る前に子どもの考えや気持ちに耳をかたむける」「その上でダメなことはよく言い聞かせる」ということではないのかなと思います。
先日友人とレストランで食事をしていた時、後ろの広いセクションのところで幼稚園児とおぼしき子どもたち5人ほどが大声で歌い、走り回り、踊っていました。子どもたちによるどんちゃん騒ぎ。
友人に「あのセクションは貸し切りなのかなぁ」というと、「いいえ、そんなことないでしょ」というので店のスタッフに「ちょっとやかましすぎますね」というとスタッフが「申し訳ありません」と謝っていたので「あなたが謝る必要はないですよ」と言ったのですが、その後しばらくその騒ぎが続きました。
最終的には店のスタッフが彼らのところに行って注意したようですが、
あぁ、あの親御さんたちは「叱らない」のではなく、「叱れない」のかもしれないと思いました。
親の倫理観が不安定で、「叱れない」とすれば、子どもたちは気の毒です。
それでも、きっと子どもたちがお母さんの髪の毛をひっぱったり、家のテーブルの上に上がったりすれば、頭ごなしに怒りを爆発させるのかもしれないなとも思いました。
「ダメなことはダメと言って聞かせる」これは人格形成の上で大切ですね。私はおばあちゃん子だったので、そのへんは今でも甘いです。困ったものです。

【今日の聖句】2017.06.09

【今日の聖句】
2017.06.09
【マルコによる福音書】
7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
 7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
***
神様との間に壁を作ってしまうものは、いわゆる「食べ物、飲み物」ではないとイエス様は教えました。何を食べても、何を飲んでも、そのことで神様があなたを軽蔑して壁を作ってしまうということはないのです。味を楽しみ、栄養のための食事では何を食べても、何を飲んでも、それ自体罪ではありません。
問題は口からお腹に入る食べ物や飲み物ではなく、心の中に巣食っている「悪い思い」の存在です。
「心にもないことを・・」という表現がありますが、イエス様の教えによれば「心にあるから出てくるのだ」ということになります。

これを食べたら神様に叱られるかな、これを飲んだら神様に嫌われるかなとビクビク心配する必要はありません。
神様との関係や人との関係に深刻な壁を作るものは、食べ物ではなく、私たちの心の中にある「悪い思い」なのです。
これは結構深刻で、私たち自身ではどう処理することも難しく、何度反省してもまたムクムクと心の中に顔をもたげてきます。
まず、私たちは、そういう心の弱さというか、心の内側に汚水処理出来ず貯まるばかりの汚泥のような温床を持っていることを認める必要があるのだと思います。
形式的に何度手を洗い、身体を洗って清めても、心の奥底がきれいになるわけではないので、繰り返し心の悪が飛び出してくる自分に翻弄されてしまうことさえあるのです。
しかし、だからこそイエス様は来てくださったわけです。
イエス様は問題を指摘するだけのお方ではなく、その問題の解決策もお持ちです。
結論を言ってしまえば、「十字架」こそがその問題の解決策だったのです。


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【箴言】
19:24 怠け者は鉢に手を突っ込むが、口にその手を返すことすらしない。
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新改訳聖書の訳では「なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。」となっています。
これはまさか、怠け者を褒めている言葉ではないですよね。
そこまでの怠惰ゆえに、得るものはなくなるという警告なのだろうと思います。
しかし、もしかすると、これは当時の王家の御曹司などの生活態度だったかもしれません。
貧しい人の様子ではなく、怠惰でいても困らない人の姿のように読み取れるからです。
貧しい人は生存競争が厳しく、怠惰な生き方をしていたら死んでしまいます。
でも、怠惰に生きていても大丈夫そうな環境の人も世の中には存在します。
名指しでその人を批判しようものなら、打ち首になる可能性もありますから、こういう描き方で暗に批判したのかもしれません。
怠け者の無責任な生き方、他人任せな生き方、自立からは程遠い生き方、には要注意です。


【今日の聖句】2017.06.08

【今日の聖句】
2017.06.08
【マルコによる福音書】
 7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
 7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
 7:3 ―ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
 7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。
そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―
 7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
 7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
 7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
 7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
***
必死になって伝統的なしきたりを守ろうとするファリサイ派の人たちと、それについて拘泥しないイエス様の弟子たちがはっきり書かれています。
ここでは、食事前に念入りに手を洗うことについてですが、おそらく、他のことについても同様だったろうと思います。
イエス様のファリサイ派批判は彼らの口先だけの神への敬意と人間の掟に縛られ、またそれで人を縛ろうとする傾向についてでした。イエス様は「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と非難しました。
彼らは、一生懸命手を手を洗うことを守り抜くことのほうが、神様に食事を感謝することよりも大事だと考えていたのです。何かを守り抜くことが、神様への愛よりも神様への感謝よりも大切なことになってしまった場合、その「何か」が誇りや偶像になってしまっている可能性があるのです。

教会に行くことは大事なことです、でも、それ以上に大切なのはそこで神への感謝をささげ、礼拝を捧げることです。
聖書を持っていることは素晴らしいことです。でも、もっと大切なのは聖書を読みながら神様に心を向け、その内容を知り、神と交わることです。
「形式」や「体裁」を重要視しすぎるあまり、神様が何を望んでいるのか考えることを止めてしまうことがないでしょうか。要注意ですね。


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【箴言】
19:23 主を畏れれば命を得る。満ち足りて眠りにつき災難に襲われることはない。
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新改訳聖書では「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。」となっています。
フランシスコ会訳では「主を畏れることは、命に至ること。満ち足りて憩い、災いに遭うことはない」となっています。
「主を畏れること」「主を主と認識し、崇拝し、敬意を払い、感謝を捧げつつ生きること。」によって健康が支えられ、日々の生活の中に「充足感」が与えられ、神の護りを経験できると箴言は教えているのです。
こういう言葉を信頼して、実際に、やってみること、それを実行できたら良いですね。
振り返ってみれば、きっと、「確かにそうだった」とわかるはずです。
あなたは、振り返った時、そうだなぁという感覚がありますか?

【今日の聖句】2017.06.07

◎今週金曜日(6/9)バイブルワークショップ「入門講座ルカによる福音書とわたし」2章が開催されます。場所はお茶の水クリスチャンセンター404号室。時間は1020amと1920pmの2回です。
ぜひ、どうぞ。会費は無料。資料、部屋代のための献金、カンパは歓迎です。
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【今日の聖句】
2017.06.07
【マルコによる福音書】
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
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イエス様が一緒にいることで、弟子たちは5千人の人たちに給食するという奇跡を目の当たりにすることができました。それは彼らにとっては喜びであり、誇りであり、私たちは救い主と一緒にいるのだという自信にもつながっているはずでした。
しかし、 その出来事の後、それほど時間が経っていないはずなのに、しかも、嵐を鎮めたイエス様の力を以前にも知っているはずなのに、弟子たちは嵐の中で湖の上を歩まれるイエス様におびえ、嵐を鎮めるイエス様に仰天しています。

つまり、イエス様がいつでも目のまえにいてくれるなら、弟子たちは安心していられるのです。
でも、イエス様が自分の視界から離れてしまうと、その約束や出来事を忘れてしまっておびえてしまうのです。
家の中で飼っている犬は飼い主の姿が見えなくなると、急に不安になり、探し回り、落ち着かなくなります。見えている時だけしか安心できないのです。
ちょうど、それと似ているかもしれません。
私たちの心もそれと似ているかもしれませんね。
「信仰とは 望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とヘブライ人への手紙にあるように、信仰とはまだ見ていない約束や見えない出来事に対する信頼が中心なのですが、私たちはなかなかいつになっても、見えるものへの安心が中心で、見えない存在についての約束や信頼を保持することは難しいように思います。
見えないイエス様に対する信頼、見ていない約束についての信頼、それらを弟子たちは学ばなければなりませんでした。
私たちも同様です。

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【箴言】
19:22 欲望は人に恥をもたらす。貧しい人は欺く者より幸い。
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新改訳聖書では「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。貧しい人は、まやかしを言う者にまさる。」となっています。雰囲気が随分違います。
フランシスコ会訳の聖書では「人間のもたらす実は慈しみ、貧しい者は残虐な者に勝る」となっています。これまた、ずいぶん感じが違いますね。

本来的な事柄として考えた場合、人間は欲望に振り回されると恥を見ることになり、静かに心を探れば愛、慈しみを求めている事に気づきます。
そして、欺くもの、まやかしを言うもの、残虐な者とは、愛も慈しみも持たず、欲望のみに身を任せて生きている人の姿として理解することができるのかもしれません。
霊的な面を養うこと、神との関わりを真剣に捉え直すこと、それらの姿勢は人の心に愛と慈しみを求めさせ、それを生み出す力になるのだと思います。


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